2017年6月29日 王家の離宮ブサコ宮殿とブサコワイン

我がモイケル娘たちが昨年ポルトガルを訪れた時にハネムーンの宿泊先としたブサコ宮殿は、日本のテレビでとも取り上げられていますが、建築はイタリア人のルイジ・マニニがおもだって手がけています。

マニニはシントラのQuinta da Regaleira(レガレイラ館)の建築家でもあり、彼独得のゴチック、ルネサンスの建築スタイルが見られますが、ポルトガル大航海時代の栄華を語る華麗なマヌエル建築様式をも取り入れています。

写真は宮殿のファサーダですが、ポルトガル王家15の紋章が飾られています。
ブサコ宮殿

ブサコ宮殿

宮殿ホテル横の入り口階段に見られる女神。

下は頬杖をついた奇妙な動物。

ブサコ宮殿

ブサコ宮殿

宮殿テラスの柱には一つずつ違った彫刻が施されており、マニニのデザインとあらば、恐らくそれぞれに不可思議なシンボルが見つかると思われます。右側はポルトガルの歴史場面を描いたジョルジュ・コのアズレージュ。コラソはポルトのサンベント駅構内のアズレージュ絵の作者としても知られています。アズレージュ絵は内部でもたくさん見られます。

ブサコ宮殿
その中のロマンチックな一枚は、悲恋のペドロ王子とイネスであろうか。

宮殿内に入ってみましょう。

ブサコ宮殿
見事なマヌエル建築とアズレージュです。

ロビーから赤い絨毯の階段を上るとゲストルームへ続きます。階段の横には騎士像が立っています。

ブサコ宮殿

こんなのも。 

ブサコ宮殿

階段沿いにはセウタの戦い(15世紀)のアズレージュ。
ブサコ宮殿

ブサコ宮殿

↑↓ 宮殿ホテルレストラン

ブサコ宮殿

フルコースの一部写真を。

ブサコ宮殿

ブサコ宮殿

ブサコ宮殿
 
ルームキーも面白い。なにやらメーソンのピラミッドをわたしなどは連想します。

ブサコ宮殿

さて、ブサコ宮殿の歴史に戻りまして、ほぼ20年をかけて1907年に完成した宮殿ですが、宮殿建築を引き継いだドン・カルロス王は1908年2月1日、二人の王子と共にリスボンのコメルシオ広場を通り馬車で本宮殿に向っていた折、共和主義者の暴漢によって殺害されます。

長男の王子も同時に亡くなり、かろうじて殺害を逃れた次男がドン・マヌエル2世として王位を継きました。このときドン・マヌエルは19歳、ポルトガル王国最後の王となります。

共和主義という押し寄せる新しい波の混乱の中で、力を失った王室は完成したブサコ離宮を手放し、Almeida氏が買い取り、離宮は富裕族の高級宿泊ホテルへと変貌します。

1910年9月、この宮殿ホテルで「ブサコの戦い」から100年目を祝い王家の宴席が催されましたが、翌月10月5日、ポルトガル王家は終焉を迎えることになります。これについては下記で書いていますので興味あらばどうぞ。

Dia da República-共和革命記念日とペナ城

ブサコ宮殿ホテルについて、もうひとつ加えたいことに、「ブサコワイン(Vinho do Buçaco)」があります。
1917年以来、今でも足踏み方式で造られており、赤白それぞれ年間1万本のみ製造されます。かつては宿泊客のみが口に出来る「幻のワイン」と呼ばれた門外不出のワインで、開発したのは初代Alexandre do Almeidaです。

vinhos-bussaco_medium.jpg
Wikiから

現在は、わずかの本数ですが、ブラジル、イギリス、ドイツ、ベルギーなどにワイン業者Dirk Niepoortを通して売られています。

と、ここまで書いて、あれ?Dirk Niepoort?ディルクさんじゃん!知り合いでござんした(笑)

彼のパートナーであるドイツ人女性Ninaさんがわたしの日本語の生徒さんなのです。これまで何度もドウロ川上流の葡萄農園のパーティーに呼ばれたのに、実は一度も行った事なし^^;

今年もお呼びがかかったのですが、図書館での日本語授業の後の土曜日のことだし、ドウロ川上流まで行くのを億劫がり結局行かなかったのですが、ひょっとするとこの珍しいブサコワインを口にできたかも知れないと思うと、重ね重ね残念ではあった。

製造本数が少ないことと、多量に外部へ出したくないというホテルの意向とでブサコワインは祝いごとでよく開けられるとのこと、調べてみると赤ワインが一本36~40ユーロ(4500~5000円ほど)しています。

ということで、来年はDirk Niepoortさんのの農園に行こうかなぁ、なんて考えているわたしであります。

最後に今回の画像はモイケル娘と婿殿から借りました。

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2017年6月26日 

サン・ジュアン祭りの起源をちょっと置いといて。

何年も前から写真を保存したままになって、やっと数日前に紹介したポルトのラマルダ館同様、これも何度も撮影しながら、ついぞ記事にあげて来なかった、ブサコ宮殿を今日は紹介します。

今回の画像は全て、我がモイケル娘が提供してくれました。と言うのは、何度も行って撮影していながら、ハードディスクに保存する作業を怠り3年ほど前にパソコンのこれまでの画像を消失してしまったのであります。かなり古いものはCDに保存していたので助かりましたが、近年のものは失ってしまい、思い出したくもないショックでありました。

コインブラから北へ30キロほど行くと、国立森林公園Mata Nacional do Buçaco(Mata=森林)があります。ブサコ宮殿はその森の中にありますが、現在はブサコ・パレスホテルという高級宿泊施設になっています。
 
ブサコ

一帯はカルメル修道会が切り拓き、17世紀にはここを「地上の天国」と呼び、修道院「Convento de Santa Cruz do Buçaco(ブサコのサンタクルス修道院)」が建てられ、ポルトガルが修道会などの宗教団体を国内から追放することになる1834年まで森林を所有しました。今でもその修道院の一部が見られます。

ブサコ
宮殿のすぐ横にあるカルメル会独得のシンボルを装飾した修道院は現在一般公開されています。

ブサコに関するポルトガルの歴史を少し紐解いてみましょう。

時は1810年、ナポレオンのイベリア征服野望のフランス軍は、ピレネー山脈を越えて1807年にリスボン、1809年にポルトを襲ったものの、いずれも失敗し、3度目の軍を送った年です。

フランス軍の侵入により、農業を始め商業産業は荒廃し、宮殿や教会の貴重品を略奪され、貴族の館は焼かれました。3度目は既にフランス占領下に置かれていたスペインの中部からポルトガルのAlmeidaに入り、リスボンを目指しViseu、ブサコに進んでいました。このブサコ山脈は最高度550メートルの峰がある15キロに渡る険しい「ポルトガルで最悪の道」だったのです。

さて、この時、2度目のナポレオン軍侵入以来、イギリス・ポルトガル連合軍の指揮をとっていたのがイギリスのウエリントン公爵です。ナポレオン軍の進路を妨害するため、ウエリントン公爵はブサコのカルメル修道院に基地を置き、敵に奇襲攻撃をしかけます。

1810年9月21日、ポルトガルイギリス連合軍5万、片やフランス軍6万5000のブサコの戦いは7日間の激戦となり、フランス軍は5人の将軍を失い、4500人の兵を死なせたと言われます。

ブサコ

フランス軍は苦戦の末、ようやく活路を開くものの1811年には終にポルトガルを撤退します。「ブサコの戦い」はフランス軍を追い払うことはできませんでしたが、素晴らしい防衛戦術の見本とされています。

1834年、カルメル会が森を退去したあと、ドン・ルイス1世国王と后ドナ・マリア・ピアは修道院を王家の離宮に改造を計画、これは王子こと後のドン・カルロス1世に引き継がれます。1888年にブサコ離宮はイタリアの建築家、ルイジ・マニニによって建築が始まりほぼ20年をかけた1907年にようやく完成するわけですが、ルイジ・マニニとブサコ宮殿について次回に続きます。

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2017年6月23日 

ポルトガル語では「Festa de São João(フェスタ・デ・サン・ジュアン)」と言います。「サン(聖)・ジュアン」とは、ヨーロッパでも最も祝福されるといわれる洗礼者ジュアンを指します。

ジュアン、ジョーン、ジャン、ジョン、イワン、シーンと国によって呼ばれ方は色々ですが、聖書の中でキリストに洗礼を授けたヨハネです。また、オスカー・ワイルドの「サロメ」でもヘロデ王が彼女に褒美として取らす「ヨハネの首」が描かれています。

ポルトガルの町は、それぞれが守護神を持ちます。例えば、リスボンはサント・アントニオを守護神と掲げ、その生誕日6月13日の前夜祭には目抜き通りのリベルダーデ大通りを、リオのカーニバルに匹敵するような、盛大なパレードが練り歩き、大変な人出で賑わい、この様子はテレビでも一晩中放映されます。

ポルトの守護神は聖ジュアン、つまりサン・ジュアンです。ポルトガル語の「São」は、「聖なる、聖人」を
意味し、後に来る名前によって「São=サン」もしくは「Santo=サント」となります。

6月24日が聖ジュアンの生まれた日と言われ、祭りは23日の前夜祭です。ポルトのサンジュアン祭りは、リスボンのサント・アントニオ祭りと趣が違い、見せて見て楽しむのではなく、市民が町に繰り出して思い思いに楽しむと言うローカル色のアットホームな雰囲気があって、なかなかよろしいようです。

サンジュアン祭

サンジュアン祭りの中心は世界遺産指定されている区域、これこそポルト!と言われるドウロ川べりのRibeira(リベイラ)と、昔ながらのサン・ジュアン祭りが楽しめるフォンタイーニャス(Fontaínhas)

サンジュアン祭

前夜祭には、二重橋D.Luis Ⅰ(ドン・ルイス一世)橋を背景に、華やかな花火が打ち上げられ、祭りは明け方まで続きます。

マンジェリコ(鉢植え植物)、にんにくの花かプラスティックのピコピコ・ハンマー、そして鰯の炭焼きは、サンジュアン祭りの三種の神器だわたしは呼んでいます。

6月23日が近くなると街のあちこちで売られるピコピコハンマー
サンジュアン祭

サンジュアン祭
↑かつてはプラスティックのピコピコハンマーでなくて、このにんにくの花で行き交う人の頭をぽんぽん叩いたものです。

サンジュアン祭
↑マンジェリコは「くるま花科」と辞書にありますが、この時期、どこの家庭でも手に入れて屋内に置きます。独特の香りをもち、人々はこれに手をかざして香りを掬い取り、その香りを愛でます。ちょっと日本の香道の仕方に似ていませんか?

マンジェリコに小さな旗が挿されているのがよく見かけられますが、それにはサンジュアン祭にちなんで毎年催される短詩コンテストで入選した詩が書かれてあります。日本で言う短歌でしょうか。恋の詩がたくさんあります。

祭りの三種の神器にもうひとつ加えたいのが、サン・ジュアンの熱風船(Balão de São João)です。

サンジュアン祭

サンジュアン祭

こうして夜空に熱風船を飛ばすのですが、これが、先日の山火事惨事故、今年は禁止のお触れが出ました。破った者は個人だったら5000ユーロ(約60万円以上)、集団でした場合は最高6万ユーロ(700万円以上)もの罰金が科せられるとのこと。前夜祭の夜はその摘発のパトロールが行われるそうです。

こんな風にして古い習慣が失われていくのは残念なことではありますが、惨事の元になり得るとなれば致し方ありませんね。

下記では、2015年のサン・ジュアン祭りの様子と熱風船をあげています。
サン・ジュアン祭2011」  

そして、最後になりましたが、サン・ジュアン祭りの主役の鰯です!
サンジュアン祭

これがご近所で街中のいたるところでと、鰯を焼く匂いでとても家の中におられたものではありませんです。それから逃れるためにも、我らも街へと繰り出すのであります(笑)

明日はこの祭りの起源についてです。

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2017年6月19日

山火事のニュースが流れると、また今年もか、一体国は本気で国土焦土化の予防対策を考えているのかと腹立たしい思いになります。

毎年夏になると、乾燥気候と山中の清掃をしないがために大々的な山火事が起きるのです。自然発火が原因になることもありますが放火も多いのです。まだ、本格的な夏到来ではあるまいし、今回も放火の類かと、しかめ面でニュースを見ていましたら、どうも樹木への落雷が出火原因のようです。

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火災現場はポルトガル中部山間部のペドロガオン・グランデ一帯で、17日午後、強烈な熱波と雨の伴わない雷と嵐の最中に発火しました。1600人の消防隊態勢で昼夜の必死なる消火活動にも拘わらず、火はなかなか鎮圧されませんでした。

報道によると、この山火事での死者はこれまでに子どもを含み62人に上るとのこと。半数はペドロガオン・グランデの住人ですが、幹線道路に向かう路上の車内で30人、炎から逃げようと車外に出たと見られる17人の遺体が発見されています。

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消火活動の合間に束の間の休息をする消防士たち↑↓

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死者62人の中には4人の消防士も入っています。近年最悪の森林火災悲劇です。ポルトガル政府は18~20日まで3日間を国喪とする政令を出しました。

ペドロガオン・グランデの位置を地図で見てびっくり、実は近い内に訪れようかと夫と話していたPenela城はなんと、すぐ近くではありませんか。これから乾燥気候に入るポルトガルです、このような火災は山間部であればどこにでも起こりそうに思われ、国内の旅行は山岳地方を夏の間は避けたほうがいい、「Penela」は行きたくないとごねているわたしです。

近年にない痛ましい山火事惨事に、ポルトガルは泣いています。
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2017年6月18日
 
元気なうちは異国暮らしも悪くはないが、ちょっと風邪を引いて数日寝込んでしまうなどすると、てき面弱気になります。

自分が台所に立てないのですから、無理して起き上がり、普段着のまま行ける近くのレストランに出かけても、こういう時はまず油っこくそしてボリューム一杯にドサッと出されるポルトガルの食べ物が口に合わない。見ただけで食欲減退です。

これが日本だったら出来合いのお惣菜とか、お弁当とか、お寿司とか、あれとかこれとか、なんとでもできるのになぁ、とつくづく日本食が、いえ、真実は日本が恋しくなるのであります。おっとっと、これ以上言い募ると、つまらない愚痴記事になりますので、この辺で止めて置きましょう。

さて、わたしの日本語の仕事は、月曜日から金曜日までは自宅と某企業の個人授業、土曜日は市立図書館で2クラスを教えるという日程です。終日ではありませんが、一日3レッスンもあれば授業準備時間も入れると5時間くらいにはなります。企業での個人授業が入る日は、車での往復の時間も加わり。帰宅してすぐ次のレッスンにとりかかる、という風になります。

体調が優れない場合は、個人授業に関しては事情を説明してキャンセルができますが、土曜日のグループ授業はそうはいきません。生徒に前日に連絡しても、全員がメールボックスを開くとは限りません。Hotmailなど、送ったメールが届かないこともよくあるのです。

故に土曜日は多少の事情は押して、なんとか出かけることになるのですが、昨日がそうでした。

前夜は授業準備ができず、エイヤ!と早朝起床、シャワーを浴びて準備完了、出勤です。夫には「帰ってきたらきっとすぐさま寝ることになるだろうから、悪いけど昼ごはんは私を待たないで、一人で外で食べてね」と言い残して出かけました。

クラスでは、「風邪気味ですから、今日はわたしの側に近寄らないようにしてください」とあらかじめ警告して授業を無事終え、いつもの如く2時近くに帰宅、ドアを開けたところ、「お帰り」と夫。あら?ご飯まだ食べにいってないの?すると、「一緒に食べようと思って、今日はTake Awayを用意したよ」(Take awayは英国、Take outは米国で、どちらも「持ち帰り」の意味)。

リビングにはすでにテーブルがセッティングされて、串焼き肉とライス、それにサラダが。これは食べないわけにはいかないでしょう。調子が悪くなると食事を抜くのが常のわたしです。なぜかと言うと、しんどいのを押して自分が料理する上に後片付けもそのまま後に回すということができない性分ですから、体調も更に悪化し不機嫌も増加、と相成りますw

わたしが昼食を抜くのを見越してのことだと思うのです。食べる前から「後片付けが~」と言い出すわたしに、いいからいいからとテーブルにわたしを促す夫。何とか昼食を終えて、微熱と安堵と満腹とでわたしはすぐさまソファに横たわり、そのまま寝入ってしまったのでした。


ふと、窓から差し込む赤い光で目覚め、外を覗くと、んまぁ、真っ赤な夕焼け空!
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やおら起き出して、スマホを手に台所のベランダへ。
少し汗ばんだので後2日ほどで、体調はもとにもどるかな?と感じつつ、寝てる間に、珍しくきれいに片付いた台所を見て、夫にありがとうの思いでありました。

夫が用意してくれた昼ごはんと美しい夕焼けに力を少しもらい、この後作り始めた野菜たっぷりのスープとパン、それに果物が、夜10時半の晩御飯でした。この夕焼けはポルトガル夏時間の9時半なのであります。

本日はこれにて。
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2017年6月16日 

自分でも、あれ?未だ紹介していなかったっけ?と今回は驚きのニコラウ・ナゾニが造ったと言われるラマルダ館(Casa de Ramalde)を取り上げます。

casaramarde
館の背後に見られる塔や正面シンメトリの階段はナゾニの特徴です。

ニコラウ・ナゾニ(Nicolau Nasoni)は、このところ遠ざかっていたわたしですが、これほどの偉業を成し遂げがら最後は貧困のまま一生を閉じたと言われ、その生涯を詳しく知ってみたいと、一時期、ナゾニの建築物を追いかけていたのでした。

当時はポルトガル語に暗かったのに加えナゾニに関する本もなく、今ほどにポルトガルのネット情報はなかったもので、ナゾニの生涯を調べるのには四苦八苦したものです。 彼の墓を突き止めたくて、クレリゴス教会を訪問したのですが、その時管理人から、ナゾニの墓はなく、遺骨はクレリゴス教会の床下に他の遺骨とともに埋められているというのを知らされたのを最後に、自分の日本語の仕事も忙しくなり街を散策する時間がなくなって、そのまま今日まで来てしまいました。ナゾニよ、ご勘弁くだされ。

さて、ポルトガル語ではニコラウ・ナゾニですが、イタリア語ではニコロ・ナゾニ。18世紀のイタリア、トスカーナ出身の画家兼建築家でポルトガルに移住し、ポルトを中心に北部で多くのバロック・ロココ建築物を残した人です。

彼の生涯についてはおいおい書きますが、今日はその作品のひとつ、内部は残念ながら入ることができませんが、外観を紹介します。

ボアヴィスタのラマルダ区域にあり、それでCasa de Ramaldeと呼ばれますが、本来は貴族の館でした。
ファサーダがある表玄関
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かつての所有者貴族の家紋が見えます。

ファサーダをくぐって敷地内に入ってみました。庭からの写真です。
casaramarde

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館につながった横の部分↑。下は館内にあるチャペル。

casaramarde

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別称「Casa Queimada(焼かれた家)」とも呼ばれるように、1809年にナポレオン軍がポルトに侵入した時に、焼き討ちにあったことがあります。ナポレオン軍侵入ついては下記にて紹介していますので、興味のある方はどうぞ。

ボアヴィスタのライオンと鷲

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2017年6月14日

わたしにしては珍しく、本日は料理の話です。
鶏肉を除き肉類を食することが少なくなり、魚が食卓によくのる我が家です。

が、マーケットで売られる魚の種類は日本に比べると随分少ない。料理法も揚げるのとオーブンで焼くのが多いのだが、できるものなら揚げるのを避けたいと思っているものの、オーブンで焼くとパサつくので、結局オリーブオイルをたっぷり使う、なんてことになります。

わたしはグリルが一番好きなのですが、これがポルトガルでは難しいのです。日本のように台所で手軽に魚が焼けるガスコンロなるものがないのです。

一度などは煙が出ない匂いがしないなどのうたい文句につい釣られ、日本から持ちこんだ魚焼き器も試しましたが、結果はいただけないものでした。家中に匂いが充満し、台所、玄関ホール、果てはリビングルームや部屋の壁まで漂泊剤で拭く羽目になったのにはうんざりでした。

焼けないもので鰯や鯵はやむを得ません、フライにするのですが、大きいものは換気扇を使っても台所に匂いが充満するので小魚を揚げます。そんな訳で、近頃では白身魚を専ら買い込み、ポルトガルではあまりしない「ムニエル料理」をしています。

魚と肉に関しては、わたしは常に隣街のガイアにあるスペイン系デパート「El Corte Ingles」まで出かけます。
果物野菜類はあちらの、猫のエサ等はこちらのスーパーでと、あちこち行くので買出しも楽ではありませんぞ。

さて、昨日は魚を買いにEl Corte Inglesへ行ってきたのですが、近頃は白身の魚の切り身をあまり見かけないのが、少し値段がはる聞いたことのない白身魚が売られていましたので、夕飯にと早速買ってきました。

このムニエルを主食に、野菜スープ、ナスの味噌田楽、アボガドとトマトのマヨネーズ和えサラダと、わたしとしてはメ結構豪華なメニューではあります?

魚を下ごしらえをしたところで、サランラップに書かれてあった名前そどれどれ、日本語でなんと言う魚であろうかと、辞書で調べてみる気になったのであります。普段は食べ物に関してはめったにしないのですが、昨日にかぎって・・・

ポルトガル語で「Rascasso(ラスカッソ)、ラスカッソ・・・」 辞書では出てこなかったゆえ、料理途中にネット検索です。ところが、なかなかヒットしまっせん。

あちこちと調べてやっとのことで出てきたらば、げ!ポ、ポイズンフィッシュ?英語名は「Scorpionfish」、岩陰に棲んでいるので「Rockfish」とも呼ばれ、顔体に棘があり、この棘に刺されたらすぐ病院へ行った方がいいと言われるのだそうです。

rascasso2.gif

いやぁ、見るからに憎憎しげな↑そして、毒々しげな↓


あれのこれのと検索しながらscorpionfishの種類の写真を見ているだけで、毒気にあたったような気分になり、そうそうとその画像rascassokrabarroka.jpg
サイトを閉じたわたしでありましたが、もうその頃には完全に食欲を失い、どうしよう、下準備はしてあるけど料理したくないなぁ、でありました。

「ね、ね。今日買ってきた魚、毒性なんだってよ」と夫に話すと、「売ってたものだろ?大丈夫だよ」

切り身は見た感じがこんな白身なんですよ↓

rascasso1.jpg

味ぽんで味付け、一応食卓にのったRascassoのムニエル4切れではありましたが、結局半分の2切れは残りましたっけ^^;

大丈夫だと思うが、健康にどんな影響を及ぼすか分からない、猫にもこれはあげるまいというので、もったいないけれど、そそくさとゴミ箱行きになったのでありました。

日本にはフグってのがありますが、そちらは食べるときに毒性の注意、Rascassoは獲るときに注意というので、性質が違いますが、西洋フグとても呼んでやろうかしら。いずれにしろ、味はともかくとしてあまりいただきたいとは思わないものではあります。

読んでいただきありがとうございました。
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2017年6月10日
 
ポルトガルだからねぇ、と大概の「あらら」ニュースは聞き流すのですが、今回は有り得ない!と、珍しく額にまゆを寄せています。
怒ったり不満を言い募ったりすることは負のエネルギーを抱え込むことになり、その日が楽しくなくなるので、普段小さなことには余りしつこくこだわらないようにしています。あぁだこうだと細事に至って議論めいたことをふっかけていた若い時とは大きな違いです(笑)

もちろん、ニュースにはちょっと待てぃ!的な出来事もありますが、自分が手助けできないことに関しては、数日もすればケロリと忘れてしまう性格です。

それが、有り得ないよ、これは!と、この数日身近な夫とポルトガル語のDias先生に気持ちをぶちまけていたのです。そういうことや悲しいことはすぐにブログに取り上げると直情的になりがちなので、わたしは時間を置いてからブログ記事にとりあげます。
ここ数日、情報を確認しながら、やっぱりこれは有り得ない部類だと思い至ったので、今日は自己メモとして書いておこうと思います。

Terry Guiliam(テリー・ギリアム)監督と聞けば、わたしなどは「12モンキーズ」と「フィッシャーキング」を思い浮かべるのですが、ポルトガルのTVニュースを見て目を耳を疑ったのは、この監督が新作の撮影現場でしたことなのです。現場がなんとポルトガルの文化遺産、そして世界遺産にもなっているトマールのテンプル騎士団・キリスト騎士団修道院。

トマール・キリスト騎士団修道院
2016年9月撮影

2000年にテリー・ギリアム監督がメガホンを取ったものの、アクシデントが続き一週間で制作が打ち切られたと言ういわくつきの映画「The man who killed Don Quixote(ドン・キホーテを殺した男)」なのですが、2011年の公開予定の大幅に遅れたものの、トマールでの撮影終了でついに完成したと監督自身が先だって、つまり今年の6月に発表しています。

足掛け17年に渡って完成した作品にケチをつけたくはないのですが、ロケーション現場への敬意を失っていたとしか思えません。その結果、目下ポルトガルでスキャンダルとして取り上げられているのです。

トマール・キリスト騎士団修道院

まず、上の画像はテンプル・キリスト騎士団修道院の全様です。修道院は、12世紀にテンプル騎士団が建てた左に見える16角の円堂Charola(シャローラ)こと、騎士団の聖堂を最初に16世紀までに渡り、増築されて現在残っているのです。

円堂から出ている長方形の部分は、かの有名なドン・マヌエル王が造らせたマヌエル建築様式の華麗かつミステリアスな大窓があります。赤丸印が撮影現場、Hospedaria回廊です。五箇所の緑の円は植物が植えられています。

撮影は下の写真に見られるように、回廊の中心に聖母マリアの人形を置きガラス瓶やプロパガスなどで組み立てられた高さ20メートルのセットを焼くシーンなのです。

トマール・キリスト騎士団修道院

その結果左が元の回廊、右が撮影後、すすけてしまった同じ回廊です(カメラ撮影の方向が違いますが)植物を植えた五つの箇所は切られ、刈り取られ石のようなもので埋められています。

トマール・キリスト騎士団修道院

トマールキリスト騎士団修道院

20メートルもの炎が産み出す温度、煙、ススで、撮影現場になった回廊だけでなく、他の部分も影響を被ったことは否めないでしょう。

トマールキリスト騎士団修道院

回廊に隣接する、我が愛するマヌエルの大窓がすすけているではないか(怒)赤丸箇所も破損しています。炎上が引き起こす破壊は、今目前の破損だけではありません。高温が石に与えるであろう破損はこの後、雨や強い日光にさらされたりして、この先何年も影響が出てくると思います。

すすの部分は塗り替えればいいなどと考えてはなりません。塗り替える前にまずこのすすを落とさなければならないのです。これは、数年前に義兄宅が小火(ぼや)になったときに知らされたことなのですが、大変な作業なのです。

また撮影機具の移動、人の移動などで建物の石が破損された箇所がいくつもあるそうです。
トマール・キリスト騎士団修道院

トマールキリスト騎士団修道院

トマール・キリスト騎士団修道院

なんだ、たかが石少し破損しただけじゃないか、などと言ってはいけません。世界遺産建物の建築材石は16世紀と見積もっても500年以上も前の石で、替わりはありません。

トマール・キリスト騎士団修道院

保険に入っていたとは言え、これから先数年、或いは十年先の修繕費を予測しなければならないことを考えれば、とてもカバーできる額ではないでしょう。

それもそのはず。こうなって当然です。院内にこんなものを持ち込んで移動してたんですから。↓

トマール・キリスト騎士団修道院

テンプル・キリスト騎士団修道院は過去に、ウンベルト・エコー原作、ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーター主演の映画にもなった「薔薇の名前」の劇の上演会場として提供したことがありますが、その時は、一切機会の持込み、電気使用も禁止というので、ろうそくのみで別の回廊で上演されています。

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「薔薇の名前」はその題からロマンチックな物語だと思われがちですが、宗教裁判の嵐が吹き荒れていた1300年代(この年代はテンプル騎士団の時代でもあるのですね)、北イタリアのとある山頂の修道院で起きる連続殺人事件を描いた長編小説です。

調べてみると、この映画の撮影は、(以下wikipediaから引用)

三箇所で行われ、一つは北イタリアの山地に実際に造られた野外セットで、ここには巨大なパネルの修道院と文書館の建造物が建てられた。
修道院内部の礼拝堂等は、ドイツのヘッセン州エルトヴィレ・アム・ラインにあるエーバーバッハ修道院(commons:Monastery Eberbach)を改装して利用した。エーバーバッハ修道院は葡萄酒の貯蔵場所として使われていて、もはや修道院として人は住んでいなかったが、改装により中世の修道院の内部が復元された。第三に迷宮図書館は、ローマ郊外のチネチッタ撮影所内部に造られたセットであった。


と、あります。

このような歴史的に貴重な建築物は、破損する可能性があることを考えると、今回の撮影も予算はかかってもセットにすべきであったろうと思うのです。しかし、問題はそれだけではありません。使う人がいるということは、許可する人がいたということ、それこそが大問題です。

修道院の責任者は己が管理する世界遺産を何と考えているのだろうか(怒)!また、修道院だけの許可だけでなく、文化省へも書類を上げなければならないはずです。その辺のところが、なぁなぁのポルトガルなのかなぁ、と思ったりするのですが、これは今の時点では判明していません。

経済的な話になりますが、世界遺産に登録されてもUNESCOからは補助金はでません。しかし、保有国にはその遺産を保護する義務と責任が生じます。まだまだ経済が停滞した状態が続いているポルトガルでは、近年少しずつあちこちの世界遺産の修繕が始まりましたが、リスボンやポルトと違い、地方都市にある遺産建築物は、訪れる観光客が少ないのが現状です。

テンプル・キリスト騎士団修道院も、わたしのように物好きで修繕がどの程度進んだかなどと何度も見に行くのは極々一部でしょう。ですから、著名な監督の映画撮影の現場になったと言えば、人を呼ぶことになるのは確かで、観光客が増えれば修道院の収入増にもつながるわけですが、今回は破損を招いたのですから大きな責任が問われて当然です。

責任者はああだこうだと言い逃れていますが、取調べが入るのは時間の問題ですが、いずれにしても覆水盆に帰らず。

世界遺産指定建造物や美術館、図書館と、公の責任者は大使同様、数年毎に変わるのですが、今回は重ね重ね残念な話です。

それで、ふと思い出したのですが、10年以上も前、一番最初にわたしがこの修道院を訪れた修繕が入っていなかった頃、聖堂の中心には石のテーブルが置かれてありました。ある方向からは、下の写真のように三脚に見える五脚の石のテーブルです。

トマールキリスト騎士団修道院

聖堂の真ん中にあるからには、大きな意味があるのだろう、ここでどのように祈りを捧げて戦場へむかったのか、或いは、これは騎士団入団のイニシエーションに関係ガあるのだろうかと、このテーブルにいたくわたしは惹かれたものです。

トマールキリスト騎士団修道院

ところが、修繕が入った時期からこのテーブルが取り払われていました。ま、聖堂の中心は祭壇でもありますから、そこを修繕する間、破損を恐れてどこかに保存されているのだろうと思っていたのです。

祭壇の修繕が終わった今日もそのテーブルを目にしていません。どうして、誰の判断でそれが取り払われたままなのか。テーブルがない今の聖堂は、残念ながらオリジナルの姿ではないと、わたしは思っているのです。次回訪ねるときには是非、聞いてみるつもりです。

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2017年6月7日 

今日は写真が盛りだくさんです。お楽しみください。

ポルトガル語で植物園を「Jardim botanico(ジャルディン・ボタニコ)」と言います。

ポルト大学文学部などのキャンパスがあるCampo Alegreにあるので、古くは「Quinta de Campo Alegre」と呼ばれていました。
植物園は現在4ヘクタールの広さがありますが、20世紀半ばまでは私有地でした。

ポルトの植物園
植物園の入り口

ポルトの植物園

鉄柵の門をくぐるとすぐ目の前に見えるのが「Casa Andresen」と呼ばれる赤い建物です。Andresenとは、かつてのこのQuintaの所有者一族の名前です。建物の右横からのコースを歩みました。

ポルトの植物園

庭に面したAndresen館の裏を望む。
ポルトの植物園

館の裏が広大な植物園になっているのですが、すぐ裏はツゲの囲いで仕切られた小さな園がいくつかあります。
つげの葉をくぐって小さな園に入ります。

ポルトの植物園

ポルトの植物園
池には美しい蓮の花が葉の間から姿をのぞかせていました。

ポルトの植物園
右横からつるバラが伸びている、憩いのベンチ。

ポルトの植物園
アジサイも今が盛り。更に歩を進めると、長い枝を美しく伸ばした大きな樹が。

ポルトの植物園
切り株。

ポルトの植物園
ポルトガルはJacarandá(ジャカランダ=青い花の樹)が咲く季節。ブーゲンビリアと咲き誇って。

ポルトの植物園
散るジャカランダもまた美しい。

そしてここからはサボテンコーナー。

ポルトの植物園

サボテンも花盛りです。とげが痛さで人が近づきがたいサボテンですが、こんな可愛い花をさかせるのですね。

ポルトの植物園

蜂が怖くて近づけず、撮影がうまくできませんでしたが、たくさんのサボテンの花の中ではミツバチが忙しく働いておりました。シャッターを切る音がすると、こっちへ向かってくるので怖いこわい。

ポルトの植物園
黄色い花の真ん中の黒いのがミツバチです。

ポルトの植物園
こちらはアロエかサボテンか。落書きしてあり、修繕の仕様がない、「いただけない」状態です。

近年、日本の寺社にも落書きが発見されていますが、腹の立つ。自分の顔に落書きしろぃ!

下はまもなく開花しようとしているサボテン。
ポルトの植物園

最後はことのついでで、我が家のサボテンの紹介をば。

cactus2-1.jpg

ポルトの植物園

両方とも我がモイケル娘のサボテンで、かれこれ14、5年ほど娘の部屋のベランダにあります。

小さかったのがいつの間にか、鉢を変えないまま大きくなり、本当言うとベランダで他の植物の水遣りのときに何度か棘をさされ、それが怖くてもう処分しようかと思ったものですが・・・一度は花が咲いたのを見て見たいと、今回は鉢をかえてあげようと考えています。娘のだしね^^

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2017年6月5日(月) 

我がモイケル娘に頼んで入手してもらった本を、4月の帰国時に受け取って、勿論ポルトで読むつもりでしたが、期待感大きく、とうとう我慢できずに滞在先の妹宅にいた時に開きました。

と、途端に「ぎゃー!」とはわたしの口から出た悲鳴。側にいた妹が「どうしたの?」と驚いて聞きます。 どしたもなにも、これ見て、と見せたのが下の画像であります。

kojiki2.jpg

漢字だらけではないか、と、まるで漢字嫌いの日本語の生徒さんが言うようなことを思わず口走ったのであります。

漢字だらけではないか、と、まるで漢字嫌いの日本語の生徒さんが言うようなことを思わず口走ったのであります。
「并序」は「あわせはじめ」と読み、現代語で言えば「序文」ということなのだそうです。「原文」とあるように、これは「古事記」の序文、原文なのです。娘に頼んだは「古事記に託されたメッセージは現代の日本人にこそ伝えたい」との歌い文句があった小名木善行著「古事記(壱)」なのであります。

kojiki3.jpg

現代文の解説で読めると勝手に思い込み、開いた途端にこんな原文を目にするとは、トホホ。
読み下し文で書かれてあるだろうくらいには想像していたのですが、原文からだとは!
古事記は日本最古の歴史書で平仮名カタカナが使われるようになった平安時代以前のことゆえ、少し頭をめぐらせれば知って当然のことなのですが、そこが無教養なわたしであります。

知らない漢字も結構あるなぁと、開いたページをしばらく睨む・・・・ちんぷんかんぷんとはこういうことでありましょう。幸いにして直ぐ横に「読み下し文」がありますが、これとても、声に出して読めど分かったような分からないような(笑) なんだか、モイケル娘が院にて近世文学をとったころに、これはなんと読むんだろかと、親子して頭を寄せ合い、四苦八苦した始めのころを思い出しました。

ようやく現代語訳、最後に解説が書かれています。原文は無理として、せめては、分かるようで分からない読み下し文を朗読し、現代語訳、解説だけを読んでいくのはどうかとも思いましたが、それも悔しいではないかと、ここ数日、一日の終わりにベッドに入ってはこの原文とじぃっと睨めっこしていたのであります。

分かってますてば、睨んでリャなんとかなるなんて奇跡は起こりません(笑)
しかし、じぃっと見つめているうちに「懸鏡」「「吐珠」「喫剣切蛇」の箇所、これは皇位継承に代々伝えられてきた三種の神器こと、八咫鏡(やたのかがみ)・八咫勾玉(やたのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)だということが読み取れました!うほほほほ。

何も分からないとて降参してすぐ現代語訳や解説を読むのよりも、こうしてまるで謎解きでもするように本を読むのは数年ぶりで、結構楽しいものです。

わたしはかつて平家物語を読んだ折、壇ノ浦合戦で二位の尼は幼少の安徳天皇と共に入水したのですが、では、三種の神器はどうなったのだろうか、海に沈んだままかと疑問を持っていたのですが、今回は検索してみました。

勾玉はいったん沈んだものの箱に入っていたので海上に浮かび上がり現在は皇居に、草薙剣は入水により関門海峡に沈んだとありますが、沈んだ剣は形代(かたしろ=神霊の代わりのもの)で、本物は熱田神宮のご神体になっているとのこと。

八咫鏡についてはこれも壇ノ浦に沈んだのを源義経により回収され、現在はその形代が皇居に、ご神体は伊勢神宮に奉納されているとWikipediaには書かれてあります。

三種の神器は皇族はもとより天皇でさえも実際に見ることはできないと言われるのですから、神代の昔からのミステリアスなものが現存すると言われることはとても興味深いと思われます。

自分の勉強のために、古事記序文でわたしが調べ面白いと思った部分を今日は取り上げてみましたが、現在日本語の生徒さんと読み続けている「百人一首解説」も、とても面白く、古事記と交差する部分が出てくるかも知れないと、謎解きをするが如く楽しんでいるのです。

読むのが初級者ゆえ、勘違いや間違った解釈もしているかも知れませんが、その辺は素人の浅はかさとご勘弁ください。

機会があれば、また取り上げてみたいと思います。
今日もお付き合いくださりありがとうございました。

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2017年6月2日 (金)

ポルト、ポルト近辺には、廃墟の如く長年放置されている古いが美しい館が数軒ある。下記はその例だ。

ガイアに小宮殿を探して
海岸通りFozの気になる館


もったいないなぁとわたしは常々思っているのだが、自分にできることはせいぜい今のうちにその姿を画像にするに留まるだけなのである。

そのうちの幾つかは修繕の手が入り現在では色々な機関による施設として利用されているものも多い。下記にあげるものがその例だ。
 
プレラーダの館
フレイシュ宮殿


さて、昨日は、毎週木曜日12時から日本語の勉強に来るGG´s(=ジージーズと読む。じぃちゃんたち生徒さんのことなりw)の一人、ジュゼさんが体調を崩したようで、「ゆこ先生(「ゆうこ」なんだがなぁw)、まだ治っていません。今日は休みます。」とケータイにメッセージが入った。

これまでだと、例え12時からのレッスンがキャンセルになっても3時半から来るH君という若者のレッスンが後に控えていたもので、結局一日中家にいるということになっていた。そのH君を3月始めに日本へ送り出したことで木曜日の午後は今のところ自由だ。

そこで、上述の館のひとつ、車で通る度、横目で見るしかなかった、一度は中に入ってみたいと思っていたボアヴィスタにある「Casa da visconsessa de Satiago Lobão館(いつもどこも名前が長いのである)」へ行って見ることにした。

casa_viscondessa

時節柄、ポルトガルは今ジャカランダ(Jacarandá)とブーゲンビリアが咲き乱れてるのだが、ボアヴィスタ大通りに面したこの館も例に漏れず正門は初夏の到来を告げている。

ネット情報では夕方まで一日中開いているとのことで早目の軽い昼食をとってきたのだが、だが、だが・・・開いとらんではないか!ランチタイムはよく閉館していることも多いのでと、鉄柵越しに覗いて見ると、国旗掲揚ポールに国旗はなし、窓のブラインダーも閉まったままで、人の気配が全く感じられない。とてもランチタイムの一時閉館とは思われない。

casa_viscondessa
写真上方に美しいClaraboia(天窓)がかすかにうかがえる。

しまったなぁ。ネット情報の日付を確認すべきであった。悔しいったらありゃしない。館は丁度大通りと横の小道に面しているので、ちょいと横道へ回ってみた。

casa_viscondessa

鉄柵の間にスマホを滑らし、庭園内に落とすなよぉと注意しながら撮影した庭園は、う~む、これは見ごたえがありそうだ。アールヌーボーの館もさることながら、庭園が興味深そうだ。

casa_viscondessa

聞けば、サンチアゴ・ロバォン子爵はブラジルで成功しポルトに帰還、この庭園、館を造ったとのこと。恐らく庭園には池、洞窟があるだろうと推測している。このことは、シントラにあるレガレイラ館主、モンテイロ億万長者を始め、ブラジルで財を成した多くの帰還者が建てた館について言える同一点だ。

子爵夫妻には子がなく、コンデッサ死亡後、この館と庭園は社会奉仕団に寄付され、一時期、身体障害者のリハビリセンターとなっていたようである。ネットに上がっている写真の多くは2015年に撮影されていることから、その頃に一般公開もされていたのであろう。

何ゆえ現在閉鎖されているのか知る由もないが、うっかりしていて訪問できなかったのは返す返すも残念だ。何かいい手立てはないかと、目下思案中である。

さて、外から見ではつまらない。そこで、足をそのまま近くのCampo Alegreにある植物園へ行って見ようと予定を変更した。

というので、次回はその植物園の紹介と相成る。

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