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2018年10月30日 

去る7月に夏休みに入って以来、ポルトガル語レッスンをまだ開始していませんでした。

帯状疱疹と不眠症では学習に集中できず、ディアス先生に一応お断りを入れてはあったものの、果たしてこの生徒を再び受け入れてくれるかと連絡をしてみたら、「いらっしゃい」とのご返事。

やっと、今日から始めるのですが、昨日、予習をしようと開いたページは「Rua das Flores(花通り)」について書かれてありました。現在のサンタ・カタリナ通りができる以前の昔、この通りはポルトの街の繁華街で今でも老舗が並んでおり、お気に入りのポルトガル手芸品店「Memorias」もあるので、わたしはしょっちゅう歩いてきました。

読むうちに、うわ、これだったのか!と、長年謎だったシンボルの謎が解けたのであります↓

rua-flores_simblo1.jpg

これは花通りにある現在修復中の古い屋敷、Casa dos Maias(マイア一族の家)の表壁に見られるシンボルです。(ブログ後記で案内しています)

わたしが来た当時の今から40年前から既に荒れ放題に放ったらかしされてきたのですが、屋敷は18世紀に改築され、改築にはトスカーナの建築家ニコラウ・ナゾニが関したと言われます。つまり、この屋敷はもっと昔の16世紀始めから、このシンボルとともにあったのです。

この屋敷の正面に見られるBrasão(ブラザォン=紋章)については調べて分かっているのですが、それにしても、はて?これは何のシンボルであろうか?と長年謎でした。

さて、16世紀始めにドン・マヌエル一世によって「花通り」は開通され、一帯にはサン・ドミンゴス教会、修道院が建築されました。当時のポルトの司祭は、Alpedrinha(ポルトガル中部地方の町)司祭の甥のペドロ・コスタでした。

このAlpedrinha司祭がアレキサンドリアの聖カタリナの家族と血族関係があると言われることから、ポルトの司祭は、紋章として「聖カタリナの車輪」のシンボルを使い始めました。以来、司祭にの属する建物には、この車輪のシンボルがつけられるようになったとのこと。

「車輪」は聖カタリナが拷問を受けた彼女のシンボルであり、ポルトガル語では「Roda de Navalha」と言います。

長い間「マイア一族の家」と呼ばれてきたこの屋敷は、16世紀にMartins Ferrazなる貴族の邸宅であったことから、Ferraz 家はポルトの司祭と血縁関係があるのでしょう。屋敷がマイア一族の手に渡った18世紀後も、こうして「聖カタリナの車輪」のシンボルは残ったということになります。

さすれば他の司祭の建物にもこのシンボルが見られることが考えられます。 一度、散策しながら探してみようかと思っています。

現在、「Casa dos Maias」は改築中。ホテルになるのだそうですよ。是非とも、由緒ある二つの紋章は残して欲しいものです。

 「カーザ・ドス・マイアス」 
 「サン・ドミンゴス広場の面白い文具屋さん


本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。



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2018年10月25日 

午前中、予約を入れていた私立病院の皮膚科に診察を受けに行っての帰り、夫が、ランチには少し早いけどどうする?と言う。

じゃ、改築に入ったというボリャォン市場(Mercado do Bolhão)の様子を見に行こう。その後、レストランBurracoでランチを、とわたしは提案。 夫は珍しく今日一日患者がないのだそうで、ダウンタウンは一人歩きが好きなわたしだが、仕方ない、お供に連れて行くか、てな訳で二人で行って参りました。 

Publicphone1-1.jpg

街は、夏のピーク時に比べてツーリストは減ったものの、どこを見渡しても地元の人間より、旅人の多く目につきます。ほとんどの人が地図を片手に道を確認したり、キャリーケースをガラガラ引きずったりして歩いています。かつてのポルトではあまり見られなかった光景です。

さて、ぼリャォン市場(Mercado do Bolhão)について。

まずは名前の由来です。かつてこの当たりは川が流れる広大湿地帯で、水の泡(bolha de águaができていたことから、人々が「ボリャォン(Bolhão)と呼ばれ始めました。

市のプロジェクトで1914年に、地階を入れた3階立ての後期ネオクラシックスタイルの建物を構える市場として完成しました。四つの通りに面しており、入り口も各々4箇所あります。

わたしもポルトに来た当時、路面バスに乗って時々この市場を除いたりしたものです。

Mercado do Bulhao

100年以上もの間、ダウンタウンの勤め人や多くの市民に愛されてきたブリャォン市場ですが、1990年代に入ると、老朽化が問題視され始めました。同時に、市場への便利なアクセスを図ろうと地下駐車場をつくる計画が持ち上がりました。が、ダウンタウンを貫通している地下水の問題が計画を阻み、それは立ち消えになりました。
            
老朽化による安全保障問題で市は市場内の出店に立ち退きを要求してきましたが、2000年代に入ると、店子たちを中心とする署名運動につながり、店子たちを一旦別場所に移ってもらうということで、今回の改築にこぎついたのは今年、2018年の5月です。

下は2年間の改築が進められる目隠しされた現在のホリャォン市場。

Mercado do Bulhao

これは、市が用意した古くからの店子たちを含む一時的な市場へといざなう道です。

Mercado do Bulhao

↓下は、Mercado Temporário Bolhãoto看板が掲げられてあるダウンタウンのショッピングセンター「La Vie」横の建物入り口から、当座の市場へ。

Mercado do Bulhao

古くからの出店を頑張ってきた店子たちの写真がズラリ。

Mercado do Bulhao

中は想像したより遥かに広く、意外でした。

Mercado do Bulhao

市場を一回りしてエスカレーターで上るとショッピングセンター内に出ました。そして、外には、あら、いつの間に!ポルト3軒目のスターバックスが!

Mercado do Bulhao

2020年に新装オープンするというブリャォン市場が、それはそれで楽しみでもありますが、またひとつ、古いポルトが消えるなぁ、と、40年前の市場を知っているわたしは思うのであります。

以下、わたしが知るかつてのブリャォン市場、12月の様子です。

Mercado do Bulhao

市場通りの店先にはクリスマス料理必須のご存知「Bacalhau=バカリャウ(大きな干しダラ)が並んでいます↓
Mercado do Bulhao

真ん中は「Chourico=ショリーソ」と呼ばれるソーセージの種類。右の「Pernil=ペルニル」は豚の足の燻製。
Mercado do Bulhao

懐かしい。干しいちじくにクルミの実を挟んでいます。これもポルトガル独特のクリスマスに出されるドライフルーツのひとつ。わたしは大好きで、我がお姑さんが存命中には、家でクルミを割って実を取り出し、干しイチジクにひとつひとつ挟んだものです。
Mercado do Bulhao

クルミ割りを使い、きれいに実を取り出せたときはなんだか嬉しく思え、それがクリスマス前のわたしの仕事でもありました。近頃ではこのクルミもトルコ産だとか。ドライで食べにくいのです。おいしいのはしっとりと干しあがったイチジクなのですね。そういう干しイチジクに最近はあまりお目にかからなくなりました。

本日はポルト、ブリャォン市場の今昔物語でした。

では、みなさま、また!

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2018年10月22日
 
あれもこれも、物事がなかなか思うように運ばなかったこの2ヶ月。その上に帯状疱疹も抱えてしまったもので、3週間ほど痛みで夜間眠れず、不眠症にかかっていました。一ヶ月もしてその痛み去りましたが、今はまだ疱疹の後が数箇所に残っています。

難儀していた事どもに関しても、もう返事は待ちきれない、だめだこりゃとひとつを諦めて別計画を立て直し、一応解決を見、ようやくいつもの調子が出てきたところだと言えます。

6年間、ポルトのクリスタル宮殿公園内にある市立図書館で土曜日の午前中日本語コースを開いてきましたが、何かの行事、或いは会議室として使える部屋はその一部屋しかなく、それを週に一度だけとは言え、占領してきたわけで、そろそろ一旦引き上げる時期であろうと決めたのが7月です。

ところが、2クラス併せて16人の生徒たちは勉強を続けたいと言い、さぁ、大変、それから初めてのレンタルルーム探しでした。

9月から一ヶ月ほど、知人の紹介で空手道場の一室を借りて授業をしてみたですが、1クラス12人には窮屈で、その間もあちこち部屋を探さなければなりませんでした。最低の設備とアクセスがいい条件を備えたところとなると、レンタル料も高く、これも寝付けない理由の一つになっていました。

が、やっと教室を見つけ、実は土曜日、そこで授業を開始したところでした。これで教室の問題は解決し、長年お世話になった図書館には先週お礼の図書寄付を済ましたところで、昨夜はよく眠ることができました。

物事、予定の返事がひとつ長引くことで、他事にも大きな影響をおよぼします。いっそのこと、とスパッと諦めるのも必要ですね。 spacesisさん、何をブツブツ言っとんの?と問われそうですが、実は某私立大学から日本語夕方コースの話が持ち上がり、それによって、これまでの日本語レッスンのスケジュールを全面的に見直さなければならない状態だったのです。

それがきちんと決まらないことには、他の授業も計画できず、イライラしていたのですが、後で返事が来たってもう知らんぞ!と、その話を切って先に進める事にしたというわけです。

元々この話には夫、子どもたちから、歳も考えずそれ以上仕事を増やして大丈夫なか、まして夕方から、との意見もあったのですが、できるならちょっと頑張ってみたかった!

このようないきさつで、この2ヶ月、しんどかった~~

さて、昨日土曜日は、新しい教室で初授業を終え、気分良く夫とレストランでの昼食後、しばらく前から友人たちから話に聞いてたマーケットまで足を向けてみました。チャイナマーケットなんです。

わたしはチャイナフリー(チャイナ製品を買わない)運動にしつこく一人で長年こだわってきて、日本製のものがたくさんあると聞いても、それがチャイナマーケットであれば行かないと決めてきました。しかし、今回は何気にかなんとなく覗いてみる気持ちになったのであります。 そして、そしてそこで見つけたのが、これ!!

harvest_1.jpg

大根の一本、しっぽのあたりが無いのは、恥ずかしながら撮影前に我慢しきれず大根おろしにして食べた後なのであります^^;

本当のかぼちゃ!(とはわたしの言。ポルトガルのかぼちゃはとても大きく味もおおざっぱ。たいていはスープに使う) 納豆だ!大根だ!それにそれに、長芋ではないですか!!

大根、長芋は夏に子どもたちに、半分でも良いから持ってきて~と頼んだに拘わらず、アイツらすっかり忘れてきたのでした。文句を言わず落胆感をひたすら隠して笑顔の母でありましたっけ(笑)

家の台所でこれらを並べ、うっふっふ、これって今日はわたしのハーヴェストだな、などと内心ほくそ笑んで写真を撮っていると、夫の「チャイナフリー返済だね」の一言にガーーーーン!

あそこに納豆も、バーモントカレーもあるよ、との情報を頑固に聞き流し、電化製品も極力中国製は買わず、鼻息荒く「わたしはチャイナフリーよ」と言ってきた妻をもしかした内心おもしろおかしく笑ってきたのかも知れない夫です。

長年の己の戒めも忘れて、チャイナマーケットで手に入れたこれらをホクホク喜んでいるわたしが可笑しかったのでしょう。

とうとう食い意地に負けて破戒・・・
ま、いっか。足腰元気に生きられるのも、長くてせいぜい後20年だ、食べたいものが目前にあったら、やっぱ、手が出るよね。などと自分に言い訳して、早速、昨晩は「だし汁風呂吹き大根」を作ったのですが、夫とリビングで帰国の切符の話をしていて、うっかりそれを火にかけているのを忘れ・・・・

ハッと気がついて台所に飛んでいったところが、こと既に遅し。貴重な大根を焦がしたわたしでありました。あ~あ、おバカなわたし、もったいなか~~。 しかし、ここで今日のゲットしたハーヴェストは諦められない、即、夕食用にとかぼちゃの煮物にとりかかりました。

kabocha.jpg

甘くてほっこりしたかぼちゃは亡き母の味にも通じます。煮過ぎ気味ですが、夫はもったいなくも皮を食べず残すのでちょうどよいくらい。

あぁ、秋の収穫やなぁ。幸せでした。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございました。
ではまた!



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2018年10月17日  

このところ、野暮用でパソコンに向かい文章を書く時間がなく、気付けばなんと一週間も間を開けてしまいました。訪れてくださった皆様には、お詫び申します。

野暮用については、そのうち種明かしをいたしますれば。

先週末はポルトガルをハリケーン「レスリー」が通過する、とのニュースにびっくり!ポルトガル語では「Furacão(フラカォン)」と言います。40年近くポルトに在住しますが、こんな話は聞いたことがありません。

テレビのニュースで盛んに警告するもので、飛ばされないようにベランダのハンギングバスケット植物をすべて床に置き、窓のブラインダーもしっかり下ろしてハリケーンに備え、早めに就寝でした。

珍しくその夜は熟睡したようで、目が覚めたのが6時半、あれ?と思い、娘の部屋のベランダから外を覗いて見ると、いつもと変わらぬ通りの景色が目に入りました。どうやらハリケーンは強度を弱め、ポルトガル北部をそれて、リスボンからコインブラ周辺に入り、幸いにハリケーンから嵐(tempestado)に格下げ(!!)となったものの、進路にあたったコインブラはかなりの被害を被ったようです。

furacaoleslie.jpg

イベリア半島を過去にハリケーンが襲ったのは1842年とのことですが、今年の夏の暑さにしろ、これまでなかった異常気候に加えて、ハリケーンや竜巻などのニュースを近頃はポルトガルでも耳にするので、地球の大気の流れの変化で今までなかった所でハリケーンやサイクロンが発生したりと、
気候の変化に不安を抱かせる最近の出来事です。

さて、本日は我がモイケル娘が運営するオンラインショップ「東のポルト屋」の紹介です。
これまでに何度か紹介してきましたが、今回は新しいアイテムも色々取り上げていますので、改めて紹介させてください。

https://www.facebook.com/mikeyinPorto/

porutoya.jpg

店主は相変わらず本業で多忙なようで、アイテム撮影の時間がなかなか取れないのだとこぼしていますが、Facebookサイトもありますので、ご案内いたします。

bag.jpg
コルクのショルダーバッグ

昨年同様、今年も11月に市川市で即売会をするようですので、その時はもう一度ご案内いたします。
本日は短文ながらこれにて。
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2018年10月10日

今日は自分のメモとして書きます。

「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」 

鳥羽殿とは鳥羽上皇のことで、この情景は鳥羽上皇の離宮へ急を聞きつけた5、6騎の武者が野分を駆け抜けていく様を詠んだ与謝蕪村の俳句なのですが、これを目にして、「おぉ!」と思ったのです。

と、言うのは、拙ブログで何度かとりあげてきた、「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」ですが、我が日本語生徒のアルフレッドさんと一緒に勉強し始めたのは2016年10月で、ちょうど2年になりますが、今回は時代の背景を「保元の乱」とする藤原基俊の75番歌から藤原顕輔(藤原のあきすけ)の79番歌までを5週間かけて詠み終えたところなのです。

雅やかな貴族政治から武家政治へと移る過渡期が歌の背景になるのですが、この時代に登場する白河天皇、崇徳院、近衛天皇の主だった立役者の中に鳥羽上皇は欠かせない名前です。なぜなら、この鳥羽上皇の死が、崇徳院(鳥羽院の第一子)と後白河天皇(鳥羽院の第四子)の皇位継承争いの「保元の乱」の引き金になるからです。

76番歌から79番歌の間には、保元の乱で破れ、藤原忠道によって讃岐に流された崇徳院の歌も含まれています。

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

多くの百人一首が恋を詠んだ歌だと解釈されているのですが、この歌も「別れたあの人ともいつかまた逢いたい」と現代語訳になりますが、ねずさんの解釈では、政争の濁流に押し流された二人(崇徳院と後白河天皇)の運命を象徴する歌であろうとされています。

崇徳院崩御の七百年後、明治天皇は食指を讃岐に遣わし崇徳院の御霊を京都へ帰還させたとあります。それが現在の白峰神宮だそうです。言うなれば、七百年後に崇徳院が詠んだ滝川は再びひとつの川になったということです。

我が日本語生徒で、80数歳のアルフレッドさんが、週に一度、その週の一首を共に勉強するとて、山を下りてくるのですが、この解釈本を読むことで、日本の歴史の一端にふれ、平安時代の貴族生活、文化、ひいては日本人とはどういう民族なのかを学ぶことができて、とても面白いと言います。

百人一首は恋の歌だものなぁ、などど思って、長い間、あまり見向きもしなかったのですが、こうしてねずさん(小名木善行氏)の解釈本を手にすることで、改めて日本の歴史に目を向け、思わぬ発見に出くわすことが多いこの頃です。

さて、冒頭の句にある「野分(のわき)」ですが、これは秋の暴風のことです。秋草の野を分けて、いずこへともなく去っていく強い風、つまり台風の古い呼び名です。

nowaki.jpg
Wikipediaより

今ではあまり耳にしなくなった言葉ですが、秋の野の草花が強い風に乱れ吹かれる様を思うと、こんな台風にも風情を思ったいにしえの人々の心にいたく惹かれる自分に気付かされます。

もっとも、現代の大きな被害をもたらす台風には情緒も風情もありませんが、それもある意味、現代人が片棒をかついできた結果によるのではないかと思うわたしです。

最後に、野分についてわたしが好きな一句を。

大いなるものが過ぎゆく野分かな     高浜虚子

本日もお付き合いください、ありがとうございます。
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2018年10月7日 

ポートワインが美味しくいただける季節になりました。そこで今日はポルト・ワインについてです。

ポルトガル語では Vinho do Porto(ヴィニュ・ドゥ・ポルト)、ポルトのワインという意味です。

ワイン2

あえて「ポルト・ワイン」と書いたのは、昔、日本にあった赤ポートワインとよく間違えられるからです。通でもないわたしが書くのにはためらいがあるのですが、ポルトワインなくして我が街ポルトを語ることはできません。

わたしの話は、ごく一般的な知識の域を出ないと思いますが、宜しかったら読んでください。

ポルトワインは、その歴史と格調高い風味で世界のワイン通を魅了しており、食前酒、または食後酒のデザートワインとしてたしなまれます。お値段の程はピンからキリまで。

巷のスーパーマーケットで出回っているのでは、安いのは10ユーロくらいから良いものは100ユーロまで。ヴィンテージものとなると、10万円を超え、普通のマーケットなどでは手に入りません。

葡萄はポルトに注ぎ込むドウロ川上流の葡萄畑でとれたものが使われます。それらの葡萄は、摘まれてすぐに、男性たちが歌いながら一晩中足で踏み潰すのが昔カラの慣わしでした。

もっとも昨今これは、専ら観光客用のイベントとしか行われず、現在はほとんどが機械によってつぶされるようです。
 
さて、多くの人が勘違いするのですが、ポルトワインとポルトガル産のテーブルワインは大いに違います。何が違うかと言うとポルトワインは、醗酵の途中でブランディが加えられることです。 ブランディを加えることによって醗酵が止まり、糖分がアルコールに変わらずに残り、甘くて強いお酒になるのだそうな。

その後、ポルトの対岸の町Vila Nova de Gaia市の川べりに立ち並ぶ酒蔵の樽のなかで熟成され、さらにブレンドされて瓶詰めでポルトの港から世界に出荷されて来たのです。通常のテーブルウィンが10~15度のアルコール度数に比べ、ポルトワインは20度前後です

それで食事と共に飲むテーブルワインと違い、ポルトワインは食前食後酒としてたしなまれます。

今でこそ、ドウロ川上流から陸路を使って樽ごと酒蔵に運ばれて来ますが、昔はポルト独特のBarco Rabelo(バルコ・ラベロ)という帆掛け舟で、ドウロ川を下って運ばれて来ました。

ポルトワインは5種類に分けられます。

ワインルビーポルト:
美しいルビー色で樽熟成4、5年の若いワイン。甘口。 

ワインタウニーポルト:
英語の黄褐色tawnyから名づけられた樽熟成6年以上。  

ワインヴィンテージポルト:
よい葡萄が収穫された年のぶどうのみを使って造られその年の年号がつく。
       
2年間の樽熟成の後瓶詰めされてそのまま瓶で熟成。 ラベルにはワイン会社名とともに必ず使用されている。葡萄の収穫年号と「Vintage」の表示がつく。     

ワイン レイト・ボトルド・ヴィンテージ(Late Botlled Vintage):
よい葡萄が収穫された年の一種類葡萄で造られる。 4、5年の樽熟成後瓶詰めされ、さらに瓶で熟成され、その年の年号が入る。
       
ワイン ホワイト・ポルト:
 白葡萄からつくられ食前酒として楽しまれる。他の4種類のポルト・ワインと違い、冷たく冷やして飲む。辛口。

実はこのポルトワイン、ポルトガル産物とは言うものの、上質のワインをここまで昇華させてポルトワインを世界の名だたるお酒に仕上げたのは、残念ながらポルトガル人ではなくて主にイギリス人なのですね。

わたし流に解釈すれば、ポルトワインは、本国では造ることができなかったイギリス貴族のワインであったわけです。ワイン会社の持ち主は、今では多くがイギリス人、ドイツ人などの外国人ばかりになってしまい、現在、所有者がポルトガル人だというのは、わたしが知る限りでは「Ferreira社」でしょうか。軒を貸して母屋を取られるとは、言ったものです。欲も機転もあまりないポルトガル人は、その甘い汁を持っていかれてしまったと言うことでしょうか。

ポルトガル人にしてみれば、「甘いけれども苦いポルトワインである」とわたしは密かに思っているのです。
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2018年10月3日 

一昨日、10月1日月曜日は夕方の日本語をキャンセルして、長崎市からの招待で、長崎ポルト姉妹都市40周年記念行事の「広島長崎原爆展」のオープニングセレモニーへ出かけてきました。

ポルト市庁舎内で行われましたが、8年前のポルト・Japan Weekを思いだしました。あの頃はほぼ1年間の準備で市との打ち合わせで、Oちゃんとしょっちゅう市庁舎に出入りし、時には国際課の担当者と一緒に翻訳の確認で夜まで及んだこともありました。

japanweek1.jpg

我ながらよくやったものだと、今振り返って思います。相棒にOちゃんを引き込んだこと、まだ63歳で体力の無さをカバーする気力があったこと、市の国際課の担当者たちとの関係がうまく行ったことなどが、一週間に及ぶ日本文化紹介の大イベントをなんとか終わらせることができたと思っています。

あのイベントが無かったら、わたしはポルトガルにいながら、永遠にポルトガル語から逃げていたかも知れません。恥もかきましたが、したたかになることも時には必要なのだということも学んだ気がします。

ポルトガルに40年ほども住んでいるので、したたかでしょう、と思われがちですが、意外と気弱でアカンタレなところがあるのです。と言ったところで信じてもらえないかも知れないな(笑)

5時半から始まったオープニングセレモニーで、田上長崎市長のスピーチで始まりました↓
Quinta de Sao Roque

下はRui Moreiraポルト市長のスピーチです。

キンタ・デ・サンチアゴ

この後、在ポルトガル大使のご挨拶が終わって、階下の広島長崎原爆展会場へ流れます。

4_1.jpg

オープニングセレモニーでは普通ポルトワインと軽食が出されます。この間、会場で10年ぶりに田上長崎市長に声をかけていただきました。

6-1.jpg

2009年の姉妹都市締結30周年記念で、ポルトの街の案内をボランティアで手伝って以来ですが、あのときの夕食会では、旧ポルト市長、それに田上市長も飛び入りで、3人一緒に「無縁坂」を歌い、大いに盛り上がったのでした。下記記事にあります。
ポルトぶらぶら歩き 

「あの時は楽しい夕食会だった」と市長さんは語り、しばし、思い出話に花を咲かせました。次は5年後の45周年記念があります。そして、10年後は50周年記念です。その時は、是非またお会いしましょう、とおっしゃる市長に、「あの、あと5年は大丈夫でしょうが、10年後となると市長さん、わたしは81ですぞ!生きてるかしら!」(爆笑)

田上市長がおっしゃるには、「わたしもその頃はもう市長はしていません、が、一般市民としてきますよ」とのこと。
約1時間ほどで終わったセレモニー、お別れ際に、「それではまた10年後にお会いしましょう!」と約束したのでしたが、う~む、それまで頑張って生きないと!いやいや、ただ生きているだけではあきまへん。足腰しっかりした80歳で、再びお目にかかりたいものです。

わたしのポルト在住年数と、長崎ポルトの姉妹都市締結年数は1年だけ差し引いて、ほぼ同じ、50周年記念はわたしのポルト在住50年と重なるのです。もし、生きていれば、の話ですがね^^

nagasaki1-1.jpg

市庁舎正面入り口を出ると、アリアードス通りに日が暮れようとしていました。
原爆展は11月いっぱいですので、近場の方、是非、市庁舎を訪れてみてください。

本日はこれにて。

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2018年10月1日 

ようやく夏が終わったところで、日本語授業のキャンセルが朝のうちに入って自由になった先週のとある午前中、久しぶりに車を飛ばしてボアヴィスタ区域の市の公園(Parque da Cidade)を1時間少し散歩して軽く汗をかいてきました。

21-1.jpg

83ヘクタールの公園散歩道は約10キロあります。

Parquedacidade

週日午前中は園内を散歩する人も少なく、周囲の景色を見渡しながら日なた、日陰をのんびり歩けます。

Parquedacidade
切り株から芽がでています。

Parquedacidade
園内では、所々にこんな石を利用した休みどころも。

Parquedacidade
ぶどう棚の道

Parquedacidade

Parquedacidade

秋の気配。赤く染まった木の葉を一枚、拾って来ました。

Parquedacidade


10月の始まりです。
では、本日はこれにて。
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