2017年7月30日 

例年は市立図書館での日本語教室グループ授業を7月の半ばくらいに終え8月一杯夏季休暇、そして9月には始業だったのですが、今年は7月一杯、つまり昨日の土曜日まで授業をしました。

と言うのは、来たる9月はポルト市が主催するクリスタル公園での「Feira do Livros(ブックフェア)」が大々的に開催されると言うので、クリスタル公園内にある市立図書館の教室が9月第4土曜日まで使用できなくなったとういう事情があるからです。

これまで通りの7月半ばで終えると、丸々2ヶ月の休みになります。ポルトガルの学校では普通なのですが、そこが日本人のわたし、長過ぎる休暇はせっかく教えたひらがな、カタカナ、漢字を忘れてしまうのに十分な時間だと、焦ったわけです。宿題を出す手もあるのですが、まず期待できないかな?(笑)

そこで、夏季休暇に入るのを例年より2週間遅らせたと言う訳です。

しかし、生徒の中にはヴァケーションで家族とどこどこへ行くので、と欠席するのも結構おり、テキストをあまり進めるわけにも行かないので、これまでの復習授業に持っていったのですが、学校が休みでもあることで生徒たちも多少だらけとおり、ヒアリングに日本の歌を使ってみました。

「文法的になんとか理解でき、身近な語彙が使われていること」との条件でわたしが選んだのは、中山ラビの「人は少しずつ変わる」と「ドアをあけて」。

え?知らない?そ、そうかもねぇ^^;20代でわたしがよく聴いたLPからの2曲なのですが。歌を聴きながら歌詞を書き取るのです。古い歌ですが、イケルんじゃないかと想像した通り、生徒たちには好評でした。

2クラスを終えて1時半の帰宅。土曜日の昼食は夫と外食が通常ですので、さて、行こうかと車に乗ると、いつもなら「どこへ行く?」と聞く夫が何も聞かずに車を近くのレストランと逆方向にまわしました。

「あれ?いつものところへ行かないの?」
「今日はサプライズだ」

と、ダウンタウンへ向かったのでした。

着いたところが、あらま、Coliseu劇場がある、パソス・マヌエル通り(R. de Passos Manuel)のビアレストラン「Brasão(ブラザォン)コリゼウ店」。しばらく前に記事にしたBrasãoAliadosの同系列です。

ポルトのレストランBrasao Coliseu
 
Aliados店だけでは客がさばき切れないというので今年に入ってからBrasão Coliseuがオープンしたわけですが、250席あるとのこと。

ここで飲めるブールですが、ポルトガルのSuper Bock(ポルトガルではこれが一番美味しいとはわたしの意見)を始め、ドイツ、ベルギー、アイルランド、オランダなどのマイナービールも味わうことができます。

ポルトのレストランBrasao Coliseu

メインディッシュが来る前のわたしたちが注文したおつまみ(Petisco=ペティスコ)の「タコの酢のもの(Polvo)」と
ポルトのレストランBrasao Coliseu

下のpataniscas do bacalhau(タラの揚げものもどき)。予想外にも、これについてきたのがFeijão Frade(フェイジャォン・フラーデ)。
ポルトのレストランBrasao Coliseu

もうこれでわたしなどは十分なのです。メインディッシュの肉は一人分を半分ずつ分けてもらいました。
ポルトのレストランBrasao Coliseu

そして、もちろん、生ビール!
ポルトのレストランBrasao Coliseu

よく飲んでますなぁ、と言うなかれ。土日は、わたしのBeer Dayで楽しみでありますれば^^
しかし、今回は、このレストラン、気になる点がありました。席に案内されて行く時プ~ンと匂ったのが石油の匂いです。

匂いに敏感なわたしは、席に着いてもずっとこの匂いが鼻につき、こりゃ頭痛が始まるかも、と思ったのですが実際間もなくやってきました。

店員さんに、「石油の匂いがするんだけど・・・」と聞くと、なんと、店内で使用されている建材の一部、写真に見える黒い木が、線路だったのを使っているとのこと。それでかぁ~~。

ポルトのレストランBrasao Coliseu


すると、本店の建材もそうなのでしょうが、開店して長くなるので匂いが消えてしまったということでしょうか。

いつもは2杯いただく生ビールも一杯のみで、夫に頭痛を告げ仕上げのコーヒーもなしで出てきたのでした。食事はおいしかったのに、この匂いは残念なり!案内された席がこの建材の側だったのですが、もっと離れた席であればあまり気にならなかったかもしれません。

匂いに敏感な人には、Brasão Aliados店をお勧めします。

本日はこれにて。
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2017年7月27日 

眠りにつく前の30分ほどは読書するのが習慣です。活字に目を落とさずに寝入るなど、めったにないことで、下手をすると本に引き込まれて30分ほどが1、2時間に及んでしまい、翌日しんどい思いをする羽目に陥ることもままあります。

が、目下手元に、夢中になるほどの本がないもので、ちょっと趣味じゃないかもなぁ、と思いながらも友人が貸してくれた本などを読んでいるのですが、その中の一冊が斉藤茂太さんの「老いは楽しい」。

こうタイトルを書いて、やっぱり自分の趣味じゃないぞと確信した(笑) 例え期待したような結果が出なかったとしても自分で考えて物事を決め進むわたしは、 「~なあなたに贈る」などのようなアドヴァイス的な読み物は、どうも性に合わないのであります。

が、どんな本にも学ぶことはあるものです。惰性で読んでいくうち(モタ先生、まことに失礼!)、「ぬぬ?」と思う箇所にぶつかりました。「妻のお陰で自分がどれだけ助けられいるか」の箇所なのです。

モタ先生は、「家内のきつい言葉をメモし、家内の名前を冠した美智子語録なるものを編纂している。読み返してみるともっともだと納得したり自分のために言っているのだ。助けられたと感謝することがしばしばである。」と書いておられます。

例えば、「字は楷書で書いてください。他の人が読めないわ」
「何度お願いしても切手を乱暴に貼るのね。私なら手紙を捨ててしまうわ」など、第三者が読んだら他愛ないことに思われるのですが、この美智子語録の中に、こんな一文がありました。

「冬去りにけり、は、冬が来た、という意味です」

え?え?ちょっと待って!「去る」って「よそへ行く」とか「時間が過ぎる」とか「なくなる」とかの意味でありましょう?これじゃ、まるきり反対の意味ではないの?そろそろ本を閉じて眠ろうかと思い始めていた矢先のこの一文にすっかり目が覚めてしまいやんした。

こうなると、わたしの場合、よし、明日調べてみようと言う事にはならず、気になって眠ろうと思っても眠れないのであります。やおら起き出して、辞書を引くことに相成りました。

「去りにけり」は古文ですが、現代も遣われる思うので、まず2冊の現代国語辞典で確認します。対義語は「来る」とあり、意味は上にわたしが書いものです。

わたしは一年ほど前から日本語の生徒の一人と「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」という本を読んでいるのですが、教えるなどトンでもないことで、授業の準備をすることで生徒と一緒に学んでいると言うほうが正しい。

歌の意味も去ることながら歴史背景が分かる解説が面白い上に、見たこともない漢字や語彙にたくさん出会い、近頃は古語辞典を引くこと度々なのです。

そこで、いざ、古語辞典を!と引いてみますと、「離れる、退く」の他に、なんと「その季節や時期になる」と見つけた!がーーーん!こ、これはまた意外な・・・

古典を学んだ人は知っているのだろうけれど、わたしにして見れば、眠っている夫をこんな意味があったんよ!と揺さぶり起こしてつたえたい衝動にかられた大発見なのでした。

と言うので、本日は「夏去りにけり」と早速新知識を遣わしていただき、ポルトを写真でご紹介いたします。

ポルト
ドン・ルイス1世橋を渡るメトロ。

旧市街を走るCarmo(カルモ)教会行きの路電22番。後ろに見えるのはイルデフォンソ教会
ポルト

アズレージュ絵で被われたニコラウ・ナゾニ作のIldefonso(イルデフォンソ)教会
ポルト


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2017年7月23日 

Quinta de Virtudes ,Jardim das Virtudes 、もしくは Parque das Virtudes とも呼びます。
VirtudesはVirtudeの複数形で、「徳」と言う意味です。

随分昔、この公園を探しに出かけたことがありますが、当時は入園できませんでした。公園が目的ではなく、そこにあると言われる古い噴水(ポルトガル語ではchafariz=シャファリス)と銀杏の木を探しにいったのです。

噴水は公園の入り口にあったので見ることができましたが、銀杏の木は入園できず、季節もあって外からも見つけることはできませんでした。

ポルトのヴィルトゥーデス公園

ポルトのヴィルトゥーデス公園

通りから撮った写真で分かるように、Virtudes公園は言ってみれば街の中で谷間を形成しているような公園です。園内の高低差がすごいのです。

この6月に入園可能と言う情報を得て、即、出かけてきました。後で、などとのんびり構えていると、行って見たところがもう閉鎖したということは残念なことはざらにあるポルトガルなのです。

少し暑い日でした。確かこの通りだったはずだと入り口を探していると、その時ばったり知り合いのご主人に遭遇しました。

「すぐ近くで仕事をしているんだけど、君、こんなところで何してるの?」
「いえね、公園に入れるという情報を得て来てみたんですが、入り口が分からなくてウロウロと。」

Chafarizがある下のCalçcadadas Virtudes通りを行けばよかったのですが、わたしは上の通りPasseio das Virtudesに続く Rua de Azevedo de Albuquerqueへと歩いていたのです。

彼も知らないという。ともかくもう少し歩いてみますと別れて、道の突き当たりにぶつかりました。「入り口」の表示もなし。門がくぐるとすぐ右に管理人小屋らしきものがありました。そこで、「おはようございます。公園をみたいのですが、ここから入れますか。」と聞くと、「おぉおぉ、もちろんだ。知ってるか?ここにはGinkgo(銀杏)があるんだぞ。」と、こちらが問う前におじさんの話が始まり(笑)

しばらく談笑して入園なり。入園料はなしです。

ポルトのヴィルトゥーデス公園
園内からはポルトのドウロ川沿いの景色が望める。

ポルトのヴィルトゥーデス公園

園内を散策している間に気づいたことは、Rua de Azevedo de Albuquerqueから入ってよかったということです。
突き当たりの入り口から入ることで、高低差が激しい園を下ることになりました。

ポルトのヴィルトゥーデス公園

ポルトのヴィルトゥーデス公園

ポルトのヴィルトゥーデス公園
   
さもなくば、上ることになり、暑い日には堪えますぞ。

ポルトのヴィルトゥーデス公園

ポルトのヴィルトゥーデス公園

ポルトのヴィルトゥーデス公園
園内にもChafarizが。 

う~む、これは危ないなり、と思ったら、ちゃんと途中で石板が石段を遮っていました。

ポルトのヴィルトゥーデス公園

遠方から眺めたVirtude公園。高低差が分かります。
ポルトのヴィルトゥーデス公園

さて、管理人のおじさん自慢のGinkgo、銀杏の木ですが、高さ35mで、知る人ぞ知る、銀杏の木が少ないポルトガルでは一番大きな木だそうです。

ポルトのヴィルトゥーデス公園

大阪に10年ほど住んだわたしにとって、銀杏の木には銀杏並木が黄色に染まった秋の御堂筋が思い出されるのです。大阪時代のオフィスも歌姫バイト先だったアサヒビアハウスも御堂筋沿いにあり、夫を2時間も待たせてしまった始めてのデート先も御堂筋でした。ついつい懐かしくてこの木を探してみたのでした。

ほとんど人も散策している人もおらず。秋が深まる頃に、銀杏の木を見にもう一度来てみたい公園です。

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2017年7月20日 

ネット新聞を読んでいたら、東京の三井記念美術館で「地獄絵ワンダーランド」展が開かれているとのニュースを目にして、数年前にブログにあげた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出した。

中級レベルの日本語学習生徒の様子をみて、できそうかな?と思われる生徒にわたしが取り上げる日本語テキストを離れた学習教材の一冊である。「蜘蛛の糸」の文章の美しさにわたしは心底惹かれるのだ。生徒にもテキストで習う現代語とは違った日本語の美しさに触れてもらいたいなぁ、と思うからだ。

「地獄絵ワンダーランド」展に因む、本日はエッセイ集「思い出のアルバム」から2009年に綴ったものを再度アップしたいと思う。

―ここからー

しばらく前から日本語教室の生徒の一人と一緒に芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を朗読している。以下、わたしの物語の概要である。

生涯でたった一度だけ、道端の蜘蛛を踏みつけようとした殺生を思いとどまった極悪人「カンダタ」が、地獄で苦しみあえいでいる。それを見たお釈迦様が、蜘蛛を助けたことをふと思い出し、地獄から引き上げようと、一筋の蜘蛛の糸を極楽からカンダタの前に垂らす。

カンダタは、その蜘蛛の糸にすがって血の池を這い上がり、上へ上へと上って行く。つと、下を見下ろすと、自分の後に大勢の極悪人どもが必死に蜘蛛糸をつたって大勢が地獄から上ってくるのが見える。

カンダタはこれを見て、己一人でも切れてしまいそうな細い蜘蛛の糸、なんとかしないことには、自分もろとも糸は切れて、再び地獄へ舞い戻ってしまおう、
       
思わず「この蜘蛛の糸は俺のものだ、お前たち、下りろ下りろ。」と、喚いた瞬間、蜘蛛の糸はカンダタの上からプツリと切れて、まっ逆さま、もろともに地獄へと落ちて行く。
       
お釈迦様のせっかくの慈悲も、自分だけ助かろうとするカンダタの浅ましさに、愛想をつかしたわけである。

仏教で言う「地獄」を英語で「hell」と訳してしまうのは、少し違うように思う。生徒と読みながら、わたしは子供の頃の「地獄絵」への恐怖を思い出していた。

夏の風物詩は、この時期では日本のどこでも催されるであろう、宵の宮祭だ。故郷弘前では宵宮、「ヨミヤ」と呼んだ。子供の頃は、暑かったら裏の畑の向こうにある浅い小川で泳いだ。少し歩いたところがちょうど寺町の裏手に当たり、夕暮れ時には肝試しと言って2人くらいずつ、墓場まで行って帰ってくるのも涼しくなる遊びのひとつだった。

夕食を終えた後は、たんぼを渡り小川のあたりで、
「ほ、ほ、ほーたる来い、あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」 
と歌いながらする、いにしえの優雅な遊びも知っていた。
  
子供なりの智恵を使って、自然の中で遊びを見つけていたが、夏のヨミヤはそれとは別に、大人びた世界を垣間見るような興奮を感じたものである。

夏の日は長く、ヨミヤのある日は外がまだ明るいうちから、遠くに祭囃子が聞こえた。子供が夜出歩くなどしない時代だったが、この日は別である。祖母や母と一緒に行った記憶はない。祖母は、桜まつりには蕎麦の屋台を引いたり、夏には氷水を売ったりしていたから、恐らく家族はそれぞれ、ヨミヤでの出店に追われていたのであろう。
       
二つ下の妹とユカタに赤い三尺を締めて、日が落ちて暗くなりつつある新町の道を手をつないで誓願寺の夜宮へよく行った。すると、薄暗闇の向こうから、わたし達を呼び寄せるかのように、「♪か~すりの女とせ~びろの男~♪」と、三橋美智也の歌が聞こえてくるのである。
       
田舎の夏休み中のおやつといえば、裏の畑からもぎとったキューリを縦半分に切り、真ん中を溝を作るようにくりぬいて、そこにすこし味噌を入れたのや、塩だけをつけたおにぎりである。おやつ代などもらえることはなかったが、夜宮の日にはわずかばかりだが、出店があるのでもらえるのだ。

金魚すくい、輪投げ、水ヨーヨー、線香花火、水あめ、かき氷。これら全部は回れないが、わたしたちが特に好きだったものに「はっかパイプ」があった。屋台にぶらさがっている動物や人の顔など、いろいろな作りのはっかパイプの中から好きなものを選び、首からぶら下げてハッカをスースー吸うのだ。

hakka.jpg
Wikiより。ハッカ

しかし、その出店が並ぶところへ行くまでに、どうしても避けて通ることができない、寺門をくぐってすぐ左の格子戸がある一隅があった。そこには、閻魔(えんま)大王と閻魔ばさま(ばさま=おばあさん)がどっしりと腰を据え、通る人々を見据えているのである。
       
閻魔大王はまだしも、クワッと赤い口を開き、着物を片肌脱ぎ、立膝でこちらを睨む閻魔ばさまの像には、恐ろしいものがあった。怖い怖いと思いながらも、ついつい見てしまい、閻魔ばさまと目が合っては、ブルッと体が振るえ、下を見ながらそそくさとそこを去るのである。
       
註:閻魔ばさま=奪衣婆(だつえば)
  三途の川のほとりで、亡者の衣服を奪い取るといわれる。
  奪い取られた衣服は、そこにある衣領樹(えりょうじゅ)と言う
  木の枝に引っ掛けられ、その枝の垂れ下がり具合で生前に
  犯した罪の重さがわかると言われる。

ここにはもうひとつ、目が行ってしまうものがあった。地獄絵図である。恐らくこの時期に寺のお蔵から出されて衆人に見せられるのであろう。
       
「嘘をついたら舌を抜かれる」「悪事をなせば針の山、血の海が三途の川の向こうで待ち構えている」阿鼻叫喚の地獄絵巻は、怖いもの見たさも手伝って、ついつい目を向けてしまうのだが、地獄絵巻は、幼いわたしにとって何よりの無言の教えであった。
       
古今東西の宗教が多かれ少なかれ、ある程度の恐れをもってわたしたちに説教しているのは、人間は、こうしてはいけないと分かっていながらつい悪行に走ってしまう、なかなかに食えないものだと知っているからだろう。

嘘をついたことがないとは決して言えないが、人様に迷惑をかけながらも、あまり意地悪い気持を持たずして、(意地悪いのは大きな悪のひとつだとわたしは思うから)、今日まで自分が生きて来れたのは、どこかに幼い頃に
見聞きした地獄絵図が刷り込まれているからかも知れない。

知識を振りかざし、堂々たる自信を持って生きている現代人は、もしかしたら、いざと言うときに、随分危ういものを抱えているのではないだろうか。久しく、「蜘蛛の糸」を読んで思ったことである。

―過去記事、ここで終わるー



件の「地獄絵ワンダーランド」展のポスターを見るに、

jigoku.png

これじゃぁ、今の子どもたちは怖がるところか、面白がるに留まるかもしれないなぁと、無言の教えに与った(あずかった)自分の子ども時代と比べて、一筋縄では行かない今日の教育の問題をチラと垣間見たような気がした。

もっとも、わたしが知る地獄絵では子供の人気もないかも知れない。

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2017年7月18日 

人がする断捨離といふものを わたしもしてみんとてするなり。(紀貫之・土佐日記から拝借したなり)

三字から「思い切って物を捨てることだろう」と想像していたが、検索してみると「断捨離とは、断行、捨行、離行というヨガの行法であり、人生や日常生活に不必要なものを断ち、捨てることで物への執着から開放され、人生に調和をもたらそうとする生き方」を言うのだそうだ。なるほど、単なる整理整頓とは一線を引くということである。

しかし、凡人のわたしにとって、「人生に調和をもたらす」云々は取りあえず置いておき、「思い切って捨てる」ことから入ろうと、暇をみては断捨離なるものをし始めて1年ほどになる。

つい先だってのことだ。これはなんぞな?とベッドの下から引っ張り出したのがすっかり埃を被ったこの箱である。

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きちんと箱に入れるのが面倒だったのだろう、雑に入れ込まれて姿を現したのは、仕掛けたままのだったり、手もつけていないのだったりの自分の木彫りの作品だった。息子がヨチヨチ歩き始めた時に、刃物を使うゆえ万が一息子に事故でも起こったらと思い、木彫りに精出すのは何年も止めたのであった。

そうこうしているうちに娘が生まれ、万が一の事故も去ることながら彫刻刃を手にする時間がなくなり、幾つかの完成した作品は家の壁に掛けてあるものの、その存在を忘れかけていたのだ。

うひゃ~と思い埃を払って箱の中から取り出してみる。

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うわわわわ。ジョンボーイにと、彼が眠っている間を縫って作ったクマちゃんのタオル掛けと素彫りの額だ。1982年と年号が彫ってある。

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これなどは酷いものだ。同じ模様の靴べらの2本目なのだが、塗りをした後に真ん中の部分が気に入らず、もう一度彫ろうと思ったものの、削っているうちにドンドン薄くなり、「これは危うくなる!」と実は投げ出したままのものだ。一本目は仕上がって壁にかけてある。

下、二枚の額は1983年に仕上げ、右上は塗りなし、細い皮ひもの手足がつく予定のぶら下げモービルなのだが、未完のまま32年眠っていたことになる(笑)
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こちらの額も塗りが施されておらず。右の手鏡は手もつけられていない。
kibori4-1.jpg

手鏡の一本目は完成させてある。それをわたしは40年以上も手元に置いて使ってきたのだが、この春先、なんの拍子でか手から滑り落ち、床に落として写真のように一巻の終わり。ただ、嵌められていた鏡は分厚かったためか幸運にも割れなかったのである。鏡が割れると縁起が悪いと言うものね。

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当初は多少のショックを受けてブログにあげる気にならず今日にいたった。これは断捨離とは行くまいて。ひとつひとつを箱の中から取り出して、しばし時間を過ごし、もう一度初心に戻り彫り始めようか、彫る時の穏やかな時間が持てる自分のために、そして、これらを受け取る我が子たちのために。

そんなことを考え、長年置き去りにしてきた懐かしい彫刻刃を引っ張りだした。
kibori9.jpg

古い刃はこのままでは使い物にならないだろうが、数年前の帰国時に親友に頼んで買い置きしてもらい、持って来た数本がある。まだ未使用なので恐らく使えるであろう。

と思っていたところに、期せずして和歌山にアトリエを構える我が親友、木彫家の堺美地子が今月7日に出展作品で「堺市長賞」を受賞したとの知らせが入った。

michiko1-1.jpg

この作品をわたしは4月の帰国時に堺の彼女の自宅で見せてもらったのである。

会うたびに「ちょっと一緒に彫り彫りしようよ」と、長年彫刻刃を手にしておらずしぶるわたしに短時間で小作品の手ほどき、手直しをしてくれるのだが、もったいないことだ。彫りも塗りもますます磨きがかかる彼女の更なる活躍を望んで止まない。

アレルギー体質なので彼女がする根来塗りはどうにも手出しはできないが、趣味として再び木彫りに取り組むのはいいかもしれない。断捨離できるものはないかと引っ張り出したもののなかには、こういう物もあるので、なかなか進まない我が断捨離ではある。

いや、断捨離ところか、これだとまた物が増えそうで、多少混乱気味のわたしである。


下記、過去の断捨離記事があります。興味あらばどぞ。

ミニマリストは無理だけど」 

断捨離もいいけれど

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2017年7月15日

我がモイケル娘に言わせると、「少々マニアック」なポルト、ポルトガルを綴っている拙ブログ記事です。

なぜこうなったのか、背景にどんな歴史があるのかと調べられずにいられない性分ではあります。そんな訳で、ついついこうるさい記事になったりするのはご勘弁いただき、お付き合いくだされば嬉しいです。

ポルトガルにおけるテンプル騎士団追っかけとシントラの億万長者モンテイロ氏が造り上げたレガレイラ館に多々見かけるシンボルの謎解きは、わたしのライフワークでもあるのですが、これにもうひとつ加わるのがポルトのMuralhas Fernandina(フェルナンディーナ城壁)です。

これについては随分昔から資料を集めているのですが、実際に足を運び現地確認をするには、現在、城壁のわずか一部しか残っていませんので、探すのに時間がかかりそうです。しようしようと思いつつも仕事に終われるようになり、いつの間にか探しそびれて今日まで来てしまいました。

歳がおっつかなくなってからでは遅かろう、そろそろ始めなければと、Arco das Verdades(真実の門)を探しに出かけたのをきっかけに、手始めとしてこれまでは入れなかったMuralhas Fernandinaが現在入れると聞きつけたので行ってみました。

実は去年当たり一度、ドン・ルイス1世橋を渡った時に、数人の人が城壁を歩いているのを見かけたのです。考古学者か地質学者或いは歴史学者でも現地調査に入ったのかなぁ、くらいに思っていたのです。それがツーリスト向けになったとは、すわ!と。

フェルナンディーナス城壁
かろうじて残った街の中にある城壁の一部。

写真に見える右側が城壁の続きで、直ぐ横を「Funiclar dos Guindais(フニクラール・ドス・ギンダイス)」ことフニクラールが上り下りしている。

フェルナンディーナス城壁

Arco das Verdadesから向こうに見えるMuralhas Fernandinaの一部。
フェルナンディーナス城壁

行くにあたって、ふと足元は大丈夫かな?夫に声をかけて週末にすべきか?とも思ったのですが、先に行って自慢してやれ、なぁんて考えて、ク○暑い中、Arco das Verdadesの後、そちらに足を向けました。

城壁に入る秘密の入り口目指して(笑)、サンタ・クララ教会へよっこらせっこら歩きます。サンタクララ教会は通りから奥まったところにあります。表からは見えないのですが、教会の直ぐ後ろには「老人ホーム」があり、わたしは2010年のポルトと国際親善協会の共催のJapan Week時に組まれた文化交流のプログラムの交渉で訊ねたことがあります。

フェルナンディーナス城壁

その時に、老人ホームの庭で城壁の一部を目にして驚き、ひょっとしてここから城壁へ行けるのではないか?と思ったものです。案の定、城壁への入り口はサンタクララ教会の横の老人ホームへの入り口と同じでした。

やっぱりそうだったか!と勇んで入り口に向かうと、先ほどから教会前でウロウロしていて気になっていたおじさんに、「これこれ、そこへは入れないのであるよ」と言われたのであります。

「ネットで城壁に入れると情報があったんだけど・・・」と話を振ってみると、「今工事中だからダメなのだ」と言う。見ると、「Obras(工事中)立ち入り禁止」と立て札があります。ガーーン!

思うに、最初にツーリストが偶然にここを見つけ入ったところが城壁であった、それをネットに上げたがため話が広がり多くのツーリストが訪れ始めた。わたしも足元が大丈夫かと気になったほどですから、恐らく危険を感じて、市が立ち入り禁止にしたのではないだろうか、とはわたしの推測です。

そりゃそうでしょう。14世紀のCerca Velhaを基にして更に広範囲に広げて造られたMuralhas Fernandinaです。長い間放置されてきたところに、近年観光地ナンバー1に位置づけられているポルトを訪れる観光客がドッと訪れたらどうなることか、分かろうというものです。

工事はどのくらいかかるのかと訊ねると、分からないと答えが返ってきました。残念ではありましたが事故が起こってからでは遅いものね。

下記では「サンタ・クララ教会」について案内しています。

奇妙なシンボル

奇妙なシンボル」 
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2017年7月14日 

火曜日は二つの目的を持っての散策でした。

写真はサンベント駅から大寺院を撮ったものですが、その一つが写真左手に見えるSéこと大寺院の左横の小さい通り(Rua Dom Hugo)を入ったあたりにあるとのこと。

この通り右手には、2010年のJapan Weekのコーディネーターをした折に打ち合わせで訪れたGuerra Junqueiro博物館があります。そこを通り過ぎると左に狭い石段の道があり、背後に見えるのは大寺院の一部。

ポルト

石段の途中にある古い共同水道。

ポルト

そしてArco das Verdadesが目の前にありました。
ポルト

写真から分かるように家が門にしっかりくっついており、こういうのは許可がでてるのかなぁ、と思ったり。

一つ思ったことは、ここに住む人達、一歩家を出るとすぐ石段ですから、買い物にしろ仕事に行くにしろ、随分と運動になるなぁ、です。

小っちゃいじゃん?はい、小さい(笑) ↓下は門を通り抜け別の通りの石段から撮りました。
ポルト

近辺は別にして、地元の人間は知らない「真実の門」ですが、んまぁ、朝から訪れて来るツーリストが結構います。
ポルト

ポルト
Arco(アーチ型の門のこと)を見上げると、こんな具合ですから、ちょっと危ないなぁ、の感。何しろ14世紀に造られたのです。これまで数箇所が修繕されて来たでしょうが、そのうち工事が入って通行止めになる可能性もあります。思い立ったが吉日、来てよかった!


「真実の門」の歴史を紐解くと、大寺院一帯を包囲する「Cerca Velha(古い石塀の囲い)」の4つの門の一つだそうで、先に述べたように14世紀のことです。

面白いのは、「真実の門」は当初はアーチだったわけではなく、大寺院一帯と外界を行き来する門だったのですね。門は4つあったと言われますが、高い石塀の囲いをやがて市内を囲む大がかりな城壁が取って代わり、残ったのが「真実の門」だけになりました。 これについては、追っつけ探検して案内したいと思いますが、後に水道橋としても使われました。

この門についてもうひとつ面白いことを。
Arco das Verdades、つまり「真実の門」は最初、「Porta das Mentiras」、「嘘の門」と呼ばれていたとはこれいかに!嘘つきや泥棒がこの門をしょっちゅう出入りでもしていたのでしょうか。

こんな恥知らずな名前で呼ばれては住民が困る、とでも言うかのように、やがてこの門はいつ頃からか、「Porta de Nossa Senhora das Verdades(聖母マリアはいくつも呼び名を持っており、これもそのひとつ)」と呼ばれるようになり、今に至っています。

トップにあげてある大寺院を背後にしたこの石段も「Esdacas da Verdades(真実の石段)」と名を残しています。

最後におまけ。ポルトガルの古い通りでは必ず見かけるネコ。この黒猫はわたしにまつわり付いてしばらく離れませんでした。
ポルト

もうひとつの目的については、後日に。

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2017年7月12日 

ポルトガルの晩御飯は遅い。子どもたちを一応の一人前にするまでの10年ほど前までは、夫は本当によく働いていて、帰宅が9時10時は当たり前のことだった。毎日サンジュアン病院と私立病院を掛け持ちだったのだ。

わたしは土曜日の補習校のみで仕事にしており、当時はほとんど専業主婦。じゃぁ、Spaさん、たくさん貯まったでしょう?と思われるかもしれないが、とんでもない。

British School、日本からの通信教育、土曜日の補習校の授業料、それに個人教授や習い事の謝礼と、実は二人の子どもの教育費で全てふっとんだのである。加えて、3年に一度の割で親子3人日本帰国もしていたので、どんなに働いても残るわけがないのである(笑)

振り返ると、豊かでもない所帯で、よくもまぁ二人の子どもを幼稚園から大学まで私立校教育を受けさせることができたものだと、今思ったりする。

そんな状態ゆえ、大黒柱には最低限の敬意は払うべしと、我が家では必ず夫の帰宅を待ち、家族4人が揃ってテーブルに着いたので、その後の後片付けなど時には12時近くに終わるのが珍しいことではなかった。

しかし、サンジュアン病院を定年退職した後、夫の帰宅は昔ほど遅くなくなり、今では8時半から9時の間が晩御飯開始となる。

晩御飯が早く出来上がり、食べ終わって時計が9時前を指していたりなどすると、「え?どうするの!こんなに早くご飯が終わってぇ・・・」と、なったりすることもままある。

さて、ここから本題なり。今週月曜日がそんな日だったのである。夏は日が長いポルトガル、9時前は日中のように明るい。大好きなFoxCrimeの番組も近頃はリピートが多く、2回3回は英語の勉強にもなっていいが、4回目ともなるといい加減見る気はしない。
う~ん、毎週火曜日の午後はDias先生のご自宅で勉強するのだが、夜勉強するのはあまり好きではないが、よし!今日はポルトガル語の予習をバッチリしてみようと、机に向かったのである。

一通り調べが終わり、今使用している本はあとどのくらい残っているんだろう、来年には念願の「Quinta da Regaleira」もしくは「Portugal Templário」の分厚い本に到達できるかな?

templario.jpg

それとなくページをパラパラめくって目に付いた題が「Arco das Verdades」。ぬぬ?ざっとその箇所に目を通して、知らんぞ、これは!どこどこ?まだ行ってないとこがあった!と興奮し、週末まで待てばいいものを、矢も盾もたまらず、火曜日の昨日の朝、ク○暑い中を行って参った。

明日に続きます。

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2017年7月11日 

昨夜も真夜中過ぎ、寝室にあるベランダのガラス戸のブラインダーを下ろしているに拘わらず、差し込む青い光のあまりの明るさに目が覚めました。なんでこんなに明るいのかと起き出して、夫を起こさないようにと娘の部屋へ行きベランダへ出てみると、んまぁ~、我が家のまん前の空にまん丸お月さんの美しいこと!

これが冬時間であれば、寝しなに月を眺めることも度々なのですが、夏時間は向かいのフラットの後ろから月が昇ってくる時間がグンと遅くなるので、忘れがちです。

ゴンタ

煌々たるこの月光が寝室に差し込んで目が覚めたのでした。ふと向かいのフラットの横にある小さな公園に目をやると、黒猫が一匹、臆することなく地面でゴロリンゴロリンと寝返りを繰り返し、人っ子一人いない公園の時間を楽しんでいるのであります。

もう一枚満月の写真を撮って、自由を満喫している黒猫にシャッターを切ろう、どれ、と公園にカメラを向けたら黒猫の姿かたちは最早あらず。一瞬の間に消えていました。今朝の午前2時ころの、何だか嬉しく思われた小さな出来事でありました。

我が家にはこの春まで5匹の猫がおりました。最年長は、今のフラットに引っ越してくる前の、庭がある借家にいた時に、フイとやって来てうちに住み付いたゴンタです。恐らく隣人が飼っていて碌にエサもあげず外へ出しっぱなしの猫ではなかったかと思います。

他の4匹はあまり抱かれるのを好みませんが、きっと子猫の時から子どもにでも抱かれていたのでしょう、ゴンタは抱かれ慣れており、少しも嫌がりませんでした。夜は家で寝ましたが、この一帯は彼の勝手知ったる縄張りでもありましたから、よく出歩いていました。

ゴンタ

わたしも家族だニャン、入れて。

近所のジョアキンおじさんの畑は今でこそ高い石壁で仕切られていますが、そのころは春には菜の花畑、夏にはトウモロコシ畑、それ以外は草茫々でしたが、ある日、夜になってもゴンタがなかなか帰って来ず、探しに行ったところが、その畑で他の大勢のネコたちに混じってなにやら猫の会合の中にいるようなのを見つけたことがあるのでした。

外界を知っているのはこのゴンタだけで、フラットに引越しして以来、それを今更ずっと屋内で暮らせとは言えず。また、フラットは二階ですから出入りができません。そこで週末の土日の午前中だけフラットの表ドアから出してやることにしました。

犬もそうですが猫も外出できる日にちをちゃんと学ぶのですね。週末には夫が向かいのカフェへ新聞を読みに行きますが、ゴンタは決まってフラットの我が家のドアの前に座って、出してもらうのを待っていたものです。

ゴンタ
時々こんないたずらも。

毎回1時間ほどすると必ず、地階の車庫がある石壁の上から「帰って来たよ。下まで迎えに来て家に上げてニャ」と鳴きました。声を聞く度に、すわ!とわたしはフラットの鍵を手に階段を下りて迎えに行ったものです。

ゴンタ
野良だったゴローをいち早く受け入れたのはゴンタでした。

他の猫を決していじめませんでしたし、猫同士がにらみ合い取っ組み合いが始まろうものなら、即、飛んでいって仲裁に入り、長老の貫禄があり、たいした猫でありました。

6年ほど前から白内障が進み、わたしたちが気がついたときには歳が歳ゆえ眼の摘出は避けたほうがいいと、かかりつけの獣医に言われ、以後、他の4匹猫に万が一にも目に悪さをされては気の毒だと言うので、ゴンちゃんだけわたしたちのベッドの上で寝てもいいことにしました。

んで、朝、目覚めると決まってわたしの頭は枕から落ちており、枕の上ではごんちゃんが心地よく寝ているのでありました。

少しは見えていそうな目もここ3年ほどは光を感じるくらいなのか、家の中を壁に添って歩いていました。この頃から、常にわたしの後をついて歩き、側を離れないようになりました。

gontapc-2015-june.jpg
わたしがpcに向かうときもこの通り、くっついて。

ゴンタ

今年に入って、食べなくなったもので、点滴をしてもらいにかかりつけの獣医院に二日ほど入院したのですが、それでも大して食は進まず、あの手この手で食べさせようとするわたしに、義理立てでもするかのように、ほんの少し舐めるだけでした。

こうしてほとんど静かに休んでいる時間が長くなりましたが、粗相はたった一度だけ毛布の中に。してしまったのを恥じるかのようなその様子に、わたしはいたく感心したものです。

ゴンタ

ほとんど寝てばかりのゴンちゃん

ゴンタ

旅立つ一週間ほどは食を絶ち水を絶ち、3月の始め頃の早朝、深い息をしたのが最後でした。
推定年齢17、8歳、人間で言えば90歳近くでしょうか。

ゴンタ

目が見えなくなり外出ができなくなってからは、ベランダに出て、写真の渡し板に座っては、しばし外を眺め、鼻をヒクヒクさせて自由の匂いを嗅いでいたものです。今は同じ場所に時折、一番若いゴローが座って外を眺めています。

わたしたちにほとんど手をかけず、猫と言えどもあっぱれなゴンタの一生でした。

真夜中の無人の公園で、寝返りをしながら自由を楽しんでいた黒猫を目にし、春に亡くした愛猫のことを書いてみました。

本日はお付き合いいただきありがとうございます。


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2017年7月9日 

海外に長年住む人は、利用したことがなくても一度は耳にしたことがあるであろうJapan Rail Pass。

日本のJRグループ6社が共同して提供するパスで、日本中を鉄道で旅行するのに最も経済的な切符と言われます。パスはJRグループの乗り物であれば乗り放題で、1週間と2週間の二種類ありました。

日本に入国してしまうとパスは入手できません。滞在国の取扱旅行社でパスの引換券を購入し、それを日本の最寄の指定駅などでパスに換えてもらいます。1週間のが3万円ほどです。

本来は日本を訪れる外国人向けなのでしょうが、海外永住日本人、また10年以上外国に滞在している日本人も利用できました。

ご存知の通り、海外から帰国すると、日本は物価が高いですから致し方ないこととは言え、その交通費の高いのにはうんざりするのです。帰国時は所沢の妹宅に滞在するのが常ですが、わたしは生まれ故郷が弘前、10年ほど青春時代を過ごした大阪は第二の故郷で友人知人も多く、できれば大阪も訪問して彼らと旧交を温めたい。

東京大阪間を往復すると新幹線で27000円ほどになりますが、ホテル宿泊代や友人たちとの会合の費用などを入れると少なくとも5万円は用意しなければなりませんが、この新幹線往復の費用で青森から九州まで移動できるというのは、大きな魅力です。

我がモイケル娘は東京での大学生時代、コースを変更、九州の方の大学に編入し2年間下関に住んだことがありますが、この時、Japan Rail Passには大いに助かりました。

この年、わたしは2週間のパスを購入し東京、下関、大阪、東京、弘前と移動して、正に日本縦断をしたのでした。体力もあったんですけどね(笑)このパスをこれまで3度ほど利用しています。

japanrailpass.jpg
記念にとってある15年ほど前のJRパスです。

それが、昨年突然「海外在住邦人を対象にジャパンレールパスの販売を2017年3月31日に終了する」との発表があり、がっかりしました。海外長期滞在者は家族連れで帰国することも多く、パスなしでの移動にはわたしなどは一人でもヒィヒィ言いながらなけなしのお金を払うことになります。増して家族での移動など多額な出費です。
まぁ、日本に住んでいる人に言わせたら、「税金も払っとらんのに贅沢言うなぃ!」となるのでしょうが、
その辺のところはご勘弁願いたい。

心の中で「JRのケチ~」と叫びながら(笑)諦めるしかないと思いきや、この発表には失望した海外在住者が多かったようで、「JRパスを考える在外邦人の会」が発足し、海外在住邦人の購入資格撤廃の再考を求めるための署名運動が開始されました。わたしも勿論参加しました。

そして、しばらく前にJRグループから海外在住邦人の新しい利用資格が発表され、平成29年(2017年)6月1日から、その資格を有する海外在住邦人も購入できることが決定されました。

詳細は下記サイトにて。

http://japanrailpass.net/about_jrp.html

また、こちらにも分かりやすい説明があります。今はオンラインで購入できるようですね。
https://www.jrpass.com/ja/japan-rail-pass-eligibility

本日はこれにて。
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2017年7月6日 

ブログを書き始めた動機は?と聞かれたら、いつか我が子たちが目にして、暇に任せわたしの人生の軌跡を知ってもらえたら、そして、何かの時に彼らの生きる道筋で参考になることがあったら嬉しいと思ったからだと答えよう。

18で故郷の家を離れて以来、帰郷することがほとんどなかったゆえ、母がどんなことを考えて生きたのか、知らないことも多い。尋常小学校を出ただけだが、洋画もタンゴ音楽も好きだったし、かなりハイカラな人だったのではないかと思っている。また、母の時代の女にしては読書好きで本は晩年まで手放さなかった。

人の陰口を言うのもわたしはほとんど聞いたことがない。「洋画、読書、人の陰口を好まない」は、わたしたち姉妹が母から無言のうちに教わったのだと今にして思う。

母の時代の苦労は今のわたしたちのとはずっと違うはずである。それの多くをわたしは終に聞きそびれてしまったのであり、今にして見れば返す返すも残念なことではある。そういう自分の思いもあって、我が子たちが同じ思いを持つかどうかは分からないが、いつの日にか「おっかさんの人生をちょいと覗いてみるかや?」と綴っているのである。

人生は一冊の本に似ている。
愚者はそれをパラパラとめくるが賢い人間は丹念に読む。
なぜなら、彼は、ただ一度しかそれを読むことができないのを知っているから。

19世紀初期のドイツの小説家ジャン・パウルの言葉だ。

若いときのわたしも、人生と言う只一冊の己の本をパラパラとめくってきた愚か者であるが、60を過ぎた頃から「あっ!」と人生のカラクリに気づかされることに何度か出会ったのである。この6月7月とそれが引き続き起こり、これらをやはり書いておくことにした。

ポルトガルに長く住んでいるたいがいの日本人は知っているであろう、月田秀子さんが6月に亡くなられた。彼女は日本人として初めてファドを歌い始めたファド歌手である。ファド歌手になってからはコンタクトはしていなかったが、わたしはファド歌手になる前の彼女と会っているのである。

オフィスの仕事だけではアメリカ行きの夢は遥かに遠く、運よく転がり込んできた梅田新道にあった、当時のアサヒビアハウスでのバイト歌姫は資金作りに大いに助かった。

その頃の思い出話は拙ブログ「あの頃、ビアハウス」のカテゴリに綴ってあるが、月田さんに出会ったのは、わたしが渡米を果たしツーソンの大学で半年間ELS(English as a Second Language)終了後、アメリカでの生活を捨てて急遽日本に帰国し、ポルトガルへ行くことが決まった後、まだしばらくビアハウスでカムバックのバイトをしていた時だ。

ある日、ビアハウスの常連の一人、前中氏がその知人と月田さんを伴ってやってきた。ステージが終わると彼女を紹介されたのだが、「いい声をしてますね」が彼女のわたしへの挨拶だった。もちろん、お世辞ですぞ(笑)なにしろ、プロになろうとしている月田さんと、腰掛歌手のわたしとでは歌への意気込みがちがうはず。

その日のステージがはねた後、彼女を含む前中氏たちに案内されたのが、ビアハウスの近くにあった小さなシャンソバー、「ジルベール・べコー」(今でもあるのだろうか・・・)。これが1978年後半かわたしがポルトガルに渡る1979年4月前のことだ。

月田さんのプロフィールを見ると、ここでシャンソン歌手としてデビューしたのが1980年とあるから、わたしが出会ったのはまだシャンションを勉強していた頃の月田さんということになる。

1979年5月に夫の待つポルトに来たわたしに、月田さんからファドの楽譜を送って欲しいと手紙が来たのはそれから1年ほどしてからだろうか。「Barco Negro(暗いはしけ)」か「Coimbra(ポルトガルの春)」のどちらだったか、もう覚えていない。

覚えているのはこの楽譜を手に入れるのに、随分手間取ったということだ。日本なら当時でもレコード店でクラシックからポピュラーソングまで、簡単に楽譜を買うことができたが、ポルトではまず楽譜を売っていないのであった。夫が色々人に聞き込んで、やっとリスボンから取り寄せることができ、月田さんに送ったのであった。

その後、何度か手紙のやりとりがあったが、わたしは子育てに忙しくなり、いつの間にか音信が途絶えてしまったといういきさつがある。

ここ数年彼女の名前を目にしなかったのだが、病気の治療で北海道に移り大きなコンサートからは遠ざかっていたのを今回のニュースで初めて知った。享年66歳。ファドの女王アマリア・ロドリゲスに師事していた頃まではしっていたが、ポルトガル大統領から勲章を得ていたとは初耳だった。

シャンソン歌手からどのようにしてファドに興味をもちファド歌手に辿りついたのかは知らない。わたしが住むポルトガルを調べるうちにファドを知ったのか。もしそうだとすれば、お互いの交流は途絶えてしまったけれど、人生のカラクリを解いていくと、ビアハウスバイト歌姫のわたしに辿りつくとも言える。

わたしが送ったファドの楽譜は今どうなっているのだろうか。バイト歌姫のわたしでさえ、自分が歌った曲の楽譜は今でも捨てられずにいるゆえ、きっと色褪せて彼女のファド楽譜の中に残されているのではないだろうか。

月田秀子さん、ここまで来るとは予想もしませんでしたよ。どうぞ、安らかに。

下記の過去関連記事、よろしかったらどぞ。

人生はからくり

人生はカラクリに満ちている
文字色

あの頃、ビアハウス

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2017年7月3日 

今日のポルトは午前10時現在で気温30度を越していました。
ジョアキンおじさんの畑の猫にエサを運ぶのに外へ出たのですが、クヮーッと日差しのきつかったこと!

10時半からの日本語授業の前にしてしまわないと、とベランダの植物への水遣りを終えたら、うっすらと汗をかきました。急いで事をするから尚更です(笑) こういう時は熱くてもあまり汗をかかず顔が真っ赤になる、いわゆる熱中症タイプのわたしは要注意なのですが、良くも悪しくもいよいよ夏だ~!

さて、都議選から一夜明けた今日、正直言って、ウハ~、こんなのも通っちゃうの?学級会化してへん?と、わたしは都民ではないけれど多少目まいを感じたのでありました。

小池都知事誕生で、都議会のドンが一応消えた分には良かったけれどね。世界の東京都があんな旧態依然とした年寄り利権者たちに牛耳られていたというのだから、今回の惨敗は推して知るべしであったと思います。小池知事にしてもあれから1年、豊洲へ移るのか移らないのか、未だ築地市場問題は明確な方針が出されていないようですし、決断に時間がかかり過ぎじゃない?かと言って、あの時は他に適任者がいませんでしたものね。

また、訳の分からない森友、加計問題に加えて、首相夫人の出過ぎ、女性議員の「このハゲー」暴言から防衛大臣の失言と次から次とよくもまぁ、くだらない事のオンパレードで安倍首相もご苦労が絶えませんね。

この辺で失言をしない安心できる人材を適所適所に登用してほしいものです。なんだか日本全体が学級会化しているような気がしてならないわたしなのですが、みなさまはいかに?

今日は、日本語授業から開放された先週木曜日にダウンタウンへ行って来た時の写真をば。
ポルトダウンタウン

金、土曜日のポルトのメトロは一晩中動いています。下はサンベント駅前の広場 Praça de Almeida Garrettのキオスク。

ポルトダウンタウン

花通りことRua das Flores入り口はオープンカフェが占領しています。真ん中に見える建物はサンベント駅。
ポルトダウンタウン

ポルトダウンタウン
ツーリスト向けにポルトワイン等が手軽に飲める。

ポルトダウンタウン
花で飾られたブティック&カフェ、Joia de Coroa(王冠の宝石の意味)

花通りにはストリートアーティストが増えました。

ポルトダウンタウン
このシンガーはいい声をして歌がうまかった^^

ポルトダウンタウン
この日、わたしの目を引いた親子。子どもは勉強しており、父親らしき人の肩と男の子が被っている帽子にはインコがそれぞれ乗っています。そして左の桶のようなものには白い鶏?

男性が抱えて弾いているのは「オルガニート」こと、カード式手回しオルゴール?でしょうか。画像を拡大してみます。
ポルトダウンタウン

この楽器、触れてみたい気がします^^

というので、気がつけば、暑い中を3時間ほどもほっつき歩き強い日差しを浴びた木曜日、帰宅するや襟首のあたりに夏の恒例のアレルギーによる今年初の蕁麻疹がでてしまいました。ホント、やっぱり夏です!

本日もお付き合いくださりありがとうございます。
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