2017年8月15日 

先だってことなのだが、月に1、2回の割りで国際電話で話す妹から珍しくメールが入った。

弘前に住む吉崎のおばさんからめったにない電話が来てどうしたのかと思ったら、おばさん曰く「Yukoの夢を見た。何かあったんじゃないか」と。

吉崎は9人兄弟であった亡き母の旧姓でおばは既に鬼籍に入って長い母の弟の連れ合いだ。妹の話を聞いてわたしは大笑いした。だって、わたしは古希ですよ。古希になって未だおばの夢に現れ心配をかけているとは!

そのおばに最後に会ったのはいつだったかしら?もう思い出せないほど時間が経ってしまった。

「ポルトガルで元気でがんばっているから心配ないと言っておいた。それでね、来年は二人で会いに行くと約束したよ。5月のこの日から3日間、弘前のホテルの予約ももうしたからね。」この時点で来年の帰国日程は決まったのである。

この後、弘前の南高校時代の同窓生、シマに久しぶりに電話をし、来年の弘前行きを話したところ、それなら、同窓会の恒例の秋の時期をずらすことになるけれど、Sode(わたしのこと)が帰省する春にできるよう、少し働きかけてみる、と言ってくれるではないか。

集まる同窓生たちも年々減って来ている年齢になった第一期生のわたしたちだが、この年齢になると、見た目、どれが教え子でどれが先生なのか見分けがつかないであろう、恩師との再会も今から楽しみにしているのである。

来年はおばを訪ねるのもそうだが、二人のおばが本家の墓から文骨したと聞くから、訪れる人も少なくなったであろう、母方の先祖の墓参も欠かせない。

お盆に因んでかつてあげた「早春の津軽行」の墓参を掲載したい。以下。

早春の津軽行にて。

hirosaki
列車内から臨むまだ残雪に覆われた津軽の野面(のづら)。

うっすらと残雪に覆われた陽光院を訪ねた。陽光院は弘前の我が故郷にある菩提寺である。

本当のことを言ってしまうと、陽光院という菩提寺の名すらわたしは覚えていなくて、所沢の妹に教えてもらい、地図を持っての墓参であった。その妹夫婦と3年ほど前に来たのが、実に約40年ぶりのことであり、わたしはまことにご先祖様不幸な人間なのである。

8人兄弟だった母とのお盆の墓参りは、一年に一度、大勢の親戚に出会う場でもあった。
「あ、四郎っちゃ達、もう来たみたいだね。」と言った母の言葉は、幼いわたしの記憶の中で今でも生きている。

とある年齢に達すると、たいていの人間は、持つ思い出の良し悪しに関わらず、生まれ故郷が恋しくなるとは、よく耳にする言葉だ。わたしもその例に漏れず、近年は弘前での子ども時代の記憶を
たどってみることも多く、思い出の糸を手繰り寄せては、時折したためている(「思い出のオルゴール」)。

「故郷恋しや」の思いと、さすがのご先祖様不幸のわたしも、この辺でそろそろ顔を出してご挨拶しておくべきではなかろうかと、殊勝にも考えるようになったのである。

いつもは妹夫婦と車で夜間、高速道路を走って帰るのだが、この時は東北新幹線で一人帰郷し、駅に着くと同窓生のタコ君が出迎えてくれた、という嬉しいハプニングがあった。

そのタコ君が墓参に付き合ってくれた翌日、寺の近くで花を調達し、陽光院に着いた。
「お線香、もって来た?」とタコ君。
「あ、すっかり忘れてた^^;」
「うん、大丈夫。俺が用意して来たから。」
情けない話である。

タコ君とは高校時代の友人で、この3年前に、高校を卒業して以来39年ぶりの再会をしたのだった。彼についての詳しいことは後日書くとして、弘前にいた二日間、彼はわたしのために車で動いてくれたのだ。

妹の話の通り、陽光院は改築中であった。墓地の場所は、本堂の横道から入るとだいたい分かっているのだが、既に立ち入り禁止になっており、タコ君とわたしは仮本堂でお寺の人を呼び鈴で呼び出しポルトガルから先祖のお墓参りに参りました。どうやって墓地に入れますか、と訊ねた。

隣の寺院から入れるよう、話を通しているとのこと。人っ子一人いない静寂な墓地の中を、わたしたち二人は転ばないように少し腰を落とし気味に残雪を踏んで入って行った。

「前に来たときに、こんな新しい墓石は周りになかったと思う。もうちょっとこっちの方じゃなかったかしら。」と頼りないわたしの言。少し後戻りすると、「あ、こ、このあたり・・・・。もしかしてこれかも。」と立ち止まった墓地は墓石も含めて、あたりが真っ白い残雪に覆われていた。

わたしとタコ君は、素手でその雪を掻き分け始めた。
掻き分けながら、ふとわたしは可笑しさがこみ上げてきて、思わずタコ君に話しかけた。

ね、ご先祖さま、今きっとこう言っているに違いない。「ゆうこよ。お前は何十年も墓参りに姿を現さず、終に来たかと思ったら、いったい亭主でなくて誰を伴ってやって来て、墓場の雪かきをしてくれてるのやら・・・ほんにお前は^^;」

ご先祖さま、お笑いくだされ(笑)

残雪の下から現われた古い墓石に刻まれている文字を読んだ。「吉崎家」と彫られてある。間違いなく我が先祖の墓だ。線香を立てる箇所は、固い雪で覆われ素手でその雪を取り払うことはできなかった。供花のところに線香を立てた。

しばしの祈りの後、わたしは、自分が祖父の名前を知らないことに気づいた。わたしが生まれたときには既に鬼籍に入っており、会ったこともない人である。

タコ君と墓石の後ろに回り、刻まれている名前を見つけた。
「あった。え~っと・・・嘉七と書いてある。」
「そうだね。明治22年6月没とある。」とタコ君。
わたしはメモを取った。そうして、墓の前にもう一度たたずみ、この先再び訪れる日が来るであろうことを祈りながら吉崎家の祖父や叔父、叔母たちに別れを告げて帰ってきたのである。

東京へ帰り、夕食の準備で台所に立っている妹相手に、
「ねね、マリちゃん、じさまの名前知ってる?」とわたし。
「それがねぇ、わたしも知らないのよ。もう聞く人もいない。」
「知ってるわよ、わたし!今度の墓参りで見つけてきた。嘉七、明治22年6月没とあった!」
と、いい歳して多少得意げに言うわたしを、妹は一瞬「???」の面持ちで見る。

そして開口一番、「それはつじつまが合わない!」
「お母ちゃんが大正生まれなのに、じさまが明治22年没は可笑しい
じゃん!」「さすが、ゆう。(妹はわたしをこう呼ぶ)考えることがおもろ~」(爆笑)

いやはや、面目ない^^;
ご先祖さま、お笑いくだされ~~。とほほのほ^^;
嘉七さんはひじさまでござんしょね^^;

まじめな墓参の話がどうしてもこういうオチになるspacesisでございます。あぁ・・・これがなければなぁ、もう少し周囲から敬いのマナコを向けられるかも知れないのに(笑) 

                                              
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2017年8月13日 

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。

ロカ岬

これは撮った写真を白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「どろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。

前回フェルナンド・ペソアの紹介で述べたように、は詩人のみならず作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていました。かなり以前にブログで取り上げた松本清張の本につながるのでした。

以下、2006年の日記の書き換えです。

―とどろく海辺の妻の墓―

高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なところにわたしは心を躍らし、片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳頃にグワッとのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読了しました。「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20歳のわたしには世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激がありました。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。20歳の頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名をしられている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められ、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いでいく愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月の記憶の彼方に押しやられていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみよう!とハッと思いついた。英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお!出た!出たではないか!一編の詩に行き着きました。
この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

詩、「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻、ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは。無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな半生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

40年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

ロカ岬の暗い画像から、リスボンの詩人フェルナンド・ペソア、そして、ポーのアナベル・リー、松本清張のゼロの焦点ラストシーンとつながるとは奇遇なことです。

う~ん、これは清張ばりで行くと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。

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2017年8月12日 

前回記事の続きは明日にしまして。

少し暑いかな?と思ったくらいの7月でしたが、今年は昨日まで気温がさして上がらず、窓から入り込む風は涼しく、エアコンがつける回数が例年に比べ、グンと減っていたこの頃でした。

例年ですと7、8月は日本から持って来たタオルケットを使って寝るのですが、掛け布団をかけて寝ていても時に少し肌寒いと感じていたのです。それが今日は30度に達し、やっと夏らしくなった!

先週月曜日に到着した息子は、翌日から活発に行動開始し、昨日からはブリティッシュスクール時代の友人数人と別荘があるというAroucaに行っています。

夏は世界のあちこちに散らばっている息子の同窓生たちがポルトに帰ってくる時期でもあり、幼稚園からずっと一つクラスで学び舎に通ってきた気心知れた仲間たちが、近況報告をしながらワイワイガヤガヤ、食べて飲んで話しまくるのでしょう。二日酔いには注意せよ(笑)

と言うので、今日はわたしも息抜きで、海岸沿いの写真を少し。

ポルト
真っ青な海にカラフルな貸しテント。

ポルト
ペルグラ(pergula=日陰棚。日本語でパーゴラと言うそうです)から望む大西洋。

ポルト
パーゴラ全体

下はパーゴラから望む夕暮れ。薄桃色の境界線がやがて消え、空と海が溶け合う前のひと時は何度見ても美しい。

ポルト

ということで、本日はこれにて。
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2017年8月10日 

ポルトガルの書店、みやげ物店などポルトガルのあちこちで似顔絵がよく見られるほどに、フェルナンド・ペソアは国内で人気がある詩人です。少し、詩人のおいたちを紹介してみます。

フェルナンドペソア


1888年にリスボンで生まれましたが、少年期を英国領だった南アのダーバンで過ごし、英語で教育を受けています。これは後に英語ポルトガル語の翻訳家の道へもつながります。

17才で南アからリスボンへ帰国後、リスボン大学で学びますが中退し働きますがやがて文壇の世界に入っていきます。ペソアがよく通ったカフェ「A Brasileira」の店先では彼の像が椅子に座っています。

フェルナンド・ペソア
リスボンのシアードにある1907年にオープンしたカフェA Brasileira

フェルナンド・ペソア
イスに座るフェルナンド・ペソアの像

生前のペソアは詩人としては一般にあまり名が知られていませんでしたが、O・ヘンリーやエドガー・アラン・ポーなどの作品、ナサニエル・ホーソンの「緋文字(高校時代にわたしが読んで衝撃を受けた本)」など多くのポルトガル語翻訳を手かげています。

ペソアはまた、神秘主義思想やヘルメス主義の熱狂的な支持者でもあったようで、占星術や錬金術にも強い興味を持っていました。案の定、宗教はNeo Paganism(異端教)、 Gnosticism(グノーシス主義)とあります。

サラザールの時代(1933年ー1974年)、1935年には、ファシズムへの批判を書きフリーメーソンを擁護したかどで、ペソアの作品は全て出版禁止の憂き目にあい、同年肝硬変で47歳で亡くなっています。

生前出版されたのは英語で書かれた4冊の本とたった一冊のポルトガル語詩集「Mensagem(メッセージ)」のみです。

フェルナンド・ペソア
手元にあるフェルナンド・ペソアの詩集Mensagem。

詩集は3部に分かれた44篇の短い詩からなっています。第一部は「Brasão(紋章)」、第二部は「Mar Português(ポルトガルの海)」、第三部が「O Encoberto(隠されたもの?)」

詩人としてフェルナンド・ペソアが世に名を馳せるのは、死後50年が経った1980年代半ば、サラザールの時代が終わり、彼が残した木製のトランクに入った、25000ページ以上に渡る遺稿が発見されてからです。

ペソアの詩については、詩の解釈は人それぞれにあるでしょうし、まして原語となると、ポルトガル語を専門に学んだことがないわたしにはとんでもないことですから、言及しないでおきます。興味のある方は、ネットで是非検索してみてください。

わたしはいずれ、ポルトガル語のDias先生と指導を受けながら読んでみたいと考えています。特に、ペソアがグノーシス主義だという点は、大いに興味を惹かれるところですしね^^

この項、まだ続きます。

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2017年8月9日 

これまで訪れていながら、画像では案内していなかったロカ岬ですが、今日は娘夫婦と訪れて3度目になる昨年の画像で紹介します。   

六大陸の中でも、アジアとヨーロッパを合わせたユーラシア大陸は最大で、語源はEuroとAsia(EuroAsia)から来ています。ポルトガルのロカ岬はそのユーラシア大陸の最西端にあります。

ロケーションは北緯38度47分、西経9度30分、リスボン、シントラ、ナザレ、オビドスがある「エストゥラマドゥーラ・リバテージュ地方」です。

ロカ岬

Caboは岬、Rocaは断崖を意味し、航海が盛んだった15~19世紀にはイギリス人にThe Rock of Lisbonとして知られていました。

ロカ岬

岬は140メートルの断崖になっており、海を臨んで頂上に十字架を掲げた石造りの碑がぽつねんと突っ立っているばかり。

ロカ岬

石碑には、「Aqui onde a terra se acaba e o mar começa(Camões)」ここに陸尽き、海はじまると、「」Ponta mais ocidental do Continente europeu(ヨーロッパ大陸の最西端)の文字がポルトガル語で刻まれています。

ロカ岬

さよう。ここは、まさにユーラシア大陸の地の果てであります。
前方にはただただ茫洋と大西洋がひろがり、打ち寄せる波の音と吹き付ける風の音のみが、最西端の名誉を孤高として守っているかのように思われます。

DSC_0799-1.jpg

40分ばかりいた間にも写真から分かるように、岬は霧に被われ太陽が白く化したかと思うと突然青空が現れ、天気の変化が目まぐるしい魔の岬とも呼べるような気がします。


ロカ岬の案内書では少々の手数料を払うと日付、名前入りで「ユーラシア大陸最西端到達証明書」を発行してもらえます。
ロカ岬証明書

証明書は見事なゴチック体のポルトガル語で書かれ、青と黄色のリボンの上にシントラ市のcarimbo(カリンボ)と呼ばれる蝋(ロウ)印が押してあります。裏面にはフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語などの訳が印刷されています。現在では日本語も入っているようです。


石碑に刻まれているここに陸尽き、海はじまるとは、ポルトガルの16世紀の国民詩人、ルイス・ドゥ・カモインス(Luis de Camões)の書いた大叙事詩「Os Luíadas」の一節なのです。「Os Lusíadas」(ウズ・ルズィアダス)とは「ルズィターニアの人々」、つまりポルトガル人の古い呼称です。

「Os Luíadas」は9000行からなる大叙事詩で、ポルトガルを、バスコ・ダ・ガマの偉業を讃え、大航海時代の歴史を謳いあげたものです。叙事詩集は10章に分かれており、先の「ここに陸尽き、海はじまる」は第3章20で謳われています。ちょうど我が家に素敵な装丁の「Os Lusíadas」があったのでその箇所の写真を載せて見ます。

Os Luíadasの本

Lusiados
美しい装丁が施された限定版の本です。 

Lusiados
各章ごとの歴史にちなんだイラストが内装もカラフル。  

Lusiados
第3章20の扉

Lusiados
20(XX) 上から3行目。

Lusiados
「Onde a terra se acaba e o mar começa 」 「ここに陸尽き、海はじまる」とある。
 
「Os Lusíadas」 は膨大な叙事詩で、ポルトガルの学校では全編ではありませんが、必ず読むことになっています。わたしは今のところ、本を開いては美しい装飾に目を奪われるのみで、残念ながらまだ読んでいません。


さて、カモインスについて。

15世紀の冒険家Luis de Camoes(ルイス・デ・カモインス)カモインスの生涯は謎に包まれています。いつどこで生誕したかも不明です。そして、芸術家の多くがそうであるように、カモインスもまた、生存中はあまり名の知られた存在ではなかったようです。

当時の知識人と比較しても該博な知識を持っていたらしく、コインブラ大学で聴講したという話はありますが、その知識をいつどこで身につけたのか明らかではありません。

またカモインスは無類の冒険家であり、恋多き人でもありました。リスボンでは傷害事件で投獄の憂き目にあったり、アフリカ、東洋を廻り難破にあったりもしています。

カモインスは片目なのですが、15世紀初期、北アフリカのセウタでムーア人と戦った際に右目を失ったと言われています。

カモインス
Wiki より

「セウタの戦」とは、15世紀のドン・ジュアン一世の時代でポルトガルの大航海時代の扉を開くことになる戦いです。王の3人息子、ドアルト王子、ペドロ王子、そして後、トマールのテンプル騎士団修道がキリスト騎士団修道院に改名した時にその騎士団のマスターとなり、航海王子の異名をとることになる三男のエンリケ王子も参戦しました。この様子は、ポルト、サン・ベント駅構内のアズレージュ絵に見られます。

ceuta


もうひとつ、付け加えるならば、ポルトの有名な伝統料理「Tripas(トゥリーパス)」はこの「セウタの戦」に由来します。 (これについては下記の案内からどうぞ) 
            
恋と冒険とそして貧困のうちに、ポルトガル文学の偉大な遺産「Os Lusiadas」を残し、1580年6月10日、カモインスはその生涯を閉じます。毎年6月10日は、カモインスの命日を記して「ポルトガルの日」とし、この日は祭日。

最西端のロカ岬は、訪れる観光客の浪漫的な予想からは遠く、波打ち寄せ風吹きつけ、大航海時代の栄華のかけらも見えず、ただ荒涼としているだけです。それでも、石碑に刻まれたカモインスの一節に、いにしえのポルトガル人の果てしない未知への冒険心をかいまみることができるでしょうか。

ポルト人:その名はトリペイロ

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2017年8月7日 

台風が来ても大丈夫。全部準備が整いました。この通り。

joaosroom1.jpg

縫いぐるみの犬クラウディウも台風の到着を待っています。ボロボロで縫いぐるみなりに、元の持ち主同様30数年の歳をとってしまいましたが、ゴミ箱に見捨てられず。息子、いくつやと思ってんねん!と、自分を笑っております。

という訳で、本日は台風こと、我が東京息子が1年ぶりに帰省してきます。さぁてと、休暇中の生活時間が息子とは全く噛み合わないゆえ、2週間振り回されますぞぉ。それでもデレ~ッとなっている親ばかであります。

では皆さま、夜空港へ出迎えにいくため、ただいまから少し早い夕食の準備に入りますれば、本日はこれにて。またあした。
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2017年8月6日

暇を見ては断捨離(だんしゃり)とやらをしている。捨てるまではいかなくとも、長い休みを利用して、普段手をつけない押入れや台所、整理ダンスの奥などの整理をする人も多いと思う。

既に鬼籍に入ってしまった義母の家に住んでいるアーティストの義兄もその一人で、どうやら、屋根裏部屋に上がって整理と決め込んだらしい。

新婚時代、6年ほど夫の母やおばたちと同居していたのだが、当時の家には屋根裏の収納部屋があり、バスルームの天井の四角い扉から入る。かなり長い梯子(はしご)をもって上らないといけないのであった。

わたしも一度だけ上がったことがある。天井は低いが結構広さがあり、ベッドなどの古い家具や古着や古靴、その他、箱に入ったガラクタ類が置いてあった。アーティストの義兄は、時々そこに引きこもって作品制作に没頭したと聞く。屋根裏部屋の扉から直接折りたたみ式の梯子でもついてあれば、子供たちのかっこうの隠れ場、遊び場になり喜んだことであろう。その屋根裏部屋へ人が行かなくなって優に30年は経つであろう。

亡くなった義母の家は、我がフラットからすぐの所にある。別居して以来義母が亡くなるまで、夜の食事後には毎日欠かさず彼女を訪ね、一日のひと時を共に過ごしていた。義母が亡くなった今も、独り身の兄に気遣ってか、夫は未だにその習慣を続けている。

ある夜、
「ローザ・ラマーリュの陶土人形が入った箱が屋根裏部屋で見つかったよ。」と言って二つの古い段ボール箱を抱えて帰って来た。

ローザ・ラマーリュ(Rosa Ramalho。1888~1977)はポルトガルの著名な陶土人形作家で、その独特な作風から一目で彼女の作品だと分かる。

引越し時に持って来たひと箱は車庫に入れて置いたところが、知らぬ間に泥棒に拝借されてしまっていたのだが、どうやら義母の屋根裏部屋にも置かれていたらしい。

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大小さまざまの陶土人形は宗教をテーマにしたものが多い。下はイエスの誕生シーンを表したクリスマスの置物で、これをポルトガル語ではPresépioと呼ぶ。高さ40cmほど。

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下のCeia(=セイア=最後の晩餐。聖夜に発音が似ているのは興味深い。)は、同じくRR の作品でわたしの気に入りだ。サイズは50X30cm

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この作品については面白い発見があり、後日、取り上げてみる。

夫の引き出しにひっそりと仕舞い込まれている珍しく色をかけていない茨の王冠を冠した「白いイエスさま」。

juliaramalho.jpg

人形の横にはRRと掘られてある。何かしら優しげで可愛らしさがにじみ出ているところに作者の柄が感じられる。

さて、夫に、後で見ておいてと手渡されたダンボール箱の中身に、少なからず喜んだのでありましたが、さて、整理するのに一つ一つ作品を箱から取り出していると、中にもう一つ小さな古い箱がある。これもローザの作品かな?と思って開けてみると、出てきたのが↓

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うは~、懐かしい!これは、ポルトガルの地を踏んで足掛け3年、行動的な息子を連れての初めて帰国の折、、空港内、うっかり目を話して息子をどこで見失うやも知れぬ、と言うので買い求めた幼児用の紐です。

どれどれ、とその箱を開けてみると・・・・ん?ん?っと、だんなさん・・・・若い頃のわたしが送ったごっそりの手紙ではありませぬか・・・

MIさんの手紙


航空便、絵葉書は留学していたアメリカのアリゾナから日本にいた後の夫へ、また他は日本での結婚後、日本からポルトガルにいた夫へ。宛名が日本語で書かれてあるのは、大阪から夫の留学先広島へと、どっさりの手紙の束・・・

大阪で知り合ってまもなく、わたしたちは大阪と広島、そして半年後にはアメリカと広島に、日本での結婚後しばらくはポルトガルと日本にと、当時は離れていることが多かったわたしたちでした。

アリゾナにいた頃は、3日にあげず、手紙を送ったもので、我ながら、なんとまぁ、ぎょうさん(たくさん)書いたことであろうか; 誤解をといておくと、内容はラブレターとは程遠いもので(笑)今で言うとアリゾナでの日々の日記、pcのない40年ほども昔のことで、つまりはブログの走りを夫に書き送っていたわけだ(笑)

夫、ご丁寧に全部取ってあるとは^^;いえ、今更、自分が書いたものを読むなんてこと、気恥ずかしくて、読みやしませんて(笑)

英語で学校教育を受けてきた我が子たち、「おっかさん、このスペルが間違ってる、この英語の言い回しが可笑しい」と英文レターの過ちを指摘されるのが関の山、こればかりは我が子たちに読ませてみたい、なぁんてことは思いませんですよ(笑)

夫め、ひょっとして証拠固めにと・・・^^;う~~ん、困った、いかに処分しようか・・・と、考えあぐねているのであります。と、こういうわたしも実は夫の古い手紙は取ってあるんだった(爆)

それぞれ、思いのあった手紙はなかなか捨てられずに30余年。どっかとポルトガルの生活に根をおろして、独りで生きてきたような顔をして、偉そうに一人前に夫に振舞うことも多い近頃、思いもよらず、目の前に姿を現した自分の書いた若い頃の手紙を目の前に多少戸惑いを覚え、ちょっとばかり反省しているのである。

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2017年8月4日 

先だって都内のポルトガル祭りを覗きに行ったという我がモイケル娘の話を聞いたときに、見覚えのある人形があったと言うので、Julia RamalhoかRosa Ramalhoの作品に話が及んだ。

夫の仕事の関係で我が家には昔から二人の作者の陶土人形があちこちに飾られていたので、子どもたちは記憶していたのだろう。それに因んで今回はかれこれ10年ほども前に一度取り上げた記事を書き直してみたい。
ポルトガル北部きっての陶土人形作家に「Julia Ramalho=ジュリア・ラマーリュ」がいる。

1946年にバルセロスのSao Martinho de Galegosで生まれ、祖母Rosa Ramalho(ローザ・ラマーリュ。1888~1977)の独特な作風を受け継いで現在も陶土人形作品を制作している。

ローザ・ジュリア・ラマリュ

上の写真はかつて、とある店頭で見かけたJulia Ramalhoの作品で傘立てである。とても惹かれてできれば欲しいと思ったのだが高価で、稼ぎの少なかった当時のわたしは入手を諦めたのであった。今では探さなければならないだろう。

ふくろうはポルトガルでは賢者、知恵のシンボルで、左手に持つ本には「JR」、Julia Ramalhoの頭文字が見られる。

ローザ・ジュリア・ラマリュ
真ん中の人形は子羊を抱いているので、「洗礼者サン・ジュアンもしくはヨハネ(聖ジョン)」。イエスの12使徒の一人ではなく、イエスに洗礼を授けた古代ユダヤの預言者である。ヨハネの死の顛末は後にオスカー・ワイルドの著「サロメ」に描かれている。
左のヤギは我が家にもあったのだが、猫がこわしやんした。右は魔女。箒をもっている。

ローザ・ジュリア・ラマリュ

↑同じく聖人人形。鍵を持っていることから「サン・ペドロ(聖ピーター。ペドロの持つ鍵は天国の鍵を意味する。)」

作品からわかる様に、ローザ、ジュリアの作品は聖人の人形が多い。これらの作品の特徴はどれも独特のキャラメル色であることだ。そして、拡大して右写真のように↓ひび割れのような模様が見られ、日本の萩焼が思い出される。

ramalho3.jpg

わたしがこの陶土人形に惹かれるのは、ひとつには、聖人人形という宗教性の中にどこかユーモアがあり、宗教心のないわたしでも思わず「うふふ^^」と笑いを誘われるようなほのぼのとした温もりを感じるからである。

もうひとつは、ジュリアの祖母ローザの作品が、かつて我が家にはたくさんあってわたしには馴染みの人形だったことからだ。

ローザ・ラマーリュは1977年没とあるが、生前のローザは夫の患者であったそうだ。わたしが嫁いできた1979年にはすでに他界していたが、ローザから夫にと届けられた彼女の作品が段ボール箱にどっさり入って保管されていた。
   
宗教に関心がなく、聖人ジュアンも聖人ペドロも見分けのつかなかった当時、ユニークな人形に惹かれて、わたしはその箱の中からあまり宗教性の感じられない、ヤギや民族人形を選び出して部屋に飾ったものである。幼かった子供たちも時々、これらの人形をおもちゃにして遊んだりもしていた。
 
段ポール箱いっぱいに無造作に入れられたローザの作品は、娘が生まれる段になり、それまで同居していた義母の家が手狭になるというので、わたしたちは同じ通りの借家に引っ越し、しばらくそこの車庫の入れておくことにした。

この家は小さいながらも庭と通りに車庫があった。家の裏はこの辺りでは知らない人のない土地成金ジョアキンおじさんの大きな畑で、隣は草茫々の空き地だった。

普段すぐには使用しないものをわたしはこの車庫を利用して物置小屋代わりにしていたのであった。
その車庫の立地条件が効をなして(笑)、ここからは自分が気づかないうちに、骨付き生ハム一本、大きなバカリャウ(Bacalhau=干ダラ)、ワイン、と色々なものが無くなっていったのであった。
  
毎日車庫へ行って、あるかどうか確認するわけではないので、無くなってもそれを必要とする時が来始めて、あれ?おかしいなぁ、車庫に置いておいたとおもうんだがなぁ、と気がつかないのである。(当時のエピソードについては下記にて案内)

ポルトガルよもやま話「生ハム泥棒 

ローザ・ラマリュの作品がごっそり入ったダンボール箱が無くなったのに気づいたのは、現在のフラットにわたしたちが再び引越した時だから、いったいいつ車庫から無断で拝借されたのかは不明(笑) のんきなものだ^^;

故人ローザの作品ともなれば、今では貴重品になっており、もしわたしたちが手元にもっていたらあるいは博物館に寄贈できたかも知れないと思うと、少し残念ではある。

が、それよりも、泥棒さん、箱を開けたところが宗教人形ばかりで何と思ったであろうか。それともその価値を承知して持っていったのかな?と、わたしは思ってみるのであるが、このRosa Ramalhoの人形が入った箱については後日談あり、次回に持ち越しますれば。


ポルトガルの陶土人形作家・ローザ・ラマーリュについて    
1888年に靴屋である父親と織工の母親との間に生まれたローザは、18才の時に結婚し7人の子供を育てあげた。子供の頃に一時期陶土工芸を学んだが結婚後50年ほど、家事と子育てにいそしんだ。夫の死後、68歳で再び陶土工芸を学び始め、独特のスタイルの人形を製作し名を知られるようになった。
     
ジュリア・ラマーリュはローザの孫にあたり、幼い頃から祖母ローザの仕事場に入り、その技巧を学び、現在に及んでいる。
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2017年8月3日 

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8月2日撮影。シルエット silhouette1


10年ぶりに身分証明書の再発行申請に行ってきた。

市民の公の手続きは日本では市役所でなされると思うのだが、身分証明書を始め、運転免許証、パスポート、保険証、その他諸々の書類手続きは、こちらではLoja do Cidadão(Lojaは店と言う意味に使われるが、この場合は公共建物の意味。Cidadãoは市民)なる場所ですることになります。

これが、窓口はたくさんあるに拘わらず時間がかかるったらありゃしない。通常は優に1時間はかかります。特に夏休みですから覚悟してでかけましたが、意外や、身分証明書の窓口は30分ほどで順番が来ました。

10年間有効の身分証明書でしたが、この間、このカードの様式がpcに入れると全ての情報が出てくるというチップがはめ込まれ、保険番号、納税者番号も記入されるようになっていました。

さて、古い身分証明書を提出して、係員がパソコンで情報をチェックしていると、「苗字はないのか?」と聞くのです。「ありますよ。ここに書いてある○○○○○がそれです。」

すると、「○○○・○○○○○が名前になってるよ」と言うのです。

えーー!違いますってば。最初のが名前、そして次にあるのが苗字です。日本人は名前も苗字も一つずつなんです、と、説明すれど、以前はフルネーム一式が一行の箇所に書かれていたのを、新しいカードでは名前と苗字を別々の行に書かれるように変更されたのだそうです。

だから、○○○と○○○○○を二箇所に分ければいいだけの話ではない?

ところが、係員の言う事にゃ、「新しいカード様式に変更された時点で原本には名前が○○○・○○○○○で、苗字の箇所が空欄になってる」。

そんなアホな!苗字がないなんて、日本じゃ皇族だけだど!何かい、わたしゃ皇族かい!

ポルトガル人は名前苗字が一つずつというのは、まずありません。夫のように名前が一つという人も珍しいのですが、それでも苗字は長たらしく「フィゲレードのコスタ・サントスの誰々」と言うように、誰でも二つは持っています。 それは両親の苗字の一部を夫々からもらう故です。

そこで今回のわたしの件に関して思うに、新様式に変更されたときに、原本に打ち込む人、あれ?と疑問を持ったものの、めんどくさいもので、こちらへの確認連絡を怠り、そのまま、わたしの名前苗字をいっしょくたに、名前として打ち込み苗字を空欄にしたに違いない(怒) ったくもう!

で、係員曰く、今日、このまま身分証明書を発行してもいいけど、苗字欄は空白になる・・・

冗談じゃないぜ!日本ででさえ珍しい我が苗字(テヘ^^)、家紋だって立派な「丸に揚羽蝶」だぃ!と、家紋など武士制度が無くなった時点で、自由勝手に使えたであろうことを承知の上(笑)でござんす。嫁に行ってしまった娘は継げないが、息子はこのまま継いで行くはずの○○○○○であります。

半分呆れと怒りで、力んで「ほな、原本変更手続きはできますのんか?」と質問。ここではできない故、どこそこへ行って出直してくれ」だってさ!

原本変更となると、黄ばんでしまったあの古い婚姻証明書やらなんやらと、またぞろ引っ張り出すのか、はたまた、婚姻手続きをした神戸ポルトガル領事館やら外国人登録所やらから書類を取り寄せることになるのかと、考えたらぞ~~っ!昨日はその足で、原本変更手続きができる所へ廻りました。

少し待たされましたが、意外と簡単に変更ができ、やっと晴れて、苗字が持てたという次第であります。

なんちゅうこっちゃい。

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8月2日撮影。シルエット silhouette2


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2017年8月2日 

我が家で飼っている4匹猫のうちの紅一点、13才ほどになる「チビ」が、お腹にできたしこりを切除するのに簡単な手術を昨日受けました。それで、昨日からエリザベスカラー(わたしは<パラボラアンテナと呼んでいるのだがw いきさつはこちらに)をつけているのですが、これが兎にも角にも嫌で仕方がないらしいのです。

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少しもじっとしておらず、あげく、ちょっと目を離すとカラーをつけているのにどうやってのぼったのか、台所の食器棚の上にいるのです。気が休まるのかそこでお腹を下にベタ寝しています。我が家のねこたちは下の写真のように、食器棚の上からわたしを見下ろしておりますんです。古い画像ゆえ、写りが悪いですが。

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一番若いゴローはと言うと、エリザベスカラーをつけたチビがライオンのようにでも見えるのか、尻尾を大きくして近寄らず、どこぞに隠れたまま出て参りません。

可愛い猫たちですが、寝るときは人間とは別場所です。そうでないと翌日仕事を控えるこちらは寝不足になりますから、夜間は人間の領域に入れないように廊下のドアを締めます。が、昨夜やドアを開けてくれ~と言わんばかりに一晩中しつこくカリカリ、ガサゴソするもので、わたしは夜中に2度目覚める羽目になり、3回目にはとうとう起きてしまいました。

時計に目をやると、うひゃ、まだ6時やん。朝のいつもの習慣です、一番最初は台所の側のベランダに置いてあるネコのトイレさらいでございます。それを終えてふと外に視線を向けると、お~~、「春はあけぼの」ではないが、見よ、霞がかった西の空のグラデーションが、あな、美し。早起きは三文の徳(得)といいますものね。

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「孤独には気をつけろ。孤独は、危険極まりない薬物のようにひとを蝕む。夕焼けを見ても心がひとつも動かされなくなったら、胸に手を置いてそのことを考え、愛を探しに行かねばならぬ」

先ごろ読んだブラジルの作家、パウロ・コエーリュの本に書かれていた一節を思い出しました。夕焼けにとて同じことが言えるであろうとわたしは勝手解釈し、一日の始まり、三文の徳(得)をした束の間でした。

今夕はすっかり諦めて不貞寝してるチビニャン。
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