2017年5月25日 

昨日一昨日とポルトは30度を越す盛夏の気温でした。かと思ったら、今朝は雷がゴロゴロと空を駆け、ざっとひとしきりの雨。今日は昼から外出するのにうっとおしいなぁ、スカッと晴れてくれないかしら?との思いで空模様を見ているのです。

7時前の起床で、台所もサッサーと片付け、日本語の生徒さんが体調を崩したとのことで今日は授業から開放され、さよう、予定の外出までの時間、ラフマニノフなど聞きながら、のんびりとパソコンに向かっているのであります。

こういう時は、時折、子どもたちに関する過去ログを紐解くなどして、一人笑いをすることがあります。もう随分昔のこと、娘が早稲田大学から九州の大学へ勝手に編入したころの話です。以下。
「パラボラアンテナ、持ってるジョ」と、モイケル娘。画像を送るという。

パラボラアンテナって、娘よ、いったいどこからお金が・・・

会社勤めともなると、今までのように学生気分の服装では行くまいて。そこでおっかさん、大見得(おおみえ)切って、卒業祝いにはずんであげたご祝儀(笑)も束の間。飼い猫タメゴローの東大動物病院の費用にぶっとんでしまったのだそうな。

よって、どんなに捻ったって、パラボラアンテナ購入費用なんて出てくるわけながない!いったいどうなんてんだ、この娘は?と思いながら受け取った画像を開いてみると・・・・・・・・ぎゃっはっはっは(爆)↓

猫パラボラ

確かにこりゃパラボラアンテナだ!金食い虫のタメゴロー君です(笑)しかし、獣医さんよ、これじゃぁ、タメゴロー君、ご飯食べられないのでは?

実はこのタメゴロー、こんな事情でモイケル娘のところにやってきたのでした。

2007年5月17日小猫を抱いて(1)

この春先の帰国時に、早稲田大学から九州の大学へ編入して下関へ引っ越したモイケル娘のアパートを訪ねた二日目のことです。

まだ時差ボケが残っていたのと、新幹線と言えども東京から下関までの長旅で疲れていたのがあって、娘の携帯電話が鳴るまで、わたしはぐっすり寝入っていました。時計を見るとすでに9時をすっかり回っていました。

「はい、じゃ、すぐ行きます。」と携帯を切るモイケル。
わたし  「どこから?」
モイケル「保健所から。小猫ちゃんが入ったんだって。10時まで行かないとすぐ処分されるって」

そう言うなり顔も洗わずジーンズに足を突っ込み、セーターをひっかけ、小猫を入れる布袋を引っさげて自転車で保健所めがけて慌てて出て行きました。あっけにとられ、なんだか胸騒ぎのおっかさん・・・

彼女のブログでは、捨て猫ちゃんがいないかと探して神社まで行ったら、猫はおらず、代わりに神社にはたくさんの雄鶏が捨てられてた、と書いてあったのを思い出しました。前日の久しぶりの我ら親子の対話でも、猫話題が中心なのでありました(笑)

ネットで猫の里親を探している人にも連絡をとったことがある、保健所にも出向いたけど、その時にはネコはいなかったと話していたモイケル娘です。あぁぁ、とうとうネコちゃんを・・・と気をもみながら帰ってくるのを待っていました。

そして、ただいまとドアが開き、見ると、んまぁ~、彼女の抱いてる布袋の中身、ひゃ~、か、かわゆい小猫が・・・二匹も!

おい、どないするのよ、二匹も^^;聞くと、モイケル、
「おっかさん、二匹も持ってくるとは自分でも思ってみなかった。けど、保健所に着いてみると三匹いたんだ・・・・それで、一匹だけ選ぶのはとてもできなくて、結局自分ができる範囲内の二匹を連れてきた。わたしの後に男性が一人いたから、もしかしてその人が残りの一匹をもらってくれるかもしれないと希望を託して来たんだ・・・」

モイケルよ、よくぞやった!と、これがポルトでなら誉めてつかわす。けど、大丈夫か? えさ代もかかるし、予防接種とか、トイレの砂とか色々物入りになるのだよ・・・少ない仕送りからそれを捻出しなければならないのだぞ・・・

あ!そういえば、アパートに入った時にすぐ目についた、床から6、70cmの部屋中の壁という壁が水色のナイロンシートで覆われていたのでしたっけ・・・あれはネコの爪とぎ防御の準備か~!

呆れながらも今更返して来いとも言えず・・・見ると、おいおいモイちゃん、こりゃツガイではないか^^;知らんぞぉ!しかし、小猫を抱いてしまったが最後、おっかさんももうあきまへん^^;可愛いったらないのです。

保健所では一ヶ月未満の小猫は、まだ母ネコの乳で育つので持って行ってはいけないのだそうですが、その二匹はどう見ても一ヶ月はたっていない、目もろくに開いていない。

下関に着いて二日目は、モイケル娘のアパート整理云々より、まず小猫の粉ミルクと毛布を探して走ること始まったのでした。


小猫を抱いて(2)/捕獲犬に対する厚労省の異例指導

元来が犬猫好きなわたし、モイケル娘と同じことに遭遇したら二匹どころか、おそらく後先も考えずに三匹とも連れてきたかも知れません。そうやって一時の感情で行動を起こし、結果的には、後で自分を窮地に追い込むようなことになったりするのですが^^;

こういうところは、いくつになっても冷静に物事を考える大人になりきれないところが、あります。

そのDNAを受け継いでいるモイケル娘とそのおっかさん、子猫用の高い粉ミルクを買い、まだ自分で器から飲むことも知らない小猫たちに、人間の赤ちゃん用の哺乳瓶で3時間置きに授乳する羽目になったのでありました。

これがなかなか大変な作業でした^^;小猫たちが哺乳瓶の乳首を受け入れようとしないのです。下関の娘のアパートに滞在した10日間は、こんなこともずっとし続けていたのでした。

わたしが下関を去るころには、「みかんちゃん」「タメゴロー」とようやく名前も定着し、現在は元気いっぱいにアパートを走り回り、こんな風になりました。  

gato
みかんちゃん。
 
neko
タメゴロー。

モイケル娘は「タメ!」と呼んでるそうな・・・なにやら、「お控えなすって。手前○○一家のタメで
ござんす」みたいではないか(笑)

実はモイケル娘、昨年似たようなことをしておりまして、ネコを拾って自分の首をしめていたのでした。
昨年(2006年)の日記がこれです^^;

2006年7月12日(水)この親にしてこの子あり。焦ってます^^;
 
この間から、日本へ国際電話をかけまわっています。

わたし「ねぇねぇ、ネコちゃんいらない?」
知人たち「ねこちゃんて、あんた、ポルトガルから送るんかい。笑」
わたし「い、いや・・・。オバカ娘が拾ってしまったのよ・・・」
知人たち「なに?!九州で猫を拾って東京まで連れてったぁ?」
わたし「う、うん・・・・」
知人たち「この親にしてこの子あり、とはあんたら親子のために
あるような言葉やなぁ。あっはははは」
「いらんわぁ」
・・・・・・・・・・・・・

こういうパターンを繰り返しております。娘のアパートはネット禁止、いや、ペット禁止です。最初からそれを知っていながら拾ってしまうとは、おめでたいトホホものですが、拾ってしまったものは仕方がありません。元の場所に置いてあんたも捨てて来なさい、とは言えないのであります^^;

それで、この日記とブログにてもう一度。

わたしをもらってください。
猫チャコ

生後3、4ヶ月だそうです。東京から、もいける娘がお届けにあがります。お届け範囲は、関東、大阪、福岡方面。

「遊び盛りの、とても人懐こくて可愛い女のネコちゃんです。 ワクチンはもちろん、避妊手術を希望する場合はこちらで負担します。」と、もいける娘が言っております。

「里親になってくださる方には、ポルトワイン、もしくはポルトガルの工芸品をお送りいたします。」と母親が言っております(笑)

昨年、旅行に行った下関で拾い(この年はまだ東京住まいだった)東京まで持って帰り、そして里親を探したのでした。結局このチャコちゃん、名古屋に住むネットフレンドの「杉さん」に押し付けたのでした^^;

今回なぜこんな話を持ち出してきたかと言いますと、5月16日のweb新聞で「厚労省が異例指導・捕獲権の命 消さぬ努力を」との記事が目についたからです。

捕獲されたり、飼い主が飼えなくなったりして保健所に持ち込まれる犬やネコは、多くの保健所で二日たっても持ち主や里親が現れない場合、三日目にはガス、若しくは薬物注射で処分されるのだそうです。

これをできる限り殺さずに新たな飼い主を見つけるよう、厚生労働省が保健所を運営する全国の自治体に文書で指導したとのこと。

ちなみに2005年度に捕獲された犬は8万8827匹、そのうち里親に引き取られていったのは、わずか1万5000匹近くだけ。考えるとぞっとする話です。

ポルトガルでもそうなのですが、自治体の財政問題が絡み、多くのホームレス動物を保護していくのは並大抵ではないらしいです。水道料金が払えずに、ケージを清潔に保つために掃除する水も使えない、犬猫のえさ代がない、などの話が時々新聞で見かけられます。

海を隔てた日本の話で、文書での指導に終わらないでもっと何かできないものかと思うこのごろです。

日本でもポルトでもたくさんの犬猫たちに関わってきましたので、語るエピソードは山とあります。お時間と興味のある方は左のカテゴリ欄「猫のはなし」をどぞ。

最後に、これがタメの近況であります。
neko

あられもないのぉ、おぬし・・・・

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2017年5月21日 

金曜日は授業にキャンセルが入り、日本語から開放され昼前から街へ出かけてきました。
目的地は「Quinta das Virtudes(ヴィルトゥーデス園)」です。これについては後日紹介するのですが、その帰り道、近くを通ったもので好きな建物のひとつであるRua de São Miguel No.4(サン・ミゲル通り、4番地)の家を久しぶりに見て見ようと行ったところが、がーーーん!

どないしたん?という状態になっており・・・
↓昨日見た家

rua_saomiguel

なんだ、ただの古ぼけた廃屋ではないか、などと言うなかれ。確かに廃屋ではあるが、以前はこうだったのであります↓ 

rua-saomiguel

ポルトの街の散策はかつては午前中だったため、こんな状態の光線加減なのと狭い路地の角にあるのとで、なかなかうまく写真が撮れなかったのですが、外壁のアズレージュ(Azulejo=絵タイル)が全部取り除かれていました。

ネット検索してみると、今年の3月まではタイル絵があった写真が見られますが、5月に他の人に撮影された写真はわたしが撮ったのと同様にタイル絵なしです。これは少なからずショックでした。今日はこの家について、過去に撮影してきた写真を基に書きます。

ポルトには中世の名残を今も留める古い路地や家々が旧市街を中心にたくさんあります。サン・ミゲル通りとサン・ベント・ダ・ヴィトーリア通りが交差する角に佇むこの小さな廃屋もそのひとつ。

「サン・ミゲル通り4番地の家・Casa No4 da Rua de São Miguel」 または「サン・ミゲル通りの建物」と呼ばれます。この建物をわたしが偶然見つけてかれこれ14年程になります。ちょうど我がモイケル娘が日本の大学を目指して旅立ち、寂しさにかまけておってはいかん、なんとか子離れしなくてはと自分を叱咤激励しながら、これまで子育てが忙しくて見向きもしてこなかったポルトの街をツーリストよろしくデジカメ持って散策探検をし始めた頃です。

この家の前がヴィトーリア教会で、その教会を目指していたのでした。写真では家の前にポルト市が設置するガイド板が見えますが、わたしが見つけた頃はなかったと記憶しています。無人の家にこんな素晴らしいアズレージュ(青タイル絵)が貼り付けられているのにいたく感心したのでした。

長い間、この家に関する情報が得られなかったのですが、ネットでこの家が取り上げられるようになった昨今、ポルトガルのネット情報もかなりよくなってきたと言うわけです。取り立てて建物に大きな特徴があるわけではないのに、地階上階の正面のアズレージュが気になっていました。

rua-saomiguel
聖母マリアのシーンを描いている。

rua-saomiguel
当時の人々の日常生活が描かれている。下にちょっと拡大してみました↓

n4_saomiguel6.jpg

サン・ミゲル通りと交差するサン・ベント・ダ・ヴィトーリア通りには、その名がつけられた由来の「サン・ベント・ダ・ヴィトーリア修道院(ベネディクト会)」がありました。現在も荘厳な修道院の建物は外装はかつてのまま残っていますが、内部は改築され劇場、コンサートやイヴェント会場として使用されています。

くだんの家のアズレージュはその修道院に貼られていたのが持ち出されたものの一部だと言われています。盗まれたのか?う~ん、難しいところではありますね。ただ、盗んでこんな修道院の目と鼻の先に貼り付けるわけはござんせん。歴史的な事情があったのですね。

ポルトのサン・ベント・ダ・ヴィトーリア修道院は16世紀から18世紀の始めにかけて建築されました。しかし、1807年から1814年にかけて3度のナポレオン軍の侵攻(イベリア戦争)があり、その間、この修道院はポルトガル軍の病院として使用されました。

その時、修道院は破壊の憂き目をみたことでしょう。また、ナポレオン侵攻後、1832、33年はポルトガル内乱が起こりました。その際、ターゲットとなった修道院の略奪からアズレージュ破壊を避けるために、院内からはがされたと考えられていますが、では、いったい、それがどうしてこの家に?となるわけです。

その先のことは調べてもさっぱり出てまいりませんので、spacesis得意の勝手推測を(笑)

この家の持ち主は信心深い人だったか、もしかしたら、子供がこの修道院で神学を学んでいたかもしれない。あるいは、修道士だったやも知れぬ。アズレージュを破壊から救うためにいったんは引き剥がして預かったものの、その後の修道院の歴史はそれらのタイルを元に戻せるような平和な状態には最後までならなかった。預かり主はずっと持っていたものの、そのままタイル絵を朽ちさせてはならぬと、人々に見てもらうためにもこの家の表面に飾ることにした。

もうひとつは、この家は元々サン・ベント・ダ・ヴィトーリア修道院の一部であり、保管者によって外壁に装飾された。

とまぁ、これがわたしの推測であります。

それにしても、「工事中」だとかの説明が一言書かれてあってもいいと思うのですが。

早速、この家のアズレージュの行方をネットで探ってみたのですが、残念ながらニュースではひっかかってきません。もしかしたら、元あった修道院に戻されるのか、大いに興味あるところです。いずれ何かが分かったら、また取り上げたいと思います。

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2017年5月19日 

久しぶりにポルトの路地をランダムに歩いて見ました。
ポルトの路地を歩いて写真を撮り始めてから、13年くらいになるでしょうか。 当時は人影もなく、治安は大丈夫だろうかと心細い思いで歩いたものでしたが、「一度は訪れてみたいヨーロッパの街」のトップにポルトガ選ばれた今、ツーリストの姿はこんな路地でもたくさん見かけられるようになりました。

今日は写真を掲載します。

ダウンタウンへ行く時に利用するメトロのイエロー線。
ポルトの路地

ポルトの路地

ポルトの路地
窓辺。下は同じ場所。昔ながらの人々の生活がうかがえる。

ポルトの路地

今日の路地はサンベント駅からドウロ川べりリベイラに向かう長い坂道、Rua Mouzinho da Silveira(Rua=通り)から、この噴水(ポルトガル語ではChafariz=シャファリス)があり場所を入る小さい坂道、Rua do Sotoです。

Rua Mouzinho da Silveiraですが、この通りは19世紀半ばまで「Rio da Vila(ヴィラ川)」だったと、わたしはポルトガル語のDias先生と読んでいる本で学びました。ですから、通りの下を今も川が流れているということになります。

ポルトの路地

この噴水を見るといつも思い出される一人のおばあさんがいます。過去に取り上げて書いていますが、再度、掲載します。

2013年7月

古いミュージカルに「メリー・ポピンズ」と言うのがあります。
 
1960年代の作品でジュリー・アンドュースが主演。わたしは20代始めに見たのですが、ジュリー・アンドリュースの話す英語が美しく分かりやすいので英語の勉強を兼ねるのと、ストーリーも歌も気に入ったのとでその後も何度も見てきた映画です。

MaryPoppins.jpg
Wikiより

物語の内容はGoogleのここに出てきます。

挿入歌の「チムチム・チェリー」は日本でもヒットしましたし、どんな苦しいこともひとさじの砂糖で楽しくなるものと歌う「Spoonful of Sugar(お砂糖ひとさじで)」も知られた歌です。また、この中で乳母のメリー・ポピンズが子供達に教えるおまじないの言葉「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリアドゥシャス」はわたしも必死に覚え今でも言うことができます。

それらの挿入歌の中でも今に至ってわたしの心に残っているのが「鳩に2ペンスを(Feed the Birds)」です。手にした2ペンスを銀行マンの父親に「銀行に貯蓄せよ、そうすると利息が入る」と諭された子供たちに、魔法のガラスのボールでメリー・ポピンズがセントポール寺院で鳩の餌を売る老女の姿を映して見せるシーンに使われます。

「鳩に餌をあげてください。お腹が空いているのです。一袋2ペンスです。あなたが鳩たちを気にかけていることを示してください。寺院に立つ聖人像たちは老女が鳩の餌を売るのを見下ろしています。あなたには見えないでしょうが、誰かが一袋買うたびに彼らは微笑んでいるのです。一袋たったの2ペンス。鳩に餌をあげてください」

ざっとこんな風に歌っています。下記Youtubeでこのシーンが見られます。

http://www.youtube.com/watch?v=Nm_BW1Vy6Zw

何故こんな話に及んでいるかと言うと、先日回ったダウンタウンはリベイラへと続く広い道Rua Mouzinho daSilveiraを歩いてあれ?と気づいたことがありました。その時間帯には必ず見かけた老女の姿がないのです。

ポルトの路地
Rua do Sotoへの坂道。このすぐ左に噴水がある。

坂道の上り口に座り、売り物を広げて売っているおばあさんです。売り物といってもそれを見た人はお世辞にも買おうかと言う気持ちは起こらないであろう古い壊れかけた使いようのないような代物ばかりです。日曜日と雨の日を除いては冬の寒いときでもここで物を広げてはこうしていつも座っているのです↓

ポルトの路地
2006年撮影

よくこの通りを降りてリベイラへ向かっていたわたしは何年も彼女と顔見知りです。見かけるたびに昼食の時間にはいつもここに座ってスープをすすっていました。そしてまたその時間には決まって鳩がたくさん彼女の周りに寄って来、彼女が分け与えるパンをつついているのです。スープはわたしの推測ではこの辺にある食堂からいただいているのではないか、でした。

貧しい自分の食事から鳩に分け与えているその姿にわたしは昔見たミュージカルの鳩と老女のシーンを思い出し小さな感動を覚えたのでした。

顔見知りになったきっかけは、そんなおばあさんを何度か見て、「こんにちは」とわたしが声をかけたことでした。最初はひとつ買おうかと商品らしきものをざっと見回しましたが、どうも使えそうなものがあり
ません。これでは誰も買わないな、と思いました。

そこで、失礼なことだとは思いながら「コーヒーでも飲んでください」と少しお金を差し出すと、とても喜んでくれ、なんども礼を言うのです。

かつてはわたしも今のように忙しくなくよくポルトのデジカメ探検隊と自らを称して街を歩き回っていたので、しょっちゅうここでおばあさんと挨拶をかわすことになり、おばあさんの服装は冬は冬なりに一応寒くないように見えるものの、大分擦り切れて薄汚れています。

ひょっとするとホームレスかも知れないとの思いもあり、言葉を交わす都度5ユーロ、10ユーロと何かに役立ててもらいたい思いで差し上げていました。

「本当にいつもありがとうね。神のご加護がセニョーラにありますように」と開く口は何本も歯が抜け落ちたのが見えていました。

ポルトの路地
2007年撮影。同じ服装だがショールと靴が違っている^^

見かけないのが気になるもので、直ぐ側にある小さな雑貨屋へ入って「あそこにいつも座っていたおばあさんはどうしたの?」と思い切って訊いてみました。すると「ぐうたらな息子がいて苦労ばかりしてきたのさ。息子は稼がず、あの母親からなけなしの金をふんだくっていくんだよ。Coitadinha(可哀相に)。とうとう病気になって老人ホームに入れられたよ」と返事が返ってきました。

そうか。ホームレスではなかったにしろ、春夏秋冬ひがな一日あそこに座ってスープをすすっていたのは、それなりの苦しい事情を抱えていたのだな。寒さはあの歳では堪えよう、今年の秋口には毛布の膝掛けを持って行こうと思った矢先だったこともあり、病気になったのは辛いだろうけれど、老人ホームに入れられたのは案外良かったのかもしれない。

少なくとも食事にはありつけ、夜露雨露をしのぐことができる、とわたしは少し気が安らいだのですが、あれほど定時間におばあさんに群がっていた鳩たちは、さて、どうしただろうか。

本日もありがとうございます。
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2017年5月17日 

ポルトガルのファティマに於ける奇跡は、カトリック教世界では今世紀最大の幻視者出現の出来事です。

シスター・ルシアは、聖母マリアとの約束を守って、長い間「三つ目の秘密」を口外しないで来たのです。予言のひとつは第一次世界大戦がまもなく終わるということ、二つ目は第二次世界大戦の勃発です。

第3の予言をテキストに書き下ろすことを非常に恐れたシスター・ルシアの前に再び聖母マリアが出現し、テキストを書く時期が来たことを知らせます。テキストは、シスターの死後、もしくは1960年以前には開かないことを条件に、封書されてファティマ大司教に手渡されます。

この時、シスター・ルシアは二種類のテキストを書いたと言われています。

ひとつは、公開を許されたテキストは

これは、
   幻視を記述しているが、聖母の言葉は含まれていない。
   宛名がなく、シスターの署名がない。しかし、シスター・ルシアの
   帳面の記載として書かれてある。 
   1957年4月にバチカン聖省に移管され教皇ジョン・パウロ二世は1981年に読んだ。

もう一つあるといわれるテキスト。
   幻視の記述とともに、聖母マリアの言葉が含まれている。
   宛名書きがあり、シスターの署名がある。
   教皇のベッドの側の箱に保存された。
   1978年に教皇ジョン・パウロ二世は読んだ。
 
教皇ジョン・パウロ二世は、これまでのどの教皇よりも精力的に世界中を駆け巡り(その旅行距離は地球を数周した距離になる)、危険をおかして社会主義国まで訪問し、世界の平和に貢献した人として知られています。

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Wikiより。空飛ぶ教皇と呼ばれたジョン・パウロ二世

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Wikiより。266代フランシスコ現ローマ教皇

不治の病に冒されつつも、死の直前まで病をおして伝道を続ける姿に、宗教人としてだけではなく、人間としても深い感銘を受けたものです。テレビに映し出される病をおしてのつらそうな姿を目にするたびに、「こんなに深刻な状態になっているのに、なんで休まないのかなぁ。」と不思議でしようがなかったのです。

一時はファティマ第三の予言は1981年に起きた教皇の暗殺未遂のことであるとの話も出ましたが、確かに大きな事件ではあるものの、大いなる秘密の予言にしてはいまいち納得が行きません。

2000年にバチカンはファティマ『第三の秘密』に関する最終公文書として、第三のメッセージを正式に発表しています。
公開されたテキストに書かれてあるシスターの幻視は、アポカリプス(黙示録)終末記だと思われます。
が、これは聖書を一度なりとも読んだ事がある人には秘密でもなんでもありませんので、恐らく本当のテキストは未だ未発表のままであろうとわたしは推測しています。

法王のベッドの側にある箱は、法王のみ開けることができるものです。この箱の中にあるテキストを読んで卒倒してしまった教皇もいるとのこと。病苦を押して死の間際まで使命を果たそうしたジョン・パウロ二世は、いったいなにを知っていたのか。

シスター・ルシアが書き下ろした第3の予言テキストに書かれてあるのは一体なんなのか。まさに「ルシア・コード」でありましょう。

と言うことで、この数日間、検索しながら読んだものをまとめてみましたが、イスラム諸国の過激な思想と欧米の(キリスト教世界)衝突、さらにイスラエルも絡み、世界の状況を見ていると、いつどんなことが起こっても不思議がない現代です。

世界的に理解の出来ない事件や出来事が多く起きており、自分が若いころにしてきたいろいろな失敗を棚に上げて言うのはなんですが、なんでもありの世の中になってしまった現代社会には、恐怖に似た感情を覚えないわけには行きません。

これと言った特別の宗教には属していないわたしですが、しかし、常日頃から、この世界には、人知を遥かにしのぐ偉大なる力があることを、拒否する者では決してありません。現代の社会を見ていると、旧約聖書にあるソドムとゴモラの町を思い描いてしまいます。

昨今の日本から流れて来るニュースにも、わたしには、「なんでや?」と理解に苦しむことが多く、何かが狂っているとわたしには見えます。わたしたちは、自由、個性、平和の言葉に踊らされて、随分意外なところまで来てしまったのではないか、との感が否めません。

恐怖のないところに信仰は生まれない。ゆえに宗教者は世の終末の恐怖を人々に植え付け、教え説いて信者を募るのだ、との考えもありますが、歴史に目をむけると、人間のしてきたことは、たいてい身勝手なことです。それは、環境汚染、人間汚染、核兵器保持等等、現在形で更に加速して進んでいることを見て分かります。

ファティマの奇跡など、あまり興味のない人もいるでしょう。しかし、「教皇だから、美しい衣装を見に纏い、多くの信者に囲まれてお祈りをし、キリスト教世界の国々から敬われて、楽々の権力を得ていいだろうな」とのそれまでのわたしの印象をガラリと変えたのが、ジョン・パウロ二世の姿でした。

そのジョン・パウロ二世が、時々ファティマに姿を現していたことから、シスター・ルシアの第三の秘密を知るにいたり、興味本位で今回こういうことを調べてみたのですが、この世界に、一生を信義にかける人間がまだ多々いるということは、希望につながることなのではないかと、不信心なわたしが今回考えさせられたことでした。

peregrinacao_junho_fatima2014.jpg
Wikiより。巡礼者で埋められたファティマ聖地

「ファティマの奇跡」を続けて辛抱強く読んでくださった方たち、ありがとうございました。

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2017年5月15日 

ここ一週間ほどポルトガルのテレビニュースを賑わしていたのに「ファティマ巡礼」があります。

ファティマはポルトから南下することほぼ190km、リスボンからは120kmほど北上するポルトガル中央部にあるのですが、カトリック教会の重要な聖母巡礼地のひとつです。今年はファティマに聖母が出現して100年目にあたるというので、フランシスコ教皇がその聖地を訪問し5月13日に、巡礼者でぎっしり埋まったファティマ聖地の広場で祈りを捧げられました。

100年目というのと教皇訪問というので、これまでにもましてファティマを目指す巡礼者を町で見かけました。巡礼者は写真のように、黄色の目立つベストを着衣します。

ファティマ巡礼
wikiより

ではファティマはどうのようにして聖地になったのか、書いてみたいと思います。

妹夫婦が仕事の関係で、サウジ・アラビアに3年ほど滞在したことがある。その頃、土産でもらったのに変わった形をした金のペンダントがあります。その時は知らなかったのですが、これは「ファティマの手」と言うのだそうです。下記写真がそれです。

ファティマ巡礼
wikiより

わたしの持っていたのは手の平の形の真ん中に小さな赤いルビー石がついています(モイケル娘の手元に今ある)。

ファティマはイスラム教祖モハメドの娘で、今では献身的な女性の代名詞です。「ファティマの手」は、その彼女の左手をかたどり、魔よけや幸運を呼ぶ印として、イスラム国では装飾品に用いられるようです。「ファティマ」はまたポルトガルでも女性の名前としてよく使われます。

まだ高速道路が発達していなかった昔のこと。今なら3時間でたどり着けるポルトーリスボン間は、国道を走って5時間も近くかかったころのこと、5月ともなると、その国道に沿った脇沿いの道を数人のグループが歩いて行くのを車からよく見かけました。
                
年齢はまちまちで、若いのからお年寄りまで、背中にはリュックを背負い杖をついたりして固まって歩く群れを幾グループも見かけました。夫に尋ねると、彼らは願をかけてポルトガル東西南北から聖地ファティマ参りをする巡礼だと言います。
                
その時期、よく注意して見ると、巡礼たちはポルトの街中でも見られました。彼らは、日中は歩き夜になると安宿で寝、翌日また聖地ファティマを目指して、何日も行脚でたどり着くのです。

ファティマはリスボンとポルトのほぼ中間に位置するオレン地域にある、人口およそ1万人の小さな町です。町名の由来は、12世紀にイスラム教からカトリック教に改宗したの姫、ファティマが来たことに因みます。 ファティマは、後に名を「Oriana=オリアナ=ポルトガル名」と変え、それが群の首都名オレンになりました。

宗教を信ずるかどうかは別として、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、神道でも、わたしはその成り立ちや言い伝えに、深い興味を覚え、ついつい調べるにいたるのです。

毎年の5月13日、10月13日には盛大なミサがここで行われるのですが、時々、願をかけて巡礼した人たちの中から、奇跡が起こったとの話がニュースになったりします。願をかける信者のなかには、大広場から聖堂前までの長い道のりを膝で歩く人もいます。

ファティマ巡礼
wikiより

その様子は、ポルトのサン・ベント駅構内のazulejo (青タイル絵)にも見られます。

ファティマ聖地は、前法王ジョン・パウロ2世も何度か訪れていますが、ここには100年前の奇跡が現代にも脈脈と受け継がれているのです。

1917年5月13日昼過ぎ、当時はだだっ広い単なる小さな農村であったCova da Iriaで、羊飼いをしていた3人の子供、ルシア(10歳)とその従兄弟に当たる、フランシスコ(9歳)、ジャスィンタ(7歳)が、遊びながら石を拾い集めて積み立てた小さな石の家の前で祈りを捧げていると、突然眩しい雷光が空から差して来ました。
     
それを見た3人は怖くなり、急いで野原を降りて家へ帰ろうとしたところ、その道のすぐ下で再びパッと光が落ち、辺りを照らしました。見ると、小さな木の側に、白い数珠を手にした太陽よりも明るく光り輝く夫人の姿が、そこにありました。
     
光り輝く夫人は3人の子供達に、「以後、5ヶ月の間、毎月13日のこの時間にこの場所に来るように」と告げました。こうして、6月、7月、9月、10月の13日、同じ時間に光り輝く夫人は現れました。

8月13日が抜けているのは、この噂が町中に広まり、3人の子供は、この日、首都オレンま尋問されるのため、連れて行かれ、約束の場所へ行くことができなかったからです。

光り輝く夫人はこの日、500m離れたValinhosと言う場所に姿を現しました。

最後の10月13日の出現には、この噂を聞きつけて、人目これを見ようと7万人の人がこの場所にやってきました。この日も3人の目の前に現れた光り輝く婦人は、自分はサンタ・マリアであることを告げ、この場所に小さな教会を建てるようにと伝えました。

ファティマ巡礼
wikiより

この日、集まった7万人の目撃者は言います。太陽が不思議な輝き方をし、その太陽を直視しても目が焼けることはなかった。その太陽はまるで銀の円盤のように天空を動き回り、聖母マリアとイエス、聖ヨセフ(マリアの夫)の姿を映し出し、世界を祝福した、と。

この日、3人の子供達の後ろに控えて、この様子を見ていた人々の間には多くの奇跡が起こったと言われ、このニュースはたちまち、国中の新聞で報道されたのでした。この奇跡以来、世界中から人々がファティマに集まるようになり、現在に至っていると言うわけです。

ファティマ巡礼
wikiより。右から、ルシア、フランシスコ、ジャスィンタ。ファティマの3人の牧童の幻視者

さて、この話、これで終わりではないのです。ファティマの奇跡には、もうひとつ有名な「ファティマの三つの秘密」と言うのがあります。

聖母マリアは、ポルトガル語では、「Nossa Senhora=ノッサ・セニョーラ」(わたし達の母)と呼ばれるのですが、Nossa Senhoraは3人の牧童に「誰にも話してはいけない」という三つの秘密を打ち明けています。
     
そして、マリアがフランシスコとジャスィンタに、間もなく天国に行くでしょうと告げたように、二人は幼くして天に召されるのです。3人の中で一番年長のルシアは、長じてシスターになりその一生を神に祈ることに捧げ、2005年2月13日、97歳で生涯を閉じました。現在はファティマに眠っています。
     
3人の子供の中では、ルシアが一番年長ですが、実際にマリアの話を聞くことができたのは、この10歳だったルシアだけで、他の二人は姿を見ただけでした。シスター・ルシアは、「ファティマ唯一の生き残り幻視者」と呼ばれました。幼いフランシスコとジャスィンタは2005年にジョン・パウロ2世により列福されています。
     
聖母マリアから、「誰にも話してはいけない」といわれた、シスター・ルシアが生涯胸に抱えた三つの秘密。実はこれ、調べて見ると、とんでもなく面白いものになってしまいました^^

これは、「ダヴィンチ・コード」ならぬ、「シスター・ルシア・コード」になりそうです!

次回に続きます。

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2017年5月11日
 
「5月10日、M・モイケル娘誕生。初夏の気候、快晴。とても美しい日の12時20分、ラパ病院にて。体重3200g、身長49cm。Melo先生とアウグスタ看護婦さん、夫が立ち会う。」

1986年の我がモイケル娘の誕生についてそう日記に書いてある。今日、その娘が31歳の誕生日を迎えました。同じ31歳の5月にわたしは初めてポルトの空港に下り立ったのでした。

31年の月日は一人の人間の人生のひとくぎりにもなろうかと思う故、今日は古い日記からモイケル娘について走り書きしてある成長の記録もどきを、メモとしてあげておきたいと思います。

・一ヶ月目くらいより母乳とミルクを混合する。体重3720g 身長54cm。よく吐乳する。
・1986年6月 リスボンの日本大使館に出生届。
・一ヵ月半 時々なん語を話す。
・4ヶ月の終わり頃、寝返りを始める。
・1986年10月 微熱37.8度。ひだりほっぺが赤く熱い。三日ほど物静か。気分が優れない様子。左下、歯が出るきざし。そのせいであろう。

・1987年1月 満8ヶ月。しっかりしたお座りができる。プレイペン内でしばらくつかまり立ちをする。
 離乳食は日に2度。食欲旺盛。ママ~、ババ~、パパ~、ナナ~など、言葉が出始める。我が両手をつかみ、だっこをせがむ。歯が出始める
・長男、モイケル娘をギュッと抱きしめるが、彼女はイヤがる。ギュッのなかには少しヤキモチが入っているようだ。

marianihna2-1.jpg

・1978年2月 ひとりでつかまり立ちができる。三種混合予防接種をする。ほとんど泣かず。
  息子のベッドから落ちる。満9ヶ月になり、ハンバーグ、マカロニグラタンを食べ始める。
・一歳なると同時に歩き出す。目下興味の対象はトイレと台所。気に入らないとキーキー叫ぶ。
・17ヶ月。ネコと遊ぶのが大好き。両手の甲にネコの引っかき傷がたくさんある。
Anda cá(こっちへおいで), Que é isto?(これ、なぁに?) Então(それで), taotao(お尻ピシピシ)
ありあと、などの言葉が出てきた。

mariana4-1.jpg

・17ヶ月。 いたすらざかり。次から次へとものを引っ張り出したり、椅子にのったりするので少しも気が休まらない。「だっこ」「マルコ?(兄貴がベランダからよく呼ぶ近所の子の名前であろう)」をさかんに口に出す。
・一歳半 哺乳瓶を完全に卒業。冷たいミルクを好む。

この頃の我が日記には「アメリカンインディアンの教え」というのが書かれてある。

子どもたちはこうして生き方を学びます。
批判ばかり受けて育った子は 非難ばかりします。
敵意に満ちた中で育った子は 誰とでも闘います。
冷やかしを受けて育った子は はにかみ屋になります。
ねたみを受けて育った子は いつも悪いことをしているような気持ちになります。
こころが寛大な人の中で育った子は 自信をもちます。
ほめられる中で育った子は いつも感謝することをしります。
公明正大な中で育った子は 正義心をもちます。
思いやりのある中で育った子は 信仰心をもちます。
人に認めてもらえる中で育った子は 自分を大事にします。
仲間の愛の中で育った子は 世界に愛を見つけます。

この後、我が日記は間が空き、1991年、娘が満5歳のときのメモ。

・美しい5月に生まれた娘、豊かな個性を備えてきた。両手を腰にあててプーッとふくれ口をとんがらかすさまはいかにも可愛い。近頃は会話の中に英語が混じってくる。字を書くときは左手の方が運び易いらしく、左利きである。

s_jacinto-2.jpg

この日の誕生日、彼女が私にハッピーバースデーのピアノ演奏を頼んだのは意外だった。

・1991年10月(5歳) 近頃おもしろい質問をしてくる。なぜ夜になると暗くなり、目が覚めると明るいのか。なぜパパにはわたしたち3人がもつ姓がないのか。夢のなかでは死んでも大丈夫だよ、などと、不思議なことを言う。
・1992年1月 (5歳)ピアノレッスンを始める。ひらがなの読み書きができる。足し算ができる。
・1995年6月 所沢北中小学校3学年への体験入学
・1999年7月 親子3人でイギリス旅行(思春期の息子は友人と別旅行)

我が日記はこの後、子育てと補習校の仕事、家庭での子どもたちの通信教育学習の手伝い、子どもたちの学校、習い事の送迎などに追われる日々突入し空白になったまま、2004年の初開設ホームページの日記に入っていきます。

この後の娘の足取りは既に拙ブログに書き記してあるように日本大学受験を目指し、日本へ帰国し(彼女に言わせれば)東京の大学入学、北九州への編入、卒業、3年間の社会人、大学院入学卒業、社会人、そして昨年11月の結婚と、こうして書くと味も素っ気もありませんが、31歳の人生などそんなもの、本当の人生はこの先に待ち構えているのであります。

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日本の大学入学後、憧れのプリクラなども体験w

ポルトにいて日本の子どもたちに思いを馳せるとき、遠い見知らぬ異国に嫁いだふうてん娘のわたしを既に鬼籍に入った母、いったいどんな思いで見つめていたのだろうかと、その心持にようやく到達したような気がします。

子どもたちよ、明日のことは分からないが、今日を目一杯無事に生きてくれますように、そして、モイケル娘よ、誕生日、おめでとう。
最後にわたしが好きな娘のスナップ写真をここに。

mariana5-3.jpg

写真おくれ~とわたしにせがまれ、日本から送られて来たのがこれ。本人はもう持っていないと思われるが、わたしの気に入りのスナップである。暗さに真剣さがみなぎっている(笑
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2017年5月8日 (月)

ひとつ年下なのに、どういうわけか友人のイラストレーターちゅうさんから「バリバリ、ポルトを闊歩している姐さん」とコメントに書かれるわたしでありますが、本当言うと、午前中のスケジュールをその人のために空けてあるところの某企業のおエライさん、マセラッティの君がこの所ご多忙で、12時までは自由時間が続いており、でれ~と過ごしていた一週間でした。

が、そんなことがふっとぶくらいに忙しかったのが先週末でした。例年だと3月の補習校春休みに催すわたしとOちゃんの日本語教室恒例のパーティーなのですが、今回はその時期にわたしが日本帰国中となり、やっと昨日の日曜日にすることができました。

わたしたちが呼ぶところのNHKパーティーとは、「Nihongo wo Hanasu Kai」の頭文字をとっての名称。春休みに催すのは、わたしは土曜日午前中に、相棒のOちゃんは土曜日午前中の補習校、そして午後には日本語教室があるという状態なので、両方がなんとか時間のやりくりが可能な春休みにと、ずっとなってきたのでした。

ポルトで日本語を勉強している仲間は他にもいるのだということを知ってもらうためと、なかなか日本語を耳にすることがないポルトの日本語学習者が、少しでも日本語を使ってみたり耳にすることができたりする機会を作れないか、という思いから始めた会合ですが、いつの間にか生徒たちから「今年のNHKパーティーはいつですか」と催促が来るようになり、今年はその6回目と相成りました。

去年まで教室として使用させてもらったLapa教会の側のOちゃん一家が昨年夏に他所へ引っ越したもので、会場はそちらへ移動。生徒たちには「この通りの203番地です」と何度も繰り返し案内しての当日、土曜日の夜と日曜日早朝に準備した料理を車に積んで、「Oちゃん、今から行きますぞ~」と声をかけ、夫の車でOちゃん宅に着きました。

既に何度か来ているのでもちろん知っている場所ではありますが、これまでは常にOちゃんがアパートの玄関先まで降りてきてくれたのでした。

さてと、車から料理を運び出したところが、おろ?204番はあるけど203番がないじゃん?えー!
外からドアガラス越しにアパートの中のロビーを覗いてみると、確かにここだよ。もう一度番号を見直しました。やはり203はなく204でありまする。

プッシュボタンで部屋番号を押すと、「は~い」と聞きなれたOちゃんの声が応答。あちゃ~~~、生徒たちに番地を間違って教えちまった!いやはや、困ったドジではあります。お陰で、パーテイー開始の時間1時半ともなると、我がケータイ電話、「先生、203番地がありません!」と鳴りっぱなし。

ケータイが鳴るたびにOちゃん一家と先に会場に到着していた生徒たちが「ワッ!」と大笑い。
あははは。これがYuko先生なのだねぇ。しっかと粗忽者だと印象付けたのでありました。トホホホ。
しょっぱなからそんな具合で始まった第六回YY塾NHKパーティー、母の日と重なり15名ほどの欠席はありましたが、25人ほどのパーティーになりました。

まずは今回のメニュー紹介から。

NHKParty2017
Oちゃんの山盛りの焼きソバ。揚げぎょうざとほうれん草の胡麻和え、トリのから揚げ(Yuko)

NHKParty2017
卵、ツナ、玉ねぎのマヨネーズ和えサンドイッチ、定番の巻きずし、&鶏肉ソテー(Yuko)

NHKParty2017
今回の初もの。Oちゃんのそうめん。20数人分、きれいにパックで用意しました。わたしは食べ損なったのであった^^;下は5月5日の子どもの日に因んだ鯉のぼりのはし袋。さすがOちゃんのグッド・センス!

NHKParty2017

この他、評判定番のカレーライスとYukoのグラタンは後ほど出されました。食事の締めはケーキで。

NHKParty2017
ケーキは毎回生徒さんの一人に注文して作ってもらいます。

差し入れのさくらんぼ、数本のワイン、日本酒があり、みなさん、和気藹々にポルトガル語で話しておりました(笑)ただし、全員一人ひとりに日本語での自己紹介は毎回してもらいます。

NHKParty2017
ベテランも初心者も全員集合。

前夜12時までカレーライスとグラタンを作り、カツとから揚げの下準備をし、日曜日は5時起きで巻きずし、いなり寿司、揚げ物を仕上げて、パーティーの後片付け終了は6時半。くたびれ果てて帰宅後、内ネコ外ネコのエサをあげ、少し横になるつもりが今朝の6時まで寝入ってしまったのでした。ダンナの晩御飯、忘れたのでした。てへへ・・・・(汗)

Oちゃん、今年もお疲れさま&ありがとう!

後は影絵作成、参りますぞ!

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2017年5月5日

ドウロ川も上流の地域、蒸気機関車終着点、寂れてほとんど駅しかない「Tua=トゥア」から、出発点であるRegua(レグア)への帰路、書き留めておきたい出来事に遭遇したのであります。

ピョーピョーとなるSLの帰路の汽笛は、なんだかやけに哀調を帯び、旅の終わりを告げるかのようでした。車内は指定席ではないので、途中の2度の停車駅でわたしたちは車輌を変えてみました。最後は向かい合った座席が4つしかない小さな車輌でした。

乗客はわたしたちと、わたしたちの席の向こう座席の老人だけです。あれ?ポルトガル人の年寄りの一人旅とは珍しや?ポルトガルでは夏休みはたいがいカップルで、あるいは家族連れでの旅行者がほとんどですからね。

ドウロ川添いに走る往復3時間半ほどのSLの旅も、いよいよ終わろうかと言うころ、最後のサービスででミーニュ地方の民謡を奏でて歌う5人の楽隊が各車輌を回っていました。

楽隊がわたしたちの車両にやってきて、陽気な民謡を演奏しました。二曲目、三拍子のなんだか少し哀調のある歌が始まり、夫と向かい合わせに座っていたわたしは、なんとはなしに向こう座席の老人に目が行きました。


手拍子を取り、一緒に歌を口ずさんでいます。我が夫はというと、なにやら帰りの車のルートを確認するのに地図とにらめっこ。音楽も終わり楽隊が隣の車両に移って行き、わたし達の車両は再び静かになり、ガタゴトガタゴト、汽車は揺れ老人もわたしたちの体も揺れ。

SL2017-smokegetsin

と、その時、先ほど楽しそうに手拍子を打って歌に合わせていた老人の目にみるみる涙が溢れてきました頬をつたう涙が落ちるのを人に知られまいとと頬をぬぐうその仕草を3度ほど、それから車窓に両腕を乗せ、さざなみ光るドウロの川面をじっと眺めやっていました。

わたしは見てはいけないものを目にしてしまった思いがして、気持ちがざわめき、帰宅してからも老人のその姿が頭を離れず、あれこれと思いを巡らせずにはおられませんでした。

老人の顔に深く刻まれたしわ、日に焼けた肌、そしてごつごつしたその手からして、農業、もしくは漁業に携わってきた人であろう。あの歌に過ぎし日の思い出があったのだろうか。死に別れた伴侶のことか、それとも若き日の恋人だろうか・・・このSLの一人旅そのものが、過ぎし日の思い出をたどるためだったのだろうか?

とっさに夫には言えないような情景を見たのでした。

近頃は、行く先々のあちこちのスナップに夫が写っていて、あぁ、せっかくのいいアングルなのに、旦那が入ってるよぉ。「あぁた、ジャマだから、ちょっとそこ、のいてよ。」とは言えなくて、困ったもんだ、と思ったりしていた常日頃。

くだんの老人を思い出すと、もしかして将来わたしが先にいなくなった場合の夫、あんな風に一人旅をするのかなぁ。あんな孤独な夫の姿を天上から見るのはイヤだな。夫より先には逝けないなぁ」と思ってみたり。

え?憎まれっ子世にはばかるで、あんたが先に逝くことはないから心配すな?だ、誰だい、人がしんみり慮っている横からそんなこと言ってるのは!

さてもさても、SLの吐くススがらみの煙と老人の姿とで、ホンに煙が目にしみたドウロ川SLの旅ではありました。


オールディーズ「煙が目にしみる」はこちらで、聴けます。
The Platters、いいですよ^^

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2017年5月4日(木) 

それにしてもこのSL、姿まことに麗し!終着駅トゥアに着いたほれぼれするようなHenschel & Shoen Steam Engine 0186(1925年)の姿です。

SLの旅

ドウロ線は1873年に敷設工事が始められ1883年にTuaまで開通し、このSLの旅ではRegua(レグア)、Tua(トゥア)間46キロを5車両で250人の乗客を運びます。

SLの旅
夫が撮った一枚。SLの吐くもうもうたる煙に包まれて、素人レポーターも楽ではない(笑)

SLの旅
Henschel & Shon Engine 0186(1925年)のマーク。 

SLの旅
鉄道員は休む間もなく、これからリターンの準備。

SLの旅

SL2017_27_tua.jpg
方向転換完了。最後の点検。 

SLの旅
ロコトラクターはDeisel shunting Engine 1185(1956年)

SLの旅
トゥア駅で静かに休む引退SL。型からし蒸気機関車初期のものでしょうか。

SLの旅
トゥアの駅。2009年には駅の前に小さなカフェがあるのみで他はなにもなかった。  

SLの旅
こんなレトロな「電報局」が見られるのも古い終着駅だからこそ。もちろん現在はオフィスとして使用。

SLの旅
2009年7月11日午後4時7分のトゥア駅。

というので、このSLの旅は2009年のことでしたが、今年はディーゼル機関車の旅が6月から開始 だそうです。
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2017年5月1日(月) 

SLの旅

午後2時46分にレグアを出発のSLの旅、発車まもなく車内ではポートワインとおつまみ出されました。

SLの旅
楽隊の楽しい音楽とともに、時々口げんかもするが、とにかく今日は我らの人生に乾杯!ということで。
           
SLの旅
ドウロ川川沿いに煙をもこもこ吐きながら走るSL。時々川を上り下りする観光船と行きかい、こちらからもあちらからも乗客が手を振り合ってご挨拶

とまぁ、このあたりに来るまでの2度、トンネルに入り、この年は全窓開放だったので、黒煙が遠慮会釈なく入ること入ること!(笑)ススで鼻孔も真っ黒になりました。往復、4度のトンネル通過と、走行中の煙とで、夜、帰宅して浴びたシャワー、流れる水は真っ黒でありました。やがて汽車は小さなピニャンの町に入ります。

SLの旅

ピニャォン駅舎
SLの旅

ピニャォン駅では、ドウロ川上流の景色を描いた美しいアズレージュ(Azulejo=青タイル絵)が見られます。

SLの旅
9月の葡萄の収穫(Vindima)の様子。

SLの旅
葡萄を収穫する女性(Vindimadeira)

azulejo_pinhao3.jpg
昔のドウロ地方の服装。

SLの旅

ホームでは楽隊の音楽に合わせ、思わず踊りだす人もいました。
   
往復路、20分停車するピニャンの駅の「ワインハウス」では、ポートワインを始め、ポルトガル産のグルメが売られています。
SLの旅

ピニャンの町について

夏季とぶどうの獲り入れ時期をのぞいては、ひっそりとした死んだような町だが、5月から10月にかけての土曜日のSLが停車する20分間は、生き返ったようなにぎやかさを取り戻すことだろう。

SLの旅

鉄道が乗り入れる以前のピニャンの人口は300人ほどであった。1880年のドウロ線鉄道開通以来、ピニャンには多くのワイン倉庫建てられた。ポートワイン会社「Taylors」の大倉庫だったのが、現在は「CS Vingate House」と呼ばれる5つ星のホテルになっている。ホテルからはドウロ川の景観が眺められ、夏場は満室になることだろう。 

Vintage House Hotel
     住所:Lugar Da Ponte -5085-034 , Pinhao , Portugal
      Tel ::+351 (0)254 730230 or fax +351 (0)254 730238
    
次回は、終着駅「トゥア」を紹介いたします。
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