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2017年10月30日 

昨今、ポルトガルで話題になっているのに「レストランへの犬同伴」に関する条例設定の問題があります。

我が家は現在4匹のネコを飼っていますが、かつては犬のクラウディウやポピーと共に数匹のネコを同時にかった時期もあります。我が子たちは動物好きです。

popyponpoko.jpg

息子はリスボン時代に2匹のネコの里親をし、ポルト帰省のたびに大事なギターとネコを連れてきて、我が家のネコたちとは馴染まず、ゲストルームを息子のネコが占領するという、なかなかに大変な状態でした。

我がモイケル娘にいたっては現在も3匹のネコを引き受けて以来かれこれ14年になります。娘が最初に引き取った二匹のネコはまだ自力でミルクを飲むこともできず、ちょうどわたしが日本へ帰国していたので、スポイルで数時間おきにミルクを飲ませたりして、その世話をするのにわたしも付き合ったものです。

また、わたしはと言えば、近所のジョアキンおじさんの畑のネコたちの餌運びをして、もう15年くらいにはなります。毎晩のことですから、これは夫も呆れ果て、すっかり諦めの心地でありましょう。自分が風邪などで寝込み、夫の夕食は作らずとも、ネコの餌運びだけは必ず起きて行くのですから、我ながらよぉやっとるわ。

かつて20匹ほどもいたジョアキンおじさんの畑の猫たちも動物愛護協会のボランティアが一匹ずつ捕まえては避妊手術を施し、コロニーに返すわけですが、気が付けば今は3匹だけになってしまいました。

ジョアキン猫2

こうなると、確かにノラ猫はいなくなるものの、生態上それも考えものかもしれないと思ったりします。

家ネコよりも外のネコの方が餌代がかかるのでした。また、旅行や日本帰国の際には、家ネコ同様外ネコの世話も人に頼んでいくことになりますが、自分ができるうちは続けたいと思っています。

かようなわけで、わたしもワンニャンは好きで家族の一員のような気持ちで世話をしているのですが、さて、レストランやカフェへ連れて行くかとなると「否」です。

一つには衛生面です。自分のペットなら家の中に引き入れても自分が衛生面を判断すればいいというので済ませられますが、レストランとなると別でしょう。自分のペットが感染症にかかっていないと思っていても間違いということも有り得ます。犬のアレルギーがある人もいたりします。衛生面でペットがレストランにいるのはよくないと思う人は多いでしょう。

ポルトガルのTwitterなどを見てみると、やはり意見は反対も多いのでス。中には「レストランに入れる動物は死んだ動物だけだ(つまり肉類ですw)」などと書き込む輩もおり。

二つ目は、ペットを持つ人の権利はそれでいいとして、では、犬をレストランへ連れて行かない、犬は苦手だ、などの他の客の権利はどうなるのか、です。

三つ目、家族の一員だから一緒に食卓を囲むためにペットを同伴するのなら、ペットも共にレストランで食事をする?そうじゃないとすれば、美味しそうな食べ物の匂いが充満するレストランで、ペットは我慢を強いられることになるのではないか?それは極端に言えば虐待にならないか?

四つ目、犬がいいとしたら、ネコはどうなのか?インコは?なぜ犬だけに特権が与えられるのか?
この条例が議会を通るとしても、恐らくレストラン経営者の決定に任せることになるのではないかと思いますが、入ったレストラン、ふと周りを見回せば、ワンちゃんだらけということを想像するのは、あまり嬉しいものではないとわたしなら思うのですが。

犬同伴の客を一日何人と限定するのだろうか。禁煙席、喫煙席のように犬同伴席、そうでない席と区別するだろうか。
あれこれ考えて、わたしはやはりレストランへのペット同伴はご遠慮願いたい、が結論であるのだが、みなさまはいかに?

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IKEAのおもちゃベッドでご満足のクルルとペト。やがてベッドの取り合いが始まったのでありました。
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2017年10月29日 

サン・ロック公園のラビリンスを後に更に進むと椿園があり、その真ん中にはライオン像の浮き彫りを持った噴水が置かれています(秘儀思想者、メーソンの邸宅には必ずといっていいほどライオンの噴水が見られる)。

Quinta de Sao Roque

Quinta de Sao Roque

公園の別入り口があるRua da Lameira(ラメイラ通り)に面して古い館が建っています。

Quinta de Sao Roque

この館と周辺については後日述べますが、今日は館の後ろにある人口洞窟について。 ポルトガル語ではGrutaと言うのですが、シントラのレガレイラの森を始め、この手の洞窟はポルトでも古い館の庭に見られ、必ず小さな池の側に造られています。ラメイラ館の洞窟もその例に漏れず。

Quinta de Sao Roque

洞窟は秘儀思想、アルケミスト、新プラトン主義のシンボルであろうとわたしは解釈しています。わたしたちの住む世界がこの洞窟であり、英知という光を求めてその闇を抜け、光ある外界へ出ることで囚われていた己の魂を開放する、となるのでしょうか。「英知」なるものがいったいなんであるのかよく理解していない凡人のわたしではあります。

サン・ロック公園のラビリンスと洞窟には興味があり、これまでも何度か訪れているのですが、この日は12時からの日本語レッスンの急なキャンセルが入り、いつもあちこちを散策する午前中ではなく、昼間に行きました。

洞窟も館の周辺も一通りぐるりと回り、さて、帰ろうかともう一度この洞窟に入ろうと近づいた時のことです。

Quinta de Sao Roque
洞窟の中の岩の一部が光っているのに気が付きました。光った部分はやがて段々と範囲を広げていき、とても不思議な現象でした。

空に目をやると丁度太陽の木漏れ日を池の水が受け、それが岩(恐らく花崗岩)に反射してでしょう、もわ~っとあたかも岩が光を放ち始めたような状況に、思わず鳥肌がたったのでした。

そこで、素人腕ではありますが、スマホの録画撮りをしてきました。実は録画が終わってから気が付いたのですが、草刈機のうるさい音が盛んに入っているではありませんか。それも気にならなかったほど、夢中で録画したのでありました。動画初投稿ですので、見にくい点がありましたらご勘弁。

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なんだかエラく得をしたような気がして、この日は午後もずっと清清しい気分でした。これの状況が起こることは全て計算づくめで池も洞窟も造られたのは間違いないでしょう。

豊かな物質文明に身を置くわたしたち現代人の堕落面は否めず、忘られつつある古の哲学者たちの思想を読んでみようと思っているこの頃です。

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2017年10月28日 

個人レッスンのキャンセルが入った先週、近くのサン・ロック公園(Parque de São Roque)を歩いてきました。

Quinta de Sao Roque

サン・ロック公園はポルト東部Antas、ドラゴンサッカー場近くにあり、かつてQuinta da Lameiraと呼ばれ、ポルトワイン業者のイギリス人Cálem一族が代々所有していたのをポルト市が買い取ったとのこと。18世紀に建てられたラメイラ館を含んだ公園全体の広さは4ヘクタールで園内をゆっくり散歩すると所有時間1時間ほどです。

入り口はTravessa das AntasとRua da Lameiraの二箇所にありますが、わたしはいつもTravessa das Antasから入ります。車が止めやすいのです。

Quinta de Sao Roque

この日の目的は散歩を兼ねて園内にあるラビリンスと洞窟の写真をとることでした。1.5mほどの高さのツゲで造られた迷路で何度か行き止まりにぶつかりました。
Quinta de Sao Roque


ラビリンス(迷路)に入りデジカメを上に掲げて撮った写真ですが、たどりついた中方には石柱があります。

5.jpg

下図はWikipediaで拾ったサン・ロック公園のラビリンスを上空からみたものです。

Quinta de Sao Roque

これを見て、ふとフランス、シャルトル大聖堂内にあるラビリントとの共通点はないだろうかと探っているのですが、目下分かった共通点はリング様式でリングの数が同じく11ある、中世のパターンだということです。

shrtre.png
Wikiより。

11世紀初期、シャルトル大聖堂は巡礼の中心地になると同時に新プラトン主義の学びの場となり秘儀を教えたと言われます。その教えと伝統は慎重にしかし確実にヨーロッパ社会に浸透していったと言われます。

聖堂内のラビリンスのみならず、ゴチック様式の聖堂そのものに多くの神秘的なシンボルが見られるのは当然といえましょう。そして、聖外部にはヨーロッパ最初の秘儀参入者ピタゴラスの姿も彫られています。

これらを考え合わせるとサン・ロック公園も恐らくその神秘的な思想に基づいて建造されたのではないかと推測しています。
次回はわたしがそう推測する理由のもうひとつの園内にある建造物を見てみましょう。
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2017年10月27日

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飽きもせず毎日のように窓から見える夕暮れを撮っています。実に美しい。

書き留めたいことはたくさんあるのですが、自己の日本語教材作成に取り組んでいると、パソコンに向かう時間が増え、目が疲れることが多いこの頃、なかなか落ち着いた時間が持てず、書き滞っているこのごろです。

そうでなくても普段から誤字、脱字などの失敗をしょっちゅうやらかしているので、文章に色々おかしなところがあったりで気がついた箇所は訂正している次第ですが、つくづく我が目の節穴さ、情けなく感じ入るのです。しかし、これは性格上、恐らくもう直らんでしょう(笑)

さて、2、3ヶ月に一度の割で依頼されて書く、とある会員誌の雑誌記事を書き始めて10年になりますが、多忙で締切日ぎりぎりに書き送った原稿に編集者から一箇所質問が入り、「それではこのように書き直して見ましたが、いかがでしょう?」と返送したところ、「これで結構です。」との返事。

あぁ、一段落^^と、ふとメール本文の下にある、自分が書き直して送った文章に目がいった。

「ポルトガルはカトリックコスタ・を国教としていただけに、ジュリアの作品も・・・・」

げ、カ、カトリックコスタ教って、こ、これはなんでんねん~(大汗) 
大汗かいたは一瞬のみ、己が失敗を噴出して大笑いしてしまっのですが、「カトリックを国教と」の後に、何ゆえ「コスタ」という、自分のポルトガル名の一部が入ったのか、まったく覚えがないのであります。

わたしは、書くときは思いついたままダーッと書き始め、書きながら途中の文章を直していくタイプです。その時はコピーペーストをして文章を移動したりするのですが、それ故、時にとんでもない文章ができたりして、ギョッとなるのです。

こういう状態ですから、しっかりした編集者でもいなければ、わたしなどとてもとてもよそ様の目に触れる文章など書けるものではありません、と言いながら、こうして今日もブログを綴っているのですから、もはや呆れを通り越して、失笑するしかございませんですね。長年お付き合いいただいている某雑誌社の編集の方、お世話をかけております^^;

こういうズッコケブロガーでありますが、どうぞ大目に見ていただき、末永きお付き合いをよろしくお願いいたします。

本日は短文にて御免。

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2017年10月23日 

2007、2008年以来、何度も訪れては拙ブログで取り上げてきたシントラのキンタ・ダ・レガレイラ(レガレイラの森)を、今回はダビンチ・コードシリーズの著者ダン・ブラウンが訪れました。

キンタ・ダ・レガレイラ

ニュースではダン・ブラウンがレガレイラの森にある「ダンテ新曲の井戸」の石の扉から入り、Fantastic!すごい!と連発する映像が流されました。

キンタ・ダ・レガレイラ

ダン・ブラウン氏にはトマールのテンプル、キリスト騎士団修道院をも是非訪れて関連したミステリー本を書いて欲しいものだと切望するわたしです。

キンタ・ダ・レガレイラをブログで取り上げたのは日本人では恐らくわたしが初めてではないかと思います。
シンボルが一杯のすごい森なのだと発信していたところが、今では多くの訪問客の中に日本人ツーリストもたくさん見られるようになりました。

実はわたしの中では、キンタ・ダ・レガレイラはまだ不完全な案内に留まったままで、本当の追っかけ、推理はこれからだと言えます。ここ数年、ポルトガル語のディアス先生と週に一度、ポルトの歴史本を読んでポルトガル語を勉強して来たのは、最終的な目的がキンタ・ダ・レガレイラについて出版された原語の本を読むことにあるります。

幸いにディアス先生は神学を勉強なさり宗教には詳しい方で、わたしのヘンチクリンな質問にも付き合ってくださる。下記の分厚い本を一緒に読んでいただこうというのがわたしの目論見なのですが、果たして同意してくださるかどうか。現在読んでいる二冊目のポルトの「通り」の歴史本完読後に、持ちかけるつもりでおり、いいよ、と言っていただけたとしたら、恐らく来年には読み始められると見ています。

キンタ・ダ・レガレイラ

ミステリアスな事も去ることながら、この9月に訪れたバチカン、システィナ礼拝堂の天井画を描いたミケランジェロのように、カトリックが支配した近世のヨーロッパで、神秘主義やメーソン、エルメス主義、錬金術などの異教に傾倒する人たちがどのように自分たちの信条を隠しつつ表現して生きたかに、わたしは大いに興味を持ちます。

キンタ・ダ・レガレイラは、そういった時代を生きぬいた、カトリックからするとPagan(異教徒)とされた人達が
シンボルを使用することにより分かる人には伝わるようにと、あまたの秘密が刻み込まれたポルトガル随一の摩訶不思議な森です。

実は日本のバブル期に青木建設が一時期所有し住居として使われていたことはあまり知られていませんが、なぜ買い取ったのか、いったい誰が住んだのか、この辺も大いに興味があるところです。

この秋から、これまで日本語教室で使用してきたテキストが少し物足りなく感じられ、自ら文法説明と口語、短作文練習を含めたものを作成し始め、その仕事に追われてブログ更新が遅れたりしていますが、ダン・ブラウンのレガレイラ訪問で再び探求したい気持ちが再びググッと持ち上がって来ました。

新情報も加えて再度書いていきたいと思います。

では、また。

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2017年10月18日 

「先生、ぼくのケンドー、見に来ませんか?」と日本語生徒のD君に誘われたのは何年か前だ。

昔、大阪の堂島で会社勤めをしていた頃、みんなが「ブーヤン」と呼ばれていた同僚Sの剣道稽古を見に行った時の「ヤー!ットゥー!」と強烈な印象が残っている。子供時代に棒っきれを振り回してチャンバラごっこに明け暮れたわたしは、ケンドーの名に惹かれ、夫を引っ張ってポルトの剣道場に行った事がある。

場所はBessaのサッカー場の隣、ボアヴィスタのパビリオン内です。その日は特別の稽古日で、リスボンから日本人の師範が指導に来ていた。

剣道

その日の稽古は面も胴もなし。二列に向かい合って並び、一技終わるごとにずらして対面する相手を変えて行きます。稽古場の両側の壁は一面鏡になっている。

これは神道、ひいては武士道につながる「鏡は人間の心の表現であり、心が完全に穏やかで、一点の曇りもないとき、そこに神明の姿をみることができる」を期しているのだろうかと、新渡戸稲造著「武士道」を思い出した。

「ヤー!ットー!」の掛け声とともに、竹刀がバシンとぶつかる激しい稽古を期待していったのですが、それはありませんでした。みな、真剣に師範の動作を見、話に耳を傾け、動作はいたって静かだ。

静寂な稽古場に時折響く「ヤー!」の声は、時に自信たっぷり、時に自信なさげで、個人の気合の入れ方がそのまま出ていて、面白い。ポルトガル女性が二人と、日本女性が一人(時々稽古相手に指導していましたから恐らく師範の代理)がいた。

さて、ここから本題です。近頃ではさっぱり音沙汰がなくなったが、アメリカ、カリフォルニアに住み、中年になってから剣道を始めた友人がこんなことを言っていた。

「防具をつけてからと言うもの、死ぬ思いだ。こてー!と叫んで、しこたま手首を打ってくれる。痛いのなんのって、ほんとに頭にきて、竹刀を捨ててなぐりかかってやりたいぐらいなのだ。華麗どころか喧嘩ごしだ。」

「練習が長いと息が続かない(なんしろ中年だからね。笑)、足が動かない、汗びっしょりで頭痛が始まる。練習始めの早や打ち百篇でもう帰りたくなる。」

一緒に剣道を始めた長男が「お父さん、なんでそんなに苦しんでまで剣道へ行くの?」との問いに、アメリカ人の奥方いわく、「お父さんはね、仏教でいう苦行をしてるのよ!」(爆)

剣道を始めたきっかけはというと、ある日、多少出てきた腹を吸い込み、横文字新聞紙を丸めて子供たちと太刀さばきを競ったところが、おとっつぁん、気が入りすぎ、力任せ。それをまともに面にくらった息子が大声で泣き出し果し合い中止。

「いい年して、何ですか!」とまるで、小学生を叱る先生のごとき威圧と、こんなショウ-もない男となぜ結婚したとでも言いげな奥方の呆れ顔だったのだそうな(笑)

わたしは手紙で彼の剣道の話を読むと、昔、我がモイケル娘と取り合って読んだ「ちばてつや」の漫画、「おれは鉄兵」シリーズを思い出して、おかしくて仕様がなかったものだ。

kendo.jpg
Wikiより

「試合でさ、竹刀構えてしばらくシーンと向き合うだろ?それでよ、突然、デカイ声で、あっ!と言いもって、床に目を向けるのだ。すると、人って面白いぞ、釣られて相手も下をみる。そこを狙っておめーーん!」

おいおい、お前さん、それはだまし討ちじゃんか。することがまるで鉄兵そっくりだ、と言いながら、その光景を想像すると鉄平のハチャメチャな場面が思い出され、おかしいったらない。そ、くだんの彼も、鉄兵のようにチビなのではあった。

「剣道も人生も同じです。小さいとか歳だとか、言い訳はしないことです。数年前の少年部の日本チャンピョンは片腕の少年でした。」(片腕の少年チャンピョンの話は、わたしもどこかで読んだことがある)
と自分より10歳以上も若い師範の話を聞き、以後、かれは奥方の毒舌、失笑にもめげずに遣り通すと決めたらしい。

企業家としてアメリカである程度成功したその後の彼の姿を、時折わたしはネットでグループ写真の中に見ることがある。今では剣道から拳法に移ったようだ。自分を棚に上げて言うのもなんだが、相変わらず小柄で髪も口ひげも白くなり、しかし、贅肉が見れらず、どことなしに飄とした感がしないでもない。

おぬし、何かを掴んだかなと思われる。この具合だと真夜中の酔っ払い国際電話ももう入ることはあるまい。
幸いだと思う反面、心のどこかで不意打ちの電話を待っている自分に気づき、少し寂しい気がしないでもない。

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2017年10月17日 

ポルトガルに住んでかれこれ40年近くになろうとしている。この間、自分がしでかした失敗は自慢にはならないが、両指の数を遥かに超える。今日の話はそのひとつである。

深夜も3時を回ったころ、電話が鳴った。そういうときのわたしはガバと反射的に起き上がる。さっさと電話にでないと、我が家は3箇所に親子電話があったので、そのうちのひとつがFaxにつながってしまい、ピーピーと鳴ってうるさいことしきりである。

真夜中の電話はだれも不吉な思いに襲われるもので、この時間帯に入る電話は、たいがいアメリカからのアイツであった。酔っ払って人恋しくなり、時差もかまわずかけてくるのである。その酔っ払い電話が途絶えて久しい。まさか、ヤツではあるまいの?そう思い応答した。(ヤツとのエピソードは次回にアップします)

「Dr.santosのお宅ですか?」と女性の声。「あのぉ、お宅、水出っ放しになってません?車庫のところに水がずーっと落ちてきてるるのですが・・・」

なんだとて?水が?バスルームを見たら異常なし。台所へ行くと、台所は異常な・・・おろ?なんかすごい音がしとるぞ。ゴーッと音のする先は台所の側のベランダであるよ!えええ!足を踏み入れようとしたら、おーっとっとっと!水浸しだ。

ぐは!ベランダの洗濯場タンクの水道から水が音を立ててゴーゴーと・・・・・床はタイルを敷いているのだが、その床を洗った後、ふき取る必要がないように水を流し出すために床と外壁が接する所にさな穴が開いている。タンクから水が溢れ出てその穴から下の車庫のある庭へと雨が降る如く落ちていたのでございますよ。

お~~い、ダンナ!と夫を起こし。小さな穴から水が落ちきるまでにはかなりの時間がかかりそうです。とりあえずバケツで床に溜まった水をちょぼちょぼと汲みあげること半時間(どんだけ溜まってたのだ?)、仕上げはモップでふき取り。

台所に寝ていたネコタチは「なに?なに?どったの?」とこわごわ覗いていましたが、あんたらね、水が出てるの気づかなかったノン?んもう、役立たず!

夫、「君、ここの水道、使ったの?」
「え~っと、コーヒーを沸かすのに、ここから水を汲んだ。でも栓を閉めたと思うがなぁ。それは12時近くで、その後、エデンの東=映画、を見て、5匹ネコたちを台所に運んで来た時は、こんな水の音、しなかったと思うがなぁ」←いかにも自信なげだ(笑)

変だなぁ。それにあんなふうに 目一杯に水道の栓をひねらないと思うがなぁ。なにかの拍子で、ネコでもやったんだろか・・・さっぱり覚えてないや。起こっちゃったことは、ま、仕方ないか。

「で、君、なんでコーヒーのお湯を沸かすのに、台所の水道からじゃなくて、ここから水を汲むわけ?」と夫が聞く。
「あらん、だって、あなた、台所には蛇口にはフィルターを取り付けられないからって、こっちの方に取り付けたでしょ?だからよ。」
「開いていた栓は、フィルターの方じゃなくて、台所の水道の水と同じのが出る栓だったよ」
「そんなことないわよ、これがフィルターがついてる水道の栓でしょ?」
夫「・・・・・・・・・」沈黙。「フィルターの栓は別にあるよ。ほら、上のこれだ。」
今度はわたしが「チ~~~ン・・・」沈黙。

水道

なに?それじゃ、わたしはここへ引っ越して以来ずっと、そこからのをフィルターの水だと思い込み、やっぱり台所の水道の水とは違うわねと、せっせコーヒー飲んでたと言うのぉ?
「そう言うことになるね」  なんてこった、 どーーーん。奈落の谷に蹴落とされた・・・・
ちゃんと説明してよね!と無理を吐いたあと、己のバカさ加減が可笑しくて真夜中に大声出して笑ったのでありました。あほらし。

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2017年10月16日 

長年の友人知人には既知のことなのですが、1970年代の大阪時代はアメリカ留学の資金調達のため、
梅田新道にあった「アサヒビアハウス」でわたしはパート歌姫をしていました。
その懐かしいよき時代については「あの頃、ビアハウス」と題して、当時のビアハウスに通いつめていた個性豊かな常連たちについて綴っています。

わたしの古巣「梅新アサヒビアハウス」は今では建て替えられたビルの同じ場所に「アサヒスーパードライ梅田」と名を変え、ビアソングが聴ける店として、往時の名残を少しだけとどめています。

が、目をつぶると浮かんでくる我が梅新アサヒビアハウスは、古い大理石の柱と手当てが行き届きピカッと光った年期の入った木製のテーブルと椅子、春秋常連たちで賑わうホール、アコーディオンとリズムボックスの小さなステージ、歌姫が歌うオペレッタ、ビアソング、その合間を縫ってカンツォーネやオペラのアリアを歌う常連たちの姿で溢れていました。

あれは、あの時代は幻想だったのか?と40年もたった今、ふと自分に問うてみたりします。ポルトガルでの日々は歳をとるごとに忙しくなっているような近頃のわたしですが、梅新アサヒビアハウスをひと度思い出すと諸々の思い出に一気に襲われ、しばしわたしを離すことがありません。

昨日のことです。フェイスブックでつながっている知人が投稿したYahooニュースに、え!と驚かされました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171015-00000030-mai-spo

<訃報>葉室三千子さん97歳=マスターズ水泳世界記録保持、とありました。

ご主人の葉室鉄夫先生とともにアサヒビアハウスの常連の一人で、皆して葉室ママと呼んでいたのでお名前が「三千子」さんだったなど知りませんでした。ご主人の葉室先生2005年にお亡くなりになっており、その後の葉室ママは「マスターズ大会(60歳以上を対象としたスポーツ大会)」で活躍なさっており、2014年には100メートル平泳ぎ95~99歳の部で世界記録を果たされたとのこと。このニュースを目にするまでわたしは全く知りませんでした。

葉室ママにはアサヒビアハウスで時々声をかけていただきましたが、親しいお付き合いはないのですが、ビアハウスでは、むしろご主人の葉室先生とよく歌をデュエットした思い出が大きいです。

今日は葉室ママを偲んで、直接の思い出ではありませんが葉室先生との思い出を再掲したいと思います。以下。

「あの頃、ビアハウス:知床旅情」

「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒビアハウスでよく歌った歌である。この歌はわたしの青春の彷徨の歌でもある。

数十年たった今でも「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
  思い出しておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで 丘にのぼれば~

アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「♪君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。

1ビアハウス
だきしめんと~で、こういう具合に↑笑

加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。

大学進学を諦めきれずグズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリス、アメリカ、果てはポルトガルくんだりまで流れ着くこととなってしまったわけではありますが。

spacesis19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて汽車で札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時わたしは札幌の豊平川のほとりで生まれて初めて野宿とやらを経験するのでした^^;  

川のほとりに腰を下ろし、一晩中水の流れに聞き入って夜を過ごしたのです。 芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられまへんよ。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのである。 とにかく寒かったです・・・・

札幌には一月ほどいました。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして知ったのが「知床旅情」と「白い思い出」だったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「ほぇ?」と思ったものである。

ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに、彼によって作られ北海道から広まった歌だと聞く。

やはり、であります。「地の涯に生きるもの」は遠い昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し氷の間から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ おれたちの彷徨を・・・

わたしが19の頃は、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。

葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。

2005年10月31日(月曜日)(1)

今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。

「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。

葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話しすることができました。

温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生がいらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。

「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです。いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、先輩歌姫の宝嬢がこの役を仰せ使うわけでして^^。 要はステージでのサービスなのです。

奥様ともよくいらっしゃいました。
2ビアハウス
左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。

毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、普段の伴奏はヨシさんのアコーディオンだけなのが、この日はドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生です。

3ビアハウス

1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト

何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で間近にヒットラーに会ったと言うことに触れておられました。

今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。

知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと天上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!の意味)と杯をあげていることでしょう。


フェイスブックでつながっている件の知人とは、「また一人アサヒビアハウスの常連スターが逝かれましたね。
今頃、葉室ママを迎えてさぞかし天上のビアハウスは賑わっていることでしょう」と話したのでした。

あの頃の常連さんたち4分の3は天界で毎晩「Ein Prosit」と杯をあげているのが目に浮かぶようです。
葉室ママ、そしてみなさん、またあちらでお目にかかりましょう。
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2017年10月15日

現在は東京の大学、数箇所で英語講師をしている我が東京息子がリスボンに住んでいた頃の話をば。以下。

夏休みを返上して、丸一ヶ月9時から6時までTEFL(テフル=Teaching English as a Foreign Lauguage=外国人に英語を教える教授法)コースをとり、めでたく英語教師免除をとった息子が、リスボンのとある語学学校で英語の特別個人教授をしていたときのこと。

生徒は日本からやってきている30代の女性だそうで、教本には書かれていない教授法のコツのようなものがあるので、そのツボを押さえておくと、授業はいいものになると思い、補習校での20数年間と日本語講師のこれまでの経験があるわたし、息子にあれやこれやメッセで話しながらアドバイスしていた。

ある日、彼が再び日本語を勉強するきっかけに或いはなるかもしれないと思い、外国人のための日本語教本英語版をコピーして息子に送った。この教本は、英語を教えるのにも意外と役立つと思ったのである。

本日も、授業はうまく運んだか(一回のレッスンが3時間ぶっ通しである)とメッセで聞くと、その日はずいんぶんうまく行ったとのこと。送った日本語教本が英語授業に役立ってるらしい。

「ねね。BOINってどういう意味になる?」と息子が聞く。
(ネットでの会話は今でこそ息子とは日本語だが、当時のメッセ会話はすべてローマ字だ)
「ボ、ボイン?^^;」・・・・
「そ、そりゃあんた、maminha(マミーニャ=オッパイ)の大きいのを言うのだよ。」と、俗語も知っておいたほうがいいと思うので一応ちゃんと説明をつける。
「"ボインちゃん"なんて言ったりして使うのだ」とわたし。(←残念ながらわたしではないw)
と、せんでもええのに、余計な例まで上げて^^;

息子「じゃ、HAN-BOINって?・・・・ママ、それじゃ、意味が通らないよ。
    第一、これは日本語言語の言葉だぁ~!」
母  「うげ!@@@@か、勘ぐりすぎた!」
息子よ、先にそれを言ってくれぃ。

ボイン 母音 拇印と色々あって、ローマ字でBOINっつったって分からんぞ、と自分の早とちりを棚に上げて(笑)
息子の言うのは「母音、半母音」だったのでした(汗)

いやぁ、日本語も色々ですわ。
ん?あんたが早とちりなだけだって?@@ は、はい、さようでござんす。

とっつばれ。(津軽弁で「おしまい」の意味)
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2017年10月11日 

adam_eva.jpg
Wikiより

ユダヤ教の解釈では楽園に描かれる禁断の果実はりんごではなくいちじくだと言う。ミケランジェロはシスティナ天井画のいたる箇所に痛烈な教皇、バチカン批判を暗号として描き残したわけだが、ここでは紹介しきれないので、解説に興味のある方は本、「ミケランジェロの暗号・早川書房」を読むことをお勧めする。

その才能を見込まれ、ミケランジェロは10代の頃からカトリック一色の中世にあって、カトリックの説く教義と異なった自由思想を育む環境である、当時ヨーロッパ随一の大富豪フィレンツェのメディチ家に迎えられ過ごした。

メディチ家は芸術家たちの生活を援助し後ろ盾となって古代神秘主義、ギリシャ哲学、ユダヤ教の思想を自由に学べる場所として広大な館を彼らの塾の如く提供していたのである。

システィナ礼拝堂はユダヤ教の神殿を再現して建てられたと言われる。反ユダヤ主義をとりながらユダヤ教の神殿に似せカトリック教皇自身の権力を誇示しようとする天井画計画を言いつけどおりには、到底承服できなかったミケランジェロだ。彼の一徹な性格は教会の腐敗、欺瞞に我慢がならなかったようだ。

この反骨の芸術家は自分しか考え付かない天井画の構想を練り続けた。バチカン宮殿で日常的に目にする数々の偽善や権力の乱用にたいして、日頃から感じていた激しい思いを、投獄されたり処刑されたりせずに伝えることができる方法を、である。

システィーナ天井画がカトリック教義を表す作品であるのに、天井に描かれた300人を超す人物の中には、実は一人もキリスト教徒がおらずキリスト教的な含みはことごとく欠けているのだ。中世時代であるので高さ約20メートルの天井画であれば、ミケランジェロの絵画の意図は容易には見破られなかったのであろうと、
実際にシスティナ礼拝堂に入るまでそう思っていたのだが、暗号を含むと言われる絵画がはっきり見えたのは思いのほかであった。

現在わたしたちが目にするのは色彩鮮やかな修繕されたものだが、出来上がった当時はきっと同じだったはずだ。天井画を目にした教皇が絵画に秘められた数々の暗号に気づかなかったのがまたミステリーなのである。ユリウス2世教皇は目が悪かったのだろうか。この教皇は天井画完成後4ヶ月もしないうちに息をひきとったのである。

教皇とぶつかりながら、頑固な面構えで時には教皇たちの虚栄心をくすぐらなければならなかったにしろ、ミケランジェロは見事なまでにバチカンにしてやったのだ。

続きます。
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2017年10月9日 

ローマはちょっとお休みして、今日は古い記録をエッセイにしてみました。
以下。

炉端焼きと呼ばれる居酒屋にわたしは限りない愛着がある。そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端では、わたしは常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌なので、わたしからすればそれが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端にジャズやらシャンソンが流れていたら、中華料理店でフランス料理を食するようなものだろう。泣き節の演歌はあまり好みではないが、それが炉端にぴったしなのにはどうにも仕方がない。

外国人の友人ができると、わたしは必ず炉端に案内したものである。当時は値段も手ごろ、肉類が苦手なわたしには、野菜魚類が多いのも嬉しかった。それで、あの頃は恋人だった現夫も時々わたしに引っ張られて何度か行っている。

京橋炉端に、当時ポルトガルからきたばかりの新しい留学生だったマイアさんを夫と二人で案内したときのことである。マイアさん、頑としてナイフとフォークで食べると言ってきかない。炉端のお兄さんが、同じ地下街にある隣の洋食レストランまで走って行って、ナイフとフォークを借りてきたことがあった。「こんなお客初めてだっせ・・」と言いながら(笑)

わたしが勤めていたオフィスの東京本社には、ハーバード大出のボブがいた。本社とはしょっちゅう電話連絡をとっていたのだが、初めてボブと話した時は、ん?とは少し思ったものの、まさかその電話の相手がアメリカ人だったとは聞かされるまで気づかなかった。

その彼が週末を利用して、大阪へ来たときもわたしがバイト歌姫をしていた梅田アサヒ・ビアハウスと炉端に案内した。日本語はハーバード大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに議論して盛り上がったのである。もちろん日本語でである。

日本びいきのその彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で「炉端 愚論人=ろたば・ぐろんじん」とつけて、印鑑を作るまでに至ったのには、恐らくわたしとの炉端焼きの体験があるに違いない。アサヒ・ビアハウスに彼を案内したときは、ホール中、ヨシさんのアコーディオンに併せポルカを踊り、わたしは引きずりまわされ、見ていた常連達もボブの素晴らしいステップにはすっかり目を回したのだった。ボブについては次の機会に「思い出エッセイ」として再掲したい。

さて、当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横にあった炉端焼き。

ここには、木彫家の我が親友、「みちべぇと」よく行ったものだ。みちべぇは女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、当時同じ駅のすぐ側に両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、年の差も忘れて(わたしがグンと上なのだw)意気投合。以来40年以上のつきあいである。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、今のようにとても手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端への思いもまた募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人になったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論を交わしてみたい」と、それが夢になったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の場とは、人生論を戦わせる場でもあったと思う。 会社や上司の愚痴もあり、しかし、人生の夢を語る場でもあった。 お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場ではなんだかできたような気がするのだ。 
あれからもう40数年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるものではなくなったようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、日本の現代人は、どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。しらふで語ることも勿論大切だが、人の人生って理屈だけでは語れない部分があるのじゃないかと、わたしは思ったりする。
家族みんな揃って人生論をぶつ、なんてのは、まず想像するに難い。すると、やはり、ちょっとお酒なんかあったら語らいやすいなぁ、なんてね。

若い時にこそ、老若男女一緒になって、こういうことを「ぶってみる」のは、自己啓発、人生勉強になると思うのだけど。それとも、人はもう青臭くて人生論をぶつことなんか、しなくなったのだろうか。

そうそう、我が息子と人生論を戦わすことは夫も混ぜて時にするのだが、炉端焼きで夢はまだ叶っていない。来年の帰国時には都内の炉端焼きを探し、モイケル娘夫婦も入れて是非、行って見たいなと思っている。

どなたか、東京近辺の手ごろな値段でおいしい炉端焼きをご存知だったら、お教え願いたい。
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2017年10月9日 

できれば実際に見てみたいと願っていたシスティナ礼拝堂の天井画を見たわけですが、残念ながら現在は撮影禁止です。そして、人の多かったこと!9月半ばでも恐らく観光客は多いだろうと推測し、夫にはそれとなしに「早朝の見学が静かでゆっくり観られるみたいよ」とは言っていたのですが・・・

早朝見学は料金も通常の倍で50ユーロ(約6500円)以上です。わたしが駄々をこねなかったことを良しとし、夫は昼食の時間帯なら大丈夫だろうと、その時間の見学予約をしたのです。
意外と小さな礼拝堂に一杯の人です。立ち止まってゆっくりなど壁画天井画を見ることはできませんでした。
警備員がひっきりなしに入ってくる観光客に「動け」だの「静かにしろ」だの「撮影は禁止」だのと大声で注意を促します。

その中に、ダメだというのに警備員の目を盗んで撮影する不届き者がいて、その御仁、何度も注意されたにも拘わらず盗み撮りをしたもので、最後には礼拝堂から追い出されていました。わたしもつい嬉しさのあまり
撮影禁止を忘れてデジカメを天井に向けた途端、夫に「禁止だよ」と促され、あやうく恥ずかしい日本人を演じるところでした。

というわけで、本日は自分が撮影した画像はなしですが、過去にあげたシスティナ・コード記事を再掲したいと思います。以下。

一般常識として名画の名前はある程度知っているつもりだ。
わたしが高校の美術の教科書に載せられた名画の中で一番最初に心惹かれた絵はべルナール・ビュフェの「アナベルの像」である。輪郭が黒い線ではっきり描かれた白い服に真っ赤なショールをまとったアナベルの絵はとても印象的だった。ビュフェのアナベル像には青い服を着たのもあり、こちらも好きだ。ビュフェのサインもカッコいいと思ったものだ。

しかし、好きな画家を挙げよとなれば迷わずシャガールとゴッホを挙げる。ミケランジェロはといえば、「最後の審判」は名を知っているがこれまで複製の絵もきちんと見たことはなかったが、角があることで知られる「モーゼ像」の彫刻作品だけはミステリー好きのわたしだ、何ゆえの角なのかと不思議に思いながら何度か写真を目にしている。そして今回読んだ本でその謎は解き明かされているのだが、これについては後日とりあげたい。

mosse1.jpg
Wikiより

この本のタイトルに「暗号」という言葉がなかったら、わたしは手にとらなかったやも知れない。ミケランジェロが描いたバチカンのシスティーナ礼拝堂に秘された暗号を知るのは、キリスト教が絡むことなので趣味で探っているグノーシス主義の勉強からいずれ辿り着いただろうが、もっともっと後になったと思う。

わたしは無宗教だが西洋宗教を独学しているのには少し訳がある。

キリスト教の教義にはどこか無理があると思い始めたのは1960年代の高校時代だ。科学技術の分野を取り上げてみると、フランスの初の核実験から始まり、後Chinaも初核実験、東海道新幹線が開通、東京オリンピック、ソ連ボスホート2号の人類初の宇宙遊泳と、人類の技術は目覚しい進歩を遂げた。

地球上の生物がどのようにして誕生したのかなどは、これまで信じられてきた説に対する異論も公に出始めた頃ではないかと思う。

わたしは旧約聖書を物語として読むのが好きだった。奇跡の場面などは何かカラクリがあるに違いないと、色々な方法を無い頭で想像してみたものだ。古代からこの世には多くの賢人がおり、凡人のわたしが考えることを彼らが考えなかったはずはないのではあるが。

ローマカトリックの教えが全てでキリスト教信者でなければ人にあらずの何世紀もの長い時代に、異なった思想をもつ偉人たちはどのように抗ってきたのかに興味をもつ。

4世紀の女性数学者であり天文学者、哲学者であったアレキサンドリアのヒュパティア、ご存知、「それでも地球は回っている」と言ったのはガリレオ、いわずと知れたレオナルドダ・ヴィンチ、現代では形が変わってしまったが過去のメーソンたち、これらの中にテンプル騎士団も入るのではないかとわたしは思っている。そして、非凡な才能を持したミケランジェロがいる。

信念を貫き通したヒュパティアはキリスト教徒によって非業の最期を遂げ、ガリレオは異端審問裁判で後の一生を監視付きの永遠蟄居を強いられた。が、ダ・ヴィンチ、メーソン等は表向きキリスト教信者を装い、暗号を残すことで反抗したのである。ミケランジェロもその一人に数えられよう。

さて、ここから「ですます調」です。

己の絶対的権威を保持し並外れた野望を持つ当時のローマ教皇たちへのミケランジェロの反骨精神には驚嘆を覚えます。本来が彫刻家のミケランジェロ、不本意なフレスコ画をしかも天井に4年間も拷問のような姿勢で描き続けなければならなかったのです。

そうでなくても激しやすい性格の天才、高い天井画であればこそ、積もり積もった不満をフレスコ画にぶつけたのでしょう。なにしろ、この時代は報酬は得るものの、バチカンからの仕事を断る自由がなく、異端者と分かれば死は免れなかったのです。

では、序文が長かったですが、システィーナ礼拝堂のフレスコ画に参ります。

sistyne1.jpg
Wikiより

システィーナ礼拝堂天井画の一部です。真ん中は左から天地創造に始まりノアが方舟を降りて陸地に足を運ぶまで。天井画の左から二つ目を切り取ってみました。

sistyne2.jpg

ご覧あれ。よくよく見るとアンジェロさん、なんてことを!と言ってしまいそうな創造主の後ろ姿。これは教皇ユリウス2世に神からの永遠の嫌がらせをと、いやはやなんともお下品なメッセージではございませんか。
教皇が儀式を執り行う場所の天空から、創造主が聖なるお尻をのぞかせているのです。

バチカンが気づいたのはずっと後のこと。1900年代後半から20年ほどをかけて修復されたフラスコ画ですが、劣悪な状態になっていた絵に新たに色彩を施して現れた原画には誰ならずとも驚かされたことでしょう。天才ミケランジェロの憤懣やるかたない怒りが感じられるのを通り越し笑ってしまいます。

次回に続きます。
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2017年10月6日 

夫が運転する車中で「カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞受賞」のニュースが流れました。

「英国人と言ってるけどカズオ・イシグロって日本人の名前じゃない?」と夫が聞く。
そそ、日本人だったけど家族と英国に移って後に英国人の国籍を取得した作家よ。作品に映画化されたものがあるし、わたしは彼の短編「Family Supper」を読んだ事がある。日本人というよりむしろ英国人かな、と夫が知らなさそうなので、実は少しばかり自慢っぽく説明したのでした。

カズオ・イシグロという日系英国人作家をちょっとしたいきさつで知ったのはかれこれ10年以上も前のことです。

この区域の高校で先生をしている我がフラットの前に住む女性が、「英語を教える同僚がいて、教科書でフグという毒魚を食べる短編を授業でしたのだが、日本文化に生徒が興味を示している。誰か日本人を知らないかと聞かれた。ユーコさん、してもらえない?」と申し出があったのでした。

してもらえないかというのは、つまり日本文化紹介の授業です。それが2004年だったと思います。その時に参考にもらった教科書のコピーがKazuo Ishiguroの短編「Family Supper(邦題は夕餉)」でした。

作家の名前は初耳でした。話が来たときは、日本文学の英訳したものを授業で使っているのか、あまり褒めたものではないじゃないか、などと鵜吞みにしたのですが、調べてみると、この作家は幼児期に家族と渡英した帰化人とあるのです。

その作品がポルトガルの高校の英語教科書に載るなんて、名誉なことだなぁと感心し、結果、わたしは胸ドキドキの思いで、ポルトガルの高校生相手に初めて教室で英語で授業をすることになったのでした。

その後、更に2度に渡り同高校で毎年「Family Supper」の単元がやってくる毎に、ボランティア授業をしてきました。

これがわたしの日本文化紹介ボランティア活動の出発になったと言えます。そのような訳でわたしのボランティア活動とカズオ・イシグロは切り離せないものなのです。

彼の作品で映画化された「The Remains of the Day(邦題:日の名残り)」は、アンソニー・ホプキンス主演の旧英国の卿に仕える頑固なまでプロフェッショナルな黄昏時期に達した執事の人生を描いた秀作です。原作者の感性は日本人ではなくイギリス人そのものだと思いました。

下記、3度目のボランティア授業の様子を過去日記から引き出します。

2008年2月12日(火) 日本文化紹介ボランティア

行って参りました、高校でのボランティア授業。
夕べ午前2時まで下準備。それでも終わりきれず今日の午前中ギリギリまでタイプを打ったり、展示する物を引っ張り出したり。下が持っていったもの一式です。

日本文化授業

左に丸めてある大きなポスターは我が同窓生が送ってくれた弘前公園の桜まつりの写真。その他、言葉で伝えるよりも目で見た方が分かりやすいものの大きな写真コピーも。

もちろん、夕べから今日の午前中ギリギリまでタイプした授業のための英文トラの巻き5枚もしっかりと^^
これを見て棒読みするわけではないのですってば^^;こうしてタイピングすることで話したいことがだいたい頭に入るのであります。

日本文化授業3

我が家から車で10分ほどのところのErmesindeという区域にあるリセウです。写真は校門を入った正面にある校舎の一部で、そこから校内に入りました。

「2年前に入った校舎と違うな?」と思いながら、ここでフランス語とポルトガル語を教えている友人から依頼してきたポルトガル人の英語の先生を紹介され、授業をしてもらう場所ですと、彼女に案内されたところが・・・↓ここ・・・

2日本文化授業

うげ!オ、オーディトリウムじゃないの!

そんな話は聞いていなかったぞぉ~。それにプロジェクターはあるが、わたしの好きな黒板がないではないか!簡単な漢字も三つ四つほど覚えてもらおうと準備してきたのに@@
家を出るときに自分の黒板を持っていこうかな?と一瞬その考えが頭をかすったのだが、やっぱり我が勘は正しかった^^;と、しつこく黒板にこだわるspacesisではある(その訳はこちら。笑)

ああだらこうだら言ったところで仕方がない。授業開始時間までの15分ほどの間に、持ってきた小物を並べ、弘前公園や京都の庭園、紅葉のポスターを壁に貼る。
日本文化授業4

小物は雰囲気を作るためにこんな風に並べて出来上がり。

「生徒さん、入りますよ。」と声がかかり、ゾロゾロ入ってきた生徒の数は70人ほど。後で聞いた話が3クラス合同だったそうで。これも予期してませんでした。てっきり2年前同様、普通の教室で20人ほどの授業だと思い込んでいたのです。

授業の内容は
1.日本の重要な行事。
2.日本が大きな技術発展を遂げた理由は?
3.日本文化と日本社会について。
4.日本社会が閉鎖的な理由
5.日本の物価
6.伝統的スポーツ、気候
7.フグについて。(授業の課題がイシグロ・カズオの短編「Family Supper」。この物語にフグが
  出て来る)等等。

ちなみにこちらは英語の授業は英語で行われますから、わたしも英語でとの依頼。しかし、今回資料作成でタイピングしてみて、スペルの訂正表示がい~っぱいでした。話すときはスペルを気にしないでいられるものの、これはいかん・・・

言葉は生き物。使わないと日々こぼれ落ちて行くことを実感。息子の日本語のこと、あまり言えません・・・

お喋りすること1時間ちょっと、終了後は花束と有名店のチョコレートを頂いて来ました。そして、前回J-ポップを紹介しようとチャゲアスの歌、「On your Mark」CDを持っていったつもりが、間違って別のを持っていき、ガーーンでしたので、今回は確認してラジカセごと持って行ったのですが、寝不足がためか、CDをかけること自体しっかり忘れておったのでした^^;

ポルトの高校生にJ-ポップを聴かせられるのはいつのことやら・・・


とまぁ、相変わらずトホホなわたしでありましたが、カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞受賞、おめでとうございます。そして、小さなことですが、イシグロ氏の作品がきっかけで貴重な体験を得ることができた幸運に感謝するものであります。

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2017年10月4日 

バチカン市国、サン・ペドロ大聖堂内部を一挙に書きます。

1) 聖なる扉
「Porta santa (Porta=扉、ドア、santa=聖なるの意)」と呼ばれ、ポルトガル語と同じです。
サンペドロ大聖堂

サン・ペドロ大聖堂内には5つの扉がありますが、その中でもっとも重要なのがこの「Porta santa」です。一般的には25年ごとに開かれるこの扉を通って参拝すると、犯した罪が許されると言われています。扉に彫られてある絵は受胎告知に始まるキリストの生涯でしょうか。

サンペドロ大聖堂
Wikiより

聖なる扉が開かれる儀式は、新約聖書ヨハネ10・9に見られる「わたしは門である。だれでもわたしを通って入る者は救われる」、また、ルカ11・9「求めよ、さらば与えられよう。叩けよ、さらば扉は開かれるであろう」をシンボル化したものだと推測されています。扉の上には、サン・ペドロが持つシンボルである「天国への鍵」が見られます。

2) 椅子に座るサン・ペドロ像

サンペドロ大聖堂

この像の前には警備員が立っており、長い間立ち止まって見ていると早く動けと促されます。なぜなら、写真で見るように、この像の足に触れたり、接吻したりしてご利益を願う人が大勢並んでいるからです。そのせいで、サン・ペドロ像の足は磨り減っています。

東京の亀戸天神の神牛坐像もそうです。ご利益を願って訪問者が撫でていくもので、テカテカになっています。宗教の違いはあれ、東西南北、考えることすることは似ています。

3) さて、大聖堂の一番奥、「ペドロの司教座」には、ペドロが使ったと言われる木製の椅子が玉座にはめ込まれています。ベルニーニの作品です。ロレンツォ・ベルニーニはダン・ブラウンファンならその名が登場する「天使と悪魔」で知っているでしょう。
サンペドロ大聖堂

4) そして、その前にはこれもベルニーニの手による4本のねじれた柱のが天蓋を支える「教皇の祭壇」があり、その真下の地下にはサン・ペドロの墓があると言われます。
サンペドロ大聖堂

5) 天蓋の上がミケランジェロが設計したドームです。

St-Peters-Cupola-1.jpg
Wikiより。うっかりドームの写真を撮り忘れ^^;

ルネサンスとバロックの巨匠、カトリック教会に遮二無二したくもない仕事(システィナ礼拝堂のフラスコ絵など)命令され、様々な暗号で反抗し続けたミケランジェロと表面上の装いで教会から愛されたロレンツォ・ベルニーニ。この二人の作品を上下同時に鑑賞できるこの贅沢さ。

その長い歴史の息吹が21世紀の現代でも感じられ、大いに興味がそそられる街、それがローマ、バチカン市国です。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた!
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2017年10月2日 

ピエタ(Pietà)とは、十字架から下ろされたキリストの亡骸を膝に抱く聖母マリア像の彫刻や絵のことを言います。

ミケランジェロの彫刻のなかでもダビデ象同様つとに有名なので、宗教に興味のない人も一度は本などでみたことがあるのではないでしょうか。

わたし自身は信者ではありませんが、旧約聖書や神秘主義思想には歴史的な面で、多少興味を寄せて独学してきました。このピエタ像を始め、システィナ礼拝堂の天井画など、これらの作品がバチカンの権力に生涯目一杯反抗したと思われるミケランジェロが制作したという点で、一度はこの目で見てみたいと願ってきました。

今日はミケランジェロの名声を確立したとされるサン・ペドロ大聖堂内のピエタ像についてです。

Pieta

写真が曇っているように見えるのは防弾ガラスで保護されているからです。1972年に精神に異常をきたした男が鉄槌でマリア像に襲い掛かり叩き壊すという事件が起こり、修復作業後、現在のように防弾ガラスで保護されるようになりました。

さて、これはわたしが楽しみながら読んだ本の受け売りですが、ミケランジェロは友人のラグロラ枢機卿からピエタのテーマで作品以来を受けます。1年以上も心血を注ぎ精魂をこめて制作に漕ぎつけた素晴らしいピエタ像でしたが、当時はどんな芸術家も作品に作家の署名は許されませんでした。

ピエタ像のお披露目の日、サン・ピエトロ大聖堂の柱の陰に隠れて群衆や評論家たしの称賛の声を耳にしますが、そのうちこの素晴らしい作品はフィレンツェ以外からやってきた者の作品に違いないという声も聞きます。

ミケランジェロは、当時既に衰退していたフィレンツェのメディチ家ロレンツォの保護の下、その邸宅で一流の教師、哲学者、画家、科学者たちに彼の神秘主義思想を形づくった教育を受けてきたのです。この声を聞いてカットなり、その夜大聖堂に侵入し、自分の傑作によじのぼり、マリアの胸にかかる飾り帯の上に「ミケランジェロ・ブオナローティ、これを制作す」と大急ぎで刻み込みました。

侵入者は見つかるとすぐスイス衛兵に首をはねられるのですから、びくびくしながら慌てて銘を彫り付けたミケランジェロ、何箇所かつづりを間違ったり、脱字があって無理やり文字を突っ込んだりしたようで、本を読みながらこれには大いに笑わされました。

結局、署名が発見され、ミケランジェロは好きでもない教皇に頭をさげることになりました。88年の生涯で彼の名が記されているのはこの作品だけです。

もうひとつ、このピエタ像に秘められた秘密があります。聖母像を見たらわかるのですが、顔が若すぎます。ミケランジェロはこれについて、「無原罪の聖母は歳をとらないのだ」との説明をしたとか。しかし、これは聖母であると同時に、ミケランジェロがメディチ家で学んだ旧約聖書の「創世記」に登場する、信心深く美しいアブラハムの妻サラをも表しているとの推測があります。

となれば、世界一有名なキリスト教の重大なテーマを持つ「ピエタ像」にはユダヤ教の秘密が隠されているということになり、ミケランジェロよ、してやったり、ではあります。

ということで、本日はこれにて。
次回は同じくサン・ペドロ大聖堂の内部についてです。
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2017年10月1日 

2年前にバルセロナを訪れた際、肝心の入場したかったところ、サグラダ・ファミリアやガウディ公園その他の主だったところは、前もってネット予約をしないと入れないと言う悔しい経験をしたので、ローマ旅行の今回は、バチカンのシスティナ礼拝堂とコロセウムは是非と思い、ネット予約をして現地で入場券を受け取るということをしました。

今日はシスティナ礼拝堂入場前に訪れたバチカン広場の紹介です。

バチカン市国は世界で一番小さい国ですが、カトリックの聖地です。毎水曜日はミサと法王の謁見の日で、たくさんの信者が広場を埋め尽くします。わたしたちが行ったのはその水曜日でした。

広場入場の際にはセキュリティチェックがありました。空港と同じで荷物とボディーチェックです。

バチカン

写真正面の建物がサン・ペドロ大聖堂です。
広場の中央には世界中から謁見にやってくる信者たちの座る椅子が並べられており、この日は環境客は広場の周囲に巡らされた柵内に入ることはできません。教皇フランシスコの説教が良く見聞きできるように、大きなテレビ画面が数箇所に設置されています。
151-1.jpg
 
すると望遠鏡を覗いていた夫が、「Papa(ポルトガル語で法王のこと)が、真ん中に座っているのが見えるよ」
と言うのです。カメラをズームアップしてなんとか見ることができました。
バチカン

この後、静かにこの場を出て、システィナ礼拝堂へ向かったのですが、それは後日書くとして。

バチカン

これが有名なバチカン市国と教皇を護衛するスイス衛兵です。青、赤、オレンジ、黄色の縞の16世紀ルネサンス時代のひときわ目立つ制服を身にまとっています。現存する国軍では創設時期が最古の軍だそうです。

採用基準を調べてみました。
・カトリックのスイス市民
・年齢は19歳から30歳まで
・身長は1.74メートル以上
・中等学校または相当する職業訓練校と、スイス軍の基礎訓練課程を修了
・スポーツ能力と人品が良好であること
・伍長と兵は独身であること

2006年現在で計110名の兵、3個グループ の構成だそうです。
モットーは「勇敢にして敬虔に」。ヨーロッパの傭兵の中でも無類の強さで知られていたスイス傭兵がバチカンに採用されたのは16世紀のことです。1527年5月6日のローマ略奪の際には189人のスイス衛兵のうち147人が勇敢に戦い戦死しています。
ローマ略奪とは1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件のことです。

ダヴィンチ・コードの著者ダン・ブラウンの主人公ラングドン教授がバチカン、ローマで活躍する「天使と悪魔」を読まなかったら、わたしはこのスイス衛兵隊の存在を知らなかったかもしれません。

そして、「ダヴィンチ・コード」を手にしていなかったら、テンプル騎士団とポルトガル歴史の関係に気づき、拙ブログ左欄のカテゴリにある「spacesis、謎を追う」も始まらなかったでしょう。本で知るだけでなく、実際に自分の目で確認できる距離にあるということは、大いに勉強の刺激になります。

今回のローマ旅行では、自分の目で見て見たいと思うものが、いくつかあり、それでヨッコラショと腰を上げたのでした。それらを一つずつ取り上げて行きたいと思います。

次回はサン・ペドロ大聖堂の中です。
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