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2018年8月31日 

サラマンカ マヨール広場

ポルトガルのアルメイダから国境Vilar Formosoを抜けて車で2時間ほどでサラマンカに入りました。、丁度昼食時間だったので、ホテルにチェックイン後5人で街の中心であるマヨール広場のオープンカフェに一席をとり、タパスとビールの昼食です。広場は昼も夜もテーブルを囲む人でいっぱい。

サラマンカ マヨール広場

↑↓マヨール広場の夜

サラマンカ マヨール広場

ホテルから近かったので2日続けて行ったマヨール広場では夜はサラマンカ大学生のTuna(伝統的な大学生音楽グループ)が歌っており、観客の中から女性を一人参加してもらい「シェリトリンド」共に歌っていました。

正面の市庁舎を除いてはアーケードの内側はほとんどカフェ、タパスレストランになっており、広場をぐるり囲んでのオープンカフェでは、たくさんの人がタパスを楽しんでいました。

スペインゴチック建築スタイルのマヨール広場は、闘牛場を目的として18世紀半ばに訳35年かけて造られたようです。プラザの入り口はの市内の6つの通りにつながっています。88のアーケードの他に、247のバルコニーがあり、マヨール広場の建物の多くは一般の住宅になっているそうです。

さて、昼食後、スペインのビールMahou(マオウ)で、気分も軽く、サラマンカで一番古いカフェ「Café Novelty」の有名なアイスクリームを食べながら、アーケードの中を歩いてみました。

次回は大聖堂の宇宙飛行士についてです。

記事の中にある大学生の音楽グループ「Tuna」ってなに?と言う方には、こちらをご案内します。わたしが撮ったポルト大学のTunaの映像です。
https://www.facebook.com/yukosodebayashisantos/videos/1890768150988007/

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2018年8月29日

3年ほど前に書いた下の記事、題して「サラマンカ大聖堂に宇宙飛行士の彫り物が!」に今日は目を通していただきたい。
  
たまたま目にし、一瞬「ゥワオ!」と飛びついたこの写真。ご覧あれ。
サラマンカ

この彫り物が、スペイン、サラマンカにあるゴシック建築の大聖堂ファシャーダ(正門)に見られるというから、さぁ、大変。思わず身を乗り出したのでした。

ポルトガルのマヌエル建築様式の代表とされ、かつてはテンプル騎士団の町と言われたトマール(Tomar)にあるテンプル騎士団修道院(後にキリスト騎士団修道院と改称)のシンボル解明に挑戦しているわたしとしてはこの手のオーパーツには目がない!

サラマンカはスペインで一番古い大学がある町として知られます。サラマンカ大学は現在も約32000人程の学生を抱える総合大学です。かの有名な「ドン・キホーテ」の著者、セルバンテスも正規の学生ではなかったにしろ、ここで学んだと言われます。

12世紀に建てられた旧大寺院と16世紀から18世紀に建てられたゴチック・バロック様式の新大聖堂のふたつがありますが、上述の宇宙飛行士の彫り物が見られるのは旧大寺院の方。こうなるとわたしなどはウッホッホです。

現代科学の先端を行く宇宙飛行士の姿が中世の大寺院に見られるとはこれいかに?あな、摩訶不思議、と踊る心でこの話を追跡して行くと、件の大寺院ファシャードにこんな彫り物もある。
サラマンカ

サラマンカ
ライオンか,はたまたドラゴンか。しかも、手にコーンに盛り付けられたアイスクリームを持っているではありませんか!え?え? ここまで来ると、いかな乗せられやすいわたしでも、ちょいとお待ちよ、と相成ります。こうなると徹底して調べる作業に駆られます。

大聖堂のファシャード(正門)はこの数世紀でかなりの損傷を受け、1992年に修繕作業が入りました。この時に、彫刻家がその道の許可を得て「宇宙飛行士」と「アイスクリームコーンを持つドラゴン(ライオン?)」とを付け加えたのだそうです。これはどういうことかと言うと、慣習として、大寺院の修繕では度々、修繕する時代の象徴的な物が付け加えられるとのこと。現代の象徴として「宇宙飛行士」が選ばれたとあります。
サラマンカ

サラマンカは、昔、子供達を連れて車でピレネー山脈を越え、アンドラ王国から南フランスに入って家族旅行をしたときに通ったことがありますが、これが1992年に付け足されたのだったら、見られたはずもなし。

しかしながら、別説もあり、修繕以前の写真がないことから、この彫像が後で付け加えられたという確証はない。「宇宙飛行士」は修繕以前にあった可能性もあるとの別説もある。

う~~む。ここで言われる「慣習」ってスペインだけのことだろうか?と、ポルトガルのシンボル追っかけとしてはいささか不安になってきます。

さて、この宇宙飛行士ですが、2010年にバンダリズムこと破壊行為を受けて片方の腕がなくなっていました。
サラマンカ

トップの写真は、見てお分かりのように右腕が修繕されたものです。

「何ゆえ、今更こんなものを歴史ある大聖堂に付け加えるのだ!」との反対意見もあるでしょうし、また、歴史観点からもこれらの彫り物は困惑を招くので、気持ちは分かりますが、バンダリズムはいただけません。

サラマンカには他にも興味深いシンボルがたくさん見られるそうです。そのひとつが下のサラマンカ大学正門にあるもの。蛙を頭上に乗せたドクロ。これを見たものは学業成就するとのジンクスがあるそうです。左横にはユニコーンも見られます。ドクロもカエルも錬金術のシンボルであることを一言付け加えておきます。
サラマンカ

今回、大聖堂とシンボルについても調べてみたところ、意外やサラマンカ大聖堂の彫り物のようなモダンなガーゴイルシンボル(Gargoyle=怪物などをかたどった雨樋の機能をもつ彫刻)が加えられているところが意外や、あるのに驚きました。それら中から面白いものをいくつか拾い上げてみました。

gargois1.jpg

この辺はまだいい。

gargois
フランス、ナントの近くにある小さなベツレヘム礼拝堂のガーゴイルたち。

gargois
エイリアン!

こちらにはダーツ・ヴェーダーが(笑)↓
gargois
ワシントン国立大寺院に

gargois6-1.jpg
んで、こちらは、カマを手にしたヨダ?ET?↓

gargois
グレムリンのギズモじゃん!

ここまで来るとなんか笑っちゃいますよ。人が真面目にシンボルの謎解きに取り組んでいるのに、なんじゃいな、これはw おふざけじゃござんせん^^;本日の画像は全てWikiからです。

という記事をあげたのですが、以来、一度はサラマンカを訪れてみたいと口にしていたのです。 実は息子が帰省していた今年2月に夫は計画を立てたのですが、2月は雨が多い季節です、せっかくサラマンカへ行っても、雨と寒さの中では街の散策もしたくない、とわたしが猛烈に反対し、この旅行は今夏にずれこんだというわけです。

次回はサラマンカ旅行について綴ります。
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2018年8月28日 

今日は雨模様で今朝7時の気温は17度。 夜10時近くまで明るかったのも、9時にはどっぷり日が暮れて、毎晩4匹の外猫に運ぶエサを「オレにもおくれ」と待ちかまえていた数羽のかもめの姿をやっと見なくなりました。

このまま涼しくなるとは思いがたいのですが、暑さが少し退いたところでやっと袖なしの衣服が着られようと言うもの、紫外線アレルギーがあるわたしは夏場も長袖でうっとおしいのです。植物の水遣りでベランダに出るときも、帽子、長袖カーディガン、首巻とものものしい。涼しくなると、まるで嘘であったかのように腕のアレルギーが治まります。

というので、今日はベランダの花をば。

ほとんど手入れをせずにきたブーゲンビリアですが、今年は少し手をかけてみました。
2018_Bugenbiria_`

赤い部分は葉で白いのが花です。 
bugenbiria2018-1.jpg
 
紫陽花の鉢に同居の小さな薔薇 
2018-rosa.jpg

ゴムの樹とどんどん大きくなってきたカネノナル木。だが、金はなしだw
2018_4.jpg

台所のポトス
2018_7.jpg

台所横のベランダのポトス
2018_8.jpg

もうひとつ、室内には長年こんな木もある。名前は知らないのである。
2018_tree.jpg

こうして植物の写真を撮っていられるのも今のうち、夏の終わりを楽しんでいます。

本日はこれにて。
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2018年8月25日

本日は写真が多いです。

Almeida Portugal

ポルトから車で2時間ほど、ポルトガルの内陸ベイラ・インテリオール(Beira Interios)地方の国境に近い村です。
上図ポルトとサラマンカを結ぶ中間にあるアルメイダは13世紀の終わりにディニス王によって築かれた城壁で、17世紀18世紀と補強され、現在の見られる集落全体が12の星の形の城壁に囲まれる形になりました。

Almeida Portugal
パンフレットより。

スペインとほぼ接するアルメイダの歴史は城砦の歴史とも言えるでしょう。19世紀の自由主義派(ドン・ペドロ4世、ブラジルではドン・ペドロ1世と称されるが、彼を中心としたリベラリスト派)と王政派(Miguelistas=ミゲリスタスとも呼ばれるドン・ミゲルを支える絶対王政派)のポルトガルの内戦もこの小さな村でくり広げられました。

しかし、アルメイダが名を知られるのは、19世紀初期のナポレオン軍侵入における激戦によります。拙ブログでは何度か取り上げてきた三回にわたるナポレオン軍侵入はGuerra Penisular(半島戦争)と呼ばれますが、それについては後記にて過去記事を案内しています。

18世紀後半、ポルトガルは進歩的な知識人のフランスびいきと伝統を重んじる保守派の二つのイデオロギーが対立し、国論は二分していました。

最初のは、1807年、フランスのジュノー将軍率いるフランススペイン連合軍がポルトガルに侵入し、リスボンに入城。当時の王室、ドナ・マリア一世と後継者ドン・ジュアン王子は15隻もの海洋船に貴族や軍隊、大商人らおよそ1万人のポルトガル人を引き連れてブラジルへと逃れました。(トホホ^^;)

しかし、やがてスペイン、ポルトガルの各地でナポレオン軍に対する民衆蜂起が起こり、支援するイギリス軍と合流したポルトガルはフランス軍をリスボンから追い払います。

二回目の侵入はイベリア半島北部を経てポルトに入りましたが、この時はポルトガルイギリス連合軍が撃退します。
Almeida Portugal

しつこくも三回目がフランス軍単独の侵入で、アルメイダでの激戦後、砦を突破し、ブサコで辛くも勝利したものの防衛が固くついにリスボンには入れず撤退し、1814年に半島戦争は終了するわけですが、ある意味では、フランス、スペインとポルトガル、イギリスの戦いでもあったと言えます。

下の写真はアルメイダ城壁入り口をくぐった石橋からの撮影。
Almeida Portugal

石橋を渡ると左側にTurismo(観光案内所)がある。そこから村へと続く。

Almeida Portugal

Portugal Almeida

村にはミリタリー博物館があり、ナポレオン軍侵入時の様子がうかがえる。

Almeida Portugal

Portugal Almeida

毎年8月の最後の週にCerco de Almeida(アルメイダ包囲)を再現する行事が行われる。
Portugal Almeida

12星状の砦全貌は上空からでないと見ることができない。下はその一角。
almeida7.jpg

Praça Alto(プラッサ・アルト=村で一番高い丘)には、この戦いでポルトガル軍を指揮し命を落としたイギリス軍人John Beresfordの石碑。享年21歳。落涙。
Portugal Almeida

石碑の側には白い葉の樹(名前不明)が風に吹かれて鳴っていた。
Portugal Almeida

城壁内の村を歩くこと約2時間、激戦があったアルメイダ村は日が暮れようとしていた。
Portugal Almeida

半島戦争については下記で綴っています。興味あらばクリックしてどぞ。

・「ボア・ヴィスタ:ナポレオン侵入戦争の記念碑

・「リベイラの鎮魂碑

・「王家の離宮ブサコ宮殿
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2018年8月23日 

息子とガールフレンド、娘と我ら夫婦の賑やかな今回の5人家族旅行は国境近くのアルメイダとスペインのサラマンカだった。家にいる間中もそうなのだが、車中も食事中も、息子は妹とガールフレンドを絶え間なくからかい、喋りまくり、よくまぁ、二人とも耐えられるなぁと感心することしきり。

息子の口が閉まっているのは寝てるときだ。「お前、ポルトの仲間と一緒のときもそうなの?」と、聞いてみた。静かだと、いったいどうしたのだ?とみんなが心配するのだそうで、果たしてダレに似たのだろうかとそこで話がでた。

人をからかって喜ぶところは、我が父の血ではあるまいか?父は食事中に「ひろいち、ひろいち」とよく母をからかって喜んでいたものだ。「ひろいち」とは、「弘前(ひろさき)で一番」という意味で、何が一番なのか、ついに分からずじまいだったが、母は父のからかいにいつもプンプンしていたのを覚えている。

次から次へと弾丸の如くぽんぽん言葉が飛び出してくるところは、我が日本人の血筋ではない。さりとて、夫側にもその心当たりはないという。すると息子いわく、「ボクの性格はBad combination(よくない結合)なんだよ。パパのStubborness(頑固さ)とママのRestlessness(絶えず、休まず動くこと)の。はははは」

えー!と一瞬、固まった母のわたしである。思わず我が身に問うてみた。わたしってRestlessなの?

して見ると夫に「また増やすの?」とか「まだやるの?」と幾度か言われたことがある。近頃それを耳にしないのは夫が諦めたのであろう。あれやこれや仕事を増やして途中でアゴをだしそうになることも多々あるのだが、結局ひとつ終わってはまた別のことに手を出してしまう性分だ。

このRestlessは歳も考えずに秋から更に増える予定なのである。そうかいそうかいと心中思いながら、息子にRestlessと言われてちょっとギャフンだった。息子の性格はさしづめ日本とポルトガルがもたらした文化の合体とでも言えるだろうか。

そう思いながら、過去にモイケル娘が言った印象深い言葉を思い出した。
日本へ渡り2年ぶりに帰省した時のことだ。

「おっかさんと親父、性格の違いじゃなくて、文化の違いもあるんだねぇ。 一緒に住んでいた時は気づかなかったけれど、2年ぶりに来て見て分かった。」

うほほほほ。あんた、ちょっとは大人になったじゃないと観察力に感心した。

惚れたはれたの間は見えないのだけれど、これが一緒に暮らすとなると、国籍の違う者同士、どうしても文化の衝突はある。

いえね、わたしたち、大きなやりあいはしないけれども、個人的な些細なことがきっかけで終いには、
「日本のこんなところは、よく目にしたよ。そういうところは、ああだらこおだら」と夫。
「なによ、ポルトガルだってこういうところがあるじゃない!」
と、日本対ポルトガルの国同士の言い合いに高じるなることは、時々ある。これは文化の衝突といえまいか。

個人の趣向の違いももちろん出てくる。例えば、音楽を聴くとき。わたしはボリュームを大きくして、音楽を満喫したい方。片や、夫は、かなり低いボリュームを好みます。わたしから言わせると、「そんなんじゃ、その音楽のよさがわからんじゃん!」です。

息子や娘があきれる「バター戦争」もそうだ。夫は固いバターを頑張って薄~くナイフでのばして取り、パンにつける。片やわたしは、「それなら、冷蔵庫外に出しておけばいいじゃない。固いバターは、バターそのものを食ってるみたいでいや!」(もちろん、夏は別da)

それで、どさくさにまぎれて外に出して置くと、「バターを冷蔵庫に入れておくべし」と夫が抗議する。毎日食べるバターだ、冷蔵庫外に置いたとて、いたんでしまうところまで行く以前に食べてなくなってしまうでしょ(←わたしの言い分)

要は、彼は固バタ党、わたしはソフトバタ党。んじゃ、今日からバターはふたつにすれば?こっちの箱にはyuko、そっちの箱にはCarlos。これでどうよ!とまぁ、こんな具合だ(笑)子供たちはそういう親のヘンチクリンなのを見てきて、もしかしたら、「なんでこうなるのか?」と思っていたのだろう^^;

モイケル娘がそういうところに目が届くようになったのは、やはり、日本の生活を通して自分も少なからず経験するところがあったからに違いあるまい。20歳の娘の口からその言葉を耳にした時は、ちっとは大人になったなぁと思ったのである。

結婚した今は、今回久しぶりに両親の生活ぶりを目の当たりにして、もっとドライな観察をしていたかも知らない。二人の人間がひとつ屋根の下で生活するとなれば、多かれ少なかれ大げさな文化の違いだけではなく、育った環境というバックグラウンドの違いを越えて、ある程度譲り合わないとうまくできない。

我が妹も言っていたのだが、思いのほか、自分を抑えて人に譲るところがあるモイケル娘だ、自己主張と譲ることをうまく使い分けて、楽しい生活を築いて欲しいと思っている。

それにしても女子二人が帰りからかう相手がいなくて息子も手持ちぶたさのようだ。家の中が静かで、ここ数日、深い溜息つき、空洞の念を取り払おうとしている母である。
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2018年8月22日 

今朝は我が日本語生徒さんの中でも最高齢者、87歳のアルフレッドさんと「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」の勉強を再開しました。2016年の秋に始めましたからもう2年間取り組んでいて、今日は73番歌、平安時代を代表する碩学、大江匡房(おおえのまさふさ)の歌でした。

この本については、後記で案内しています。

さて、この2週間、5人家族の料理と洗濯、買い物の付き合い、そしてシェスタ(昼寝)に明け暮れました。暑いもので昼寝をしないと体力が続かないのであります(笑)

が、月曜日にモイケル娘と息子のガールフレンドが共にポルトを後にし、残った息子はブリティッシュスク-ル時代の友人たちと遊びに出かけ2、3日の留守です。夫も仕事を始めました。

そろそろぼけ~~っとした空間の自分の休みが欲しいところでした。こんなことを言うと、毎日もっと忙しい思いをして働いている人に悪いかも知れませんが、忙しづくめでは息苦しくなってしまうわたしです、 「ちょっと怠けてやれ^^」と、すぐそういう気持ちが起きてくるところがあります。 いかんなぁ~^^;

でも、肩の力をふ~っと抜いて、日も暮れようとする外の景色に目を移すとき、「平和だな。 こういう時間を幸せと呼ぶんじゃないかな」と、今生きているこの時間を五感で感じます。

齢90歳を超えても現役で聖路加国際病院の理事長を勤められた亡くなられた日野原重明さんは、こんなことを言っておられました。「よい出会いがある。それはあなたの才能なのです。」

わたしは常日頃から、自分は凡人なのに、多くの素晴らしい出会いがあって、その人たちによって自分の人生は、とても色鮮やかな糸で織り込まれたものになっていると思っています。辛かった出会いも、それが過ぎていつのまにか記憶の向こうへ遠のいたと気付く時、「辛い出会い」は、「よい出会い」になるような気がします。

ヒッチ・ハイク、深夜の彷徨、見知らぬ町での放浪など、無鉄砲なことも多々してきましたが、不思議とわたしは危険な目にあうことなく、今日まで生きてきました。

英語が少し話せる、ポルトガル語も少し分かる、日本語をなんとか教えられます。歌も好きでちょっとだけ上手に歌えた。木彫りします、レース編みも。毛糸編みも、ポルトガルに来て初めて、本を見ながら独学、子供達が着たセーターはほとんど全て手編みしました。英文タイプも練習本を見ながらの独学です。50も半ばを過ぎてから娘にパソコンを習い、未熟ながらホームページ運営を始めて、こうして現在はブログ記事をあげてます。

ブログがきっかけで、小さな会員誌の雑誌記事執筆も10年以上になり、やはりブログ絡みでラジオ放送のインタビューを時々受けたりしています。

こうして挙げていくと、日野原さんではないけれど、あらま、わたしって才能あるじゃないの(笑)

「出会い」は、人と人との出会いだけではなく、自分の人生で起こる様々な出来事、それこそが出会いなのでしょう。それらとの出会いを、時にはじっとこらえて時間をかけ、また時には大声で高らかに笑い、日野原さんがおっしゃった「よい出会い」の才能を持てたらいいな。今日はこんなことを思ったのでした。

★ねずさんの百人一首については下記にて綴っています。
百人一首を通じて学ぶ日本の歴史
生徒と学ぶ百人一首が面白い
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2018年8月20日

「女が口笛なんぞ、吹くもんじゃない!」と、ヒュ~ヒュ~やるたびに、子供の頃は叱られた。

弘前の下町の祖母タマさんの家には、3人家族のおじの一家、4人家族のおじの一家、そして、当時は地方競馬の騎手だった父親が盛岡に行ったきりで、帰って来ることがまれだった、母とわたしと妹の3人、まだ独り身の若きわたしのおじ3人とが住まっており、ひとつ屋根の下に14人の大所帯であった。子供だけでもわたしを筆頭に5人である。遊んだり小突いたりする相手には事欠かなかった(笑)
    
大人は皆、日中は働きに出ているのに、一人だけ何だか職業のよく知れないおじがいて、これが小柄で歳がいっており、得体が知れないのも加わって、そのおじが家のどこかにいるときは、煙たがりながらも、なにとはなしに背中がシャキッと伸びていたものだ。「女が口笛なんぞ」と言うのはそのおじである。

従兄弟も含め、同居していたのは俄然男が多かった。影響を受けやすいわたしは、必然とやることなすことが男っぽくなったのであろう。口笛はいつどこで耳にしたのか今では覚えていないが、小学校に上がるか上がらないかの頃には、すでにヒュ~ヒュ~と吹き始めていたようである。それがくだんのおじの「女が口笛なんぞ!」となったのだ。
    
わたしが現在でも口笛自慢するに及ぶということからすると、このおじの度々の注意にもめげず、子どもの分際で、わたしは密かに、どこかで吹き続けたことになる。
    
1960年代の始め、わたしが高校入学したころには、下町の大所帯は、同居していたおじの一人が、保証人の判子を押したことが原因で、祖母が家を売り払う羽目に陥り、大所帯はすでに解体して何年か経っていた。
    
盛岡へ行ったきり鉄砲玉だった父も、体重制限がうまく出来なくなってきたのと、年齢とで弘前のわたしたちのもとに来て、一家四人が暮らし始めて、これも数年経っていた。

祖母の家を出てから後、わたしたちは借家に移り、そこは3度目の借家であった。通りから入ると目前に大きな敷地が広がっており、両脇の崩れかけた石門の側には太い高い木が数本そびえ立っていた。石門から少し入ると、右手には、その頃既に使われなくなって久しい、すっかり寂れてがらんどうになり、はめられたガラス窓もあちこちが割れてしまっている工場の廃屋があった。  

その廃屋のすぐ横に、工員たちの宿舎であったのだろう、長屋が並び、わたしが高校を出て故郷を後にするまで、その一棟がわたしたち家族の住まいになった。

青春のまっさかり、高校時代は三度目の借家から始まり、新設高校で任命されたわたしの最初の仕事は、初の生徒会誌編集である。数人のグループと手分けして、教師達の座談会の録音を原稿に起しす、それはなかなかに面白い仕事であったが、いかんせん、これが放課後に行われるもので、どうしても下校が遅くなる。
   
我が父はこれが気に食わなかったらしい。
「周りは皆、四時には帰宅して来るのに、何ゆえお前は遅いのか」
「学校の生徒会の仕事が・・・」
「そんなもんは女のお前がせんでいい」  ご~~~ん(^^;)

門限6時。6時を過ぎた日には、確かに学校で放課後仕事をしていたという証拠に、担任教師がわたしを送って来て父に挨拶をした(爆)こんなこと、今では考えられませんな^^;

しかし、担任も毎回それができるわけはござんせん。そういう日にはどうなるかというと、家の中には、なかなか入れてもらえず、締め出しである。 締め出しと言ったって、たった二間の鍵もないボロ屋。ドアを蹴破って入るのは造作もないのだが、親父殿とは正面切って向き合うことになる。すぐ手が上がる人であったので、これはやはり恐かった。
   
目前の工場廃屋がわたしの避難場だった。親父殿のお許しが出るまで、わたしはそこで得意の口笛を吹くのである。「家の中へ招じ入れられても、また叱られるな。もうそろそろ、生徒会の仕事も音楽の部活も辞めないといかんな・・・」と、始めはなんだかやりきれない思いで吹き始める口笛。
   
そんな気懸かりは数曲口笛を吹いているうちに少しずつ消えて行き、いつの間にかすっかり吹き飛んで盛り上がり、そこは聴衆者が誰もいないコンサート場さながらだ。暗い、だだっ広い工場の廃屋に、エコーを伴って口笛は澄んだ音色で流れ流れ流れ・・・・

「ゆーこ、ほれ、家さ入れへ」
やがて母の声が聞こえる。

編集の仕事も音楽の部活も、まもなくわたしは辞めた。そして、読書へとのめり込み、これは既に書いた「蛍雪時代」へとつながるのであります。
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2018年8月19日 

ばたついている今日この頃、それゆえ、本日は我がモイケル娘の小噺もどきをアップしてのごまかし、ご勘弁あれ。

2004年に大学受験で単身日本へ渡った彼女が、日本という異文化の中で日々新鮮な発見にいそしんでいた頃の、ちょっと笑えた話をば。

"fabulous" "marvelous" by モイケル

美容院の窓にかかげられていた言葉。
何も考えずに見ると綺麗なデザインだけど

ちょっと置き換えてみた。
「素晴らしい」「優秀」という日本語が海外の美容院の窓を飾ってたらどないやねん。

ある時、どこかのレストランの看板にアラビア語が書かれていたのを
「どういう意味なんですか?」と聞いてみたら
「知らない、かっこいいから飾ってみた」と返ってきたそうな。

また、あるアメリカの夫婦
「この漢字、気に入ってるから額に入れてるの」
と「歯医者」という字を飾ったり。

慣れない字は魅力的だけど、ちょっと考えたほうがいいと思う(笑

「歯医者はまだいいぞ。産婦人科なんてこったら、はずかしいかも^^;」


こんな発見をしては面白いことを呟いていたモイケル娘も2週間の帰郷を終えて、明朝は再び彼女の夫が待つ日本へ帰って行きます。母はもう少し居残る息子の世話をば。

では、本日はこれにて。

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2018年8月17日 

気がつけば一週間以上もブログをあけてしまいました。何度か来てくださった方がおられましたら、申し訳ござらん。

先週末から水曜日まで、家族5人でポルトガルのアルメイダ(Almeida)とスペインのサラマンカ(Salamanca)をまわってきました。いつもなら、「行ってきますので」と、ここに書いて出かけるのですが、実はパソコンを開ける暇もなく、あたふたと準備してでかけたのです。

数日家を空けるとなると、わたしの場合、まず家猫、外猫の餌やり、それにこの時期はベランダの植物の水遣りも気になります。掃除のおばさんにあれやこれやとお願いすることになり、しちめんどくさいものです。
これまで子どもたちは別々の帰郷だったのが、今年は同時期に帰国し、息子のフィアンセも加わって一挙に家族構成5人の夏となりました。

にぎやかになるので喜びながらも、夫と二人の生活に慣れてしまった我が体力は、5人家族の世話にするのに勘が鈍りなかなか大変で、ひぇ~と半分悲鳴をあげつつ、過ごしています。こんな訳で、今年はお盆、終戦の日への思いも綴らぬままになりました。

さて、今回訪れたアルメイダとサラマンカについては、後日、案内しますが、本日はたまたま夕食に立ち寄って思いがけず発見した美しいアズレージュ絵の駅を紹介します。

アルメイダ、ビラール・フォルモーゾ(Vilar Formoso)は、ポルトガルの東側、中央部分のベイラ・インテリオール地方にあります。内陸なので夏はかなり暑く、紫外線アレルギーに悩まされるわたしは、できるものならこの時期の旅行は避けたかったのですが、やむを得ず。しかし、目の前に現れた美しい駅舎を目にしては、アレルギーも吹き飛びました。

アズレージュ

Vilar Formosoはポルトガル、スペインを隔てる国境の町でもあり、駅はポルトガル、スペイン1882年に開通しました。一般的にポルトガル人は車で移動するので、遠距離の鉄道利用は少なく、おのずと本数が少なくなります。

アズレージュ

わたしたちが行ったのは午後8時ころでしたが、駅に人影はなく切符売り場も閉鎖しており、現在は駅として利用されていないのかと一瞬思ったものです。プラットホームにも自由に入ることができ、アズレージュ絵で美しく飾られていました。
ざっと紹介していきます。 下はかつて見られたポルトのフェルナンディーナ城壁(Muralha Fernandina)。

アズレージュ

わたしたちが今回訪れたアルメイダ。
アズレージュ

ご存知、シントラのペナ城。
アズレージュ

セーラ・ド・エストレーラ(Serra da Estrela)の羊飼い。描かれている犬はSerra da Estrala犬です。
アズレージュ

リスボンロスィオ広場。
アズレージュ

エボラのサン・ブラス教会(Igreja de São Bráz)
アズレージュ
まるでお城のような教会です。

駅舎外側のアズレージュ
アズレージュ

これらの絵の中には、残念ながら2箇所、わたしが訪れていないのが、エヴォらの教会ですポルトガルに来た当時の遠い昔に、一度だけエヴォらを訪れていますが、見逃したのは残念。機会があれば、もう一度行って見たいと思っています。

本日はアズレージュの紹介にて。
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2018年8月10日 

これまでに何度か訪問したボルサ宮(Palácio da Bolsa)ですが、2014年から2015年に渡り、入り口に面した「ナショナル・パテオ(Pátio das Nações)」の壁画修復が始められたところ、一つの紋章の下から別の紋章が現れ、それが「日本の紋章」だとのニュースが流れました。

ニュースのその年1月に、わたしは雑誌記事取材のためにボルサ宮を訪れたのですが、「日本の紋章」が現れたのはその後の3月のようで、残念ながらその時は知らなかったわけです。

それがこの度、精密なレプリカが公開されたというので記事を読んでみると、なんと日本の紋章とは「葵の紋」のこと。

brasao_japonese.jpg
Wikiより

ポルトガル人の手によるものゆえ、デザインが多少違うような気がしますが、この紋章がなぜポルトの旧証券取引所のボルサ宮にあるのかという謎にぶつかります。

ボルサ宮の詳細については既に書いてありますので、後記で案内しますが、1842年に施工、完成まで70年近くを要しています。
皇室の紋章である十六菊花紋でなく、葵の紋章があるということは、徳川時代にポルトと何らかの関わりがあったことになります。

ボルサ宮は完成まで70年を費やしたのですから、その間の歴史を調べようと思ったところで、ふと、先日、拙ブログにて取り上げた「クリスタル宮殿公園の記事を思い出しました。

1851年の第一回ロンドン万博へ出かけたポルトのブルジョアたちや旧証券取引所関係者たちが、会場として建設されたクリスタル宮殿の素晴らしさ圧倒され、ポルトにも是非とそれを模倣して建設し、1865年にはそこでポルト国際博覧会が開催されたのです。

その際、欧米諸国に加え日本も参加しているのを知り、へぇ~と思ったのですが、クリスタル宮殿に目が行っていたもので、日本の参加については調べることもせずそのままになっていました。

1865年といえば、大政奉還がなされ徳川幕府の時代が終わる2年前です。ペリーの黒船来航により日本が開国して後の1860年に日本ポルトガル間では日葡和親条約と日葡修好通商条約が結ばれ、215年ぶりに通商が再開されています。

ボルサ宮のナショナル・パテオの上部にの壁に描かれてあるのは、当時、ポルトと深い関わりがあった国々の紋章だといわれ、件のポルト国際博覧会には、1962年に幕府が初めて欧州へ送った文久遣欧使節団が訪れたようです。

さすればこの使節団は福澤諭吉も含む38名となっていますから、大規模な使節団として、羽織、袴、まげを結った一行の姿は人々の記憶に残ったことでしょう。これで、とりあえずボルサ宮にある徳川家葵の紋の謎は一通り解けたと言えます。

それにしても、奇遇が重なり面白い謎解きができたものです。そして、今から150年ほど昔に自分が住むポルトに福澤諭吉達に日本の大使節団がしばし足を停めていたと思うと、静かな感慨が湧いてくるのであります。いやぁ、これだから歴史は面白い!

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下記、ボルサ宮関連の過去拙ブログ記事です。クリックしてどぞ。

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  「長崎ポルト姉妹都市30周年記念・ポルトぶらぶら歩き」」
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2018年8月6日 

レッド・エンジンとわたしが呼んでいた赤い車FIATを、中古として売っても二束三文だというので、それにリスボンに住んでいた息子が乗ることになった頃のこと。

「これは君が死ぬまで乗りこなすのであります。」と夫に言われていたもので、時々うっかりアッチブッツケ(w)をしてへこんでるとこもあったが、それでも大事に乗ってきたつもりであった。それがどういう風の吹き回しか、2年前に新車を買ってくれたので、そのレッドエンジン(これは消防車という俗語で、半分小ばかにされておったのです)が息子へのお下がりになったわけです。

そのレッドエンジンの整備を兼ねて、TEFLコース(英語教授法コース)が無事に終わりパスしたところで、やっと夏休みを、と一週間ほど帰ってきていたのだが、車の整備も終わったので昨日夜遅くリスボンへと車を飛ばして帰っていった。

前年一年間、リスボンの中学校の非常勤でITクラスを持ったのだが、その契約も終わり、本人は常勤に
なりたくないようで、また非常勤の仕事を探すらしい。できれば、ITクラスを教えながら、今回免許をとった英語講師の仕事もしたいらしい。

その息子、ある日突然、「ママ、髪刈ってよ。」と言う。刈ってよって事もなげに言うけど、わたしゃ、自分のは前後横とひとりで髪を切るが、男の散髪はしたことがないのだ。

かつてのように、息子、背中まで垂らしてる長い髪ではないが、それでも随分伸びている。無理やり手渡されたバリカンを手にびびって途方にくれているわたしに、
「心配ないから。失敗したらぜ~んぶ坊主にすればいいし。今までリスボンではずっとひとりでやってきたし。」・・・・その使ってきたバリカンが壊れて、ポルトで買ったという新しいのを初めて使用するわけで。

二人で説明書きにかじりつきながら、いよいよ始めましたです・・・うっかりスイッチを入れるのを忘れて、頭の後ろ首筋あたりからに始めようとしたら、
「イテテテ~~。スイッチ入れてからやってくれ~~」(爆)知るか!そんなこと!こっちは初めてなんだ(笑)

頭の後ろ、真ん中から刈れ、というもので、とても心配になり、
「モ、モヒカン刈りになりゃせんかい?」
「ならないならない!早よせぇ~~」とせかせる息子。

んもう、知らないから!と最初は恐る恐る、で、後半は「あら^^面白いじゃない」とズンズン、バリカンを進める。4回ほど、歯の先につけるツール(なんと言うのかしりません。)を、後ろ、横、頭の真ん中と
種類を変え、なんとかできあがり。

しかし、大分短くなり「これじゃまるで今から軍隊に入るみたいだね。」本人はさっぱりした、というものの、なんだか、あちこちからピッ、ピッ、と刈り残した髪の毛が飛び出してる感じだ。

髪を刈ったのは、ひとつには、リスボンに帰るなりすぐ新しい仕事のインタビューに備えることもあるのだが、すっきり坊主頭のようになった息子が、ちょっと新鮮に見えたものだw

「今年の君のプランは?」と、レストランでの食事中の夫の問いに、定職には今年も就かない。非常勤の仕事は見つけるが、もう少し好きな音楽に没頭したい。定職について結婚し家庭を持って云々は、まだ自分には早い。だから、自分は今のところあまりお金に執着しないし着る物にもお金はかけない、との息子の返答に、少々ご機嫌斜めになっていた夫である。

き真面目一本でやってきた夫の心配はわかるのだが、息子の人生をわたしたちが生きることはできない。好きなことをとことんやってみるのも道だ、と女親のわたしは思っている。

できるならば、燃焼しきれず、くすぶった人生を送るよりも、それほどとことん好きなら続けて、できないと分かったらまた考えてみてもいいのではないか?やり直しのきく30までまだ数年あるのだから、とわたしは思っている。 イガグリ頭にして、ちゃんと仕事のインタビューの準備をするくらいの心積もりはあるのだから、まぁ、いいではないか。

平凡な人生もそれなりに困難があるのを、息子はまだ分かっちゃいないだろう。しかし、お金がなくても好きなことをしている、との充足感は若いときにこそ持てるもので、それもまた人生には大切なことなのだ。息子がイガグリ頭を卒業するのは、まだまだ先になりそうだ。

と、思っていたのが、ある日、日本で名のある英語学校講師の仕事を見つけ、彼が渡日して早や9年になる。今では数箇所の大学で非常勤講師をしている。

その息子が夏季休暇を利用して今夜帰国する。どうにか2週間の休みが取れた妹のモイケル娘も共に帰ってくる。 年に一度は日本へ帰国するわたしは、子供たちの仕事の合間を縫って合えるのだが、留守訳をする夫にとって、子どもたちの帰国は、しかも、親子4人が顔を揃えることになるのは、随分嬉しいことのようだ。昨日から夫の鼻歌を聞かされている(笑)

それもそうであろう、家族4人が揃うのは、数えてみたら10年ぶりになるのであった。今回は2日後には息子のフィアンセもやって来る。これにモイケル娘の連れ合いが入ったら、サントス家の新家族メンバーが揃うことになるのだが、彼は猫三匹と留守番だそうな。なんだ、我ら夫婦とすることが同じではないか(笑)

婿殿、申し訳ございません。

モイケル娘の渡日に至るについては、下記カテゴリにてどぞ。

帰国子女物語 
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2018年8月4日 

つい先週まで、涼しい涼しいと言っていたのが、8月に入るなり急に気温があがり、屋外では生ぬるい空気が澱んで、ポルトガルの自慢の真っ青な空もどこへ行ったやら、空気同様、どろ~んとしております。

今朝のポルトは午前8時台で気温25度。日中はそれを上回りますから35度くらいになる予測です。夏のポルトガルは乾燥気候なので、日本のような湿気がありません。それで、気温が高くてもクーラーなしでなんとかやり過ごせるのです。

しかし、35度を超えた昨日は、さすが厳しかった。ベランダのガラス戸を開けるとワッと熱気が押し寄せ、これは覚悟をしないと、というので、まだ30度を越えないうちに植物の水遣りを済ませ、リビングと台所を除き、部屋は全部ブラインダーを下ろして、リビングのクーラーを付けてドアは開け放し。こうすると、冷たい空気が家全体に流れます。この方法は、乾燥気候であればこそで、湿気の多い日本だと熱気が屋内にこもり大変なことになるのではないかと思います。

さて、日は少し古い話を持ち出します。
ポルトに来て40年になるわたしですが、子供達が中学校を終えるころまでは、生活の中心は彼らでした。

家で二人ほどの日本語学習者はとっていましたが、子供が学校に行っている時間帯です。また土曜日の補習校の講師の仕事の依頼が来た頃は、息子はちょうど就学年齢でいっしょに登校しましたが、我がモイケル娘はまだ1歳未満で、土曜日は夫に彼女の面倒をバトンタッチして補習校にでかけたものです。

20メートル離れた同じ通りに夫の母親がいたものの、子どもはわたしたち夫婦で育てようと思っていたもので、極力、義母に世話のお願いはしないようにしていました。

子育て期間中、したいことがなかったわけではありませんが、「それを犠牲にして」なんて気持ちは毛頭ない。わたしは子育て時代に、子育てする事によって自分自身が育てられたと言った方が適切。(笑)過言ではないです。
       
子供達の学校生活を通じて経験したことですが、日本という異文化には、みなさん多少の興味を示します。
                                    
ところがです、その母親のわたしときたら、日本にいた若い時代は目を外へ向けるばかり。少し反骨精神を持ってましたから、それを振り回して、いわゆる日本社会の常識ごときものは、伝統文化から習慣までうっちゃってしまい、「ヘッ!そんなもん」くらいに思っていたのです。
                                           
これがです、こちらでの生活が長くなっていくに連れて、このままでは、どうもいけないぞと感じるようなことが多々出てきたのです。
                                          
例えば、こんな具合のリクエストが舞い込みます。

「日本の伝統文化を紹介してもらえないか」  
(↑しょ、紹介できるもんは折り紙の鶴くらいしかおまへん^;紙風船もだまし船も本を見ないとできない・・・^^;お茶?お花?とんでもない!木彫家で我が親友のMichikoが両方とも教える免状を持って現在もお弟子さんを取っているので、話を聞いていますが、人様の前で紹介できるまで行くには、何年もの修業と多額なお金がかかるざますよ。都会での女一人暮らしの身でお月謝支払いができるわけがございませんでした)

「着物を着て結婚式に来てくれないか」         
(↑来たあぁぁ!せめて母に着付けを教えてもらって着物を受け取るんだった。着物があるにはあるが、一人で着たことがないでぇ。はい、誰も知らぬをいいことに、勝手気ままに着ていきました。後日そのときの写真を母に送りましたら、「なんという着方をしとるの!」と叱られ笑われました。
                                   
「その理由も含めて、日本はどういう新年の迎え方をするのか」
(↑これ、その当時は当然パソコンなど持っていませんでしたから、手持ちの日本文化の大雑把な説明が書いてある英語の本まで読み漁って勉強する羽目になりましたぞ。逆だっちゅうのよ^^;)
                                               
「日本人はこういうときに、なぜこのような行動をとるのか」
(↑これは、背景となる日本文化の知識がないと説明するに歯がたちません。一般論でいいますが、
「~~~だからだとわたしは思います」で結びます。逃げ道を一応つけるなんて、ずるい(笑)
                                        
リクエストでぬぬ?と思ったのには「国歌を歌って録音して欲しい。紹介したいから」というもの(笑)
伴奏なしで大きな声で歌って録音しましたです、はいw(←これはどこぞの学校の要望でした)

つまり、日本人である個人のわたしを通じて、日本、日本人を知りたい、となるのです。 いい加減なわたしも、これらには、びびって考えさせられました。海外で生活すると言うのは、勿論一般の日本人としては、非常に個人的なことなのですが、外国の人たちは個個の日本人としてよりも、その人を日本人全体の姿と見るような気がします。

ポルトガルに住むことがなかったら、わたしは相変わらず自分の国の文化に大して興味ももたず、調べもしないでいたかも知れません。日本では普段の生活でその必要性を感じる機会が少ないですから。
                              
また、こういう経験も度々ありました。
自分の国のあれも悪い、これも悪いと欠点を揚げ連らねていたのが、いざ、他国の人達が一緒になって、「そうだそうだ」と攻撃し始めると、自分が言っていたのは棚に上げて、「あんたに言われたくないわ!」と俄然腹が立ってくるのですね(笑)
       
母国の外にいて、つくづく感じます。良い所も悪い所も「オラが国」。

今日こんなことを綴ったのは、近年自分の国を公の場であしざまに言う人たちが結構いるのを毎日のようにニュースを通じて目にし、君ら、本当にそれでいいのか!と、思うところがあったからです。

ま、わたしごときが何を言おうとどうと言うことはないのでしょうが、発言の権利自由があるからとて、故意に言葉尻をとらえては、忌まわしい言葉で言いがかりをつける近頃の学歴ある人たちに、品位も感じられず、大きな失望感を味わっているのです。

これは酷暑のせいでありますように、なんまんだぁ。

本日は愚痴の類になりました。暑さゆえにとご勘弁の程を。
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2018年8月1日 

いつものようにいつもの景色の中で、この日も終わろうとする夕暮れ時。

feb1-1.jpg

わたしは何度も同じような日暮れの写真を撮っているのですが、ご勘弁あれ。

夕焼けを見ると、なぜかしら「あぁ、ほんまにきれいやなぁ。」と心惹かれ、夫に呆れられながらもデジカメに納めずにはいられない、こと夕日撮影に関しては懲りない性分です。
そしていつも口から出てくるのがこの歌です。

「ぎんぎんぎらぎら 夕日がしずむ
 ぎんぎんぎらぎら 日が沈む 
 まっかっかっか 空の雲 みんなのお顔もまっかっか
 ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ」


夕日には子供の頃の時間が紛れ込んでいる。わたしはそんな気がします。

わたしの子供時代は昭和20年代。パソコンどころかテレビもなく、塾もなく。ですから今のようにそれらに時間をむさぼられることもありませんでした。学校から帰ると、こんな夕焼けが空を染める日暮れまで、外で棒っきれを振り回し、ターザンの真似をし、下町少年探偵団ごっこをし、墓地まで行っては帰ってくる肝試しをし。

♪かぁって うれしい はないちもんめ
 まぁけて くやしい はないちもんめ

 どの子がほしい あの子がほしい あの子じゃわからん
 この子がほしい この子じゃわからん

童歌を歌いながら、望まれずに最後まで残りたくないな・・・との心配があたり、グループで
一人になったときの心細さ・・・

子供の頃に心を振り返らせる不思議な魔法の力が夕日にはあるような気がします。

よかったら、わたしの子供時代を覗いてみませんか?↓

★「思い出のバスに乗って
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