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2018年6月29日 

今日は出張日本語を終え、車で帰宅するなり1時まで個人レッスンを1時までしたのですが、これで一度、休憩を取らないと、近頃はちょっと苦しくなるのです。しかし、外猫五匹の猫缶がないのであった^^;果物もないな。

かったるいなぁと思いながら、そそ、パイナップルケーキを作るためのパイナップル缶詰を切らしていて、それも必要なので、重い腰をあげて車を飛ばしました。パイナップルケーキは明日の夫の誕生日祝いになるのです。わたしが半年ほど先に年を取り夫が追っかけてきてやっと同じになるという具合です。

スーパーでの買い物もてきぱきと行かずなんだかダラリとして、大きな買い物カーゴを押すのもダレ~であります。これらの買い物袋を二階のフラットまで運び上げるのも実は重いので楽ではないのです。

なにがこんなに重いかと言うと、まずは先ほど言った外猫の猫缶(もう4、5年、うち猫と同じカリカリ餌にしようと猫缶にそれを混ぜているのですが、これがまだ完全に切り替えられない状態でいます)、それに、メロンやリンゴ等の果物の重さ、その他もろもろ。毎日は行けませんから、どうしてもまとめ買いになり、重くなるのは避けられない。

フラットは4階建てなのでエレベーターが不要ゆえ、ありません。一階はとかくこそ泥に入られたりするので嫌だけど、3階4階も年取ったら、階段を上るのがしんどいからと言って一階を選んだのは正解です。

さて、帰路もダレ~っと運転していましたら、突如目に入ったカラフルな旗旗旗!うわ、何やねん、あれ!あ、そか、明日のワールドサッカー、ポルトガルとウルグアイ戦の応援やな、と通り過ぎた道をもう一度引き返しパチリ。 わたしも物好きだなw

bandeiraportutuesa1.jpg

よっし!ケーキ作りがんばろう!と国旗に元気をもらって帰宅したのでした。

ポルトガルにだって暗い歴史はある。でも、国を思う心は人一倍です。んで、すぐ言うんです、「ポルトガルは一番だ!」って(笑)

「HINOMARU」という歌を作ってCDに入れたら、廃盤にしろ、二度と歌うななんてデモが起こる日本(と言ってもデモに集まったのは3人だけとか)、国旗掲げただけで右翼だよ?国旗も堂々と翻らせられない国ってなんやのよ?

と、こんなことに多少腹立てながらパイナップルケーキを作っていたら、うげ!途中で手順を間違えたのに気付いた^^;長い間作ってなかったもんね。やり直ししたのですが、この手順間違え生地をどうしようかと思案。どういう結果が出るか分からないが、よし、生地を寝かせたらクッキーに出来るかもしれないと思い、ただ今生地は冷蔵庫に中なり。

ちょっとパイナップルの位置がずれたけど、できあがった夫の誕生祝のケーキです。
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ではみなさま、また。
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2018年6月28日 

一昔も前の話になりますが、自分でも時々思い出してはクスッと一人笑っている話です。

とある夏のこと、「寿司、お好きですか?」で始まった、奥さんが日本人、ご主人がポルトガル人のご夫婦に誘われて、夫と共に昼食に出かけました。ポルトから20分ほど車で行った海辺の町、Mindelo(ミンデーロ)のアパートでした。

到着すると他に二組のポルトガル人の夫婦と、もう一組イタリア人夫婦がいて、総勢10人ほどの昼食でした。わたしたちを除くと、みなさんはどうやらアーティストのようでした。

メニューは手巻き寿司でしたが、メインの魚は鮭と鱸(すずき)。今のように、まだスシブームは到来していなかったのですが、魚が新鮮でとても美味しかったです。

食べ物には意外と臆病なわたしは、自分の家では新鮮だとしても、そのまま魚がテーブルにのることはありません。若いときは、イカを除いては、刺身は苦手な食べ物でした。今でも、一番美味しいと言われる「トロ」は、どうもダメなのです。しかし、その朝、漁師から仕入れて来た鮮魚だというので、いただきました。

食事をしながら、鮭は見た目ですぐ分かるのですが、薄切りのスズキを指して、

 「なんという魚?」とこちらの人達が聞きます。
そこで私、「Robalo。日本語ではSuzukiです。」
 「で、こちらが日本語ではHonda」と、別の刺身の名前を紹介。
みなさん、え?SuzukiにHonda?とちょっと驚いたような顔です。

「それでね、これがToyotaよ^^」と鮭をわたしが指差して言ったところまで来て、ジョークに気づき、みなでワーッハッハッハ!

会話のやり取りはポルトガル語でなく英語でした。今ならこのジョークもポルトガル語でいけますぞ、と手ぐすね引いて機会を狙っているのですが、これが使えるのは生の魚を目の前にしていないとできない訳で。日本食レストランの「一番」さんに行くのは、もっぱら夫が相手ですから、ポルトガル語でのこのジョークを残念ながら長年、出しそびれているのです。

本日はこんな小噺にて、失礼。

ではみなさま、また。
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2018年6月27日 新装Café A Brasileira

時間的に余裕があった数年前、ファサーダ(Façada=ふるい建物の表玄関)の面白さに惹かれ幾度もカメラを向けながら、ついぞ紹介に至らなかったCafé A Brasileira(カフェ・ア・ブラズィレイラ)。更に残念なことに、入ってみようと思いながらもついに入らずじまのまま、今日では紹介も叶わなくなってしまいました。

Café A Brasileiraは、2013年にその長い歴史の幕を下ろしたのですが、ポルト最古のカフェのひとつに数えられた故、メモとして記録しておこうと思い、本日取り上げます。

まず、紛らわしいのですが、ポルトにある「Café A Brasileira」 と「café Brasil」を混同なさいますな。

下がサン・ベント駅横にある「café Brasil」。庶民的なカフェで歴史はさほど古くありません。

cafeabrasireira

こちらがサ・デ・バンデイラ通り(Rua de Sá de Bandeira)にあるポルト最古だったカフェ「Café A Brasileira」です。

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すぐ側には、映画やネットが普及した現在でも頑張って、まだ存在しているのが不思議なくらいの古いサ・デ・バンデイラ劇場(Teatro Sá de Bandeira)があります。

cafeabrasireira

さて、ポルトの古い有名なカフェと言えば、代表的なのが「Majestic Café(1921)」、そして、「Guarany(1933)」「Proguresso(1899)」「Cae Piolho(1909)」が挙げられますが、Café A Brasileiraは1903年にポルトでオープン、ポルトのカフェの中でも、鉄線の美を使った大きなファサードが人目をひきました。

店内もクリスタルと大理石、細工のある皮の装飾で、当時は大いに話題を呼び、文化人を始め政治関係者など、エリートが集ったと言われます。創立者はブラジルへ出稼ぎに行き財を築いたAdriano Soares Teles do Vale。

ポルトガルに帰国し、リスボン、ポルト、ブラガなどでブラジルから輸入したBrasileirasコーヒーのチェーン店販売を展開するのですが、外でコーヒーを口にするなど、まだ一般的な習慣になっていなかった当時、Adriano Teles 氏は、それを広めるために、自分の店でコーヒー豆を買う客に、その場でコーヒーカップに入れた自前のブラジルカフェをただで提供し続けたと言われます。しかもその年数たるや、なんと13年間!

また、現在で言えばマーケティングの走りとも呼べる、カフェのスローガンを市内の壁のあちこちに描かせて宣伝し、店の名とそのスローガン「O melhor café é o da Brasileira」を有名にしました。
その宣伝はわたしも何度かダウンタウンのLargo Mompilharにある石壁で見かけており、今もあります。

さて、下のCafé A Brasileiraのファサーダにわたしは興味をもったのでした。

cafeabrasileira.jpg

これは、Adriano Teles氏の家紋でしょうか。ダビデの星こと五芒星(ごぼうせい)です。よく見ると下のリボンにはTeles氏の苗字もTELLSとLLになっています。これはメーソンのシンボルでもあるわけですが、Tele氏のメーソンの関わりは検索では今のところ、ひっかかってきませんが、恐らくそうであろうとはわたしの推測です。

2013年に、ポルトのCafé A Brasileiraは閉店の憂き目を見、予定では2017年にホテルになるとのこと。さすれば内装は大きく変えられ、かつてのCafé A Brasileiraの面影はなくなるのは残念ではありますが、これも逆らえぬ時代の流れを表します。

Café A Brasileiraは上述したようにリスボンにもあり、詩人のフェルナンド・ペソアが通ったカフェとして名が知られています。

cafeabrasireira

カフェの前の通りに座る、フェルナンド・ペソアの銅像。
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と、書いたのは2年前のことです。上述したようにホテルに改築されていたのですが、予定より遅れ、今年2018年3月に五つ星ホテル、A Brasileira, Pestana Hotelとしてオープンしました。
嬉しいことに地階のファサーダはほとんど手付かずです。そして、建物の左側のカフェの一部もそのまま残り、「カフェ・ア・ブラズィレイラ」が再び開店です。

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今度はチャンスを逃すまいと夫と入ってみました。

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入り口(写真右)を入るとすぐ右に昔のままの鏡があります。

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白と水色を基調にした店内のデコレーション。木彫りのイスもかつてのカフェのシンボルがしっかり取り入れられています。

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この日は暑く、メニューにポルトガルでは珍しいアイスコーヒーを見たわたしたちはそれを頼みました。正面のカウンターを観察していると、シェイカーを振っていました。出てきたのはこれです。

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味はOKです。それとあわせて、頼んだのがレモンタルト。これはおいしかった!

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かつてを懐かしんでやってくる客がきっと多いだろうと夫と話していたら、早速知人のカップルに会いました。若いときにはよくこのカフェでデートしたのだそうで、ツーリストに混じり、昔のままの装飾がかつての顧客たちを惹き付けて、再び賑わうことを願ってやみません。朝9時から開店です。

では、また。
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2018年6月24日 

昨夜、ポルトはサン・ジュアン祭でした。いつもなら夜、街へ繰り出しているところですが、今週はちょいと疲れ気味な上、今年はどういうわけかご近所でもあまり鰯を焼く人が少なく、窓を閉め切っても我慢できないほど、鰯の匂いが家の中に入ってくるのに今日はほとんどそれがなし。そんなわけで今年は夜の外出中止でした。

疲れの原因は、恐らく勉強に力を入れたがためだと思われます。ははは。
3週間前からやっとポルトガル語レッスンを始めてもらったのですが、Quinta da Regaleiraの分厚い本をきちんと読みたいと思い、その準備としてこれまでポルトの歴史家Germano Silva(ジェルマノ・シルバ)の本を2冊終了しました。

というので、先生からは一緒にその本を読む了解を得ていたのですが、自分としてはもう一冊ポルトガル語の本を読んでからの方がよいとの結論に達しました。これまでのようにただ語彙を調べて読み流すというのではなく、書く学習もしそれを先生に直してもらうことにしたのであります。

で、一冊は文法中心のテキスト、もう一冊は読本として、クリスマスのプレゼントでもらったHelder Pacheco(エルデル・パシェコ)の本、「Porto: Nos dias do Meu Tempo(わたしの時代のポルト)を選んだわけです。すると、これまでのような1時間の予習では済まなくなりやんした。

文法の本はあまり問題なく、要は書いて、冠詞、変形動詞の使い方を確認する作業なのですが、パシェコ氏の本を予習して、うげ!このポルトガル語、半端ないって!これまでのGermano Silvaのに比べて、文、語彙も半端ないって、と分かったのであります。

目下、日本語レッスン、家事の合間を見ては取り組んでいるのですが、読書もしかり、勉強するのも体力が要るものだと改めて感じ入っております。

Helder Pacheco氏と言えば、昔、こんなエピソードがあったのを思い出しました。以下。

―初めての電突―
今週はデジカメ探検ならず、ポルトガル人の友人にそそのかされて電話突撃をしました(笑)
しかし、夫に話すまではかなりな著名人だということを知らずにしたのですから、「盲、蛇におじず」を地でやったというわけです。

去年も今年も、サン・ジュアン祭りの「野生にんにくの花つき茎」、何ゆえあれを使が持ち出されるのか、そのいわれを誰に聞いても分からない。ネットで検索しても、サン・ジュアン祭りそのものの歴史は出てくると言うのに、「alhos porros」(にんにくの茎)がピコピコハンマーに近はとって変わったというのも出てくるというのに、肝心のにんにくのいわれがわからない。

いろんなことを良く知っている我が友マリアさんに、先日日本語レッスンのとき聞いてみました。
すると、
「ポルトの伝統的なことなら、なんでも知っている人が一人いるわよ。電話帳持ってきて。」
と、さっさ電話を調べ番号をメモ。そのまますぐ、我が家の電話のダイヤルを回した。ところが、応答なし。

その翌日朝、彼女からの電話です。
「むこうさんに、日本人でどうしてもそのことを知りたいと調べてる人がいると話したら、直接説明してくれるみたいよ。2時に電話して!」と言う。

名前と電話番号を控えて電話しようとしていた矢先に、再びマリアさんから電話。
「ねね!わたし、その人の本をたくさん持ってるんだけど、今調べてみたらあった!」
お、おいおい、マリアさん・・・

話をもう一度よく聞いてみると、その方「Helder Pachco(エルデール・パシェコ」」という著名人だそうで^^:マリアさん、自分も面識はなしなのだ・・・そんな人のとこに、電話突撃させるつもりなの~!!

しかし、すでに2時電話すると約束を取り付けてる。んんもう~~^^;
ヘタクソなポルトガル語で電突でした^^;にも拘わらず、親切にきちんと応対してくださり、最後
には、また何かあったらいつでも連絡していいとまで言っていただき、少し感激したspacesis
でありました。

よし!Pachecoさんの著書を買って、次回にはご自宅まで押しかけよう!ともくろんでいる
のであります(笑)

夜帰宅した夫に、
「Helder Pacheco」って知ってる?」と問うわたしに、「もちろん。本をたくさん書いてる。なんで?」と言う。
「きょ、今日、その人と電話で話した・・・」
いきさつを説明すると、聞くなり夫、「ププッ。」っと笑う。いったいこの先、どんなことをしでかすかと、面白がってること、間違いない。いいのだ、好奇心と日本魂の誠意でぶつかっていくのだ!


と言う風なことを書いて10年くらいになりますが、こうして半端ない氏の本とやっと取っ組むことになったのでありました。
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2018年6月20日 

午前中の二つの日本語授業を終えた昼1時、食糧買い出しに行こうか行くまいか、ちょいと悩んだのでありました。本日1時からワールドサッカー、ポルトガルvs モロッコ戦が放映されるのです。

しかし、夕方にはエキストラ授業が入っており、今に行っておかないと今週は買い物にかける時間がない。帰宅するころには、試合は終了していることになるのですが、結局、サッカー観戦より食い物(笑)と、
10分ほどの距離にあるハイパーショッピングセンターへと車を飛ばしました。

案の定、道路には車も人影もみあたらず、先週からポルトガルの学校は夏休みに入っているので、近くの学校も送り迎えの車がなく、我が車はスイスイのスイ。

内心、人事ながら、早いんだってば、夏休みに入るのが!しかし、いつもと違い、生徒たちが散らばして行くいゴミがおちていず、家の前の通りのきれいなこと(笑)

マーケットでほぼ買い物が済み、レジへ向かっていたところ、さすがポルトガル!との光景に出会う。

shoppingcenter, porto

どうしても家でテレビ観戦ができない人のためにと、マーケット内に用意されたコーナーで試合を熱心に見ている人たちを見かけ、わたしもファミリーカートを止め、どれどれ、どないなっとるん?と彼らに混じってしばし、観戦。 お!ポルトガル一点入ってるやん!試合時間も残り少ないところでしたが、ひょいと後ろを見ると、スーパーの従業員たちが、最後の数分を「見逃してなるものか」と、仕事そっちのけで人だかりが出来ていましたっけ(笑)

モロッコ相手に苦戦を強いられたようですが、ロナウドが入れた1点でポルトガルは見事逃げ切りました。終わるや、一斉にわー!と後ろからどっと歓声があがり、ポルトガルらしいなぁと思った次第です。

試合終了後の帰路は、あらよと言う間に、いつもの交通状態に戻ったのでした。


さて、週に2度の割で買い出しに行くのは、隣町ガイアにあるスペイン系チェーンデパートEl Corte Inglésと、今日行った近くのハイパーマーケットParque Nascente shopping center地下のハイパーマーケットです。El Corte Inglésでは新鮮な魚と肉類を、Parque Nascenteでは野菜類、猫飯等を買います。食料買い出しついでに、少し気晴らしと決め込んでウインドーショッピングもよくします。

今日も少しぶらついてみたら、こんな面白いデコレーションがありました。

shoppingcenter, porto

shoppingcenter, porto

案内板には4人のお年寄り(98、92、87、82歳)が編んだ毛糸のモチーフをつなぎ合わせてキューブ形に貼り付けたものだそうです。

shoppingcenter, porto

歳をとっても、編み物なり、木彫りなり、絵画なりと趣味を続けるのはボケ防止になるかもしれません。わたしも今の日本語が少し減ったら、レース編み、木彫りに再び手をだしたいなと思っているのですが、さてはて、いつになったら始められることやら。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
では、また。
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2018年6月18日 

午後の日本語レッスンが突然キャンセルになり、夫も午後の仕事を終えて家にいる日が時々ある。キャンセルの連絡が早めに入った時は、思い切って我らもツーリスト宜しく二人してポルトの街を歩いてみたりしているこの頃だ。

そうして先週出かけた一つがサン・ドミンゴス広場につながるベルモンテ通りだ。

ruavitoria

↑1804年以来営業しているベルモンテ通りの薬屋さん。薬屋とは思えない美しいファシャーダ(門)。隣接する昔ながらの文房具屋がホテルになってしまったのだが、この薬局店がそうならないことを祈るばかりだ。店内はどんな感じだろうかと期待して、買うべき薬があったので入ってみたら、ごく普通のカウンター式だった。 

その横、建物と建物の間に狭い石段がある。左側の建物は長い間、廃墟のまま放置されてきたのだが、数年前に改築された。

ruavitoria

この石段の逆コース、つまり別場所から石段にたどり着く道を歩いたことがあるので、それを紹介。以下。


ずっと気に入っていた場所で、実を言えば長い間ブログには登場させないで秘匿としていたのだが、ポルトの街の中でもわたしの気に入りで取って置きの場所がある。

市内を探検しているうちに偶然見つけたMiradouro(ミラドウロ=パノラミックな景色が見られる場所のこと)だが、私有地なので最初は恐る恐る足を入れてこの素晴らしい展望に感嘆していた。そのうちに、「自由に入ってください」という小さな立て札を目にして以来、遠慮なく入らせてもらっている。

Vitoria教会(ヴィトーリア教会)のすぐ横にある広場である。

Ruavitoria1

↑そこに立つと下方に密集する赤レンガの屋根屋根が、そして右手にはドウロ川が大西洋に流れ込む河口も展望でき、↓左手には大寺院、ドン・ルイス一世橋、ドウロ川対岸のかつてのセラ・ド・ピラール修道院などが眺められ、ドウロ川周辺を一望できるのだ。
Ruavitoria1

Vitoria区域のその場所から見下ろすと石段がある。

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↑こんな風な駐車はないよなぁと、ポルトガル人の肝に苦笑しながらVitoria石段を降りた。

Ruavitoria1

降り切った通りが16世紀終わりごろからある小さなVitoria通り。途中でこんな石段を見つけ、いったいどこへ出るのかとフォローしてみることにした。

Ruavitoria1

ぬぬぬ・・・・こ、工事中じゃん!ちょっと危ないかも~、と思いはすれ、前方を行く人の姿を認め勇気を振り絞って続いてみる。
Ruavitoria1

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そうして出たところが、なんと、Rua Belmonte(ベルモンテ通り)とサン・ドミンゴス広場が交差する辺りであった!

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写真は以前撮影した廃墟だった建物に手が入れられたところ。下が廃墟時代。そして、もう一度、現在の石段と原型をしっかり留めて蘇った建物。

ruavitoria


古い建物こそポルトの旧市街に似合う。


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2018年6月14日 

今日から一ヶ月にかけてロシアで開催される第21回FIFA ワールドカップ、東ヨーロッパではロシアが始めての開催地だそうです。

ポルトガルはグループBでまずはスペイン、モロッコ、イランと、日本はグループHで、ガルコロンビアポーランド、セネガルと対戦することになります。

ポルトガルは明日15日にスペインとぶつかりますが、激しい試合が予想されます。日本の初試合は24日、相手はセネガルです。

そこで、今日は国の象徴であるポルトガル国旗を紹介します。

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2018年ワールドカップ、ポルトガルチーム。Wikiより

ポルトガル語で国旗はBandeira(=バンデイラ)と言います。現在の国旗は、ポルトガルが王政から共和国になった後の、1911年6月に制定されました。

濃い緑と赤の比率は緑が五分の二、赤が残り五分の三を占めます。赤は、ポルトガル民族に流れる血、勇気、頑張り、喜びを表し、緑は海と希望の色、また、戦いに於いてポルトガルに勝利を与えた栄誉ある色として選ばれました。

中央には、ドン・マヌエル一世がポルトガルの大航海時代の象徴として選んだ大きな地球儀を据えてあります。真ん中の五つの盾は、「オウリッケの戦い」で破った5人のイスラム王を表し、この印を「quinas(キーナス)」と呼びます。ポルトガルサッカーチームの名前「equipa das quinas(キーナスチーム)」は、これに由来します。

背景の白は平和を、五つの青い盾は、ドン・アフォンソ・エンリッケによるオーリッケでの戦いの戦果、五人のムール人(アラブ人)王を表します。(註:イベリア半島の大半はアラブ人によって占領されていた)
   
盾に中の五つの白い星は、この戦いに勝利するためにドン・アフォンソ・エンリッケを加護するキリストの五つの苦痛(十字架刑に処せられた時に受けた五箇所の傷)を表します。

キーナスの周りの七つの黄色いcastelo=城は、ドン・アフォンソ三世によってアラブ人から取り戻された七つの城です。

ポルトガル国旗には、遠い昔のイスラム教徒から国土を奪回(reconquista=レコンキスタ)し、世界に誇る華やかな大航海時代の栄華を経て王政から共和国成立という壮大な歴史を垣間見ることができます。
   
いずこの国もそうであるように、ポルトガルもこれらの歴史はきれいごとであるはずはなく、共和国になった時点で王家の紋章であるquinas盾など取り払ってしまうこともできたことでしょう。それをしなかったところに、ポルトガル人の国民性をわたしは感じます。

一国の歴史は、遥か古代からの積上げがあり延々と鎖のように繋がっているのです。民族はそれらの歴史を受け継ぎ、連綿とつながったところに民族があると思います。

どこの国にも負の歴史があり、国旗を変え、国歌を変えたところで、それらの歴史が帳消しになることはあり得ません。国の歴史を厳かに受け止め未来に進んで行くべきだと言うのが、国旗国歌に対するわたしの考えです。

海外にいると、自分の国の国旗、国歌、「日本」に対して国内に住んでいた時以上に、「わたしの国」「わたしが生まれ育った国」と言う思いをわたしは抱きます。因みにわたしは両国の国旗を持っています。

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最後にポルトガル・チームのユニフォームをば。Wikiより

右にあるのが、キーナス、左には金色のナイキのロゴ。ユニフォームはナイキの製作。7はもちろんロナウドです。

2016年のUEFAヨーロッパカップではフランスを破り、見事優勝したポルトガルチーム、ロシアの空に国旗が掲げられ、国歌が会場に流れることを期待している人は多いでしょう。ポルトガルチームも日本チームも健闘せよ!

Portugal-Hero.jpg
Wikiより

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2018年6月11日 

「明日の土曜日は図書館職員のストライキがあるので、日本語コースの教室が使えない」と、
図書館の係りから電話があったのは先週金曜日の夕方のこと。

うわぁ、またこれか・・よし!明日はこんな具合で授業を進めよう!と浮き浮き気分で準備が終わったところであった。出鼻をくじかれたのもさることながら、生徒たちに緊急メールを送るのだが、20人全員がメールを開けるとは限らない。 連絡が行き届かない可能性があることが問題なのだ。それで、また、これか・・・である。

すぐにFacebook上で「緊急!明日のクラスはありません。メールを読んでください」と投稿し、「このメール受け取ったか確認するため、短い返信をせよ」とメールを流した。

翌朝メール返信を確認すると、結局3人がどうやらメールを読んでいないようで、起きているであろうと思われる当日9時過ぎに電話を入れたが、応答したのは一人だけで、もう一人にはFacebookのメッセージを使ってみたら、了解との返事が来、最後の一人は何度も連絡を試みたものの、応答なし。仕方が無い。たまに欠席する生徒だから、もしかしたら今日もそれかもしれないと、諦めたのであった。

さて、こうなると、授業がないので土曜日の2時まで時間ができたしまったのである。いつもだと土曜日の昼食は日本語教室の後の2時過ぎになるので、行けるレストランは我が家の近くのChurrasqueiro(べーべキュー)レストランかCervejaria(生ビールが飲めて、一日中開いているレストラン)に限られるのだが。

その日は普通の昼食時間に行けるというので、しばらく前から我ら夫婦間で話に上ったダウンタウンのSushiレストランへ行こうとなり、予約を入れました。

経営者、料理人が日本人ではないので味はあまり期待できないと知りつつも興味はレストランに改造した建物の内装なのであります。

ポルトガルJaneiras
階段の踊り場も植物をかぶせてミラーを使って広さが感じられるよう工夫してます。

このように階段に滑り止めの黒いアクセント線があるのはとても助かります。弱視のわたしは、ときどき
階段の段差にめまいを感じたりするゆえ。

天上はイギリスのウエッジウッドを思い出させる白と水色のデザイン。

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かつては邸宅だった屋敷を改造したとかで、レストランは3階まであり、それぞれ小部屋に分かれている。写真はわたしたちが案内された部屋。
キンタ・デ・サンチアゴ

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美しいアズレージュ絵がある。

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席からはParada Leitão広場が望める。食事が出てくる前に、3階のベランダから外が見られるのでどうぞ、と案内され、行ってみた。レストランはPraça de Parada Leitãoとコルドアリーア公園に面している。

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この日も小雨だったが、多くのツーリストグループが広場を横切っていくのが見えた。

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て、食事はと言うと。

わたしが頼んだヴェジタリアン用の巻きのアラカルト。久しぶりにイチゴSushiを出されてギャー!(笑)もちろん箸はつけませんです。いっしょにキュウリの酢の物とグリーン野菜のてんぷらがついてきました。

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夫はカツオのステーキを頼んだが、写真撮り忘れ。ははは。

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生ビールがなかったのでオランダ産のキリン一番とりびんビールを。

味はどないな?と聞かれますかな?まぁ、食べられますが、日本食を期待する場合はやはり日本人の、もしくは日本で本格的に修業してきた料理人さんがいるところに限ります。寿司飯もどことなく違うのであります。

いつの間にか海外でも絶大の人気を博すようになったSushiですが、日本人が食べる寿司とは味、もりつけも違い、上の写真の「いちご寿司」に及んではとても寿司とは呼べませんね。これが出てくる時点で、「こりゃ、ダメだ」です。また、寿司=ロールと勘違いしている外国人も多いようです。

わたしは海外では握り、鮮魚が入ったものは余程でない限り口にしません。寿司の原点は新鮮な素材と寿司職人の洗練された技ではないかと思うのです。盛り付けひとつをとってみても日本の寿司と海外のSushiの違いは一目瞭然。 それと、ポルトガルのSushiレストランではネタが少ない。「サーモン」が俄然多いのです。

ごちゃごちゃと飾り立てたSushi Dishには余り魅力を感じないのですが、海外では結構受けがいいようです。それと、Hot Sushiなる、Sushiの揚げ物。これなんぞは邪道も邪道、とんでもござんせんと思うのは日本人であって、どこのメニューにでも載っているところをみると、いるんですね、食べる人が^^;

昨今、街をを歩けば、Sushiレストランにぶつかる、と言っても過言ではないかもしれません。ポルトだけでも寿司もどきが食せるレストランは30店はあるでしょう。

これまで中華料理店を賄っていた店がSushiレストランにいつの間にか変わっているということもよくあります。これは、海外では中華料理は安い、日本料理は高級だと言うイメージがあり日本料理の方が儲かるので、変えるのだそうです。

本場で日本料理の修業もせず、簡単にSushiレストランをオープンし、海外でSushiがどんどん一人歩きして、そのうち、「チョコレートSushi」とか、「Sweet Sushi」なんてのがメニューに出てきませんように、なんまんだ~と、切に願うこの頃ではあります。

このあたりでそろそろ、「寿司」と「Sushi」は違うということを、海外の人たちにも知って欲しいものですね。

ということで、Subenshiですが、Sushiを食べるより内装を見に行ってきた、ということに相成ります。

そそ、トイレに向かう壁でこんな面白い、張り合わせポスターを見つけました。
ポルトガルJaneiras

6-1.jpg

レトロポスターはちょっと魅力があると思いませんか。

では、みなさま、本日はこれにて。
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2018年6月10日

今日も朝から雨のポルトですが、6月10日は日曜日と重なりましたが、「ポルトガルの日(Dia de Portugal)」で祭日です。正式には「Dia de Portugal, de Camões e das Comunidades Portuguesas(ポルトガルとカモインスとポルトガル人の日)」と、長い名称です。

ルイス・デ・カモインス(Luis de Camões)はポルトガルが誇る15世紀の大詩人で、大叙事詩「Os Luíadas(ウズ・ルズィアダス)」を書きましたが、6月10日が彼の命日にあたります。拙ブログではこれまで何度も紹介してきたカモインスですが、読んでいない方のために本日もあげたいと思います。

膨大な叙事詩「Os Lusíadas」 は、ポルトガルの学校では必ず読むことになっています。Os Lusíadas」(ウズ・ルズィアダス)とは「ルズィターニアの人々」、つまりポルトガル人の古い呼称です。

9000行からなる大叙事詩はポルトガルを、そしてバスコ・ダ・ガマの偉業を讃え、大航海時代の歴史を謳いあげたものです。叙事詩集は10章に分かれていますが、日本のツーリストに人気のロカ岬の石碑に刻まれた「ここに陸尽き、海はじまる」はこの本の第3章20で謳われています。我が家に素敵な装丁の「Os Lusíadas」があるのでその箇所の写真を載せて見ます。

lusiados1_1[1]
Os Lusíadasの表紙。美しい装丁が施された限定版の本です。 

lusiados2-1[1]
各章ごとの歴史にちなんだイラストが内装もカラフル。  

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第3章20の扉

lusiados6[1]
20(XX) 上から3行目。

lusiados5-1[1]
「Onde a terra se acaba e o mar começa 」 「ここに陸尽き、海はじまる」とある。
 
さて、カモインスについて。

15世紀の冒険家Luis de Camoes(ルイス・デ・カモインス)カモインスの生涯は謎に包まれています。いつどこで生誕したかも不明です。そして、芸術家の多くがそうであるように、カモインスもまた、生存中はあまり名の知られた存在ではなかったようです。

当時の知識人と比較しても該博な知識を持っていたらしく、コインブラ大学で聴講したという話はありますが、その知識をいつどこで身につけたのか明らかではありません。

またカモインスは無類の冒険家であり、恋多き人でもありました。リスボンでは傷害事件で投獄の憂き目にあったり、アフリカ、東洋を廻り難破にあったりもしています。

camoes[1]

片目のカモインスですが、15世紀初期、北アフリカのセウタでムーア人と戦った際に右目を失ったと言われています。

「セウタの戦」とは、15世紀のドン・ジュアン一世の時代でポルトガルの大航海時代の扉を開くことになる戦いです。王の3人息子、ドアルト王子、ペドロ王子、そして後、トマールのテンプル騎士団修道がキリスト騎士団修道院に改名した時にその騎士団のマスターとなり、航海王子の異名をとることになる三男のエンリケ王子も参戦しました。この様子は、ポルト、サン・ベント駅構内のアズレージュ絵に見られます。

Ceuta[1]

もうひとつ、付け加えるならば、先日紹介したポルトの有名な伝統料理「Tripas(トゥリーパス)」はこの「セウタの戦」に由来します。 (これについてはここからどうぞ「ポルトの伝統料理「Tripas
            
恋と冒険とそして貧困のうちに、ポルトガル文学の偉大な遺産「Os Lusiadas」を残し、1580年6月10日、カモインスはその生涯を閉じます。毎年この日は、カモインスの命日と記して「ポルトガルの日」としています。

ロカ岬について。

cabo_roca1.jpg

六大陸の中でも、アジアとヨーロッパを合わせたユーラシア大陸は最大で、語源はEuroとAsia(EuroAsia)から来ています。ポルトガルのロカ岬はそのユーラシア大陸の最西端にあります。 ロケーションは北緯38度47分、西経9度30分、リスボン、シントラ、ナザレ、オビドスがある「エストゥラマドゥーラ・リバテージュ地方」です。

cabo_roca2.jpg

Caboは岬、Rocaは断崖を意味し、航海が盛んだった15~19世紀にはイギリス人にThe Rock of Lisbonとして知られていました。

cabo_roca3.jpg

岬は140メートルの断崖になっており、海を臨んで頂上に十字架を掲げた石造りの碑がぽつねんと突っ立っているばかり。

cabo_roca5.jpg

石碑には、「Aqui onde a terra se acaba e o mar começa(Camões)」ここに陸尽き、海はじまると、「」Ponta mais ocidental do Continente europeu(ヨーロッパ大陸の最西端)の文字がポルトガル語で刻まれています。

cabo-roca5.jpg
ここは、まさにユーラシア大陸の地の果てであります。 前方にはただただ茫洋と大西洋がひろがり、打ち寄せる波の音と吹き付ける風の音のみが、最西端の名誉を孤高として守っているかのように思われます。

cabo_roca7.jpg

40分ばかりいた間にも写真から分かるように、岬は霧に被われ太陽が白く化したかと思うと突然青空が現れ、天気の変化が目まぐるしい魔の岬とも呼べるような気がします。

最西端のロカ岬は、訪れる観光客の浪漫的な予想からは遠く、波打ち寄せ風吹きつけ、大航海時代の栄華のかけらも見えず、ただ荒涼としているだけです。それでも、石碑に刻まれたカモインスの一節に、いにしえのポルトガル人の果てしない未知への冒険心をかいまみることができるでしょうか。

追記:
ロカ岬の案内書では多少の手数料を払うと日付、名前入りで「ユーラシア大陸最西端到達証明書」を発行してもらえます。

証明書1
モイケル娘のロカ岬証明書

証明書は見事なゴチック体のポルトガル語で書かれ、青と黄色のリボンの上にシントラ市のcarimbo(カリンボ)と呼ばれる蝋(ロウ)印が押してあります。裏面にはフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語などの訳が印刷されています。現在では日本語も入っているようです。

本日はこれにて。
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2018年6月8日 

おふくろは日本語を教える
息子は日本で英語を教える
娘は結婚して日本で働く
これはまったく当たりまえ おふくろは思う

でもおやじ おやじは何をする?

おやじはまだ仕事をする
おふくろも70過ぎて日本語
息子は日本
娘は結婚
おやじは仕事
こいつはまったく当たりまえ おやじは思う
こいつはまったく当たりまえ おふくろも思う

それなら息子 娘 
息子と娘はどんな考えだろう?
まったくなんにも考えていないことはないのさ

おふくろは日本語を教える おやじは仕事をする 
息子は日本で教える 娘は結婚して働く
息子とパートナーはしばらく一緒にやるだろう
生活は続く おふくろはつづく 日本語を教える
おやじはつづく 仕事をする
息子と娘の人生も日本でつづく


好きなフランスの詩人ジャック・プレヴェールの詩「家族の唄」をもじって我が家族に当てはめてみた。わたしは時折、こんな風に「こいつはまったく当たりまえ」と思っている「おふくろ」をしている自分の姿が見えたりする。

若いときは、この「当たりまえ」ができず、目一杯抵抗したこともあり、頭をぶつけたり叩かれたりしたのも1度や2度ではない。「こいつはまったく当たりまえ」等と、あらまし物事を考えるようになったのは60を過ぎてからである。美空ひばりさんが歌った「川の流れのように」ではないが、多少のでこぼこ道や曲がりくねった道がわたしも振り返れば遠くかすかに見える。

この頃、わたしは思うのである。
「一生懸命何かをしているわたし^^」と自分自身が思っている間は、どうしても見せかけが入って本当の一生懸命ではないのだ。「本当に頑張っている人は、自分が頑張っていることに気づかない」という言葉をどこかで読んだことがある。 「大変なんですよぉ」と言う言葉には、どこかにその人の見せかけを匂わしている気がする。

夫も息子も娘も、「大変に頑張っております^^」という素振りを見せないし口に出さないタイプである。わたしはと言えば、体力があるときは調子いいが、元が体力的に「あかんたれ」のところがあるので、しんどくなってくるとてき面、夫やネコに八つ当たりである^^;

これも気持ちの底に、「自分は頑張ってるのに、あんたらは~」の見せかけがあるからだと反省している。「見せかけない自分」は自然体であるはずなのに、なぜだか努力が要るのは不思議だ。

などとこうしてブログを書くこと自体が、ああああ、すでに自分を「見せかけている」ことになるではないか!自爆だ・・・

さてと、家族の唄に出てくる息子ですが、「オレ、ネクタイしめるのは嫌だね」などと贅沢なことをのたもうて、ホワイトカラーの職場を避けてきたのだが、日本で英語講師の仕事につくことになった時の事。 スカイプで面接を受けゲットした最初の職場、あとで講師の服装を知り、「仕事着がネクタイ背広だってよぉ~」。息子よ、お前も自爆だった(爆)

それが今年で9年になり、のんびり週に3日ほどしてきた講師の仕事を、これまでと違い都内の大学数校かけもちし、月曜日から金曜日まで一応サラリーマンの如しである。息子曰く、「ちょっと仕事、とり過ぎたかも」と。

家族の唄に登場するモイケル娘はというと、1年半前に結婚したが、結婚記念撮影をして置きたいとのことで、この春、わたしの帰国中にやっとモイケル娘の花嫁姿を目にすることができた。

nariana_ryo1-3.jpg

息子も娘も今ではすっかり日本の社会人だ。ターミネーターのシュワルツネッガーサイボーグ同様、「I’ll be back(日本から)」と言う息子ではあるが、人生は分からない。仮に帰らずとも、まだ数年は恐らく、

生活は続く おふくろはつづく 日本語を教える
おやじはつづく 仕事をする
息子と娘の人生も日本でつづく

と、本日は子どもたちの近況お知らせがてらの家族の唄ではあります。

では、みなさま、また。
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2018年6月7日 

2300年ほど前の中国戦国時代、盧生(ろせい)と言う青年が、人生の迷いを晴らしたいがため、楚の国、羊蹄山の聖者に会わんと遥か旅をして、趙(ちょう)の国の都、邯鄲(かんたん)に宿を求める。 宿のおかみが出してくれた枕で昼寝をするうちに、盧生は出世し、その内、冤罪で投獄され、疑いが晴れ、やがて栄華を極め、楚の帝となる。子にも恵まれ、50年を過ごし、ついに年老いて死を迎える夢を見る。

覚めてみると、寝る前に仕掛けられた宿の粟粥が、まだやっと炊きあがろうとしているところだった。盧生は、人生は束の間の夢だと悟り、故郷へ帰っていく。

これは中国の故事のひとつで、「邯鄲の枕」とも呼ばれ、日本では能の演目のひとつとされる。故事では宿のおかみが、仙人になっている。ちなみに「邯鄲」は小さいコオロギをも意味し、中国では「天鈴」と呼ぶと言う。

この話を知ったのは数年前の、とある本でだが、読後わたしはこの歌を思い浮かべたのだった。

Row, row, row your boat,
Gently down the stream.
Merrily, merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream.

英語を習い始めに、誰もが耳にする子供の歌だが、これがメタファー(隠喩)だと気付いたのは大人になってからだ。 Boatはわたしたちの人生を指し、 Streamはわたしたちが逆らうことのできない時間の流れである。最後の「Life is but a dream」は他説もあるが、わたしは「人生は束の間の夢のように短いものなのだ」と思っている。

上述の盧生が、人生は束の間だと悟り帰郷したのをなるほどと頷けるたは、わたしも60半ばの齢を既に越していたからであろう。盧生のように人生を悟り、故郷へ戻ると言うのは、若い者には似合うまい。人生に迷いあり、夢あってこそ若さだと。故事に異を唱えるつもりは決してないが、若いうちに人生を悟ってしまうのは面白くないような気がする。

と、こんな長い前書きと故事まで引き出してしまったが、わたしは時折、記憶を辿って昭和の子供時代をブログに綴ったりしている。、それは今日まで前へ前へとなりふり構わず生きて来たから、あちこちに置き忘れて来たものを、今になって懐かしく思い出し、記憶の糸を探って手に取って眺めてみたい気持ちがある。

この春日本へ帰国した際、3年ぶりに妹夫婦と車で東北自動車道路を走って弘前へ帰郷してきた。行きが9時間、帰路が12時間の旅だっ^^; 義弟も弘前出身である。故郷を後にして半世紀が経とうとするが、その間、わたしが訪れたのは数えるほどで、それもここ、数年のことである。ある年まで36年近くも故郷にまともに足を踏み入れることがなかったのだった。

9人兄弟だった母の兄弟もみな鬼籍に入り、いとこたちとの交流も途絶えてしまっていたのだが、今回はその途絶えてしまっていた弘前の親戚を訪れるための帰郷でもあった。

昨年の夏のことだが、月に1、2回の割りで国際電話で話す妹から珍しくメールが入った。

弘前に住む吉崎のおばさんからめったにない電話が来てどうしたのかと思ったら、おばさん曰く「Yukoの夢を見た。何かあったんじゃないか」と。

吉崎は9人兄弟であった亡き母の旧姓でおばは既に鬼籍に入って長い母の弟の連れ合いだ。妹の話を聞いてわたしは大笑いした。だって、わたしは古希ですよ。古希になって未だおばの夢に現れ心配をかけているとは!

そのおばに最後に会ったのはいつだったか、もう思い出せないほど歳月が経ってしまった。

「ポルトガルで元気でがんばっているから心配ないと言っておいた。それでね、来年は二人で会いに行くと約束したよ。5月のこの日から3日間、弘前のホテルの予約ももうしたからね。」 こうして今年の帰国日程は決まったのであった。

さて、3泊4日の帰郷だったが、着いたその日の午後、ホテルの部屋に荷物を置き、顔を洗ってすぐ吉崎家へ向かった。千城おじも(おじの名前で「ちしろ」と読む)生きていたなら、きっと喜んでくれたであろう。わたしは、おじ、おばたちからすれば、たくさんいる甥姪の中で一番年長にあたり、若い頃から女だというのにフラフラ落ち着かず、千城おじにもよく心配をかけたのであった。

「おじさん、ただいま」と、懐かしいおじの家の前にて心の中で挨拶する。

入ると、すっかり少し足元がおぼつかないおばが、双子の息子、そして娘の3人の子どもたちと共にわたしたちを迎えてくれた。従妹たちにまともに会ったのは、恐らくわたしは今回が初めてであろう。おばの顔は覚えているものの、従妹たちの顔はほとんど記憶にないのである。
しかし、千城おじの面影をしっかり宿している従妹たちであった。わたしたちの訪問のために集まってくれたようで、話は尽きず。

しばらくすると、従妹の一人が「腰と足の指、大丈夫?」と聞くではないか。「え?え?なぁ~んでそんなこと、知ってるの?」と、キョトンのわたしに言う。「ブログ、読んでる」 えーーー!己の粗忽なんがチョンばれジャン!てへへへ。

ふと、千城おじが我が母校弘前南高校のPTA会長をしたことがあるとの話を昔聞いたのを、これを書きながら今思い出した。さすれば、従妹たちは我が後輩ということだ(笑) 千城おじがかつて、わたしの土産としてくれた「伊奈かっぺい」さんのライブテープと著書がきっかけで、わたしはあらためて、かっぺいさんが同窓生であること、そして、津軽弁の面白さを彼の語り口から再認識したのであった。

2005年の帰郷時には彼に会っており、その時のことは下記に記している。
津軽行・かっぺいさんと同窓生たちと校長先生

心配をかけたわたしが言うのもなんだが、家族に囲まれ大切にされているおばに会い、心温まる思いで親戚の家を後にしたわたしたちであった。

弘前の我が従妹よ、このブログを目にしていたら、おばを始め家族のみなさんによろしくお伝えのほどを! そして、本日、写真を併せてメールを送ったことを付け加えて。いつか、我がポルトの街を訪れる日を待っていますれば。

本日はこれにて。
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2018年6月6日 

さて、今日から始めるぞと少し気合を入れて取り掛かろうとしていたDias先生の午後のポルトガル語が来週からとなったところへ、「今日は仕事が終わった」と、夫が3時頃に帰宅した。

そこで、することがないわけではないが、小雨ふる中、ポルトの街へ「A Casa Escondida」を見に行こうと相成った昨日であります。
Casaは家、escondidaは動詞escondirの変形で「隠れた、隠された」の意味です。

ポルト 隠れた家

写真は並んだカルモ教会とカルメリタ教会で、前者18世紀、後者17世紀に建てられました。この斜め向かいは4頭のライオンの噴水があるPraça dos Leões( 正式名 Praça Gomes Teixeira)です。

「隠れた家」はこの二つの教会の間にあるのです↓(黄色の線で囲まれた箇所)。ふたつの教会は過去に見学しているのですが、これはちょっと気付きませんでした。

casaescondida_2.jpg

ポルトで一番小さい家であるだけでなく、恐らくポルトガル国内でもそうではないかと言われています。入り口で切符を買い入ってみました。写真は入り口の前にある階段を上って撮りました。

ポルト 隠れた家

2階はベッドルームと小さな書斎に、3階はリビングルームと小さな台所になっています。

ポルト 隠れた家

写真を撮ってしまってから、夫に「あ、撮影禁止とあるぞ」と言われ、「えー!ちゃんと言ってよね」と自分の不注意を棚に上げて(笑)

幅は2メートル少しでしょうか、更に上階がありましたが、公開は2,3階のみ。250年もの間、ほとんど人に知られずに来た家ですが、ツーリストが増えたところで、公開に踏み切りました。

では、何ゆえ二つの教会の間にこんな狭い家が建てられたのか。これ、調べてみたら面白い理由が見つかりました。カルモ教会を建てるにあたり、二つの教会が並んで建設されるのをバチカンが許可しなかったとのこと。そこで取られた苦肉の策が、間に作られたこの狭い家です。

この家は教会の医者、また教会の建築装飾に携わるアーティストなどの住まいに提供されたとのこと。
また、ナポレオン軍が侵入してきた19世紀初期、同じく19世紀初期の自由主義者と保守主義者との間に起こったポルトガル内戦時などには、この家は密会の場でもあったと言われます。

狭い家は外部からは教会の建物の一部に見えるのでそういう場所にはもってこいですし、小さな窓からは、下の写真で分かるように、広場がよく見渡せることから、いざという時には、カルモ教会に続く廊下から教会内部に逃れられたことでしょう。

ポルト 隠れた家

ポルトの歴史が垣間見られる小さな空間です。

入場料:3ユーロ
通常は9時から18時までオープン。土曜日は16時、日曜日は13時半まで。

本日はこれにて。
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2018年6月4日 

hortencia1-1.jpg
ここ数年花を咲かせなかった紫陽花が今年は咲きそう。色が青だったんだが(笑)

「肉体は精神の牢獄である。」と言ったのは、ギリシャの哲学者であり、ソクラテスの弟子でもあったプラトンです。若い頃に出会ったこの言葉に、わたしはいたく感動して勝手解釈。今日でもこの言葉を時折思い出しては、我が牢獄から我が精神が開放できるよう心がけます。

忙しい現代生活や、人との接触が避けがたい日々の生活の中で、そういうものから離れて、日常とは少し違った風景を目にすることは大切だとわたしは思います。二十の頃は、周囲の迷惑も考えずに一人でふらりと放浪の旅に出たり、そういうお金がないときは大阪に住んでいたもので、京都などの近場を歩いたものです。

それで今はと言うと、遠出は夫を引っ張り出すけれど、近場は友達も誘わず一人徘徊しているというわけです(笑)これは、わたしにとって、精神を自由にすることの試みのひとつです。

大きな公園で古い大木に出会ったりすると、思わず手を触れて身体を寄せ、木霊というものが
あるのならと少女じみた感情が湧いてきたりするのですが、こういうことは、夫や友達が一緒にいた日には、思ってもなかなかできるものではありません。

日ごろ、目も向けずに見過ごして通り過ごしている自然の姿には、心も目も癒してくれる何かをこういうときは感じます。

日本にいた頃は、わたしもまだ若くて気づかなかったのですが、アスファルトの道を歩くと、近頃疲れを感じるようになりました。そして、長年保険外交の仕事で、脚を鍛えてきた母が生前、「こういう道を歩くと脚がとても疲れる。」と、こぼしたのをふと思い出したりします。

考えてみると、わたしたちの多くは、土の上を歩かなくなって、もうどのくらいになるのでしょう。アスファルトは、大地の息遣いを地底に押し込めてしまい、太古からの土のエネルギーをわたしたちは足元に感じなくなってしまったのではないか。

時々わたしは思います。現代人の抱えるたくさんのストレスは、大地の息遣いが伝わらないことが一因でありはしないか?と。
そう思いながら、オンボロの借家住まいの頃、ネコの額のような庭があったのですが、耕し起こされた土の柔らかさに小さな喜びを感じたのを思い出しています。

今朝のポルトは小雨。猫たちのトイレも片付け朝のエサもあげ、自分の朝食も済んで、某企業のお偉いさんの日本語授業出勤にはまだ小一時間ほど早く、その授業が終わった後に控えている12時からの自宅授業、「百人一首」の準備も済み。早朝起床の習慣がついてしまったわたしの朝のつぶやきでありました。

rosa2-1.jpg
ベランダの小バラ。少し白っぽく見えるのは雨に濡れているから。

では、みなさま、また!
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2018年6月3日

ポルトは、ポルトガル国名発祥の地であり、15世紀にポルトガルに栄華をもたらした大航海時代の先駆者、エンリッケ航海王子の生地でもあります。

ポルト市それ自体は面積42k㎡、人口27万人ほどですが一般に「ポルト」と言えば、ポルト市を中心にした近郊16市を加えた「Grando Area Metropolitana do Porto=グランド・ポルト」を意味します。

1575k㎡の面積に人口約180万人が住んでいます。わたしたちが住むのも近郊市Maiaで、グランド・ポルトのひとつです。

日本の関東と関西がちょっとしたライバル意識を持つのと同様、ポルトガルでもポルトとリスボンは対抗意識が強い。わたしの知っている小噺に次のようなのがあります。

リスボンで催された、とあるコンクールの勝者への賞品がポルトへの旅行券であった。

 1等・ポルト1泊券 
 2等・ポルト2泊券
 3等・ポルト3泊券

え!と思われるでしょう(笑) どうして1等が一泊で2、3等がそれより多いのか?

つまりこれは、洗練されたリスボンっ子からすると、片田舎のポルトに滞在するのは長くなるほどつまらない、拷問である、というオチなのです。「おふざけじゃござんせん」と言いたいところですが、思わずこのブラックジョークには笑ってしまいます。

さて、リスボンっ子をポルトガル語では「lisboeta=リズボエッタ」と呼び、「cheira Lisboa=リスボンの香り」と昔から言うように、「洗練された、お洒落な、都会の香りがする」と言う含みがあります。

一方ポルトびとはと言うと、これがまぁなんと「Tripeiros=トリペイロス」。tripaは臓物のことでtripeiro(tripeirosは複数)はそれを常食とする者を指し、ポルトびとのあだ名がこれなのです。

しかし、コホン(咳)、これにはポルトびとの祖先の深い愛国心が絡んでいるのであります。

イベリア半島南部をはじめ、国土のほとんどがイスラム教民族に支配されていた長い時代を経て、8世紀にキリスト教民族の「reconquista=レコンキスタの戦い」が展開され、イベリア半島が奪回されたのは13世紀も半ば。レコンキスタが完全に成就するまで、まさに5世紀もの年月を要したのです。

ポルトガル国はスペインからの独立戦争を経て、その辺りから始まるわけですが、1415年、アヴィス王朝ジュアン一世の時代に、ジブラルタル海峡に面するイスラム教徒の拠点、北アフリカの入り口Ceuta=セウタを攻略することになります。

ヨーロッパの隅の国ポルトガルにとり、領土を広めるにはアフリカ大陸を目指す他なかったのです。
(既に「ここに陸尽き、海始まる」で書いたポルトガルの国民詩人カモインスもこの戦いに参戦し、この戦いで後のトレードマークとなる右目を失っています。)

出発点はリスボン港とポルト港。
ジュアン一世はこの時、三男のエンリッケ王子も含む三人の息子、船舶大小合わせて200以上、5万人の兵を率いて参ります。

この時です!
エンリッケ王子の故郷であるポルトびとたちは、セウタの戦いに向けて兵は勿論のこと、70の船舶と兵の食料となる肉という肉全てを献上したのです。残った人々は家畜の臓物を食することで食いつないだと言われます。ポルトびとが「トリペイロス(複数)」と呼ばれるゆえんは、この郷土愛、ひいては愛国心にあるのです。Tripasはポルトびとの「利他主義、有用性、自己犠牲、手厚いもてなし」を象徴する料理というわけですね。

tripas
料理写真はTripas料理。Cais de GaiaのDom Tonho レストランのちょっと上品な味にアレンジしているので、わたしでも食べられました。

下の写真は「Tripas á Moda do Portoポルトのトゥリパス」
tripas

新鮮な牛、豚、鶏肉の臓物を丁寧に洗い、それに臓物詰めのソーセージ、豆類、玉ねぎのみじん切り、ローリエの葉などを加えて煮上げる。ごはんが添えられる。

今日ではポルトを代表する料理になっており、一般のレストランでたいていメニューに載っていますし、また、それ専門の評判のレストランもあります。少しクセがありますがポルトにおいでの際には一度お試しください。
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2018年5月31日 

ポルトを代表する伝統料理はと言えば、まずあげられるのが「Tripas(トゥリッパス)」、そして「Francezinha(フランセズィーニャ)」でしょう。

トゥリッパスについては、次回にでも紹介するとして、フランセズィーニャを再掲載します。

息子も大好きで、リスボンに住んでいた時はポルトに帰ってくると、必ずフランスズィーニャを食べに
行っていました。フランセズィーニャの本場はポルト。

YUKOfrancesinha
レストランYUKOのフランセズィーニャ

食パンの間には、ハム、ソーセージ、肉、チーズが挟まれており、その上にたっぷりのとろけたチーズがかけられています。中身はこういう具合い↓
YUKOfrancesinha

おいしいものをありったけ詰め込んだようなボリュームたっぷりの、言うなれば、特性サンドイッチです。

好きな人はこの上に更に目玉焼きを載せ、フライド・ポテトをつけます。ビール、ワインには最高!カロリーも最高のワッハッハ!フランスズィーニャのお値段の程は、7ユーロ(\1000ほど)。

本日は、フランセズィーニャについて、自分のメモとして記事を上げておきたいと思います。以下。

ポルトガルなのなぜ「フランセ」とつくのか、どなたも不思議に思うのではないでしょうか。そこで、今ではポルト料理を象徴し、世界でも十指に入るサンドイッチのひとつに数えられるフランセズィーニャのストーリーを紹介します。

元祖フランセズィーニャがメニューに載ったのは1952年、ポルトのRua do Bonjardim(ボンジャルディン通り)に開店したA Regaleira(ア・レガレイラ)レストランです。

ある年のこと、A Regaleiraレストランの店主は、フランスに立ち寄りホテルで一人のバーマンに出会います。今でもそうですが、よりよい生活を求めてポルトガルからフランスへと出稼ぎに出るポルトガル人はとても多く、彼もその一人でした。

このバーマンを見込み、店主はポルトの自分のレストランに誘います。Daniel Davide Silvaというこのバーマンがフランセズィーニャを作った人なのです。

Danielはレガレイラ・レストランで働き始め、フランスの「クロックムッシュ(Croque Monsieur)」というサンドイッチにインスピレーションを得て、肉とポルトガルのハム、ソーセージをパンに挟み、独得のピリ辛ソースを発案し、店のメニューとして出します。

YUKOfrancesinha
「クロックムッシュ(Croque Monsieur)」Wikiより

さて、この名称ですが、Daniel Davide Silva氏、なかなかの女好きだったそうで、フランスではバスに乗っては、小奇麗でシックな服装のフランス女性を観察するのが好きだったとのこと。このソースを思いついたときに「フランス女性はエキサイティングである」との意味で「Francesinha(フランス女性)」とつけたと言われます。

YUKOfrancesinha
レストランYUKOのピリ辛ソース。好きなだけフランセズィーニャにかけて食べられます。

ピリ辛ソースをポルトガル語ではmolho picante(モーリュ・ピカンテ、molhoはソース、picanteはピリ辛)と言うのですが、picanteはそのまま「刺激的」と言う意味につながりますね。

フランセズィーニャはソースがポイントで、レストラン・レガレイラのソースのレシピは門外不出、金庫の中に保管されてあるとのこと。

わたしがポルトに嫁いできたのは1979年ですが、フランセズィーニャはレストラン・レガレイラで既に出されていたものの、名前すら耳にすることはありませんでした。フランセズィーニャを耳にしたのは、息子の口からでした。

ボリュームたっぷりのピリ辛フランスズィーニャは若い人に人気があり、一軒のレストランから口コミで広まったDaniel Davide Silvaのサンドイッチは、今ではポルト郷土料理「Tripas料理(トリッパス)」に継いで、ポルトを象徴する一品になりました。

ポルトガル国内の大きな都市ではメニューに見るでしょうが、食べるなら、やはり本場のポルト、それもできれば、フランスズィーニャが美味しいと評判の店をお勧めします。レストラン・ア・レガレイラは当然のこと、レストランYUKOもそのひとつです。

フランセズィーニャの歴史についてあげましたが、レストラン「ア・レガレイラ」はこれがメニューに載る以前、1934年にダウンタウンで開店されており、85年の歴史をもつ店です。

a-regaleira.jpg

が、店を含む建物が所有者により売られたため、立ち退かなければならず、本日5月31日をもって85年の歴史に終止符を打つことになりました。

行こう行こうと思いながら、ついに行かずじまいになりましたが、フランセズィーニャファンも多いレストランのことです、いずれ、別の場所でオープンすることが望まれています。

この建物が売られたのは、恐らくポルトの観光ブームで地価が上昇したことが原因ではないかと、わたしは推測しています。

a_regaleira.jpg
ア・レガレイラのフランセズィーニャ。ネットのニュースサイトより。

古い街並みの良さが魅力のポルトですが、観光ブームにより、ホテル、カフェ、レストランの増設がさかんな現在、古いものが姿を消していくのは、街の魅力を失うことにつながらないかとの心配が老婆心でありますように、古きものを維持しながら街が発展する方策を是非探って欲しいと望んでいます。

本日はこれにて。
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