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2018年3月30日 

ネットでニュース記事を読んでいた今朝、曇った低い空から突然強い雨が降り出した。瞬時にあがり日が差して空一面青空だ。今年の春の天候は目まぐるしくて定まらず、もう一嵐くるという。

今日は聖金曜日、今年の復活祭は4月1日になるので、その前の金曜日をポルトガル語ではSexta feira Santa(セスタ・フェイラ・サンタ)と呼び休日である。それで、明日の土曜日は市立図書館も閉館で日本語教室も休講、久しぶりに3日間の休みだ。

さて、一ヶ月ほど前に写真撮影にも使用してきたXPERIAが突然画面が真っ黒になり修理にだしたのですが、これが2度目。丁度その時、日本から帰省していた東京息子曰く、「2年目だと往々にしてダメになるよ」

2年ごとに買い替えよということかぃ!と腹を立ててみても仕方ない。仕事の連絡上ケータイは要るので、直って来るまでガラケーで間に合わせようと思っていたら、夫が勝手に買ってきてくれた新スマホが、HUAWEIでした・・・・

わたしが長年できるだけチャイナ・フリー主義を通してきているのを、夫も含め親しい友人たちは知っています。食品に関してはもうひとつ加えてコリアン・フリーもそうです。ネットで目にする彼らの食品にまつわる話にはとんでもないものがたくさんあり、もしかして?と思うと、買ってまでそんなものを口にしたくはないというのと、彼の国たちの母国おとしめがあまりにもひどいのに抗議したい気持ちもあるからです。

友人たちから「カレールーとか何々とか、チャイナショップで手に入るよ」と聞いてもまず行かない。お米に関しては「日の出」米が「Shinode」なんて書いてあるし、ヘソを曲げることだってたまにあるわたしなどは「死の出」かぃ!と反抗心が頭をもたげてきて、買わない。500グラム3ユーロ近くのを、腹の中では「○ソ!、高いじゃないか」と思いながら買っているのであります。

そんなわたしのチャイナ・フリーを知っているからこそ、夫は一人で行ってHUAWEIを買ってきたのでしょう。チャイナ・フリーを通すから返品して来い、とは、あまりに夫の好意を無にするというもの、さすがに言えませんでした。

が、やはり違いがあります。まずは重さ。そして、これが一番気になって未だに対処できていないのが、画像の色具合です。XPERIAと比べると俄然色彩が違います。そんなわけでこれまで面白がって、FBやインスタグラムに夕焼けの画像をよく投稿してきたのですが、このところ中断して色彩具合をあれやこれやと探っており、撮影目的の外出時は昔同様デジカメ持参です。ま、素人腕でエラそうに言うことはないか(笑) でも、ひとつの楽しみは無くなったなり。

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2018年3月の日没時
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2018年3月28日

生まれて初めて、「故郷」「日本という国が恋しい」と言う感情を知ったのは、異郷の地ポルトガルに嫁ぎ、里帰りができなかった初め3年間の時です。

実はアメリカ留学で自分の持ち金は全部使い果たしていたし、一人で義母やおばたち、それにわたしを含めた4人を養っていた、やっと専門医になったばかりの30を少し超えた夫に、里帰りさせてくれとは言えませんでした。

当時は飛行機代も今とは比べ物にならぬほど高かったのです。ましてやポルトガルは今以上に物価が低い国でした。国際電話料金もバカ高く、母に年に一度、正月にするくらいで、せっせと元気印の空港便を送ったものです。

わたしが話せた言語は英語と日本語のみ、ポルトガル語は全く知らずに来ました。ポルトガルでは今でこそ、他の国同様、英語が第二外国語になり、簡単な英語であれば、なんとか通じるようになりましたが、今から40年前は、ドイツ語フランス語が第二外国語でした。英語が少々話せるとて、通じる相手は周囲にたくさんいたわけではありません。

ポルトでたった一人の日本人です、町を歩くと、すかさず「chinesa、chinesa」(=シネーザ・中国人のこと)と指差され、それが「死ネー、死ネー」と聞こえたのには、こたえたものです(笑)

昨今のように、大学には外国人向けのポルトガル語コースもありませんでしたし、個人レッスンでも受けようものなら大変な授業料が請われました。冗談じゃありませんて。自分が持ち込んだたった一冊のブラジルポルトガル語の文法本があっただけです。

それも、日本とポルトガルの国柄の余りの違いにすっかり意気消沈してしまい、何年も何年もその本を使って独学することを拒否してしまった愚かな自分ではありました。

旅人である間は、また、一時しのぎの滞在である間は、そして、年に一度の割でせっせと帰国の切符を手に入れている間は、「やっぱり自分の国が一番いい」と言う安堵感にかき消されて、「ノスタルジア」という感情は、なかなか生まれてこないような気がします。そんな感情を誰もが学ばなければならない、なんてことはないのですがね。

2歳近くの息子を連れて3年ぶりに日本の地を踏んだときは、誠に感無量でした。機内から眼下に見える自分が生まれた国、飛行機が着陸する間、滂沱の涙が頬を伝い、隠しようがなかったものです。

「わたしの国、これがわたしが生まれ育った国」この言葉が頭をぐるぐる回って、湧き上がる感情をどうにも抑え切れなかったですね。

10年を一昔とすれば、あれから昔が四つ過ぎようとしています。ポルトでは、わたしは一番古い日本人で、昔を知っている「生き字引」なんて言われたりしますが、当時の昔を語ろうにも、昨今の若い人たちには、きっと興味のない迷惑な話になったりするでしょう。ほとんどそんな話を出すことはありません。

ポルトガルの男性を夫に持つ若い日本女性も随分増えました。「年に一度は日本へ里帰りさせてくれることを条件に」なんて話も聞いたりします。それを羨ましいとは思わない、と言えば少々嘘になるけれども、今日のわたしを築いた背景には、夫の家族と同居した最初のちょっと辛いと思われた6年間がチラリチラリと見え隠れします。これがわたしのポルトガルでの人生の始まりでした。

詩人星野富広さんがその花の詩集で言います。

「引き返す距離が長いほど、力を蓄える波の激しさ」

じっと我慢して久しぶりに母国の地を踏む喜びがどんなに大きなものかを、わたしは知っています。

ブラジルに移民として船で渡った日本人や異国へ渡ったポルトガル人たちの「ノスタルジア」がわたしは今、分かるような気がします。優しい記憶も苦い思い出も入り混じって、それらを超えたところに「郷愁・望郷」はあるのです。

ポルトガル語では、それを「Saudade」(=サウダーデ)と言います。

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2018年3月27日 

冬から春への季節の変わり目は時にグンと気温が下がったりするが、その寒い空気がかすかに春の気配を伝えてくれる。春到来を待ち焦がれる身には、寒さにブルブルッとくる感覚もいいなぁと思ってきたものですが、今年は来る日も来る日も雨が降り続き、辟易。

真っ青な空に木蓮の鮮やかなピンクや白が映える中、車を走らせながら春の訪れに胸をふくらませるのに、今年は異常な気候がそれを許さず、3月も下旬だというのに、咲けや咲けの花の勢いも感じられません。ベランダの花々も咲く気配未だなし。真に残念です。

吉野山の桜を生涯愛してやまなかった西行は、

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月のころ

と歌いましたが、詠んだ歌のように、桜咲く頃に入寂したといわれます。

北面の武士、佐藤義清(のりきよ)は23歳で出家し西行と名乗ったのですが、裕福な家に生まれ幸福な家庭生活がありながら、何もかもかなぐり捨てて出家するに至ったその動機は今も謎です。

異国に住んで40年目に入りますが、春が来るたびに桜に寄せて思い浮かべる花吹雪、落花、花いかだ、花衣、花冷の言葉は、日本人であるわたしの桜に馳せる思いですが、これらの言葉を使えずにもてあましている才の無さよ。

せめてはと、花にまつわる短歌を探っては読んでいるポルトガルにての春です。
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2018年3月23日 

伝統的な服装をポルトガル語で「traje tipico」「traje tradicional」と言います。
ナザレの漁師と女性の服装もそのひとつです。

下の写真は、わたしが撮ったものですが、ナザレでは日常的に伝統的な服装で町を行く女性をよく見かけます

ナザレ

外見からはちょっと気づかないかもしれませんが、ナザレの女性がはいているスカートは7枚重ねたもので、「sete saias」(sete=7 saias=スカート)と呼ばれます。

ナザレ ナザレ
2枚ともにWikiより

なぜ7枚かと言うのには、これといったはっきりした説明はないようですが、昔から西洋では知恵、勇気、節制、正義、侵攻、希望、愛の七元徳、一週間の7日、虹の七色と7はマジックナンバーです。

七つの波を表すとも言われますが、ナザレの女性は夫や息子が漁から帰ってくるのを浜辺に座り長時間待つのが習慣で、海の風の冷たさから身を守るためでもあったようです。

下は漁師の服装です。
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wikiから

シャツはもめんのチェック模様です。ボタンのつき方に特徴があります。なぜか?ただいま調査中。右はバレッテと呼ばれるナザレ漁師の黒いふちなし帽子。

下はわたしが出会ったナザレの女性。この黒い服装と頭に黒いスカーフを被るのもナザレの既婚女性の伝統的な服装だそうです。

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「ナザレのイエス」と聖書にも出てくるこの地名には由来があります。その昔、聖書のナザレから、海を経て一人の聖職者が「マリア像」を持って流れ着いたという伝説から来ます。

この手の話だとよく聞かれるのですが、この「マリア像」、なんと「黒いマリア像」なのですと!

「黒いマリア像」は、わたしがテンプル騎士団がらみの謎解きのために読んできた本でもよく書かれており、これは「聖母マリア」ではなくて、中世からローマカトリックに糾弾されてきた「異端者」(バチカンが宗派として認めない)が崇拝する「マグダラのマリア」だと言われます。

わたしが「異端教の殿堂」と解するフランスのシャルトル大聖堂の「黒いマリア像」は有名ですが、ポルトガルでの「黒いマリア像」は初耳です。

「ナザレには黒いマリア像があるんだって!しまったなぁ。」
と夫に言うと、
「あ、そうだった。思い出さなかったよ。」
がぁーーーーん!言ってよね!

黒いマリアさまに会いに、今年はもう一度ナザレに行ってみようかと思っています。

さて、本題にもありますが、古い漁村ナザレですが、近年はサーフィンで世界に知られるようになりました。

ナザレ沿岸は海底谷の地形が世界でも有数の深さを持つため、非常に大きな波が生まれます。地元ではこの波のことを世界中のサーファーにしってもらうため、彼らを呼び寄せキャンペーンを展開してきました。

米国人サーファーのギャレット・マクナマラが2011年には24メートルの、2013年には30メートルの巨大な波いのることに成功し、これあサーファーの世界記録だと言われています。

ナザレ
2011年ナザレ、24メートルの波乗り

この時の感想をCNNのインタビューで「いつまでも落ち続けて両足はストラップから外れかけていた」「全身が粉々になるような感覚だった。本当に難しかった」と答えています。

ナザレ
2013年なざれ、30メートルの波乗り。

ポルトガルにはもう一箇所サーフィンの聖地と呼ばれる、Eliceira(エリセイラ)があります。、リスボンから北東へ35kmほどのところにあるのですが、世界中からサーファーが集まり、初心者からサーフィンが習えるサーフハウスもあります。

「波乗り」なんて聞くと、わたしなど年に一度帰国するときに口にする「波乗りジョニー」をついぞ思い浮かべてしまう無粋ものではございます^^;
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本日はこんなオチにて。
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2018年3月21日 

ナザレを訪れたのはもう10年くらいも前になりますが、今日はナザレをロケ地にした映画にちなんだファドについて。

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1999年に没した「ファドの女王」アマリア・ロドリゲスが歌い、彼女を世に出した歌が「Barco Negro」(黒い舟)です。

日本語では「暗いはしけ」と訳されていますが、少し意味合いが違うように思います。「はしけ」は貨物や客を運ぶ小さな舟のことですが、「Barco Negro」は歌っている意味からして漁船です。

1954年のフランス映画作品「過去を持つ愛情」の中で、離婚暦を持つフランス人の恋人たちが、ナザレを訪れるシーンで歌われます。アマリアの歌の中でも名曲といわれるファド、と思ってきたのだが、なんと!原曲はブラジルの歌だったのです。

これには少し驚きました。 ポルトガル人も知らない人が多いのではないでしょうか。夫に、この知識をひけらかすと「まさか?」の顔で、いうことにゃ、「ネットにあることが全て正しいとは限らんぞ。」でありました(笑)

そんなことはもちろん承知ですよ、あぁた。 しかし、まぎれもない原曲を今度はポルトガル人人気歌手「ドゥルス・ポンテス」が歌っています。その原曲は「Mãe preta」(マイン・プレタ。直訳:黒い母=黒人の乳母の意味)。

♪黒人の乳母が主人の赤ん坊を揺りかごであやしている。
  こんな風にしてたくさんの白人の子供を喜んで育ててきたが、
  その間に、自分の子は農園で鞭打たれながら働いている。

と、黒人の母の悲しみを歌ったものですが、映画「過去を持つ愛情」では、歌詞をすっかり変えて原曲をはるかに上回るファドの名曲にのし上げていますね。

下記のリンクからこの2曲を是非聴き比べてみてください。

アマリアの「Barco Negro」


漁に出て行き帰ってこられないかもしれない愛する男への「あなたはわたしの胸の中にいつも生きている」との思いを切なく歌っています。
  
ドゥルス・ポンテスの「Mae Preta」 


明日は、ナザレ(2)を案内します。
本日これにて。
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2018年3月19日 

わたしたちが「NHKパーティー」と呼ぶところの「Nihongowo Hanasu Kai」も昨日で第7回目を迎えました。

毎回都合で出席できない人がいるのですが、今回はそれが15人になり、集まったのは30人ほどでしたが、わたしが思うに、これまでで一番楽しかったパーティーのような気がします。7回目ということは、長く学習している生徒は7年目になるということで、みなさん、クラスが違っても顔なじみになり気心も知れて、和気藹々、今回は出した日本食もバラエティーに富み、みんなほとんどたいらげられました(笑)

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メニュは巻き寿司、押し寿司、一口カツ、トリのから揚げ、サンドイッチ、白身魚のチーズグラタン、やきそば、豚肉ロースの紅茶煮の定番料理に加えて、新料理はわたしからは、うれん草の胡麻和え、ワンタン揚げ、ポテトサラダ、炊き込みご飯、Oちゃんからは餃子、デザートのドラ焼きなど。

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写真を撮る前に、すでに食べられていたのでありました(爆)

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デザートはいつも生徒の一人に注文して自由に作ってもらいます。

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今回のケーキは左から、チョコレートケーキ、ビスケットシャンテリーケーキ、それにティラミス。
手前にあるのは、カラメルポップコーンと抹茶クッキー。

Oちゃんも同様ですが、二人とも土曜日の午前中の仕事を終えてから翌日のパーティーぎりぎり前まで料理作りに励むのですが、さすが今回は疲れたなり~。昨日の今日、日本語クラスを二つキャンセルするに至りましたぞ^^;

考えてみたら土曜日の午後6時過ぎから夜中12時過ぎまで、翌日の昨日は朝7時から1時までと、台所でずっと立ちっ放し。1時の「終わったー!会場のOちゃん宅へ、いざ!」と言うと、夫「明日は足腰痛だね、こりゃ」って^^;

年に一度のことだから頑張ってできます。可能ならばこれを10回目まで持って行きたいと願っており。

最後に我が教室のGGs(ジィジィズ達。もちろん、わたしも含めますぞw)
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本日はこれにて。
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2018年3月16日 

今日は日本語教室の話です。

今年1月末の土曜日に実施された漢字検定試験に同僚のOちゃんとわたしの日本語教室からは11人の受験生を送りましたが、結果が出ました。

10級と9級ですが、ほぼ全員が95%正解で合格しました。学業とバイトで自宅学習の時間がとれないと言う生徒が一人いましたが、こちらもかなりしつこく受験の指導をしました。彼の合否が気になっていたのですが、合格通知にこちらも一安心しました。

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10、9級は日本で言う小学校1、2年の漢字ですが、週に一回、80分の授業で文法と漢字も指導しますので、会社勤めをする生徒にとっては家での学習も望まれ、決して楽なことではありません。それでも日本語を習うからには10、9級の漢字240字を、できれば440字の8級を合格して欲しいと思っています。

8級の漢字習得には個人レッスン、グループレッスン共に週に一回の授業で2年はかけますが、漢字に余り興味をもたない生徒にとっては苦しみとなりますから、8級受験は義務付けません。

わたしの日本語教室からは過去に漢検2級を90%台の正解で合格した優秀な生徒がいましたが、8級以上となると、講師の指導云々より本人の学習次第だと思っています。現在、8級と7級の学習に挑戦している60代後半の生徒が二人いますが、時に若い人たちにその話を聞かせてはハッパをかけたりします。

いずれにしろ、合格通知というのは何にしろ嬉しく、またモチベーションも上がるというものですね。

さて、Oちゃんの教室は除き、わたしのはグループ、個人とをあわせて30人ほどのちいさな日本語教室になりますが、この春から二人の特待生を受け入れました。 もともと、図書館の日本語コースは「時間はあるけれどお金がない」と言う若い人たちのために開講したゆえ、授業料は安く設定しているのですが、仕事に就きたくても就けずにいる若者もいます。そこで、特待生となりました。

一人は元Oちゃんの、もう一人は元わたしの生徒でした。諸事情があってどうしても日本語学習を続けられなかったOちゃんの生徒さんは、最近勉強できそうな環境になったと判断し招待しました。

元わたしの生徒はこちらでの仕事を辞めて、ワーキングホリデイ・ビザで1年間静岡の工場でバイトをし、日本に滞在していました。日本で働きたいと切望したのですが、就労ビザ取得ができず、がっかりしてポルトに帰ってきました。

大卒でない彼が日本で就労ビザを得るのはとても難しいようです。国が定めてあることなので文句の言いようがありませんが、それじゃぁ、日本で職に就いているたくさんの外国人、特にアジア系外国人はみんな大卒なのかと彼が問いたくなる気持ちも理解できます。

こちらでワーキングホリデイ・ビザ取得のために、わたしは少し手助けをしましたが、彼が新たに別進路を見つけるまで、日本語学習を続けてみて欲しいという思いで、今、わたしができることはコースへの招待であろうと。

特待生とは優秀な生徒への待遇のようですが、我が教室は、日本語を勉強したいという意欲に重点を置き、優秀うんぬんはあまりいといません。経済的困難で進学を諦めざるをえなかった自分の体験を思うと、できる範囲内で手助けできないかと考えた結果がこれなのです。

そんな訳で、ただ今の中級クラスは総勢14人の賑やかな授業になり、教えるわたしも楽しんでいるのです。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
ではまた。
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2018年3月15日 

大阪京橋から少しバスで行った所に住んでいた二十歳の頃、わたしは今で言う究極のミニマリストでした。家電家具類は布団を除いては一切なかったが、小さなプレーヤーとレコードだけは持っていました。わたしの生活から音楽を切り離すことは考えられないことでした。

玄関土間に続く3畳、6畳の部屋、それに当時ではめずらしい4畳半のフローリング台所がある文化住宅と呼ばれた住居です。一人暮らしのミニマリストにはとても広く感じられました。夫と出会う10年も前のことです。

福島区の小さな印刷会社の事務員をしていましたが、大胆にも京橋界隈で遊び、時々会社をズル休みもしたものです。すると、人情のある部長さんが都会で一人暮らしをしている若い娘を心配して、翌朝は車で出勤に迎えに来てくれるのです。事務所では営業の人たちにもよく可愛がってもらいました。

どんな夜遊びをしていたかと言うと、もっぱらサマセット・モームの作品ばかり上演する素人劇団のメンバーのシナリオライターや作家、役者希望の若者たちとつるんでいたのであります。劇団長は一度は劇団四季に席を置いたと言う人で、当時は京橋の繁華街に「エリーゼ」(と思う)と言うスナックバーを持っていました。みんなのたまり場は必然そこになります。

会社が退けてから彼らとつるんでは明け方まで営業しているカフェスナックなどで幼稚な人生論や芸術論を彼らと語り明かして遊んでいたのです。時に、シナリオライターから、ちょっとここのセリフ、読んでみてよ」などと頼まれることもありました。彼らの劇では「雨」「エドワード・バーナードの堕落」を観劇しました。

モームは表向きは作家としたがイギリスのM16の諜報員としても活動しています。わたしが最初に出会った彼の作品は、高校の英語教科書の「The luncheon(昼食)」という短編でした。

ファンだという女性とパリの格式あるレストランで昼食に誘うことになるのですが、彼女は「ひとつの料理しか昼食には食べないことにしてるの。~は特別だけど。」と言いながら貧乏作家の目の前で、次々と高級料理をたいらげていき、主人公は支払いに冷や汗をかくことになる「ランチ」を描いた作品です。

そんなわけで、モームには身近な思いを抱いていたのですが、彼を縁に面白いことが展開しようとは二十歳頃は想像だにしなかったのであります。

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画像は手元にあるモームの短編集で実は知り合った頃の夫が大阪のアサヒや書店で買い求め、
わたしがプレゼントにもらった分厚い原語のペーパーバックです。本の扉、右上には「Para Yuko do Carlos(カルロスからユーコへ)。1977年8月10日」と日付も書いてあり、下には彼のサインが見えます。

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それで、今思い出したのですが、この日付、大阪の梅新の交差点でクソ暑い中、わたしが夫を2時間待たしたときだったのでしたっけ^^;(爆)

もう絶対いないだろう。でも、いちおう行って見ようと、実はこの日が初デートだったのでした(笑) 40年前になりますわな(笑) あのとき彼がしびれを切らして2時間後に待ち合わせ場所にいなかったら、今日のわたしはポルトガルにいなかったわけです。すると、息子も我がモイケル娘もこの世に存在しなかったわけで、よくぞ、夫、炎天下をじっと待ってくれたものだと、ひたすら感謝するのみです。

その一ヶ月後、夫は広島大学病院へ研究で移動し、会うのは大阪か広島で、一月に一度か二度の遠距離。やがて年が変わって1978年の1月に、今度はわたしがアメリカへ移住の夢を見て出発し、大遠距離に離れ離れになったのが、今こうして日本とポルトガルの文化の衝突もなんとか誤魔化しては、本日、結婚39年を迎えたのです。乗り越えて、って言う表現は合いませんね、わたしたちの場合。

乗り越えるためには、ぶつかり合って納得するところまで行かなければならない気がしますが、「フン!なんでぃ!いいわぃ」と、流すことが多いですから、やはり誤魔化してってことになりましょう。

口に出しては言いませんけど、粗忽者で直行型のわたし共に忍耐力でこの人生を一緒に歩いて来てくれて、ありがとう。

40年前に夫からプレゼントされたモームの短編集はわたしとともにアメリカへ渡り、日本へ一時期帰国しポルトガルへ来て、今わたしの本棚に納まっています。

モームよ、お前もページがすっかり黄ばんでしまったけれど、わたしたちもお前同様、40年の歳月を重ねたよ。
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2018年3月12日 

定期的にレストランで食事会をする4人仲間がいますが、その中の白一点であるI氏から、3月○日に白内障の手術をするので、その後はしばらく飲めない。食事会をその前にしてくれない?と連絡が入りました。

してみると、昨年12月以降、それぞれ忙しかったのと1月は日本人会の新年会、2月は雨雨で、このところ、食事会を開き損ねていたのでありました。3月は日本語教室の恒例で年に一度の「日本語を話す会ことNHKパーティー」を来週18日に控えており、その後に食事会をしようと考えていたのですが、I氏の要請で、しからば11日というので、先週日曜日、久しぶりに会い、4人でワイワイガヤガヤ。場所はダウンタウンにあるいつものレストランMoinho de Ventoです。

レストランに入るといつもはわたしかI氏が一番先に到着するのに、なんと3人ともすでに席についているではないか。へぇ~、どうしたの、みなさん、珍しい、この日が待ち遠しかったのかなと思いながらもそれはおいとき、注文をし、飲み物がきたところで、かんぱい!

すると、大阪出身の我が友がおもむろに、「七十路の誕生日、遅ればせながらおめでとう。これ、みんなから」と手渡されたのが花束です。

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ははぁん、それでみんな言い合わせてわたしより先に来てたのねん^^

なにしろ、4人仲間では、いや、ポルトでも一番長くここに住んでおり、自慢にもならないが、年齢上もトップでござんす、う、うわ!と嬉しいやら、とまどうやら。「次のお祝いは77の喜寿やで~」との彼女の言葉にがび~~ん!いわんでもよろしいがな^^;

続けてその友、「なんか疲れてる?」と聞いてきました。実は寝不足だったのであります。何ゆえかと言うと、前日、3人に「食事会確認」のため「明日だよ。今回は雨が降っても槍が降っても実行なり」とメールを流したのであります。

天気予報ではかなり天気が荒れるとあったので、あまりに酷いときは通常なら食事会の日程を変更するのですが、今回はI氏の手術後には、わたしの帰国も控えており、今回できなかったら食事会で集まるのは5月になると思われたもので確認したわけです。

ところが、メールを流して、寝るには少し早い時間の11時ちょっと過ぎ、寝床に入ったのが運の尽きです。 案の定、夜中の3時ころに目が覚め、どういう訳か「槍が降っても」と送った自分のメールをふと思い出し、「あれ?もしかして、矢が降っても?」と、考え出したらもう眠れません。

やおら起き出してパソコンをつけ即検索です。お、大丈夫。間違ってなかった。と安心して再び寝ようと努力したものの、悶々として眠れず1時間後にはまた起き出していたのでした。

そんな理由を話すと、「考えすぎや、心配しすぎや」と全員に笑われ^^; いやぁ、いちおう日本語の先生をしてるもんで。テヘへへへ。

寝不足で、今回はレストランの後の2軒目のカフェを避けて早めに帰ろうと思っていたのが、結局向かいにあるカフェ「Progresso」でもう少し遊び、帰宅は6時をちょっと回っており。着くなり大急ぎで待っているであろう外ネコ4匹にエサを運んだのでありました。

一ヶ月に一度の食事会となると、ちょっときつく感じるのですが、2、3ヶ月に一度だと、怪しくなりつつある日本語でのおしゃべりも話しているうちに段々舌が滑るようになり、気の合った仲間同士だといい息抜きにもなると言うものです。

さて、今週日曜日はYY日本語塾主催のNHKパーティー(Nihongo wo Hanasu Kai)です。今から準備が始まるのですが、今日はこれから買い出しにひとっ走り行ってまいります。

それではみなさま、本日はこれにて!
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2018年3月11日 

東日本大震災から7年経ちました。3月11日は9・11と共に忘れることが出来ない日です。いても立ってもおられず、2011年4月に入るやそうそうと我が子たちの様子を見に帰国したのでした。

今日はあの日、あの頃を思い出し、祈りといざという時の心構えをわが子たちに持って欲しいがため7年前の日記を再度起こしてみました。

2011年3月12日

地震の被害にあわれたみなさまに、こころからお見舞い申し上げます。

我が子たちも所沢の妹たちも無事だったとは言え、ニュースで繰り返し放映される画像を見るにつけ、手放しで喜べない気持ちです。目を覆うばかりの惨状に愕然とし、泣きたい気持ちになります。みなさまのご家族、ご親戚、お知り合いの方々はご無事でしょうか。

昨日の午前中はいつもの日本語教室がキャンセルされていたので、前夜は新しいクラスの準備で少し夜更かししてしまい、いつもなら起床している時間にまだ寝入っていたのでした。

それが、7時半過ぎに電話が鳴り、こんな朝早い時間にいったい誰だろうと思いベッドから飛びおりて玄関ホールの電話を置いている所まで小走りに向かいました。

受話器を取るなり「あんた!東京が大変なことになっとるで!子供たちおるやろ!ニュース見てみー!」と大阪出身の友人の一声です。

同じ人からこれと同じ声の調子で、かつて突然の恐ろしいニュースを知らされたことことがあるの一瞬を思い出しました。1995年1月17日の関西大震災の時でした。

ギョッとして大慌てでテレビをつけると同時にパソコンのスイッチを入れました。朝からテレビをつけるなんてことは大事件でもない限り我が家ではまずありません。

そうして目に飛び込んできた画像に、しかも即それを東京だと思ったものでもうその後は大変でした。すぐ子供たちのケータイに電話を入れたもののつながらない、所沢の妹宅の固定電話もダメ。

今日本は何時よ!娘は?息子は?と不安は募るばかり。何度も何度もダイヤルを回せど応答なしです。ウェブ新聞で更なる情報を得ようと慌てふためいてパソコンに走りました。すると、スカイプで息子が「ママ、地震があった、こわかった」と、声をかけてきました。ケータイはつながらねど、ネットは大丈夫なのですね、こういうとき・・・

息子はその日仕事が休みで、地震が起きたとき、外で自転車を走らせていたそうです。急いで帰宅し、やったことが、なんと!3匹の猫たちをそれぞれのカゴに入れて外へ運び出したことだそうです。(あんたら幸せなねこやで!)

モイケル娘は?と聞くと、「まだ会社だと思う、けどケータイが通じない」と言う。ダメもとでケータイにメールを送ろうとメールボックスを開くと、モイケル娘からのメールの件名、

「かあちゃん、地震起きました」

この件名を見た瞬間、わたしの心臓はぎゅぎゅっとしぼみました!そして、短い文面を読んだ瞬間、安堵に胸をなでおろしたのでした。

まだ会社にいるが、都内の電車が前線ストップしているので帰れない。いわゆる帰宅難民になっていたわけです。

そのうち、「同期の人たちで歩いて帰ろうという話が出てる」と言うではないか。おいおい、待て!それは危険なことだよ。止めよ、とメールを打ったが、息子から「She's comming back. 家に向かってる」と入る。

「シ、シーズ カミング バックって、あんた!止めるのよ~」と叫べど既に遅し。

すると間もなしに娘からの返事、
「今歩いてる。心配しなくていいよ。グループで歩いてるから」こういうときは、余震もさることながら、狼男も心配なのだよ、おっかさんは!

思うに、我が娘、絶対ネコのことが心配で歩いて帰る気になったに違いない。同じ環境だったらわたしも同様のことをしていたこと確実であります。

夫も勿論起き出しておりましたが、気になるとて患者の仕事を休むわけには行かない。間もなく出勤しましたが、残ったわたしは、新しいクラスの準備も手に付かず、そのうち、友人たちから、親戚から、知人からと電話が一日中なりっぱなしです。

娘が一緒に歩いたグループは会社の寮の人たちで、実はその寮が偶然我が子たちのアパートの一つ駅違いのところにあるのだそうな。たまたま、社員に寮から築地にある会社まで、1時間ほどかけて自転車通勤をしていたツワモノがいたのだとか。それで道を知っていたので、皆で徒歩で、との決断を下したそうだ。

自転車で1時間が、歩いてなんと4時間半!たはーー!どんな靴でそんな長時間歩いているのだろうか、足、大丈夫だろうか・・・そんなことを思い巡らしながら、気が気でならず新しい出張日本語クラスを終えて帰宅し、息子から娘が家に無事たどり着いたことを確認して、ひとまず安心したのでした。

2011年3月20日

我が家にはポルトガル国内にいるたくさんの知人親戚から毎日のように子供たちの、日本の安否を気遣って電話がきました。

特に我が子たちを幼いころから可愛がってくれた夫の姉、子供たちからするとルイーザおばさん、そして84歳で現在地方の老人ホームで生活している夫のいとこのアルダおばさんは、涙声で毎日電話をくれ、わたしが「大丈夫!心配ないで!」と慰める側に(笑)

今回、計画停電を体験した方々も多いことでしょう。今でこそ、ポルトガルもそこそこに便利な生活を享受できるようになりましたが、わたしが来たころの38数年前のポルトガルはこんなものではありませんでした。

予告なしの停電、断水はしょっちゅうで、年末、新年にかけての三日間ほど断水に見舞われたこともあります。旧年の垢を体にまとっての正月なんて、物心ついて以来初めてではなかったでしょうか。

まだ、こどもたちが赤ん坊の時の断水もしょっちゅうで、当時は紙おむつがあまりなかったものですから、オムツを洗うのとオムツかぶれを防ぐために、常時気をつけて貯水の準備していたものです。

日本の便利な生活に慣れていたわたしは、エラい国に来てしまったと当時は少なからず思ったものです。そういう体験から、そんな時にも慌てないイライラしない忍耐力を学んだと思います。

子供たちも「停電だから今日はできませんよ」とわたしに言われ、それこそ「がびーーん」の体験を少しは覚えていることでしょう。
ですから、ポルトガルでは、まぁ、停電はままあること、小さな赤ちゃんや病気のお年寄りがいるわけではなし、数時間の停電は彼らはなんとでもなります。

ただ、停電に備えて懐中電灯がなかったというのは抜けておりました。モイケル娘いわく、「どこにも売ってない、ネットで見つけて注文しようとしたらもう売り切れだった」

さもありなん。我が家では停電用にと、キャンプ用のガス灯や懐中電灯、更にはろうそくまで暗闇でも常時手の届くところに置いてあります。豊かな文明生活を享受している、特に若い世代は恐らく懐中電灯など常備していない人が多いのではないかしら?

日本からポルトに来る日本人からは、よく不便だ遅れている、物事がちゃんと機能していない、などの不満を耳にしますが、全ての事物は二面性を持っていることを思い出していただきたい。文明の利器も同じです。自分が住んでいた生活環境をそのまま他国に持ち込んでは、その国での生活を楽しむことはできないし、国際感覚は学べない。

国際感覚とは語学ができることではなく、自国と他国との違いを学び、受け入れ、理解し合うことだとわたしは思います。

今日のポルトは雲ひとつない真っ青な空です。夕べは大きな満月が煌々と空にかかり、主のいない子どもたちの部屋にも窓から月光が差し込んでいました。大好きな音楽もこの一週間ずっと聴いていないことに気づいた今朝、久しぶりにモイケル娘の作曲した音楽を聴いています。

水が飲め、そこそこに食べ物があり、電気があり音楽がきける。会いたい人に会いたい時に連絡がとれる手段がある、そんな基本的な幸せがあるだけでも生きているという充実感を改めて感じさせられた一週間でした。

被災者の方たちはこれから苦難を強いられますが、どうか生きていることの幸せを噛み締め、再び立ち上がって欲しいと願わずにおられません。

2011年3月23日 笑っちゃいけないが、なんだか可笑しい

原発問題がまだ明確な見通しがついておらず、現場では今日も危険を承知で必死な作業が続けられています。ニュースを通して被災者たちのエピソードも聞こえてき、気の毒で涙が出てきます。しかし、人生は続く。日本人の、人間の生命力の逞しさを信じたいと思います。

「おっかさん、今日はパンが買えた!」とモイケル娘。日本は物が豊富だ、というより、豊富を過ぎて贅沢だとフッと思うことがあります。今回の被災地だけでなく、世界には食料不足に困っている人たたくさんいるのですが、贅沢に慣れてしまうことは怖い気もします。パンが買える喜びを、娘よ、覚えておいて欲しい。

計画停電だというのに、懐中電灯もろうそくもないという我が子達、懐中電灯をネットで注文しようとしたら品切れでないと言う。大阪の我が親友Michikoが食べ物を含むそれらの物資の差し入れが届けてくれました。

子供たちの住む区域、夕方6時から10時まで停電の今日、間もなくその時間がくるという前の少しの間、スカイプでモイケル娘と話しました。

おっかさん  懐中電灯、手元に用意してる?
モイケル   うん。ヘッドライトをつけてる
おっかさん  へ、ヘッドライト?
モイケル   そ。みっちゃんが送ってくれたのを頭につけてる。
        鏡で今自分の姿を見たら、マヌケだった^^;

↓こ、こんなんを頭につけてるんか、と思ったら、停電を待機しているのが気の毒だとは思ったが、おかしくてつい大声で笑ってしまった。
ヘッドトーチ

笑っている間に停電が来た様で娘はスカイプから落ちていた。夫にもヘッドライトの話をし、このところ、わたしたち夫婦の会話はずっと心配な話題か津波の映像を黙って見るばかりでしたが、こんな小さなことだが久しぶりに笑った気がします。

長い記事になりましたが、時に思い出して気持ちを引き締める必要があると考えたのでした。息子よ、娘よ、いざという時の準備はしてるかい?

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2018年3月8日 

その国によって多少の違いはあるだろうが、欧米では、しばしの別れや暫らくぶりの再会の場では、「気をつけていってらっしゃい。」「会いたかったわぁ。」の思いを、抱擁や軽いキスなどのスキンシップで表現することが多い。

中には、しばしの別れと言っても、10時間ほど家を留守にするだけの別れ、つまり夫の朝の出勤時から帰宅時までですら、キスを交わして愛情表現をすることもあります。

ポルトガルはと言うと、お互いのほっぺとほっぺを軽くくっつける「beijinho(ベイジーニュ)」が日常茶飯事見られます。

例えば、街で偶然知り合い同士が出会ったとき、「あら~こんにちは^^」でbeijinho。どこかのお宅に招待され、到着して玄関先での挨拶も「いらっしゃい」のbeijinhoで、初対面の挨拶も多くはbeijinhoで始まります。

また家族同士でも、誕生日、母の日、父の日などの祝い事で。我が家では、息子や娘がポルトに帰ってきた時や再びそれぞれの生活の場に帰って行く時、夫が国内外にかかわらず出張で出かける時と帰宅した時などなど、beijinhoは愛情表現はもとより、挨拶がわりでもあるのです。

ポルトガルの人たちは生まれた時からこれをしているのですから、beijinhoの仕方が板についており、その場その場に応じてごく自然にできるわけです。

ところが、こういう習慣に慣れていない日本人のわたしは、最初は戸惑うばかりでした。まず、「どっちのほっぺを出せばいいの?」と迷っているうちに、beijinhoがすれ違って合わなかったことも度々(笑)
つまり、向き合って右と右、左と左のほっぺをくっつけるのですからね、相手が右を出すのに左のほっぺを出したらくっつくわけないのであります(笑)

こういうことを繰り返しているうちに39年、それでもまだ板についたとは言い難いわたしのポルトガル式挨拶ですが、面白いことに、日本に帰国した時に大好きな友人たちと久しぶりに会った時など、思わずほっぺたを突き出しそうになる自分にハッと気づいたりするのでした^^

この挨拶の仕方を、好きでもない人とするのは嫌だ、と一時は鬱陶しく思ったこともありますが、家族、親しい間柄の枠内では、さりげないようで情のこもったジェスチャーだと、ここ数年思い始めたのでした。
もちろん、日本人の愛情表現には、慎ましさがうかがわれ、時としてたおやかな美しさをわたしは感じることがあり、それもまたいいものだと思う気持ちに変わりはありません。 

ここに一枚、「beijinho」と題する、幼いジョン・ボーイ(息子)と今は亡き叔母のスナップショットがあります。わたしの好きな写真の一枚です。

nuikooba2-1.jpg
 
ところで、大事な事を付け加えませんと(笑)
異性同士、女性同士はbeijinhoをしますが、男性同士はしません。男性同士は軽く抱き合い、肩や背中を叩き合うのが男性同士の親しみをこめた挨拶の仕方です。

本日はこれにて。
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2018年3月8日 

夫が帰宅しており、晩ご飯を作っている最中に電話がなった、とある夜、応答した夫が電話を切る前に「Ate ja!(アテ・ジャ)」(すぐ後会うときにつかう挨拶言葉)と言ったもので、「誰か来るの?」と聞くと、「何だか知らんが兄貴が今来るらしい。」

へぇ、珍しい。用件も言わないでこんな晩飯時にくるとは、と思った矢先にビーッとコンドミニアムの玄関ベルが鳴った。

義兄が入るなり、「おい、yuko、君がこの間言っていたポルトガル最初のテンプル騎士団のグランドマスター(総長)がグァルディン・パイス(GualdimPais)だと言うのには異説があるぞ!」と言うではないですか(爆)

「ほれ、ここに色々書いてある。あげるから読みたまえ」と、手渡されたのが下の本。「ポルトガルのテンプル騎士団」とある。

templarop1.jpg

よ、読みたまえって、義兄ちゃん・・・これ、ポルトガル語じゃんか~。つい、この間、貸してくれた物凄く分厚い本だって、全部ポルトガル語だよん^^;義兄ちゃん、わたしがポルトガル語をすらすら読めると勘違いしてるんだわ^^;

regaleira2-1.jpg

↑これが以前に貸してもらった本。シントラ旅行でわたしたちが訪れてきたQuita da Regaliera(レガレイラ荘園)の暴露本(笑)と言いましょうか、つまりシンボルの謎解き本、虎の巻とも言えるもの。わざわざ斜めに写真を撮ったのは、その暑さを見てもらうため(爆)400ページ近くある本です。

貸してくれた時に、この本もあげると言われたものの、書籍が高いポルトガル、誕生日でもクリスマスでもないのに簡単に「は~い、いただいときます」なんて、受け取れません。

それで、ぱらぱらめくってみた結果、「これはわたしの謎追いに使えそうだ」と判断し、この本は義兄ちゃんに返して、同じ本を夫に探し出して買ったのでした。案の定、プライス30ユーロほど(5000円)。
中身は、残念ながら全部ポルトガル語です。当たり前のこと^^;読破するのに、どんだけの時間を要するだろか・・・考えないでおこっとw

テンプル騎士団のミステリーもキンタ・ダ・レガレイラの妖艶摩訶不思議さもわたしの歴史の謎解きに大いに関係ありと推察しハマッているのですが、一般的に知られるフランスのテンプル騎士団話と違い、ポルトガルにいたテンプル騎士団の情報は、ポルトガル語でしか入手できず、その情報をゲットしたいがために、○ソ!と思いながら必死にポルトガル語を読み拾っているわたしです。

夫はこんなわたしの興味に、一応付き合ってくれ、話を聞いてくれたり、それに関係する土地に同行してくれたりはするのだが、読もうともまではしない。が、義兄ちゃんはちょっと面白い。

先日も、自分が図書館で見つけたテンプル騎士団の話を、コピーして届けてくれたりと、わたしの話がきっかけで調べたりしているのではあるが、ひょっとして、わたしよりはまってたりして(爆)

ポルトガルのテンプル騎士団のグランド・マスターですが、記録者によってGuardim Pais を最初とするのと、彼以前のグランドマスターの名前が先に上がっているものとがあります。

義兄と、かの本をパラパラめくっては、ああでもないこうでもないと下手くそなポルトガル語で(もちろん、わたしがですってばw。時々、専門用語は分からなくてイラつくのであります^^;)晩御飯の用意も夫もそっちのけで、話していたら、あっという間に10時(爆)

「こんな本を読んで研究してると、頭がおかしくなるぞ。」などと言いながら、すぐさまこの本をわたしのところまで持ってきたことを考えると、義兄ちゃんよ、お主もはまっておるな(笑)

してみれば、亡くなった夫の叔父、彼も医者であったのですが、家の書斎にはたくさんの英語の超常現象やUFOの本があったのでした。わたしが時々夫に、「この本にこういう面白いことが書いてあった」
と、エーリッヒ・デニケン(スイスの古代宇宙飛行士説をとる作家)読後知ったことを披露すると「Mおじさんが同じようなことを言っていたね」とよく返事が来たものでした。

もう少しわたしが言葉を自由に操ることができたなら、きっと楽しい情報交換、意見交換ができたであろうと、今となっては悔やまれます。

しかし、こと、テンプル騎士団に関しては、もともとメーソン、つまりテンプル建築の石工たちの隠れたメッセージに興味を持ったことから始まったのですが、ここにきて、もうひとり、頼もしい義兄という助っ人ができたようです。この叔父にして、この義兄にして、そして、わたし、昔から言います、「類は友を呼ぶ」(爆)
これがもう一昔くらいも前のことで、情けないながらいまだこれらの本の勉強は手がつけられていないのです。仕事で時間が云々と言う以前に、ポルトガル語の理解がおぼつかないのであるよ、君^^;
そうして始めたディアス先生とのポルトガル語も早や幾年。8才年上の先生とは時にお互いの老後の話や社会問題に及んだりするのですが、辛抱強くできそこないの年配生徒に付き合っていただけるのはラッキーというものでしょう。

それが、現在勉強しているポルトの通りの歴史本、残すところ7章です。一週間に1章をすすめますから、7週間、2ヶ月ほどで修了することになり、いよいよ目的の本に突入できます。この日を夢見て、ポルトガル語学習に取り組み、己を叱咤激励するがために、時にこの話題を拙ブログで取り上げてきたのでした。

テンプル騎士団、キンタ・ダ・レガレイラ、どっちからはじめようかなぁ、と迷うのを楽しんでいるのであります。

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。


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2018年3月5日

卒業式の季節です。
ポルトガルになくて日本にあるものの中で、わたしがいいなと思われるのにその卒業式がある。

入学式、始業式、終業式、卒業式、そして入社式まで、わたしたち日本人はこうして儀式をすることにより、始まりと終わりのけじめをつけて新たな道を歩み始める。今日は昨日の続きなのだけれど、襟を正して旧世界に別れを告げ新世界に歩み入ると言えるだろう。気持ちの上で、であるが。

そこで、今日はポルトガルの大学卒業証書をチラと紹介しようと思う。
2007年にリスボン大学を卒業した息子の証書ですが、金属製の筒に入っており、筒の表面にはリスボン大学の紋章が刻まれている。

diploma

この卒業証書だが、卒業式なる儀式がないポルトガル、即座にはもらえない。息子の場合、証書を手にしたのはなんと、卒業して2年半も経ってからでしたぞ。

しかも「証書、どないなってまんの?」とこちらが電話で問い合わせてからです。いやもう、さすが、何事もゆったりのポルトガルであると思ったのだが、当時、証書のことをすっかり忘れていたわたしたちもかなりポルトガル化したものだと、変な感心をしていたものだが、実は息子の手落ちだったらしい。

卒業証書の発行には半年くらいかかり、生徒が受け取りに行くのが通常なようで、息子はどうやら受け取りに行くのを忘れていたらしく、受け取り主を待って放ったらかしになっていたのだという。なんちゅうことを^^;

この大卒証明書発行には当時は100ユーロほど払わなければならわなかった。

証書が我が家にとどいた2009年、本人は既に日本にいたので、替わりにわたしたちが開けて見た↓

diploma

証書は全てラテン語で書かれており、当人の名前はもちろんのこと、その次に「誰々の息子」と、わたしたち両親の名前も記されていた!

うわ!これは嬉しい^^ この証明書は6年間も息子の経済的サポートをしてきた親の証明書でもあるがな^^と喜んだわたしである。

diploma
  
証書に付随しているリボンの水色は理学部を表し、銀の印章は終了したコースのロゴだろうか。

わたしは日本の大学卒業証明書を見たことがないので違いが分からないが、似たようなものだろうか?と書いて、モイケル娘の卒業証書をまだ見せてもらっていないことに今気がついた、なんとものんびりな親ではあった。

さて、世は「資格」の時代で、大学、専門学校などのように数年かけなければならないのから、短期間学んで意外と簡単に手に入れられるものまで多々ある。

山ほどの種類で、どれにも共通する事のひとつが、資格コースのための学資である(笑)子をサポートできる経済力のある親を持っているなら、子は幸運です。

資格云々に限らず、お稽古事、趣味もそれ相応に資金はいるものだ。わたしは若い頃、親元を離れて大阪でアパート暮らしをしていたのだが、親元から通うのと違い、若い女一人が働いて生活するのは経済的に厳しいものだった。田舎の両親は自分たちの生活でカツカツなのを知っていたので、「今月は足らんから、ちょっと金送れ」とは、口が裂けても言えるわけはなかった。

若い美空なのに、化粧品も衣服もあまり買えなかったのだが、えさ代がかかる猫だけは野良を拾い上げてしっかり飼っていた。そして、東京で我がモイケル娘のして来たことは、遠い昔の自分と似たようなことだと気が付き、当時は少し同情すると同時に一人苦笑していたものだ。

当時、わたしが帰国時に耳にしたことは、「化粧品代に金かかるから、今はスッピンで出勤だぁ~」(爆)以来、スッピン状態は結婚した今日にも至っている。

一度などは、わたしがポルトガルに帰りしな、一緒に成田空港まで見送ってくれたのだが、出掛けに靴に足を入れたら、足の甲に被さる所が裂けてしまった。

「あらら、モイケルよ。これは会社に履いていけんぞな。ひとつ買わんと」と言って来たのだが、その後メッセで話した折に、靴はもう買ったかと聞いたら、「後一ヶ月したらボーナスが入るから、その時に買う」と、のたもうたものだ。

おいおい、モイちゃん、まさかあのまま履いてるとは^^;足元、自分では気づかないだろうが目立つのだぞ、と内心思ったが口には出さなかった。

あれもしてみたい、これもしてみたいと夢見たものの、わたし自身、大学どころか稽古事のひとつも、経済的な理由でできなかった。英語学校も一時通ってみはしたがお金が続かず、結局途中で止めて後はひたすらコツコツ独学の日々だ。

食費だけを入れ、残りの給料は自分の好きなようにできるという自宅通いの同僚を見ては、羨んだことががなかったと言えば嘘になるが、あの頃わたしには「一人自由」があったと思っている。つまり、誰からも干渉されず、時間的に自由に行動ができたのである。自由が孤独と表裏一体であることもそのとき知った。

話が横道にそれたが、そのようなモイケル娘の状況から、本人が自費で稽古事などの余裕がないのは分かっていたので、そこでおっかさん、助っ人したいと申し出たのだが、今の彼女は独りで「お絵かきの練習」「ピアノの練習」をしていたものだ。

独学ってところも、なんだかおっかさんのわたしと似てるなぁ。そう言えば、息子の音楽作曲も独学だ。

資格取得は大事な部分だが、本当に大切なのは、経験、素質、実力、そして、その道に対する大きな向学心ではないかな?と資格証書の類をほとんど持たないわたしは思ったりする。もちろん、物事によりけりだが。

希望は向学心の源泉である(by spacesis)
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2018年3月3日 

息子が帰ってなんだかやけにしんとしている夕方、台所に立っていると突然パラパラとガラス窓をうちつけて雹が降ってきた。あぁ、もうすぐ春到来だなと、実は寒さから一挙に這い出すかのような気候の変わり目が好きだったりする。

春を恋い瞼に桜のつぼみを思い描きながら、例え何十年と祖国を離れて暮らしていても自分は日本人であるなぁと知るのである。むしろ、離れているからこそかも知れない。

sakura

幼い頃から故郷、弘前公園の咲き咲く咲き乱れる桜の美しさを目にしてきたゆえ、異国に来てからは桜の花を恋う想いは尚更である。

我がパソコンの横には、モイケル娘のヘンチクリンな「人生いろいろサイコロ」と並んで弘前のソメイヨシノの花びらを押し込めた文鎮が置いてある。文鎮は透明の六面体ガラスなので色々な角度から花びらを眺めることができて嬉しいのである。

古来から日本では「花」といえば桜を意味する。しばらく前になるが、その桜について少し調べてみたことがある。桜を意味する言葉がたくさんあるのを知った。
こぼれ桜、桜影、花いかだ、花霞、花曇、花吹雪、花冷え、花むしろ、夢見草。中には初めて目にする言葉もある。日本人の桜の花を愛でる心が表れていると思う。

同時に知ったのは、花によってその終わり方の言い方が多々あるということだ。

桜は散る、梅、萩はこぼれる、椿は落ちる、朝顔はしぼむ、牡丹は崩れる等々。英語やポルトガル語だと「散る」は一つの動詞しか出てこないと思う。花の散り方ひとつを取ってもそれぞれに表現のしかたがある日本語にはあらためて繊細さ、豊かさを知るのである。

そうしてみたら、表現方法の一つとして擬態語擬声語がさかんに使われるのも日本語の特徴だ。日本語学習者はこれには大抵お手上げになるのだが、この使い方をマスターすると日本語文章が俄然イキイキしてくるのである。

それぞれの国の言葉には各々日本語とは違ったうまい表現の仕方があるが、わたしは日本語というのは実に詩的な要素を持っていると思うのである。

弘前の桜をもう一度見たいがため何度か帰省しているが、残念ながら一度も目にしていない。3年ぶりに帰省する今度の5月、もしかすると、故郷への帰省はこれが最後になるかもしれないだが、果たしてその美しい姿を見せてくれるだろうか。

sakura
ちょっと面白く撮れたさくらの蕾が入った六面体文鎮。
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2018年3月1日 

いえね、台風つったって時期はずれってもんで、ましてポルトガルにはございません。我が東京息子が、ってことでございます(笑)

息子の帰省中は母の頭の中は@@←こんな具合なのであります。30も半ばですから大して手間をかけるわけではありません。世話をやこうとしても自分の朝食、昼食はさっさと作りますし、放っとかれる方が気が楽なようで、世話のやきようもありません。

幸いにして、息子の2週間の帰省中は某企業おエライさんの出張続きで日本語個人レッスンはなし、自宅での授業もキャンセルが多かったので、母子で少しゆっくりと話もできたはずなのですが、本人が家におらんのです。毎夜の如くブリティッシュ時代の友人たちとつるんでは飲んで食べて午前様でした。これは彼のいつものパターンなのです。

友人たち相手に自分の日本での体験をあれやこれやと面白おかしく話しているのかと思うと、息子の話す時の様子が目に浮かんで、内心可笑しくて笑っております。

そう言えば、今回は翻訳の仕事も持ってきており、パソコンで三つほどこなしていました。

夫と二人で今朝、空港まで送って来ましたが、このTufão(トゥファォン=台風)、8月にはまた来るとの予報でありました。

空港を後にしながら、こうして子どもたちを何度送り迎えしていることだろうと、ふと思いましたら、なんと、息子がリスボンのリセウ(中高校)の臨時講師を辞め、ポルトを後にして日本へ行ったのは9年前のこと、ちょうど今頃でした。以下、過去記事を引っ張り出し、振り返っております。

以下、2009年3月4日記「行きました、息子」とあります。

衣服は二の次で、分解したpc接続音楽機器のパーツを箱二つを大事にバックパックに詰め込んで背負い、ノートパソコンを持って。

大きな旅行カバンは、関空に着くや新しい住まいとなる千葉の新住所に宅急便で送ることになるので、パジャマくらいは手荷物に入れろというのに、音楽機器で重量目一杯、パジャマなしでも寝られると言って聞くものではない。

出発前々日まで、画家の友人ジェスパー君の引越し先となるアパートのペンキ塗りを手伝いに行き、夜な夜な出かけては午前様。出発の前夜、翌朝は4時起きだと言うに、まだ出かけようとするので、さすがにのんきなおっかさんも、 「バカ息子!いい加減にせぇ!」と爆弾落とした(爆)

リスボンから引き上げて来たこの二週間、ひと時もじっとしていることのない息子ではありました。

出発前、「お前、千葉に宅急便で送るはいいけど、漢字は大丈夫?」と聞くと、

「うげ!ローマ字じゃダメかな。」
「いいよ、漢字書かなきゃダメだったら、書いてもらうから、プリントしてよ。」
っとっとっとっと、マジかい、息子^^; こりゃ先が思いやられること、目に見えし。

9年間、毎週土曜日の日本語補習校に通い、通信教育も同じく9年間しっかり修めたとは言え、中3を卒業して以来今日まで13年間、話す以外は日本語からずっと遠ざかって来た彼、無理からぬことではあります。

さて、3月3日、昨日の朝6時の便でフランクフルト→関西空港→福岡→下関へと26時間の長旅です。
やっと日本時間で今日の夕方、下関にあるモイケル娘のアパートに到着したようです。

着くなり、スカイプでモイケル娘、「兄貴、関空でたこ焼きと納豆巻きを食べて、今、コンビニで肉まんとカルピス買ってきて食べてる・・・」 カルピスは、ポルトガルの我が家では1年に一度、クリスマスとお正月用にマドリッドから取り寄せる貴重な飲み物で、息子の好物なのであります。

肉まんも然り、この手の日本食はマドリッドから来るトウキョウ屋さんではとても高いもので、そうそう買えるものではありませんでした。

息子よ、分かる分かる^^

で、更にモイケル娘が続けるには、
「アパートに靴履いたまま、あがったんだよ~」
これにはわたし、あっはっはっはと大笑い。だって、昔、わたしたちが帰国して所沢の妹宅に滞在する度に、「ジュアン君!また靴履いたまま家にあがってる~」としょっちゅう我が妹を泣かせていたのであり、あぁ、成長のないヤツめ、あの頃のまんまではないか@@

昨日まで息子の気配があった彼の部屋は、もぬけのカラ。使い古された数本のエレキギターが、おっかさんとおとっつぁんの気持ちを反映するように、生気を失い寄り集まって立てかかっています。

今晩一眠りして、明日の朝はいよいよ、二人は、いえ、
「二人+3匹の猫+それぞれのパソコン+それぞれのバックパック」らは、一路新幹線で関東のアパートへ移動です。

その格好を想像するにつけ、噴出さずにはおられないおっかさんであります。

修了したリスボン大学のITコースとは全く畑が違う英語講師免許を所得して、9年前に自分で探し出し、スカイプ面接を受け採用されて出かけた都内のアメリカの英語学校で2年ほど教えただろうか。

その後は大学での非常勤英語講師を始め、今では月曜日から金曜日まで、終日ではないが毎日、あちらこちらの大学で教えている。この数年、飲むのは金曜日だけと、初めて「花金」なるものを実感しているらしい。

合間を見ては翻訳にも手をつっこんでいるのだが、本人もまさか日本語が理解できることが、こういう風に役立つとは、昔思ってもいなかったことだろう。おっかさんの日本語スパルタ教育に感謝するんだぞ、とは思っていても口には出しません(笑)

そんなわけで、本日も、息子が去った9年前と同じく、「今朝まで息子の気配があった部屋は、もぬけのカラ。使い古された数本のエレキギターが、おっかさんとおとっつぁんの気持ちを反映するように、生気を失い寄り集まって立てかかっている」んであります

息子が下関で妹のモイケル娘と合流後し関東へ移動の話はこちらにて↓

★「ずっこけ姉妹の東京移動
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-717.html

本日はこれにて。

★ミラーサイト「ポルトガルの空の下で」にて「あの頃、ビアハウス」シリーズの書き直しをアップしています。興味のある方はどうぞ。
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