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2017年11月29日 

日本語教室、個人授業の生徒ですが、長年の付き合いで生徒というより友達のマリアさん、週に一回の授業は教えるわたしも毎回楽しい。

78歳の彼女はTai chi(太極拳)を習っていて、冬でも半袖です。うわ!寒くないの?と聞くと、「触ってごらん」と言って腕を差し出します。触ってみると温かいのです。我が家に通うのも途中でバスを降り、20分ほどは歩いてくるのが常です。溌剌としたエネルギーが、本人の体から、精神から伝わってくるようです。

基本文法のテキスト2冊は数年前に修了しており、読解力本も一通り終わってここ数年は彼女が持ってくる現代作家のエッセイや短編小説を授業で読みます。と言うよりも、マリアさんに読ませられているとの感がなきにしもあらず(笑)

なぜなら、例えば最近では村上春樹、酒井順子がそれで、私自身は恐らく自分からは手にしない種類の読み物です。日本にいたころから活字中毒のわたしでしたが、「一緒に読んでください」と彼女がもってくる読み物は、わたしが、あの頃手にして読んだ本の文体と明らかに違っています。

そんな訳で、読み物の内容よりも日本語がどんな風に現代作家に使われているのかを知るのが面白いところです。

さて、マリアさんが先日、日本の知り合いから送られて来たので、その本の内容はだいたい分かる故、それは置いといて、前書きを読みたいと持って来たのがこの本です。

Nasreddin

ナ、ナスレディン?ひゃ~、懐かしや!

わたしは高校の授業での英語学習意外はほぼ独学なのですが、アリゾナ大学のESL(English as a Second Language)コースの留学が決まった時点で、独学では不安になり、一時期オーストラリア人が経営し、講師は全員ネイティブ・スピーカーだという語学教室に通ったことがあります。

そこで、知り合い友達になったイギリス人講師が、遊び半分に授業で取り上げたのが、このNasreddinのトンチ話だったのです。もう40年以上も昔のことですぞ(笑) そして、この時の講師兼友人、ロブとは後にアリゾナで会い喧嘩別れのようなことになり、数年前のFacebookを通して30数年ぶりに向こうからコンタクトが入ったと言う、ロブに因む縁がある本でもあります。

※ロブは下記「アリゾナの空は青かった」の思い出話で何度か登場していますので、興味ある方はどぞ。 
 
まさか、マリアさんを通じて40年ぶりにナスレディンの名を耳にするとは思いも寄りませんでした。

マリアさんとは、音楽でも面白い偶然があるのです。(「Tom Waitsとワルツリング・マチルダ

そんなこんなで、我がアリゾナ時代の話で盛り上がり、今日は3ページに及ぶ字がびっしりの3ページを辛うじて2ページ終えた今日の授業の終わりに、マリアさん曰く、

昨日、街を歩いていると簡易健康診断車の側を通りかかった。と、中年の係員に年配者に受けて欲しいとマリアさんは声をかけられ、結構ですというのに強引に誘われ健康検査をする羽目になった。

その中に力の強さを測るバネ式の計量器があった。取っ手を持ち、グイと引き上げたが幾ら上げようと思っても上がらない。すると記録用紙とペンを手にした係員、まじまじと彼女の顔を見、「セニョーラ、もうそれ以上上がりません。測りを壊してしまいましたデ。」 (爆)

最初のグイで力余り、既に測りを壊していたって、マリアさん。ギャッハッハの大きな笑い声で授業は終了したのでした。いやはや、体力では恐らく8才歳上のマリアさんにわたしは太刀打ちできないでしょう。

もちろん、彼女のその他の検査は全て問題なく健康体そのものだと太鼓判を押してもらったのだそうな。心のどこかに少年期を隠し持っているような、気が合う愉快な我が友、マリアさんの話でした。

本日も読んでいただきありがとうございます。
それではまた明日。

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2017年11月27日

「人間が発明した、破壊力を持ったありとあらゆる武器のなかで、もっとも恐ろしいのは、そしてもっとも卑怯なのは、言葉である。刃や火器は傷跡を残す。爆薬は建物や道路を破壊する。毒薬は後に検出される。言葉は、いっさいの痕跡を残さずに破壊することができる。」

ブラジルの作家、パウロ・コエーリュがその著書「Maktub(アラブ語で書かれてある、手紙の意味)」で書いているのですが、近頃、紙面やネットを賑わしている、知ってはいても自分は決して口にしないであろう日本語に実はうんざりしていたところに目にした言葉で、なるほどと頷かされたのでした。

「保育園落ちた、日本○ね」、「ダサい、ウザイ、ムカつく」など嫌悪を表す言葉を始め、国会で飛び交う言葉もとても教養ある議員が口にする言葉ではないんじゃないの?と思われる場面が増えて、暗澹とした気持ちになることがしばしばです。

わたしはポルトガルの若い人達を中心に日本語を教えていますが、人を見下すようないわゆる汚い言葉も、折に触れて生徒には教えます。彼らに使って欲しくはないと断りを入れて、しかし、この言葉を投げつけられたら怒る権利があります、と教えるのです。

自分の意見を述べる分には、明確に言うことはきちんと相手に伝わることなので婉曲でなくても良いと思いますが、こと、反対意見を述べたり、詰問するにあたっては、やはりその人の人格、教養が出てくるようにわたしは思うのです。

イギリスの国会でのやりとりを見ていて思うのは、近頃の日本のようにグサグサと人の気持ちをえぐるような言葉はあまり使われてていないということです。相手を攻めるに至っては、時にユーモアが入り、議会場にドッと笑いが渦巻く場面が度々見られます。笑いは緊張した会場の重苦しい雰囲気を一気に変える潤滑油的役割をしてくれます。

醜い言葉でひたすら相手をののしり、いかにして酷い言葉で相手をやりこめようかとする人間を目の前にするのは、気持ちのいいものではありません。見ていて却って嫌悪感を抱いたりするものです。もうホンマ、大の大人がこの状態じゃと、国会でのやりとりにはうんざりしていたのです。

「他人の振り見て我が振り直せ」、言葉遣いには重々気をつけなきゃ、と思っていたところでした、が、夕べ日本語授業の予習にと読んでいた「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」、第62番歌、清少納言の章で思わず、あっはっはと笑って、ハタと思ったことがあります。

夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ
―夜明け前にニワトリの鳴き声にかこつえてわたしを騙そうとしても、あなたとは決して逢いませんわよ―

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Wikiより

これは、著者のねずさんの解釈によると、「浮気は許しませんよ」という歌とのことで、ほほぉ、と思って読み進めていくと、
日本の中世社会を快活でノビノビと生きた清少納言という女性に触れ、更に彼女の作品「枕草子」に少し触れています。

わたしも学生時代に暗記しましたが、「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」と言うので始まる随筆集です。

ふむふむ、知ってるぞ、覚えてるぞ、と思っていますと、この枕草子の第28段「憎きもの」の部分を現役の女子高生に訳してもらったという下記の引用文があります。

――引用始め

お部屋にこっそり忍んで来る恋人を、犬が見つけて吠えるのって、すっごい憎ったらしくない?

あとね、ようやく密かに忍んで来てくれたのはうれしいんだけど、みんなが寝静まってお屋敷がシーンと静まり返っているのに、大いびきをかきながら寝ちゃうヤツ。 てか、絶対、まわりにバレバレじゃん><

それから、きっとバシッと決めようと思っるんだろうけど、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)をかぶって忍んできてさ、慌ててんのか、烏帽子が何かに突き当たって大きな音を立てるヤツ。
なにそれ〜って思っちゃう(汗)。

それと、簾(すだれ)をくぐるときに、不注意で頭をぶつけて、「イテテテ!」って、大声をあげるような男って、サイテー。

あとさぁ、夜、忍んでくるとき、戸を開けるなら、少し持ち上げれば音とかしないのにさ、ヘタすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて、そーいうのって、なんかめっちゃムカつくよね

――引用終わり

実に軽妙なノリで、もう脱帽的現代語訳です。上、文中の赤字部分は普段のわたしなら、「すっごい憎ったらしくない?」なんて、文法的に「すっごく憎ったらしくない?」でしょ!とか、「てか」ってなんでんねん、「てか」って。とか、最後の「めっちゃムカつく」などは、あきまへんで、と、ゼッタイ一言言ってたと思われる部分です。

いやもう、なるほどなるほどとひたすら感心する現代若者言葉訳でしたw さすれば、小見出しとも言える第28段「憎きもの」などは、現代語の「憎い」という意味合いからは離れているわけで、女子高生風に訳せば「ウザいもの」「ウザきもの」とでもなるのでしょうね。 ひゃ~、わたしとしたことが、使っちゃったよ、こんな言葉(爆笑)

いえね、自分は人との会話でこの手の若者言葉を遣うことはないでしょうが、それを使った訳が妙にピッタリ来るもので、枕草子が遥か昔の平安時代に書かれたものだとは思えないほど、いと、をかしく感じられたのでした。

若者言葉に対して少し認識を改めないといけないかしらん?

因みに、みなさま、ご存知かとは思いますが、平安時代は通い婚、つまり男女は同居せずに男性が女性を訪れる結婚の形が普通であったということを書き添えておきます。また、下記に枕草子第28段「憎きもの」の原文を掲載します。

忍びて来る人見知りてほゆる犬。あながちなる所に隠し臥せたる人の、いびきしたる。また、忍び来る所に長烏帽子して、さすがに人に見えじとまどひ入るほどに、ものにつきさはりて、そよろといはせたる。伊予簾などかけたるに、うちかづきてさらさらと鳴らしたるもいとにくし。帽額の簾は、ましてこはじのうち置かるる音いとしるし。それも、やをら引き上げて入るはさらに鳴かず。遣戸をあらくたて開くるもいとあやし。少しもたぐるやうにして開くるは、鳴りやはする。あしう開くれば、障子などもごほめかしうほとめくこそしるけれ。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。
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2017年11月26日 

我がフラットは4階建て、8軒の分譲住宅のコンドミニアムです。幸い、自分が購買した住居であってもペットを飼ってはならぬという新築コンドミニアムによくあるようなルールはありません。

ゆえに現在4匹の猫がいる我が家を含んで4軒でペットを飼っています。我が家の階下2軒と階上の一軒にはワンちゃんがいます。
階上のワンちゃんはあまり見かけないのですが、階下のワンちゃんたちは、家族のだれかが毎日のように夕方散歩に連れ出します。その時間帯が、野良のワンニャンたちにわたしがエサを運ぶ時間にあたり、よく出会うのです。

すると、2匹ともわたしを見るなり、即リードを持っている飼い主を引きずってでも、こちらに駆け寄って来ようとするので、飼い主さんたちはワンちゃんを制御するのに必死です。わたしは猫に限らずワンちゃんも好きで犬猫同時に飼ったこともありますが、その匂いでもするのでしょうか、恐らく親しみをこめて近寄り、撫で撫でして欲しいのかもしれません。

が、必死に制御する飼い主さんに悪くて、すれ違うと分かったときは、「あちゃ~」と、反対側の通りに渡ります。猫と違い、階下の一匹はジャーマン・シェパードなので大きいのです。ラウラというメス犬ですが、一度などは、抱いてもらおうとて、飼い主さん目掛けて抱きつき、勢い余って、飼い主さん、前歯を折ってしまったこともあり、大きなワンちゃんを飼うのはなかなかに歯の折れる、いや、骨の折れることでもありそうです。

さて、先日のこと。お天気がよく、公立学校の先生たちのストライキがあって、近くの小中学校が休みになった日のことです。台所のベランダに張られたロープに洗濯物を干していました。いつもは車庫の中を居所にしているラウラが、この日は車庫の前のスペースで半分空気の抜けたボールと遊んで走り回っていました。

すると、隣のコンドミニアムの住む小学生のジュアン君が友達とサッカーボールを持ってきて遊び始めました。
これを見たジャーマン・シェパードのラウラ、やおら自分の古ぼけたボールを口に加え、遊んで遊んで!とでも言うかのように、ご覧の通り↓

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隣とのしきりになっている壁に今にもよじ登ろうかとするくらい、興奮しているのです。拡大した画像が下です。

wanchan1-1.jpg

いやぁ、もう本当に可愛らしくて、思わずスマホのカメラを向けてしまいました。一生懸命頼んだに拘わらず、結局ラウラは男の子たちに相手にしてもらえませんでしたが、しばらくこのままの格好で飛び上がっていたのでした。

猫も可愛いけれど、こんな風なことはまずしません。Man´s best friendとはワンちゃんに昔から与えられた言葉ですが、いかにもと思わされた一件でした。

こちらは、近頃めっきり寒くなり、ストーブの前で鼻をあぶっているうちの4匹猫。

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本日はこれにて。

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2017年11月22日 

前回に引き続き、ちょいと空のお話をば。

「宇宙に思いを馳せることは哲学することである」と、わたしは思っている。わたしのように粗忽な人間は、肝心の大切なことを見落としてしまいがちで、哲学者には向いていないが、空を仰ぎながら自由に思索することがわたしは好きだ。

わたしが中学生の頃、弘前から何度か大阪への家出を繰り返したのに呆れ果ててか、当時転勤で大阪に住んでいた叔父夫婦が、わたしを1年間ほど大阪に引き取ってくれた。
その叔父の団地社宅で、夏の夜、彼は時々わたしを屋上へ連れて行き、星空を見上げては、「あれは北斗七星、あれはカシオペアだ。」と星座の見つけ方を教えてくれたものだ。

わたしが夜空の星を見上げることに興味を持つようになったのは、それからずっと後のことだが、案外この頃のことが、記憶のどこかに残っていたのだろう。

今から40年以上も前になるが、偶然書店で手にした一冊の文庫本、エーリッヒ・フォン・デニケンの「未来の記憶」という、一見風変わりな題の本が、わたしを宇宙考古学という世界へ導いてくれた。著者のデニケンその人は科学者でも考古学者でもなく当時はスイスのホテルの経営者であった。
  
この本を振り出しに、わたしは聖書やシュメールの神話などに興味を持ちその手の本を探し求めるようになった。デニケンのファンも増え「デニケニスト」という言葉ができたくらいだが、わたしが夢中になって宇宙への果てしない夢を見始めたあの頃は、こういう類の本を著す彼も変人と思われたことだろう。

「宇宙にこのほかにも何百万の惑星があるのは、我々の責任ではない」というデニケンの言葉もあながち嘘ではないかも知れない、とわたしは当時思ったものだ。これは、後にアメリカの宇宙科学界第一人者となった故カール・セーガン博士も言及していることである。(カール・セーガン博士は映画「コンタクト」の原作者でもあり、わたしは彼の大ファンだった)

さて、こういう読書熱が昂じてか、わたしの目は、わたしの思いは、時折ふと何気なく天上へと向けられたりするのでありました。

我がモイケル娘が中学生の頃でありましょうか、空一面鉛色にどんより曇ったある日の夕暮れと夜の間。雨こそ降ってはいなかったが、肌に触る空気は濡れて感じました。そんな日には、表通りのベランダに出ることはまずないのに、どういうもののはずみでか、出てみることになったのです。

そしてその時ヒョイと北の空に目を見やると、「むむ、あれはなんなのだ?」一面の鉛色の北の空に、ボワ~ッとまぁるい白っぽい大きな影がふわ~っと 浮かんでおりました。
  
すると次の瞬間その影はサーッと一瞬にして移動したのです。え?え?胸が高鳴りました!うそだうそだ。目の錯覚だ!いえいえ、目の錯覚ではありません。その証拠にその丸い白い影、今度はまた瞬時にして別の場所に移動!

「おーーい、むすめ!カメラカメラ!」お暇な娘、即座にカメラを持って参りました。
「あれを見よ!動くでしょ!あんなデカイ物が瞬時にしてあれだけの距離を移動できるはずありまへん!」すると、モイケル娘も、「はいはい。母じゃの仰せの通り、左様にございます。」と相槌。

わたしは、その、正に未確認飛行物体なる物に(w)カメラを向けてバチバチとカメラのシャッターを切ったのでありました。(当時はデジカメがありませんでした。)

興奮も冷めやらず、夫、息子が帰宅して囲む夕食卓で、披露したその話、盛り上がると思いきや、息子が言下に

「ぎゃっはっはっ!ママ。それ、ダウンタウンのディスコティック(踊る店)の丸い大型ライトを使った宣伝だよ。」
 
し~~~~ん・・・ あ、そ。束の間のはかない夢ではありました。

後日、その事件を忘れたころにできあがって来たその写真は、悪天候で丸い白い大きな影も写っておらず、画面が、ただただ灰色の数枚の写真。それを見ては自分のおアホさを思い出し、プッと吹き出すのでありました。

お粗末さまでございました^^;

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2017年11月20日

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三十年ほど前に日本から引っさげて来て、乗り換え地点の税関でひっかかりそうになったところを、心優しい空港の職員さんの「いいよ、通してあげな」の目配りで無事ポルトに辿りついたミニ反射式天体望遠鏡です。

使い方は知らず。いじってるうちに何とかなるだろと、この辺はまったく能天気なわたしです、なんとかなったんですね(笑) 家族が寝静まった真夜中過ぎ、ベランダに持ち出して、焦点を合わせるのに四苦八苦。三脚が短いもので半分寝そべった姿勢です。首が痛くなりつつも、ついに月面のクレーターに焦点を合わせるに至ったのでした。

更に、本のデータから探し出した木星の周囲に衛星と思われる並んだ点を見つけたときの興奮は大きかった。こんなミニ天体望遠鏡ですから、点としか見えません。しかし、見えた点はガリレオ衛星と呼ばれる4つの衛星のひとつなのです。

夜空に星座を探すには、北斗七星、北極星、カシオペア、オリオン座は形からしてすぐ見つけられますが、その他は毎夜の如く星空を眺め、星座表との睨めっこを続けないと、なかなか見つけられないものです。

当時はポルト在住の日本人の子どもが通う土曜日の補習校を持つのみで、ほぼ専業主婦だった故、時間的に、また気持ちの上でも余裕があり、夏には、デネブ、アルタイル、ベガを結ぶ夏の大三角等を空に探したものです、今ならさしずめ、シリウス、プロキオン、ベテルギウスを結ぶ冬の大三角が見られます。

二つの大三角は比較的見つけやすいのです。夏は天の川にまたがる十字型の白鳥座を探し、その中で一番輝いているデネブに目をつけます。

hakucho.png
Wikiより

冬の大三角はオリオン座が目印。三つ並んだオリオンの帯の左上がベテルギウスです。

orionza.gif
Wikiより

しし座流星もさることながら、この冬の大三角もちと目にしたいと思い、明け方近くに起きて明かりもつけないまま台所に入ったのが、前のめり転倒の結果を招いたわけですが^^;

この時期にはまた決まって、 昔、学校で習ったこんな歌が浮かんできます。

♪木枯らし途絶えて 冴ゆる空より
地上に降り敷く 奇(くす)しき光よ
ものみな憩える しじまの中に
きらめき揺れつつ、星座は巡る

ほのぼの明かりて 流るる銀河
オリオン舞い立ち 昴(すばる)はさざめく
無窮(むきゅう)をゆびさす 北斗の針と
きらめき揺れつつ 星座は巡る       -冬の星座―


この歌を習うのは中学生のころだったしょうか。恐らく意味を全部理解して当時歌っていたとは思えませんが、今なら説明なくして分かります。語調、語彙ともに美しく、日本語の豊かな表現に目を見張るばかりです。

文部省愛唱歌になっている「冬の星座」、お聞きください。

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2017年11月19日 

大きな家でもないので、夜中に起き出しても明かりを点けずとも歩くことができます。が、今回は思わぬ障害があって、つんのめって転んでしまった!

明け方、一度目が覚めるともう寝付かれない性分です。ちょうどこの2、3日は例年の如く、獅子座流星群が見られるはずです。時間的には遅いだろうなと思いながらも起きて台所へ行きました。台所のベランダからは、全空ではないけれど、夜空が仰げるのです。

いつものように明かりをつけずに、台所のドアを開け、そのまま真っ直ぐベランダへ向かおうとしたところが、がーーん!つんのめってしまいました。ぎゃ!と思ったものの、感触jからしてあれだ!と、すぐ置きあがり台所の電気をつけると、やっぱりそうだった!

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我が家の猫たちの寝床です。寝るときには4匹とも台所で寝るのですが、いつもならこの寝床がドアを入って左横にあるべきなのですが、わたしは先に休んでしまったため、昨日に限って,夫、台所の真ん中に置いてあったのです。

写真に赤線3本入れてありますが、その線の如く足を進め覆いかぶさるように前のめりに転びました。もちろん、猫たちが寝ていたわけでして。猫たちも突然何が降ってきたのかと驚き、寝床から飛び出しました。

転倒した際にしたたかに胸を打ち、猫の寝床が竹細工だったからまだ良かったものの、顔でも打っていたら大変なことです。んもう!だんなメ!どうして昨夜に限ってこんなところに!これからは、自分がこの役割をしよう。即、夫をたたき起こしてブツブツ言うのもなんだし、肋骨でも折ってなけりゃいいな、と思いながら、ベランダの大窓を開け天を仰ぎますと、明け方の澄んだ空にはオリオン星座が煌々と輝いていました。

トピック「七十路」とは、この17日で齢70を迎えたのであります。一昨日から、夫から祝いにもらった花束を食べようとする猫たちを追い払うのに四苦八苦。

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とうとう、花束は猫たちが食べられないようにと、就寝中にドアを開け放し、日中は閉めている息子の部屋に置く羽目になりました。それでも記憶力のいいゴロー君、今朝、一番に息子の部屋のドアへ飛んで行き、花束が入っているのを知っているのでしょう。部屋の前で「開けろ、開けろ」とうるさく鳴き、少しだけ~、と開けると花束のところに飛んで行ってはこうです。
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食うんじゃないぞ、ゴロー。

さて、七十路(ななそじ)になっての抱負はなんぞや。健康を保つことは大事でしょうが、そのために特別の食事法、運動法を今のところ取っていません。なにしろ日本食好きのわたしです、ポルトガルにいてそんなことはあまり望めないので、普段から簡素な食事であります。が、夫がそれでは物足りないので、ついつい使ってしまうのが「油」です。

油を使わない料理はまずないと思われるほど、ポルトガル料理はふんだんに使います。これを数年前から少し高くつくものの、オリーブオイルに変えました。後はこちらでは食材が少な故、全体的に和食のみは無理ですが、昔に比べ、最近は酢味噌和えやゴマ醤油和えなどに使える食材も大手スーパーマーケットでは見られるようになったので、極力、夕食の一品に油を使わない、そういうものを添えるようにしています。

運動は、まぁ、転んだりするのはちょこちょこありますが、これは歳を取って反射神経が鈍くなったのではなくて、元来が粗忽者だということに発し、今回の転倒を除いては避けがたい点ではありますが、ちょっと気を配ろうと思っています。

で、あと2点、記したい抱負があるのですが、長くなりますので、これは明日に回しましょう。

本日はこれにて。みなさま、お付き合いいただきありがとうございます。

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2017年11日15日 

真っ青な秋晴れの日曜日の午後、夫の兄も誘って、隣町のサンチアゴ館で開催されている日本人の芸術家展覧会へ行こうとなりました。
ポルトガル語ではQuinta de Sãotiagoと呼ばれますが、何年も前から行って見たいと思いながら今日まで来てしまいました。展覧会が丁度いいきっかけになりました。

館の建築は19世紀後半にポルトガルに住んだヴェネツィア出身の建築家Nicola Bigaglia。ネオマヌエル、ネオゴチックを装った館は当初は裕福な一族の別荘でしたが、現在は隣町Matosuinhos(マトズィーニュス)の小さな博物館になっています。

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入り口

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館の全容。

入り口左には「S」と聖人サン・チアーゴ(聖ヤコブ)の絵が丈夫に見られる。剣を持った馬上のサンチアーゴはスペインの守護聖人です。
キンタ・デ・サンチアゴ

入り口左側の階段が展覧会場になっています。階段で見られるステンドグラスが美しい。
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キンタ・デ・サンチアゴ

ところが、上階の部屋数室をぐるり回ってみたのですが、肝心の日本人芸術家、綿貫氏の作品がひとつも見当たりません。
おかしいなと夫と二人言いもって、階下へ降り、案内係に聞いてみました。すると、「実はその展覧会は中止になった」と言う。なんとまぁ、それならそうと玄関口に、それらしきことを書いて知らせるべきではなかろうか?

10月半ばから12月半ばまで催されると日本大使館からの案内にはあって、まさか、キャンセルなどと思いもしなかったもので、大使館サイトの再確認をしないで来たのです。やっぱ、ポルトガルやーー!と夫と義兄相手に愚痴ることしきり。

綿貫翁がこの夏、リスボン、コインブラ、マトズィーニュスと足を運んでおり、紙面でその姿を懐かしい思いで拝見していたのですが、どんな事情があったにしろ、ほんま、なんちゅうこっちゃの!

わたしが勝手に「翁」と呼びし綿貫氏、1926年生まれとありますから御歳91。1956年にリスボン大学に外交史研究のために留学したものの、ポルト、コインブラ、バルセロナなどで絵の個展を開き、リスボン国立近代美術館を始め欧州、アフリカの美術館にもその作品が収蔵されているそうです。日本では絵画のみにとらわれずデザイン、彫刻、篆刻などを展開し、独自の世界を作り上げた芸術家です。

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今年、ポルトガルの新聞より、コインブラでの氏

その若い時期に、マトズィーニュにも住んだと言われ、今回、リスボン、コインブラでの個展に続き、ポルト近辺でもという運びになっていたようですが・・・

実は、氏はお忘れになっておられるでしょうが、日本でわたしは2、3度綿貫氏にお会いしているのです。この日、展覧会に同行した義兄はポルトの美大を出ており、彼の恩師が当時ポルトガルにいた綿貫氏と知り合いだったようです。夫が日本に留学するにあたって、時間があればこの人を訪ねてみよ、と紹介されたとのこと。
もう40年以上も昔のことではあります。

月に一、二度の週末のデートで「今日、この人のお宅を訪ねるのだが一緒にいかないか」と誘われ、のこのこついて参ったのが、当時は神戸の御影(みかげ)にあったご自宅でした。お茶をいただきながら、綿貫氏と夫は初対面だというのにポルトガル語で弾んでおり、全く言葉が分からなかったわたしは手持ち無沙汰でありました。

やがて、氏がこう言いました。「晩御飯に君たちを誘ったんだけどね、彼、明日は広島へ帰るから、今日はずっと君と過ごしたいと言ってるよ。」・・・

のろけるようで気恥ずかしいのですが、綿貫氏から聞いたこの言葉は嬉しかったものではっきり今でも覚えています。夫と知りあったのは6月も終わりで、彼が大阪外大で留学生として日本語コースを受講していた時です。その年の9月、わたしたちば知り合って2ヵ月後、夫は広島大学病院の研究生として移動しました。

わたしは、と言えば、歌姫バイトのお陰で目標の貯蓄額を達成し、長年の夢が叶い、翌年の1月にはアメリカのアリゾナ大学でESL(Engilish as a Second Language)コース受講の段取りがついており、そのままアメリカに居残る計画でした。

その先どうなるか二人の将来は見えない状態で、彼は日本に、片やわたしはアメリカにと離れ離れになっていたのが、アリゾナ大学のコース終了後、一大決心をして半年後には日本に帰国し、大阪の親友のご両親宅に転がりこんでいたわたしでした。

氏と夫がポルトガル語でそんな会話をしていたなど思いもよらなかったわけですが、わたしはその後も2度ほど氏からお声がかかり御影に足を運んでいます。その後、綿貫氏は有馬の方へ移られ、91歳になった現在もアトリエを起点に氏独得のデザインで活躍しておられます。

watanukisensei2.jpg
Wikiより。氏の作品の一部。一度見たら忘れられない独得なデザイン。

氏の隣町での展覧会が中止だと知っていれば、コインブラの会場まででかけたものを、と残念に思っています。
綿貫先生、どうぞお元気で更なるご活躍をポルトガルから願っております。

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2017年11月14日 

今日はかつて書いた思い出エッセイに少し手をくわえてみました。以下。

酒癖の悪い父のていたらくを見ては思ったものである。
「自分は飲む人になるまい。酒を飲む人を生涯の相手には絶対選ぶまい。」と。

しかし、大概の人間は、年月を経てコロッと考えが変わったりするものだ。わたしもその例にもれず、二十歳ころから飲み始めたお酒歴は恥ずかしいながら、ちょっと自慢できるかもしれない。

日本酒、ひれ酒から始まって、ストレートウイスキー、カクテル、アブサン、ブランディ、カルヴァドス、シュタインヘイガーシュナップス、そして最後に辿りついたのが、生ビールだ。

シュタインヘイガーシュナップスはドイツの焼酎とでも言えばいいのだろうか、男性的なお酒である。わたしがバイトの歌姫として歌っていたアサヒ・ビアハウスで時々味わったのだ。これはビールの合間に飲むのであって、凍らんばかりに冷えて氷霜で真っ白になった陶器のボトルから、ぐい飲み盃くらいの大きさの小さなグラスに注いで一気に飲む。

胃が「クァー!」と熱くなるくらいに強い!それもそのはず、アルコール度数は40度なのだから^^;

カルヴァドスは我が日記でしつこく何度も出てくる思い出の酒である。フランスのブランデー、りんご酒で、「Pomme d‘Eve、イヴの林檎」と言われる。

レマルクの書いた本、「凱旋門」に度々出てくるお酒の名前だ。「凱旋門」は、ドイツの強制収容所から脱走してフランスに不法入国し、その練達の腕を見込まれ、闇の手術を請け負って不安な生活を送っている医師ラヴィックと、失意に生きる端役の女優ジョアンを中心に、第二次世界大戦中のパリを描いた物語である。

この本を読んでカルヴァドスというお酒があるのを初めて知った。そして、一度は口にしてみたいと望んだものの、それが国内では不可能と分かり、ある日、仕事でパリへ寄ると言う勤め先の本社の上司に、無理矢理頼み込んで、買って来てもらったのが始まりであった。

その後、海外に出る機会があるたびに、上司は土産にと、持ってきてくれたものだ。この上司は、当時社員として初めてイギリス語学留学のためにと、一ヶ月の休暇を申し出たわたしに、その許可が出されるようにと、アドヴァイスをくれた人でもある。

カルヴァドスは甘酸っぱい林檎の強い香りとともに、わたしには苦い恋の味もしたお酒である。

わたしが幾つの時なのだろう。覚えていないのだが、小学校にあがった頃ではないかと思う。当時、父は岩手の競馬場で走っていた頃で、母とわたしと妹の母子3人は弘前の下町にある祖母の家にたくさんの叔父叔母、その家族たちと同居していた。裕福とは言えないまでも、その日その日の食うことだけはなんとか困らないで生きれた頃だった。

4月の終わりから5月初めにかけての、弘前の「観桜会」今で言う「さくら祭り」の頃である。祖母はその頃、観桜会の期間だけ、公園内で蕎麦屋の屋台を出しており、母を含めた家の他の大人たちも、それぞれに仕事をもっていて外へ出ていた。

その日は何故か、わたしの従兄弟にあたる他の子供達が家におらず、わたしと妹だけだった。

ふと水が飲みたくなったのだが、当時の田舎にはまだ水道というものが通っていなかった。台所の水場には長い取っ手を上下に動かして水を汲みあげるポンプがあった。まだ小さいわたしと妹の力では水を汲み上げることができなかったのであろうか、わたしたちは家の中のどこかに水はないかと、探し回ったのである。

と、「あった、あった!」机の上の高い棚の上に、瓶に入ったきれいな水を見つけたのだ。妹と二人、机の上に椅子まで乗せてやっと手が届き、一息にグーッと飲み干したその水・・・・その後のことをわたしは全く記憶していないのである。

結論を言えば、水と思って飲み干した瓶の中身は、実は日本酒だったのだ。外へ出て、自分と同じ年頃の近所の子供達を追い回し、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」と囃し立てられ、フラフラ千鳥足でふらついていたわたしを見つけ、自分の家に運び込んで医者を呼んだのは、はす向かいの畳屋のおばあちゃんだそうだ。

わたしは「急性アルコール中毒症」で危うく命を落とすとこだったのだ。かすかに記憶にあるのは、明るい日差しを浴びた縁側のある広い畳の部屋で、自分が布団の上に寝かされて、冷たい手ぬぐいを額に当ててくれている畳屋のおばあちゃんが、ぼんやり見えたことだけである。後はなにも覚えていない。

後年、時計屋をしていた人のいい叔父が、保証人として判子を押した相手が夜逃げしてしまい、その負債のため祖母は下町の家を売り払わなければならなくなり、わたしたち大家族は以後ちりぢりになったのだが、少し大きくなってから時々下町を訪れると、わたしは決まって畳屋のおばあちゃんや近所の人たちから言われたものである。「あの時の酔っ払ったゆーこちゃんがねぇ~」

「自分は酒飲みにはなるまい」とは大きく出たものだ。6、7歳にして既にわたしは酒飲みの洗礼済みであった。

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2017年11月13日

今でこそ断水、停電がめったになくなったわたしの住む区域であるが、わたしがポルトに来た頃はしょっちゅうだった。日本ではそんな経験がほぼなかったのでポルトガル新米のわたしは、エラい所に住む羽目になったなぁとかなりとまどったものだ。

わたしは義母、そして夫のおばたちと6年間同居していたのだが、義母の台所の調理器具の火元は電気なので停電ともなれば料理ができない。水が出なければこれまた料理不可で、断水・停電どちらにしても即、困った事態に陥るのである。お湯も電気で沸かすのでシャワーも浴びることはできない。

日本のように、何日の何時から何時まで断水だとか、停電だとかの予告なく突如としてそうなるもので、赤ん坊を抱えていた時期など、停電断水対策なくしては日々の生活は済まされなかった。
一度などこんな冷や汗をかいたことがある。

ーーー随分昔の、とある水曜日の午前中のことです。
日本語レッスンを予約していた生徒が来なかったもので、キャンセルされた時間を利用して、しばらくぶりに染髪することにした。染料を塗りつけて30分ほど置かなければならないのはご存知の通りです。

で、その間ちょいとメールチェックでもしようかとパソコンをオンにしたのであります。そしたら、日頃からネットでおしゃべりしていたチャット仲間にとっつかまり、ああでもないこうでもないとしようもない話で盛り上がり、「アッ!」と気づけば所要時間を過ぎること40分!髪はすでにバッリバリのバリ!

「すわ、たいへん!」てことで、慌てて仲間にオサラバし、バスルームに駆け込んで、「さぁ、洗うべぇ」と蛇口をひねったら、ひねったら、ひねったら、・・・水が出ない!!!!(泣)だ、断水よ・・・(予告無しの断水、停電がこちらではよく起こる^^;)出ないといったら憎ったらしいくらい一滴も出ません・・・染髪の色どころか、頭の中、真っ白であります。

義母と同居中のときは、よってもって食料庫の中にわざわざ補給水用のタンクをとりつけてもらったのですが、子どもも二人になり、義母の家もそれでは狭くなり、引っ越して別居した先はフラット(アパート)でもあるから、まぁ大丈夫かと高をくくったのが甘かった・・・

「よし、こうなったらもったいないが飲用水として常時買い置きしてあるミネラルウォーターで」と思ったのですが、染料を全部くまなく洗い落とすには相当量の水がいる。とても5リットルボトル4つくらいでは足りそうもない。午後には日本語レッスンがあるんや~、どないしよう・・・どうしようかとウロウロしているうちに、時間はどんどん過ぎて行き、髪のバリバリ度は更に増していく。

なんでもよく知っている大阪出身の友人に「このまま夕方まで放っといても、髪、大丈夫かなぁ」と電話してみた。開口一番、「あんた、またそんなアホなことしとんのか。夕方まで放っといたらどうなるぅ?知るかい!」
つ、冷たい奴め・・・好き好んでしたんじゃないわい。

はっ!と気づいたは、義母の家の補給水。確かあったはずだ!ここから目と鼻の先です。電話であちらのお手伝いさんと話をつけて、お風呂を借りることになりましたのね。

「でも、この頭をどうやって隠してあそこまで歩いて行くかなぁ」と思いつつ、何気なくもう一度水道の蛇口をひねったら、ひねったら、ひねったら~水がでた!「ハレルーヤ!」

ほんと真っ白になったり真っ青になったりした忙しい半日でした。そして、長時間置かれたそのバリバリ頭のせいで、今回はやたら赤くなってしまったわたしの髪であります。こういうハプニングが起こるのって、日本のような文明国では考えられないことですね、きっと。(笑)

電気が再び点いたときの、水が再び蛇口から流れ出たときの感動は、それはもう長らく忘れていた素朴な喜びの感情でもありました。---

停電ともなるとテレビ、ラジオ、ステレオなど普段何の疑問も持たずに湯水の如く使っている文明の利器が突如として取り上げられるのである。さすがおたつきます。しかし、何度か経験しているうちに、愚痴を言っても始まらない、しからば今できることをしようではないかと考えを改め、蜀台にろうそくを立てソファに座ってレース編みなどをするようになった。雑音のない静寂な時間は普段なかなか持てないものだ。

日の出とともに働き出し暗くなるとともに就寝するという原始的な生活習慣を人はいつの頃から捨て始めたのだろうか。夕焼け空に目を向け夜空の月や星を仰ぐのは季節を見るだけではなく、大いなる宇宙のなかの人間という小さな存在を感じ取り、生命に思いを馳せる哲学的な時間を持つことでもあったのかも知れない、とそんなことを考えたりして、いつの間にか断水停電に対してあまり動じなくなりつつあった頃に、曽野綾子さんのこんな言葉に遭遇しわたしは妙に納得したのだった。

「不便を体験すると人間はしばしば哲学的になる」

積極的なボランティア活動でアフリカ等の未開発国を何度も訪れては、多くの、いわゆるわたしたちからすれば大いなる不便さを目の辺りにしてきた氏だからこそ、言えるのであろう。

物事を沈着に考えるのに文明の利器は要らないかも知れない。必要なのは便利さに振り回されない時間を自らが作ることだと思うのだ。人間が万物の霊長とされるのは思考することができるという、他の動物とのその一点の違いだ。が、今ほど人が「考える」ということをしなくなった時代はないのかも知れない、と思い、溢れた物に囲まれ、時間に追われ刻まれるような毎日を送っていることが、時にふと怖くなったりするわたしだが、皆さまはいかに。
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2017年11月12日 

子どもたちが二人ともまだ10歳に満たない頃の夏、家族旅行で行ったポルトガル南部のRibatejo地方、テージュ川も上流の、人家の少ない静寂な宿泊先に、「Estalagem Vale Manso」というのがあったのだが、そこの食事処から朝食時二日とも、山並みの見える天空を悠々と飛翔する一羽の鷲を見た。

数年前にも人里離れたアレンテージュ地方の山中で、人も見かけなくなり、この先更に、車で行くべきか引き返すべきかと、家族4人車中で話し合っているときに、車のフロントガラスを通して目の前を、バサリと大きな鳥が飛んで行くのを見た。子供たちとあれは鷲だろうと話したのであった。

結局その時は、子どもたちが同乗していたことであり、車で引き返せない状態になったらという万が一のことを思い、引き返したのであった。しかし、あれこそ、ほとんど手付かずの自然の姿であろう。

自然環境云々とわたしたちはよく口にするが、自然を取り壊し住宅地や町を作り、わたしたちは知らず知らずのうちに、自分たちに都合良い、まがいものの自然を建造しているのである。町に住むわたしたちの周囲にある、いわゆる自然と呼ばれるものはこのまがいものであろうと、わたしはこういう鳥との出会いに触れる度に思う。

もう一昔ほどにもなろうか、夫を引っ張り出して行ってきたポルトの隣町ガイア市にあるParque Biologico(自然公園)で三度目にハゲワシにお目にかかった。実際あんなに近くで見たのは初めてで、その羽の美しさに思わず目を奪われたものだ。

ハゲワシ

数羽いた中に、デジカメを向けるわたしにエラく興味を持ったのか、その鋭い口ばしでカメラをつつくかと思われるほどに、「ぬぬっ」っと網越しに近づいて来て、興味津々の表情を向ける一羽がいた。

見よ、その強大なくちばし、その爪足!

ハゲワシ

元来が怖がり屋のわたし、この口ばしと「なぬ!?」とでも言っていそうなユーモラスな、しかし間近にする怖い目に、思わずズズッtとデジカメ持って後ずさりしてしまった。

標札には簡単に「Grifo=ハゲワシ」とあったが、家に帰り調べてみると、ハゲワシには数種類があり、これはどうやら「シロエリハゲワシ」と言うらしい。アフリカ、南ヨーロッパなどに生息し、翼を広げて飛翔する姿は2.6メートルにもなるのだそうだ。

hagewashi3-1.jpg
この写真はWikiから

翼を広げグライダーのように悠々と飛翔するハゲワシは、他の動物の死骸でも探しているのだろうか、「掃除屋」との別称を与えられながらもその姿は美しい。

が、自然公園のハゲワシは、わたしの写真から分かるように、鉄と網とで囲まれてままならない。

自然公園も人間が創造したもので、まがいものの自然なのである。このシロエリハゲワシ達はきっと天空高く飛翔できるのを夢見ていることだろう。自由に飛べないなんてつまらねぇ。暇つぶしにカメラを向けるおアホな人間の顔でもどれ、ってところだろうか。

とまぁ、今日もこんなオチでございます。
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2017年11月10日 

息子も娘も30を超えましたが、昔から言われる通り、幾つになっても子は子。親にとっては可愛く、気にもなる存在です。

そんな訳ですから、日本とポルトガル、遠く離れたわたしたち親子は、わたしがパソコンをよく知らないままではありますが、昔の仕事柄、タイピングが速いので、親子でスカイプを通じて文字会話をするのはしょっちゅうです。

娘は大学生だった頃、また、息子は時間的に余裕があった日本の生活が始まった頃には、毎日のように親子でおしゃべりをしたものですが、その頃に比べ、それぞれ仕事を持っている子どもたちです、娘は共稼ぎの現在、息子は少しは将来のことを考え始めたのか、大学の英語講師の仕事を増やし、なにやら日常生活が忙しくなったようです。

そんな中でも、ポルトガルに住むわたしたち親を気にしてか、以前のように毎日ではないにしろ、スカイプで結構頻繁に声をかけてくれる子どもたちです。

さて、昨日のこと、息子曰く、「今日の仕事、あがった。二度も電車の方向間違ったアホ(笑)」と来た。「ふ、二日酔いじゃぁないのん?」と言う母親に、「平日や次の日仕事がある日は飲まない」。

ふむふむ、いい心がけじゃ。もう家なの?と聞くと、「えへ。帰宅前にちょっと一杯ひっかけてる」
おい!花金は明日だよ。平日や次の日仕事がある日は飲まないと言った矢先ではないか(笑) すると、たまたま明日は仕事がないのだそうだ。なぁんだ。

「帰宅前にちょっと一杯ひっかけてる」なんて、すっかり日本のサラリーマンもどきではないの、と実は苦笑した母でありました。そうしてみたら、こんなことがあったなぁと、息子のリスボン時代のことを思い出したのでした。以下。

―2007年 「ボク」から「わたし」に

リスボンに住み、(ヘンチクリンなw)音楽作曲をしたいからと言って、定職に着いていない我が息子、非常勤英語教師とwebデザインを請け負ってのカツカツの生活をしている。外食は高くつくからと、ほとんど自炊である。

気になるので、お金は足りてるのかと時々聞くのだが、送金頼むなどの言葉は息子の口からは出ない。

娘もそうだが、息子も時々、言葉を教える時のコツのようなものをわたしに聞いてくる。
「生徒が疲れてるみたいで授業にのってこない」「自分が日本語を理解できるのを知っているので、日本人生徒はついつい日本語を求めがちだ」などなどだ。

人に教えるということは、マニュアル通りにすればいいというものではない。資格があっても豊かな経験がないといい授業は難しいのである。息子も娘もその点では「先生1年生」だ。大切なことは、どうしたら生徒が学んでくれるかと色々工夫する熱心さを持っていることだとわたしは思っている。その情熱がやがて自分独特の授業を編み出すことになる。

もちろん、基本指導を元にしての上である。わたしも今日自分なりの教授法ができるまでは、使ってみてはボツにしたアイディアがどれほどあるか知れない。息子よ、娘よ、もがきながら常に前進したまえ。

さて、その息子、電話で話していて、新発見したことがあった。

これまでずっと彼は、「ボク」をつかっていたのに、あれれ?なんと「わたし」に切り替わっているではないか!

先だってわたしが語学授業の参考にと送ってあげた「Japanese for Busy People](ビジネスマンを対象にした日本語教本)を読んでみたようで、その影響ありかな?

息子が「わたし」なんてやってると、「アンタねぇ。」とは、おっかさん、やりにくい。でも、一チョ前の人間と話してるみたいでなんだか面映かった。

「わたしは、もう一度日本語を勉強しようかと思ってるんだけど・・」って来た時には、思わずプッと噴出しそうになったぜ、息子よ(笑) クックックと内心笑いながらも、幾つになってもこうして学習したことを使って見ようという息子の心がけに、どこか嬉しく思う母親である。 ――



小学校1年生から中3まで、週に一度の補習校で学んだ国語は、学年が上に上がるにつれ漢字も語彙も段々怪しい状態になって行き、高校部がなかったもので、卒業後はほとんど日本語の読み書きから離れてしまった息子です。

リスボン大学へ行ってからはそれに拍車をかけ、話すことからも遠ざかりましたが、補習校で培った国語は日本に住むことで少しずつ蘇り、日本語から英語、ポルトガル語への翻訳も副業で受けている息子は、現在も日本語を独学しています。

日本で生まれ育ったわわたしにとってもそうなのですが、言葉は永遠に勉強の連続だと思います。日本語に限らず、英語もポルトガル語も然り。これで終わり、ということはない。学べば学ぶほど、教えれば教えるほど奥が深く、面白くなるのであります。

「帰宅前にちょっと一杯」なんて表現は、仕事が終わったらまっすぐ帰宅」のポルトガル語にはないからね。来年の帰国には、息子よ、二人して、どこぞへちょいと一杯ひっかけに行こうか!
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2017年11月4日 

一昨日、「観光は歩くに限る」と言い、夫が悲鳴をあげたリスボン歩きを書きましたが、本日はローマ編「夫、悲鳴をあげる」であります。

ローマ行きの主なる目的はミケランジェロが描いたシスティナ礼拝堂の絵を拝見することでしたが、この反骨精神逞しい天才が手がけたもうひとつの作品、あまり知られていないようなのですが、これをこの目でみてみたいと思ったのでした。

それが、地図を見てもパッと分からず、ついにローマを翌朝には発つという前日の夕方、その日も歩き回り、かなりくたびれてホテルのベッドに寝転びながら、「いったいどこに隠れているんや、ポルタ・ピアめ!」と、地図をぼけ~っと眺めておりましたら、おろ?宿泊中のホテルからそんなに遠くない所の観光地図の端っこに、見つけたぞ!

あったあった!この距離なら往復1時間くらいで行けるかも!ホテルから近いよ、行こう!と最後の最後まで諦めきれず、寝転びながら行きたい場所を地図で探していたわたしと違い、歩きくたびれて、もうアカンとでも言うかのように寝そべっている夫、「1時間て、どこが近いねん!君は僕を殺す気かー!」(笑)

同じ寝転がっているのでも、意味がちがいますがな。ほなら、一人でも行ってきます~と最後の切り札で、夫、仕方なく起き上がり付き合うことに相成りました。

地図を頼って歩くこと30分以上、その途中で面白いものを見つけ、小躍りして写真を撮っているわたしを、うらめしげに見ている夫でした。さは言うものの、これは偶然の見つけもので、ほんに得したのでありますが、それは次回紹介です。
さて、件のポルト・ピア門、ホテルを出て後半の道、Via XX Settembre(9月20日通り)をひたすら真っ直ぐ歩いた先についにありました。
ローマ
 
ミケランジェロ晩年の建築物で、好きでもない教皇ピウス四世の命令で、ローマ市外への入り口に建設された門です。夕日を浴びて少し赤く輝いていました。この門の何が見たかったのかと言うと、門の三箇所に見られる凹みのある円形にかぶさった飾り房が付いた模様なのです。
ローマ

当時の歴代教皇を始めとするバチカンの腐敗に大いに反発していたミケランジェロは、この模様を入れることで教皇ピウス4世の思い上がった自尊心に強烈な一撃を放ったのです。

実は、教皇の父親は身分の低い瀉血(しゃけつ=治療で一定量の血液を採ること)を行う旅回りの理髪師であったといわれます。奇妙なこのモチーフはなんと、旅回りの理髪師が使う一本のタオルと洗面器だというのです。

教皇は自分の出所の卑しさを公にさらされているとは気づかなかったようで、教皇庁がそれに気づいたのは100年以上も過ぎてからだとのこと。

88歳まで生きたミケランジェロ・ブオナローティの人生は、フィレンツェを出て以来、自分の作品に独得の象徴隠しての腐敗したバチカンとの闘争であったわけです。

ミケランジェロの晩年は、礼拝堂に描かれた最後の審判を始め、その裸体にバチカンからの非難があがり、一時期、修正するか取り壊されるかの脅威にさらされ、憤怒に満ちた晩年でもありました。また、死後も、大芸術家にしてはあまりにも屈辱的な待遇を受けました。

ラファエロが眠るパンテオンにも埋葬されず、辺鄙な低地の暗い建物、サンティ・アポストリ教会に眠らされることになりました。ミケランジェロがローマを嫌いフィレンツェを愛し、そこに埋葬されたいと願っていたのは周知の事実でしたが、屈辱的にも嫌いなローマに埋葬との決定が下されたのでした。

さて、これを聞いたフィレンツェの人々は、泥棒を雇い、ミケランジェロの遺体を盗み出しフィレンツェに運び、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬しました。現在もミケランジェロはそこに眠っているとのこと。ユダヤ教のタルムードやカバラを学び密かに支持していたミケランジェロが眠る教会のファサーダにはユダヤ民族の「ダビデの星こと六ぼう星」が輝いています。

20世紀に入りコンクラーベで新教皇に選ばれたジョン・パウロ2世は、かつて何度か試みて失敗したシスティナ礼拝堂の洗浄と修復を命じ、20年をかけて徹底した復旧作業が行われました。ジョン・パウロ2世は、完成したシスティナ礼拝堂のミサで、ミケランジェロと彼のフレスコ画の名誉回復を宣言しました。そのお陰で、現在わたしたちはシスティナ礼拝堂に描かれたミケランジェロが残した秘密のメッセージを見ることができます。

自由思想が迫害され、命の危険があったカトリック教一色の中世の時代に、権力に従わざるを得ない状況のもと、持ち前の反骨精神で自分の作品に魂と精一杯の批判性を盛り込んだミケランジェロの激情は、偉大な建築家画家であったればこそでしょう。

ポルト・ピア門の皮肉を込めたモチーフを見ては、「ほんっと、絶えられないくらい嫌だったんだろうなぁ。」となんだか可笑しくなってしまったわたしでもありました。

機会があれば、いつかフィレンツェを訪れてこの大芸術家に大いなる敬意を表したいと思っています。
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2017年11月2日 

リスボンのアルファマを歩いたのは2年前のことで初めでしたが、この地区に入るのは二度目です。

リスボン

今は亡き母が、どうしても「娘が嫁いで住んでいる国を見たい」と、言い出し、わたしたちが3週間ほどの日本滞在を終え、ポルトガルに帰るのに合わせて一緒にやってきた30年程も前に、親孝行の真似事をと、リスボンまで家族旅行をしたときに訪れたのが最初でした。

ポルトガル滞在歴10年足らずのあの頃は、夫がどこへ連れて行ってくれても「この国ってどんな辺鄙な田舎でもサッカー場と教会だけはあるのね。教会なんてどこも同じじゃない。フン」と、時々憎まれ口をきいていたのでした^^;そうまで言うほどにこの国に愛着心の「あ」もなく、分かっちゃいなかったのですね、なぁんにも。

来春にはポ国滞在40年のわたし、10年滞在のあの頃は青二才の口だったな、と思うこの頃。大概のことを自然体で見られるようになりました。この国の欠点にばかり目が行く間は、周囲がよく見えていないのだと達観したわけであります。

リスボン

話を戻しまして、最初のときは、うかつにも車でアルファマ地区に入るという、わたしも夫も田舎者ではありました。狭い道が入り乱れているアルファマです、当時はセコハンの大き目のフォード車に乗っていたこともあり、行き止まりの道に迷い込み焦ってそそくさと出てきたのですから見る余裕などなし。

車で乗り入れたのには、アルファマは今でもそうですがバーなどが多く危険な区域だという噂が当時は聞かれ、歩くのを避けたのでした。 今なら日中は問題がないと思われます。

alfama4.jpg

1755年11月1日のリスボン大地震はマグネチュード8.5から9度、リスボン南のサン・ヴィセント岬の西南西200キロの大西洋海底が震源と推定されています。この時の死者は津波も合わせて10000とも90000とも言われていますが、多くの宮殿を含む建物の85パーセントは破壊されリスボンは壊滅しました。当時のリスボンの人口25万人のうち、2万人がこの地震で犠牲になったと言われます。

リスボン

11月1日は「聖人の日」で、習慣として前夜から多くの家や教会ではロウソクの灯が灯されていました。また、この日は非常に寒い日だったので、各家庭では火を炊いて暖をとる家が多かったのも大きな火災の原因になりました。

テージュ川が流れ込み、海に面しているリスボンは同時に津波にも襲われました。地面が裂け、その地割れが水を、風、蒸気を呼び、火災も3日間続き、リスボンをほぼ完全に崩壊したのです。宮殿を始め、絵画、古書など失われた国家財産は膨大なものだったと言われます。この時、かろうじて大きな被害を免れたのが、狭い路地の迷路が密集しているリスボンの旧市街、アルファマ地区です。

Alfama7-1

道すがら、振り返ってみて気がつきました。アルファマは見上げるような小高い丘にあるのです。それと、調べてみてわかったことですが、この丘に建つサン・ジョルジュ城、大寺院、そしてアルファマ区域に巡らされた中世時代の壁の遺跡(Muralhas de Lisboa)も津波から守ることになったのかもしれません。

Alfamaとはアラブ語のAl Hamma, Hot spring熱い泉、Bath浴場という説と、Alhamme、口という説が
あります。いずれにしても、アラブ人が支配していた時代にはアルファマは街の中心であったのが、キリスト教徒のレコンキスタ国土奪回戦争でやがて、リスボンの中心はバイシャ(baixa低地)へ移り、ダウンタウンになります。

Alfama8-1
ファドが聴けるレストランや小さなバーが多い現在のアルファマ。

リスボン
Jose Malhoa(ジュゼ・マリョア)による絵「Fado」はよく知られる。


リスボン

夫と迷路を歩き回り、アルファマ旧市街を出ようかという時に出会ったセグウエイツーリストグループ。

う~ん、歩かなくて済む楽な手ではあるが、これじゃぁ、石段は上れないよ?これに乗ってたら写真撮るのも大変だぞ・・・操作違いで突然バックしてひっくり返ったりしてね^^;わたし向きでは、まず、ないな。

一つことに夢中になると疲れも忘れてしまうタチのわたし、アルファマはもっと歩きたかったのだが、「もう5時間近くも歩いてるよ(リスボン市内を)」と夫が音をあげました。どうだ、まいったか。お主の妻の健脚ぶりに。わっはっは。

観光は歩くに限るのである。
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2017年11月1日

11月1日、今日はポルトガルでは「聖人の日」で休日です。この日、ポルトガルの人達は午前中に花を携えて墓参りに行きます。

今から250年程前の今日、リスボンは大地震に襲われ、火災と津波で街は殆ど破壊されたのです。当時のリスボンの人口25万人のうち、2万人がこの地震で犠牲になりました。強度のこの地震は、南フランスや北アフリカでさえも感じられたと伝えられます。

地震の被害がかくも大きくなったのには、次の理由が挙げられています。

「聖人の日」の前夜から習慣として、多くの家や教会ではロウソクの灯が灯されていました。更にこの日は非常に寒い日だったので、各家庭では暖炉の火を炊いて家で暖を取っていたそうです。

常日頃から、日本に比べてポルトガルのいい所は、何と言っても地震がないことだとわたしは思ってきたのですが、地震を正確に予測するなどいったい誰ができるでしょうか。

1755年午前9時45分頃、地震は何の前触れも無く、突然リスボンの街に襲いかかり石造りの建物からはレンガや石が人々の頭上に降り注ぎ「聖人の日」のこの朝、ミサに来ていたたくさんの人が崩れ落ちた教会で生き埋めになりました。 

ポルトガルは大西洋を目前にした海洋の国です。海に面したリスボンは同時に津波にも襲われ、地面が裂け、その地割れが水を、風を蒸気を呼び、被害を更に大きくし、これは3日間続きリスボンを完全に壊滅状態にしました。

この時かろうじて残ったのが、今では観光地となっている中世のたたずまいとその狭い路地がクネクネと密集しているリスボンの旧市街、アルファマ地区です。

Alfama3.jpg
物悲しいファドが聞こえてでもきそうなアルファマ。

リスボンの街はこの後、ドン・ジュゼ一世王の命令でポンバル公爵により再建されるわけですが、Convento do Carmo(カルモ修道院)を代表とするいくつかの建物は、この惨劇の象徴として手を加えられることなく当時のまま保存され今に至っています。

Alfama2.jpg
カルモ修道院
       
この日から250年以上もの月日が流れ、リスボンの大地震は歴史になってしまいました。

最後に、ポルトガル語では地震を「Terramoto(テラモート)」と言います。Terraは地球、土地、 motoは運動、運行の意味があります。明日はこのリスボン大地震の被害をかろうじて免れたアルファマ地区を案内します。


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