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2019年4月29日

我が子たちへの海外に於ける日本語英語教育は、35年も昔のことですから、社会の状況も変わり、そんなに興味の湧かない話であるかも知れません。

幼児、小学校低学年向けの、英語教育教材も、ひらがなカタカナ漢字、さらには計算習得の教材は、現在では数多くあって、どれを選べばいいのか選択にとまどうほどでしょう。

ポルトガルにいたわたしの場合は、それらが手に入らなかったので手元にあるもので間に合わせ、後は「自分がアレンジして作成する」のみです。

British Schoolは当時はまだ5歳児のPrep(5歳児の小学校準備クラス)しかありませんでしたので、息子が4歳になると、当時はポルトにただ一校あった私立のイギリス・キンダーガーデンに一年間午前中のみ通わせました。

今とは交通の便が違います。朝のラッシュ時は恐ろしいもの!
今だと自動車道路を走らせて20分ほどで行ける海の近くのその幼稚園でしが、当時はそれがありません。朝、交通停滞がひどい街中を走るわけですから、車でゆうに1時間はかかったのでした^^;

その頃のわたしは車の運転ができなかったので、朝の送りは夫の仕事です。帰りはというと、運良く斜め向かいに住んでいた、夫と同じ病院で働くFalcão=ファルカォン夫妻が一人息子をBritish SchoolのPrep(5歳児クラス)に入れており、終わる時間が同じなので、1年間ずっとこの迎えをしてくれました。

こういうこと、つまり、「ついでだから」を、ポルトガルの人は嫌がらずによくしてくれます。

息子を送り出した後は、午前中時間ができました。
夫の母、ふたりの年取ったおばさん、それに我ら3人家族が同居していた当時の家は、週に2度、広くもない家にお手伝いさんが来て掃除をして行きます。夫の母を始め同居のおばさんたちも一緒に掃除で動き回りますから、小さな家はいつもピッカピカ!

わたしの役目はと言うと、どうやらあまり手を出さないほうがいいらしい(笑)というわけで、 さよう、時間だけはたっぷりあったのでした。

息子がいないその午前中たっぷりの時間を使って、わたしは教材作りに励みました。それがまた、楽しいのです。

ご覧あれ、この写真(笑)!

kikoku1-note_1.jpg
1ページ1ページ、鉛筆の手描きですぞ(笑)

で、中身はこれ、この通りw 

kikoku2-note_1.jpg

何冊もある35年前のノートの一部。車庫から引っ張り出して来ましたw

オリジナルの学習ノートに子供がそのまま書き入れると、一回使って終わりです。
日本から取寄せるのもなかなか大変でしたし、コピーするにもコピー代が当時はべらぼうに高かった時代、とてもそんなことはできません。

入手したオリジナルの絵を写し、マスを書き、クレヨンで色付けします。このようにして、日本語も英語もオリジナルの絵を見て物の名前を覚え、ひらがなで書き込めるように、毎日2ページほどを、手描きで写しました。

読みは3歳で、先日紹介した英語の真っ赤な文字から入って、4歳にはこんな風に日本語の生活に密着する言葉の、「見ながら書きながら覚える」を導入。これをたゆみなく続け、5歳では、足し算を始めました。

覚えてもらうのにかける時間は「ゆ~~~っくりと」
そして、決してイライラなどして怒らないこと。

何度も何度も同じことを繰り返し手描きし、子供と一緒に必ず机に向かって座り、時間は長くてせいぜい15分!
褒めますと喜びますから、「もっとしたい!」と言い出します。

でも、ここがコツ!「今日の分はこれで終わりよ。また明日^^」

夫が仕事から帰宅しますと、今日はこんな文字を覚えた、とわたしたちの話は盛り上がります。こうして少しずつ夫の日本語の域を子供は超えて行くのでありました^^

世の中、便利になりグローバル化して、海外にいながらにして日本のテレビを見ることができ、欲しいものもたいていは日本から取寄せがきく現在、こんなことに自分の時間をつぶすなど、ちょっと考えられないかもしれませんね。

子育てから開放されてもっと自分の時間が持ちたい、自分の好きなことがしたい、という母親の話はよく耳にします。わたしも、これやってみたいあれやってみたい、こんな勉強したい、できれば大学にも行きたい、と語れる夢や希望はたくさんありましたし、今もあります。

しかし、あの頃のわたしは、子供の手描き教材作りに、自分の幸せを感じていたのでした。

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2019年4月28日 

日本から客がある時、リスボン、シントラ、トマールなどへと、あまり遠出が出来ないときに夫とわたしが案内するスポットに、アベイロ市から少し離れたCosta Nova(コスタ・ノヴァ)があります。ポルトから車で1時間少しで行けます。拙ブログでも既に紹介していますが、海沿いに縞々の家並みがあってなかなかに面白い町なのです。

気がつけば最後に行ったのは妹夫婦がポルトガルに来た時で、5年も前になります。

某会員雑誌で今回はそこを書くことになり、そこで、改めて取材に行ったのが先週末。幸い天気に恵まれ、昼食も兼ねてのコスタ・ノヴァでしたが、来る前にちょっと立ち寄ったアベイロ同様、いやいや、もう人が多くて、写真撮影が思うようにできませんでした。

通る人通る人、そこここの縞々の家の前に立ち止まり記念写真を撮るもので、場所が空いたその隙にとカメラを向けるのですが、近頃ではそんな撮影者に気を配る人も少なくなりました。早朝に来るべきであったと後悔しました。

さて、その中で、さすがのわたしも頭に血がのぼりそうになった記念写真家族に出会ったので、一言書いておきたい。

コスタ・ノヴァにはヨットスクールがあるのですが、そのクラブの会員たちが利用するちっちゃな小屋もどきのカフェも縞々で、可愛いのです。それで、是非ともその写真をと思ってカメラを向けようとしたところへ、小屋の前で写真を撮ろうと立った一組の若いカップルが、先に場所を取りました。

男性は20代後半、女性は20歳いくかいかないか。写真を撮るのは、若い二人の女性の両親かと思われました。
別にいいんですよ、割り込んできても。こちらは、なんらかの特別の撮影許可をもらって占領しているわけではないですから。

ところがです、これがなかなか終わらない。ほとんど抱き合わんばかりにポーズを取った二人を父親がカメラで写したのを逐一確認しては、何回もやり直しです。若い女性が、それをするのですが、その間、男性がちょっとその場を動いてくれたら、わたしはすばやくシャッターをきって終われるのに、彼はず~っと小屋の前から動かないのです。

そうやって同じポーズの写真を撮ること、30分ばかり。ポルトガルのみならず、ヨーロッパのあちこちの観光地へ行きましたが、こんなのに遭ったのは初めてです。

何を撮っとんねん?何が気に食わんねん?男はどうして動かんねん!

暑い日差しの中、待ってるわたしは段々イライラしてき、もうええわ、と彼らがカメラアングルに入らないように、数軒並ぶ小屋のうちの3軒を写して終わりにしたのですが、半時間過ぎてもまだ同じポーズを、父親に撮らせておる。お父さん、写真撮れないんじゃないの?わたしに貸しぃ。撮ったるがな!と、内心ボロクソに呟いてたわたしでした。

わたしが、そこそこの写真を撮ってその場を立ち去ろうとしたとき、別のグループがワッとやってきて、撮影にダ出ししまくっていた若いカップルのすぐ横に立って(父親が撮る写真のアングルにそのグループが入ること間違いない近距離だw)、その場をにぎやかにしてましたっけ。

くだんの家族はポルトガル人ではありません。どこの国から来たのか知りませんが、人が多く訪れる観光地で2、3回の取り直しはいいけれど、何十分もとはして欲しくないものです。

縞々の小屋があるのは可愛い通りの始まりのところです。その後のたくさんの家の前であのバカップルはポーズを取って、何回も写真を撮り直すのかと思っただけで、人事ながらどっと疲れたのでありました。

大人の両親はなんで一言、「待っている人もいるから、もういい加減にしぃ」と言わんねん!

で、わたしが撮ってきた写真はこれです。チョッ、もうちょっと何とかしたかったのに。

costanova2019_1.jpg

コスタ・ノヴァの過去記事はこちらです。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1470.html

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2019年4月25日 

今日は「Vinte-cinco de Abril(ヴィンテスィンコ・デ・アブリル=4月25日))で、休日です。ポルトガル人にとって特別の日です。

4gatu25nichi

別名を「カーネーション革命(Revolução dos Cravos=Cravosはカーネーションのこと)」とするこの無血革命は、1974年にヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた軍事クーデターです。わたしがポルトに来たのは1979年の春でしたから、ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してまだたった5年しか経っていなかったことになります。

当時のポルトを振り返れば、町全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」との索莫とした思いを抱いたのが正直なところです。
近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は後にわたしの愛犬になるというオチがあるのですが(笑)

数年前に日本からやってきた甥をコインブラ大学に案内した際、昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地に並ぶ下宿屋通りを散策しました。その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔の青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 「Zeca Afonso、大学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。

4gatu25nichi

本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下運動のシンボルとなって行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりしますが、この間、共産党入党に招待されているが、断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Grandla ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandla 」の歌を選んだと言われます。
  
註:Grândla =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っている。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

Abril25 - Copy

4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り=息子のアパートがかつてあったこところ)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルとなったと言う訳です。

25deAbril.jpg

Zecaは1983年、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り真っ赤な旗で覆われました。

grandla.jpg

享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今、空気のごとく全身で吸っているのですが、ポルトガルがわずか40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、今日ではそれは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことを想像してみることはできます。

ポルトガルのカーネーション革命は、サラザール独裁政権からの民主主義無血革命であり、現在ポルトガルは中道左派政権の国ですが、ポルトガルの王位請求者は、ポルトガル王家の末裔ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサ公です。

歴史を紐解けば、フランス革命、ロシア革命、チャイナの文化大革命は急進左派による代表的な革命ですが、それらの共通点は、革命後、王族、反対派を処刑し(チャイナの場合はラストエンペラーに対する余りにも非人間的な扱いを処刑に同ずるとわたしは思うので、敢えてこのままにする)恐怖独裁政治を敷き、結局は民衆を自由にしなかった点だと思います。

昨今の日本を見ていると、自由を誤解釈している人達が多いように思われます。しかも、それが高学歴の人に多いのは、とても残念なことです。特に、言論の自由にあたっては、発した言葉に責任が伴うはずです。無責任に、勝手な憶測で発言を垂れ流すのは危険を呼びます。

ヘイトスピーチ、人権侵害を盾にする人達が、逆にそれに陥っていることの矛盾に気付かないのはおかしな事です。「目的達成のためにはどんな手段も選ばない」と公言する人たちは、それが彼らの反対する「戦争」をも含むということを忘れています。

真に自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い起こすために、その自由を失わないために、わたしたちの真の敵はどこに潜んでいるのか、どうしたらその侵略を防ぐことができるのかを過去から学ぶために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

今日は、ポルトガルの4月25日の革命記念に関する過去記事を機に、現在の日本が置かれる状況を知れば知るほど、昨今の日本のあまりの無防備さに焦りつつ、末文に幾行か書き足さずにおられませんでした。

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ではまた。
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2019年4月22日

今でこそ日本国外にいてもインターネットを通じて母国日本のニュースを読むことができ、語学もその気になればネットサイトである程度習得できます。

わが子の日本語教育にしても、幾つかのキーワードを打ち込んで検索すると、逸れようのサイトがわんさとひっかかってくることでしょう。後は少々高くつくかもしれませんが、お金を払って教材を取り寄せる。しかし、1980年代初期の息子の幼児期にはそれがまだできませんでした。パソコンなどの言葉もなかったころです。自分でやるっきゃないのでした。

OLとビアハウスの歌姫バイトで数年かけて貯めた貯金は、ポルトに嫁いで来た時には、アメリカはアリゾナ州ツーソンの大学の語学コースと生活費、そして、ポルトまでの飛行機の足代で、全て使い果たしてしまったのでした。

夫がもっと早くに決断してプロポーズしてくれてたら、渡米せずに終わり、この貯金、当時のポルトガルでは、少し価値があったのに 長年のわたしの夢を中断させてまでして、言葉も習慣も全く違う日本娘を、あの頃のポルトガルに連れて来る勇気が夫には最初の頃なかったようでありました。

そんなんでしたから、ポルトに来るときには嫁入り道具どころか、提げる「鍋釜」もなかったんであります。そういう状況で我が子に、ポルトでピカ一授業料が高い「英国式の教育」をと言う、げに恐ろしき志を持った母ではありました。しかし、ヒントはありました。

「子供にどのような手立てで日本語を、英語を教えるか」をわたしは知人を通して、当時イギリスからとある資料を取寄せたのでした。

その資料とは、「How to teach your baby to read」のようなタイトルであったと思います。これは今でも車庫の中のどこかに他の本たちと一緒に眠っているはずです。

この本は英語圏の幼児に言葉を覚えてもらうためのガイドブックで、なぜ、幼児期がいいのか、そして、とられているその方法が効をなすであろう理由が説明されてありました。

本と一緒に、50枚くらいの薄いカードが入っていました。 
背景が真っ白な用紙に、真っ赤な色で、とても大きな字で単語が書かれていました。こんな感じです↓

doman-reading-booklet.jpg

最初のカードは mummy   daddy
たて20cm横80cmくらいは、あったでしょうか、びっくりするくらいの大きな字でした。白の背景に赤文字ですから、インパクトがある。今で言うフラッシュカード方式です。

この大きなカードを、日に何度かちょっとした機会を見ては、3歳の息子の前に、両手で広げて、「mummy」と言って見せます。

始めは、ポカンとしていた息子が、ゲームとでも思ったのか、やがてわたしが「マミー」と言い出す前に、彼の口から「マミー!」と出るようになり、こうして始まったreading、以後、覚える言葉はドンドン増えて行きます。カードのサイズは、読める単語が増えていくうちに、少しずつ小さくなって行きます。

こうして、3歳の息子が読める単語の数が増えていくのが、わたしは嬉しくてたまりませんでした。

今回、あらためてその本をネット検索してみましたが、多分これではなかったかと思います。

howteach.jpg

この本は、Glenn Doman方式と言うのだそうです。実はこの方式を初期の日本語学習者がひらがなを学ぶときに、教室で今でもわたしは大人相手に使っているのです。
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2019年4月20日 

イースターで日本語教室は久しぶりに土曜日が休みでした。そこで、雑誌記事の取材に朝から夫と車で出かけてきたのですが、アベイロに向かう高速道路では、今年もこんな光景が見られました。

aveiro_cegonha.jpg

走車内から慌てて撮りましたゆえ画像が悪いのはご勘弁あれ。

高速道路横の鉄塔のところどころにあるのはコウノトリの巣です。以前はこういうところにたくさん作っていたのですが↓

cegonha2.jpg

巣による色々な支障が起きるのを防ぐため、人の手で横の鉄塔に移されたのだそうです。そのためか、巣の数はこれまでと比べてグンと少なくなったように思います。

さて、取材目的地途中にあたるアベイロに寄り道してみました。

イースター休みを利用して、スペインからの観光客がわんさと押しかけて、小さな町アベイルの運河沿いは、人人人。

aveiro-3.jpg

アベイロの有名なゴンドラこと「モリセイロ」の乗り場は順番を待つ列が出来ていました。6、7年前には見られなかった光景です。モリセイロについては後記で案内いたします。

aveiro_3.jpg
運河にかかる小さな橋の上にも人がいっぱいです。

アベイロと言えば、oves molesという卵の黄身をふんだんに使ったお菓子が有名で、運河沿いのカフェで食べることができますが、今は通りにこんなキオスクもでています。

aveiro_5.jpg

oves molesについての詳しい記事はこちら。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-495.html

アベイロのゴンドラ、モリセイロについてはこちらで。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1011.html

本日は、みなさまこれにて。

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2019年4月19日 

夫に頼らず、生活上独立行動がしたいと思うなら、ポルトガルでは車が運転できることが必須条件だと気付いたのは、ポルトに来て間もなくです。

当時31歳のわたしは運転ができなかったのですから、食材の買い出し、子どもたちの学校送迎を始め、外での用を足すのに、全て車が運転できる夫に頼らずを得ない日々でした。ポルトは、日本のように徒歩で買い出しができるような環境では、まだなかったのです。

夫の母が家計の切り盛りをしていましたので財布も握られず、大阪時代には自分で生活のやりくりをしていたわたしにとり、一人で何もできないような自分が当初は情けなく思われて、かなり気落ちしたものです。

日本とのカルチュアショック大きく、ここで生きて行けるかなぁとの思いが何度も頭をかすめました。今だから言えるんですが、夫の家族との6年間の同居のあの頃がわたしの大きな試練でもあったようです。

都会での自由気ままな一人暮らしでは、オフィスを除いては、あまり我慢することもなく好きなように生きてきたのですから、最初の6年間は正直言ってかなりきつかったんですが、忍耐力を学んだように思います。そして、その学習を通して「人生、少しは楽観的に生きなあかんで」との考え方にいたりました。

そんなんで、いつまでも夫におんぶにだっこはあかんと、車の免許を取る決心をしたのは40歳近くになって、息子を連れて数ヶ月帰国したときでした。

アサヒビアハウス時代の先輩、堺の宝木嬢宅に滞在し、息子が幼稚園に行っている間に、自動車学校へ通ったのですが、ようやっと試験にパスして免許をゲット、その後は一度も日本で運転することもなく、ポルトに帰ってきました。

ポルトガル人の運転が荒いのは、とみに知られているのですが、そんな中、恐る恐るしていた運転も35年なり。日本語は家での個人レッスンだけでなく外でも教えるので、車はどうしても必要です。そんなわけで、最初の車は夫のおさがりから始まって、これまでに6台くらい車は替えてきました。

10年間乗ってきた我が愛車SEATは、これが自分が乗る最期の車だろうと思ってきたのですが、しばらく前から夫が、色々勧めるのですよ。仕事をまだ続けるんだったら車を買い替えたほうがいいよって・・・

減税の対象だし、トヨタのハイブリットはどうだって言うのです(
いらんいらん、そんなの、わたしにはもったいないよ。第一、わたしはオートマを運転したことがなく、ずっと手動運転をしてきて、それを楽しんでいるんです。この歳になって、これまでと運転方法を変えるなんて、却って危ないではないですか。夫め、自分がハイブリットを運転したいんだろが・・・

そんなこんなで、「安いのでいい。手動がいい!」とやっとこさ買ってもらった新車。ところが10年間乗り回してすっかり肌になじんだ(笑)前車と違い、色々新しいシステムが付いているのですね。もう、うっとおしいったらありません。

せっかくの3日間の休日が、新車の運転練習にあてられ、助手席の夫に、「ほれ、あれだ、ほら、これだ」と、運転中に色々言われるもので、ちっとも楽しくありません

おまけに新車は前の車より多少大きいので、近々、どっかに擦り傷をつけるの、違いありませんです^^;
ほんと、疲れた・・・ おしまい。
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2019年4月18日 

ポルトガルは聖木曜日の今日から日曜日(ところによっては月曜日)まで復活祭休暇になります。よって、我が土曜日の日本語教室も今週は休講です。

本当は授業を希望する生徒がほとんどだったのでするつもりでしたが、夫に「反対だ!復活祭くらい休め。」と異論を唱えられ、やる気まんまんだったのが、「ちょっ、仕方ないか」、てなわけで、久しぶりに金土日の3日間の休憩です。

もう増やさないと決めていた個人授業を、止む無い事情で引き受けるに至り、そればかりではないのですが、このところ、忙しすぎるんではない?と自問しています。

しかし、授業がなければないで、なぜか何をするでもなく、家の中をウロウロしている自分に気がついては苦笑。わたしにとっての休憩は退職がない「台所に立たなくて済む」一日ってことになるのですが、この3日間の休み、そうもいきますまい(笑)

さて、復活祭に乗じて、今日はポルトガルでこの時期によく見かけられる「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキについてです。

日本語の外来語には多くのポルトガル語が見られます。カルタ、メリヤス、ボタン、コップ、パン、カッパ、キャラメル、テンプラ、ビロード、タバコ、金平糖と身近にある言葉でもこんなにたくさん挙げることができます。

この中には、語源から離れてほとんど日本語として一人歩きし定着したものもあります。例えばメリヤスがそうです。メリヤスはmeiasが語源でmeia=靴下の複数です。当時の靴下のポルトガル語がそのままメリヤスという生地名になったのでしょうか。

テンプラは日本では揚げ物を意味しますが、ポルトガル語のtemperarは、肉をやいたり、魚を料理したりするときに、塩、胡椒、レモンなどで「下ごしらえをする」という意味です。

少し面白いところですと、京都の花街「先斗町=ぽんとちょう」はどうでしょう。この名の由来の説は、オランダ語、ポルトガル語、英語が語源だと別れていますが、ポルトガル語のponto(=地点、終わり)が有力説だそうです。

厚かましくわたしの説を述べますと、もしかしてポルトガル語の「ponte」(=橋)」は関係ないか?です。

先斗町の側あたりは高瀬川が流れており、三條小橋 、 大黒橋 、材木橋を始め小さな橋がたくさんかかっています。橋がたくさんある花街で「ポント町」、という意味も考えられるのではないでしょうか。

本題です。
南蛮菓子の「カステラ」がポルトガルから伝わったということは、あまねく知られるところです。フランシスコ・ザビエルを代表とするスペイン、ポルトガルの宣教師たちが日本にもたらしたと言われます。ところが、「カステラ」というお菓子、ケーキはポルトガルにないのです。こはいかに?

ポルトガル語にあるcastelaは強いて言えば、ポルトガルが独立する以前のイベリア半島北部、今のスペインにあったカスティーリャ王国castelaを指します。カスティーリャ王国は、キリスト教徒によるレコンキスタ運動、つまり、イベリア半島をアラブ人からキリスト教徒の手に奪回する戦いを推し進める主導国であり、後のスペイン国の中心になりました。

子どもたちが小さい頃、家族旅行で、アルタミラ洞窟画を見るために、スペイン北部にあるカンタブリア海に面したサンタンデールへ行く途中で、カスティーリャ地方を通ったことがあります。

その時に一泊した小さな町の店先で見かけたケーキが、色は濃い黄色だったものの、形も長崎のカステラそっくりでした。その地方の名前からして、もしかしたら、これが日本でいうカステラの出所ではないか?と思ったものです。

歴史を紐解けば、かつてはイベリア半島の南半分はイスラム教徒に支配されていました。ポルトガルも北部のギマラインスやポルトを中心とする「portucalense=ポルトカレンス」と呼ばれる伯爵領土にすぎない時代でした。

ポルトカレンスの貴族たちが、隣接する大国のレオン王国やカスティーリャ王国の姫君たちと政略結婚しないはずはありません。
カスティーリャ王国のお姫様がポルトカレンスに嫁いで来たときに、きっと料理やお菓子も一緒に持ち込んだことでしょう。カスティーリャのパン、pão de Castelaがやがて庶民の間の浸透し、形を変えて「パン・デ・ロ」のポルトガルのお菓子になり、定着した、という説。

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わたしが好きな日本のカステラによく似た、ポルトガル、アロウカ地方のパォン・デ・ロ

もうひとつの説は、日本に浸透しているものと形は違いますが、16世紀にポルトガル北部の修道院を発祥の地とする「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキです。

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パォン・デ・ロ。真ん中に穴が開いている。直径26cm、高さ6cm。直径40cmのも中にはある。

「パォン」はパン、「ロ」は柔らかい絹織物のことで、焼き上がりのふわふわした感じを薄い絹の布地に例えて名づけられたと言います。パォン・デ・ロは小麦粉と砂糖、卵のみで作られますが、日本人にこのケーキの作り方を教えるときに、「卵白をお城のように高く十分に泡立てる」という意味で使った「encastelar(エンカステラール)」が語源に因む説が有力です。

もうひとつ、発祥がドイツ人の”Ló”という菓子屋が作ったという説です。

Lóという名前は、旧約聖書にも見られる名前「ロト」のドイツ語、ポルトガル語です。 ソドムとゴモラの町を神が滅ぼすときに、信心深いロトの家族に町をでるように、そして、決して後ろをふりむいてはならぬと伝えますが、ロトの妻は見たい欲望に逆らいきれず、とうとう後ろを振り向いたところが、一瞬にして塩の柱になったという有名な話がロトの物語です。

ドイツ系の貴族家系、ハプススブルグ家は16世紀には、強大な勢力を誇り、スペインを含むヨーロッパを手中に収め、皇帝の家系になりました。16世紀、ハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝、カール5世は、スペイン国王カルロス1世です。「ドイツのロト」が作ったケーキは、ハプスブルグ家とともにスペインへ、ポルトガルへと渡ったといいうのはどうでしょう。

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17世紀の女流画家、ジョゼファ・デ・オビドスによって描かれた絵の中に四角いカステラが見られる。

パォン・デ・ロ(pão de ló)は、かつては貴族や裕福な宗教関係者が口にし、庶民はイースターやクリスマスにのみ食べた贅沢なお菓子でしたが、現在では多種多様、大衆的なケーキになり、年中ケーキ屋の店先でみられます。

また、ポルトのダウンタウンにはパォン・デ・ロ専門の老舗「Casa de Ló(カーザ・デ・ロ)」がありますが、そこでは年お茶、赤ワインとともにで店内でそれを食べることもできます。
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黄金の国ジパングを目指し、2年半の大航海を経て日本に渡来、秀吉も献上されたものを大いに喜んだとされるカステラ。ポルトガルからアフリカ、アジアへと通じた航路は、シルクロードを倣えば、さしずめ「カステラロード」と呼ぶことができますね。カステラロード航路に入る東南アジアでも、日本のカステラのようなパォン・デ・ロ(pão de ló)の変化したものが見られるような気がします。
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2019年4月15日

人口約22万(2016年)のポルトには、わたしが来た40年前の1980年代と比べてど大きな違いが幾つかある。40年も経てば、人も変わるし都市も変わります。

eletrico
ポルトの街を縫うエレトリコこと路面電車

現在ではポルトも周辺の11市を併せてGrand Porto、つまりポルト都市圏と呼ばれるようになりました。11市というのは、ポルトを始め、Vila Nova de Gaia, Matosinhos, Maia, Espinho, Gondomar, Póvoa de Verzim, Trofa, Santo Tirso, Valongo, Vila de Condeで、この都市圏での人口は約160万人と言われます。

かつての商店街は土曜日の午後と日曜日祝日はどこもかしこも閉まっていました。本当に一軒も開いてるところはありませんでした。7、8月ともなるとあちこちの店も2週間から一ヶ月の夏季休暇に入り閉店であります。

スーパーマーケットもほとんどなかったので、食品の買い出しは、各曜日ごとにどこかで開かれる「火曜市」とか「水曜市」で買い物をするのである。ポルトガル語ではこの手の市をFeira(フェイラ)と言います。

この「市」がわたしは苦手でした。なぜかと言うと、スーパーマーケットと違い、ほとんどの売り物に値段が示されていないのです。よって、交渉して買うことになるのですが、値切った経験などないわたしは、なぜかは知らねど、恥ずかしくて、とてもできることではなかったのです。それは今に至っても同様。どんな所どんな時でも書かれてある、あるいは言われた値段を値切ることはしません。

そんなわけで、市での食品買い出しはもっぱら同居していた夫の母や叔母たちに任せたきりでした。とは言うものの、本当を言えば義母の台所であるからして、わたしは極力手を出さないように心がけたのではあります。。昔から言うではないですか、一つ屋根の下に主婦は二人は要らない、とね。二人いるととかく問題が起こるのであるからして(笑)

それが、1986年、ポルトガルがEC(European Community。現在のEUの前身)に加入した頃から、あれよあれよと言う間に、市内にはファッショナブルなショッピングセンターが数箇所お目見えし、そのうち、地階にハイパーマーケットを構えて上階はファッションショップとファーストフードショップがズラリと立ち並ぶ外資系の大手のショッピングセンターが、郊外に現れ始めました。

映画も、それまではダウンタウンの映画館に行っていたのが、このショッピングセンターへ行くと、映画館ならず、「映画室」が10室近くあり、自分の観たい映画を上映する部屋に入るという具合になりました。

これらの大手のショッピングセンターは、土日祝日でも開いていて、この小さな街の市内郊外に、知っているのだけでも9軒はあります。そのうち更にスペインのデパート「El Corte Englês」がオープンされました。

ヨーロッパ共同体はご存知のように国境がなくなり、物質流通は自由。世界中のブランド品が、お金さえあれば、ポルトでいながらにして手に入れることができる時代になったのす。

中身の程は知りませんが、ポルトガルも都市を見る限りは、生活は80年代に比べると随分便利に、そして豊かになったように見える。

しかし、人間とは不思議な生き物です。これまで手間暇かかってきた事物が改善され、便利になった途端に、自由な時間を楽しむどころか、更に輪をかけて、己を忙しい生活に追い込むようです。

ですから、わたしがこれから述べて行く、我が子たちの「日本語教育」法は、もしかしたら、多忙な現代の方たちには、さっぱり役立たないかも知れませんが、何かのヒントになれば嬉しいと思います。

ポルトガルに来た当時のわたしは、少し英語が理解できるくらい。ポルトガル語の理解力は皆無でした。今のようにポルト大学での外国人向け・ポルトガル語コースもなく、市内にある語学学校でのポルトガル語コースは個人レッスンのみで、企業関係の奥方じゃあるまいし、とても個人で払えるような授業料ではありませんでした。

これがわたしの状況でしたから、仕事など探すにも探しようもなく、舞い込んでくるはずもなし。息子が生まれた時、仕事もお金もなかったけれど、「時間」だけはイヤというほどたっぷりあったのでした。

日本にいたときは手にしたことがなかったレース編み、毛糸編みの針を持ち、ひたすら本とにらめっこして、編み物に挑戦したのはそれゆえです。当時のポルトガル女性は家で時間をみては編み物をせっせとしていましたし、どこへ出かけるにも編み物はバッグの中に忍び込ませ、バスの中、病院での順番が来るまでの待ち時間に、編み物をする女性の姿が見られるのは普通でした。

ですから、同居していた義母も夫の叔母もその通りで、教えを請えばよいものを、わたしはそれをせず、独学の方法を採ったのです。可愛くない嫁ではありましたね。けれど、最初は不ぞろいだった網目も、何枚も作っていくうちに目が揃い、テーブル用、ベッドカバーなどの大きなものができるようになり、果ては、子どもたちが幼児期に来たセーターのほとんどは、わたしの手編みになるというところまで、腕をあげました。

このような環境にいたことをお含みいただき、さて、今日の本題に。

息子の学校の選択については、「やりくりして、なんとか頑張ってみよう」と、最終的には夫が折れ、Oporto British School のPrep(プレップ。小学1年への準備幼稚園クラス)に送ろうということになりました。わたしはこの時、夫をいかに説得するかの方法を発見したのであります。うふふ。

以後、かなり難しいことでも、夫はいつの間にか、こちらの陣地に引きずりこまれてウンと言わざるを得なくなるというこの方法は、娘の日本行きにも効をなしたと思います。

ということで、いよいよ次回は、どのようにして、息子と二人三脚、日本語英語を仕入れていったかを綴ります。

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2019年4月11日

今では大人になった長子、息子の教育問題は、のほほん者のわたしでも、少し悩みましたw 前回述べましたように、ポルトガルの公私立には入れない、日本人学校、補習校はなし、の環境です。では、他にどんな教育施設があったかと言いますと、まず、

①フレンチスクール(←こりゃ全くだめ。夫は少々分かるようだが、わたしは皆目分からん。ポルトの土産物店で、わたしが抱えてる品物をフランス人と思し召しきツーリスト女性に「それ、どこで売ってるの?」とフランス語で聞かれて(と思うw)、「フランス語話せません」をポルトガル語でフランス語風アクセントで答えて相手の目を白黒させた人間であるw)

②ジャーマン・スクール/ドイツ人学校(←ビアハウスで毎晩ドイツ語でビアソングを歌っていたのに、フランス語同様ドイツ語もチンプンカンプンw ドイツ語歌詞を丸暗記して、せっせと生ビール飲んでいたのでしただ^^;よくやってるよ、全く。よってここもダメ)

まだ英語が第二外国語の確たる地位を占めていなかった当時のポルトガルでした。小学校でも英語よりフランス語/ドイツ語が第二外国語とされ、英語は選択科目になっていた時代で、この2校は有名校でした。

子供がいったいどんなことを学校で学んで来るのか、わたしは興味深々です。あわよくば一緒に学びたいと思ったりしてたので、自分が理解できない言葉では無理ですし、手助けもできません。

ところが、もう一校あったのです、Oporto British School!(以下OBSと呼ぶ)調べて見ると、あらら、かなり入学が難しい学校ではござらんか!何が難しいかと言うと、子供は当然のこと親も英語を理解しないといけないと言う。更にイギリス国籍を持つ児童を優先的に入学させるので、必然ポルトガル人の数は限られる。聞いて見ると、ウエイティング・リストにズラリ入学希望者が並んでいるとのこと。さぁ、おっかさん、夫に「ここがいい!」

しかし、夫が渋るという問題が生じたのです。

①スクールバスがないではないか!(OBSは海岸近くのFozにあり、朝の出勤時間とぶつかりラッシュアワーをさけられず、我が家から車で毎日登校に1時間はかかった)

②幼稚園部と言えども、高額授業料。これを幼稚園、小学中学部と11年も継続できるか。(ポルトの私立小高大学全ての教育機関の中ででダントツ^^;)

当時わたしは今のように仕事をしておらず専業主婦です。日本語の生徒は二人ほど、友達ということで頼まれてとっていたものの、大した謝礼は受け取りませんでした。(あ、今も同じですよん^^)義母、おばたち、それにわたしたちの大家族を扶養していた夫です、渋る気持ちは分かるものの、一旦決めると簡単には後に引かないのが「おっかさん」ことわたしです。

当時のOBSと言えば、しつけが厳しいと聞き、それも入学させたい理由のひとつでした。高校時代に学校長が推薦していた本に、イギリスのパブリックスクールでの学校生活経験を通して書かれた池田潔の「自由と規律」がありました。読んだ当時は「自由」を「奔放」と勘違いしていたものですが、少し苦い体験もしてある36、7の年齢になっていたわたしは、子どもの頃の良いしつけ、良い習慣は生涯の宝になるとの思いに至っていました。

そしてある日、強力な味方がついたのであります。
「どうしても日本語を学びたい」と言って、人づてでわたしの所に通っていたブラジル人女性のフェルナンダさんです。ポルトガル人のご主人と結婚しており、わたしとは親子ほども歳が離れていましたが、とても気が合いました。

彼女はブラジルでも屈指の名家の出で、息子が生まれる以前から「Povoa de Verzim」という町からポルトまで電車、そして更にバスを乗り継いで、週に2回我が家に勉強に来ていたのです。子供はいません。

彼女自身もサンパウロでは、英国学校で教育を受けた人だったのです。いわく、
「少々苦しくてもBritish Schoolに入れなさい。子に施す教育は投資です。バイリンガル、トライリンガル、心配しないでよろし。早く始める程に問題は少ない。わたしがその良い例です」
(↑ブラジル語は当然ながら、英語、ドイツ語、イタリア語をこなし、更に日本語をわたしと勉強していた。彼女が自らつけたニックネームは「papgaio=パパガイウ(オウム)^^

嬉しい忠告を受け、すっかりその気になったわたしは、夫をなんとか説得せねば!と、我が子のおつむ具合も考えずに、フェルナンダさんの言葉を単純に信じて、日本語一本で息子に話しかけて来た「おっかさん」は、Biritish School入学準備として、我が子に、「英語をも何とかする@@」ことと相成ったのでありました^^;

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2019年4月10日 

リスボンから列車で橋を渡って入ってくると両脇に開けるドウロ川のパノラミックな展望にまるで「魔女の宅急便」の一シーンに出会ったような錯覚を味わうことだろう。

P1010422_1.jpg

そのドウロ河畔がリベイラ(Ribeira=川岸)だ。世界遺産指定区域でもあり四季を通じて訪れる人々を魅了し続けるリベイラを下流から歩いてみよう。

rebeira_1.jpg
casarios

左手上方には川に面して建ち並ぶ色とりどりのカザリオ(casario)と呼ばれる古い家々が見られ、天気のいい日にそこにたなびく洗濯物はポルトの風物詩でもある。川岸にはオープンカフェ、ポルトガル料理レストランの老舗や土産店もぎっし並べんでいる。また二重橋鉄橋のドン・ルイス一世橋が前方に美しい弧を描き、橋の上段を黄色のメトロがゆっくりと渡って行くのが見られる。

ribeira

道の中ほど、壁に埋め込まれている「Alminha da Ponte(アルミニャ・ダ・ポンテ)」青銅版は1809年3月29日のナポレオン軍侵入時に対岸へ逃げようと押し寄せ川で命を落とした多くの市民の慰霊碑で現在でも鎮魂のろうそくが灯される。見逃し易いので要注意。

ribeira-praca_1.jpg

二重橋を渡って対岸の隣街、新しい観光スポットとして近年人気を集めるガイア河岸へ行ってみよう。古くからのポートワインセラーが軒を並べる。見逃せないのはガイア対岸から眺める、赤レンガの屋根が段々畑のように重なった絵のようなポルトの最たる景色だ。歩き疲れたらガイア河岸からテレフェリコに乗ってたゆとうドウロ川の絶景を眼下に橋を渡って旧市街に出るのもよい。

teleferico5

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2019年4月9日

母親であるわたしと子供との伝達言語は日本語と決まったが、父親とはどうなるのか?この点はわたくしの決めることではないのでで、放って置いたのでありました(笑)

2年間広島大学病院で研修していた夫ですが、子供達とは、ポルトガル語よりも英語と簡単な日本語で話しかけていました。ポルトガル語は、当時同居していた義母や夫のおばたちから耳に入るのですから、当初は大した問題ではないと判断したのでしょうか。

生れ落ちたとき、日本語、英語、あげくの果てはポルトガル語まで耳に入ったのですから、赤ん坊の息子はさぞかしびっくりしたのではないか。いや、案外「この世界では、これが極当たりまえのことだ」と、すんなり受け入れたのかも知れない。聞くよしも無し。

こういう具合にして、わが子の日本語教育が始まりました。

東京息子
生後4ヶ月の息子、ジョンボーイ

息子が3歳になり、この国でどんな学校教育を授けるか」の方針を決めるべき時が来ました。義母の家のすぐ裏にある公立学校の様子を垣間見てきたわたしは、子供たちがバス停で喫煙してても、注意をしない大人たちを目にしていましたし、なぜだか、しょっちゅうパトカーが学校に向かって走ってるし、これはまずいな、と思っていました。

東洋系がほとんどいなかった40年近くも前のことです。わたしは、ポルトに住み着いた最初の日本人でしょう。街を出歩くたびに、すれ違いさま振り向かれ、「シネーザ、シネーザ(chinesa=中国人女性)」と指さされたものです。これがまた、頭にくることに、最初の頃はポルトガル語が分からなかったもので、「死ね~死ね~」と聞こえたのであります

我が子は、東洋系の容貌を持つと言う、自分が望んだものでもないことで、囃されたりいじめられたりすることは、目に見えています。公立の学校へはやるまい。私立の学校となると、当時はどれもカトリック系です。これもわたしはクリスチャンではないのでやりません。そして、日本人学校はない・・・

これは言葉の勉強ではなく、後の我が子の人生に大きな影響を与えることになるであろう、学校教育の選択問題です。

夫とは随分話し合うことになるのでした。
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2019年4月8日 

オビドス

リスボンから北へ向かうこと80キロにあるオビドスは「谷間の真珠」と呼ばれる中世の城壁に囲まれた人口12000人ほどの小さな町だ。5月から秋にかけては、真っ青な空と白壁の家並みにブーゲンビリアの花々が映え、訪れる人は鮮やかさに目を奪われること請け合いだ。ポルトガルでもとりわけ美しい町である。
 
オビドス
 
ディニス王がイザベル王妃にオビドスを結婚と贈り物にしたのは13世紀のこと。以来、19世紀半ばまでポルトガルの歴代王妃が所有権を受け継ぎ、村は「ウェディングプレゼント・タウン」として人々から愛されてきた。 

001_1.jpg

城門ポルタ・ダ・ヴィラをくぐるとたちまち中世の町へタイムスリップ。メインストリートのディレイタ通りには小さなレストラン、カフェ、土産物屋が軒を並べている。路地から路地を歩きまわっても小一時間で十分だ。中世のまま今に至る造りの家も見られ、オビドスはどこにカメラを向けても格好の被写体である。

オビドス

丘に建つオビドス城は少し改造され、1951年からポザーダ(高級宿泊施設)として利用できるようになっている。村を囲む城壁は約1.5kmなので時間が許せば一周してみるもよし。

オビドス

また、毎年3月から4月にかけて「国際チョコレートフェスティバル」が開催されることでも知られる。一通り町を歩いた後、お勧めしたいのがこの地方特産の黒サクランボ酒こと「ジンジーニャ」。お値段も手軽で通りのあちこちで味わうことができる。甘くコクがあるが、アルコール度数は20度と高いのでご注意を。

Obidos

ジンジーニャについては、こちらで案内していますのでどうぞ。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1490.html
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2019年4月7日 

息子が帰省してきた2月に、私たち夫婦と3人で行ってきたレストランを紹介。
昔だったら恐らく近寄らなかったであろう、サンベント駅横の路地にありますが、評判がいいので行って見ました。

冬場でも結構観光客を多く見かける、ここ数年のポルトです、それで、ダウンタウンでの食事は予約して行くようにしているのですが、案の定、着いてみるとレストラン前には行列が出来ていました。

tapabento

店内一階はこんな感じで意外と質素ですが、てきぱきと女主人が動いていました。
tapabento

tapabento
一階は東洋系の観光客がほとんど占めており、一瞬どこか?と思った具合です。

前菜(ポルトガル語ではentrada=エンとラーダと言う)にキノコ(Misto de cogumelos)を頼みました。
tapabento
9.50ユーロ(約1200円)

下の肉料理Vazia Angus irlandesa。22ユーロ(約2800円)
tapabento

こちらはTosta de presunto e brie。たっぷりのトマトが乗ったブリーチーズと生ハムのトースト。

tapabento
8.50ユーr0(約1100円)

これに写真を撮り忘れたArroz selvagem salteado(まぜご飯とでも言えましょうか)が15ユーロ(約1900円)。

通常より高いですが、どれも美味!わたしたちは食べていませんが、メニューには「マグロのたたき」も13ユーロ(約1600円)で提供してくれます。

ちょっと街に出ていない間に、観光客相手に新しいスポットが次々に現れているポルトですが、願わくは従来の古い街並みの美しさを喪失しない程度に発展して欲しいものです。

★インフォーメーション:Bar Restaurante Tapabento
Rua de Madeira Porto
水~日曜日 12時開店
火曜日 夜7:00~
休業 月曜日

本日はこれにて。
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2019年4月5日 

数日前に書いたことですが、ヤフーのホームページサイト閉鎖により、消滅したわたしの最初のホームページの中で、機会があれば今一度書き直してみたいと思ってきたカテゴリが2、3あります。

記憶が薄れないうちにと、推敲もなしで思いついたままつらつら綴ったものですから、手を入れて再掲載して行きたいと思います。
グローバリズム思想が拡大し、コンピューターを駆使した今の世界では、言語習得の方法もその気になれば簡単に見つけることができます。ですから、海外にいながらにして子に日本語を身につけてもらうのも、できそうな気がします。

が、わたしのトライリンガル子育て体験は、パソコンなし。今であればアマゾンで検索し本の取り寄せもできるのですが、それが簡単ではなかった35年ほども前の話です。また、共稼ぎが当たり前になった現代と違い、専業主婦が多かった社会です。その辺の違いを念頭に置いて読んでいただきたいと思います。

そして、わたしの体験を通して、少しでも日本国内外で日本語教育に面している方のヒントにしてもらえたら嬉しいです。以下。

第1話「英語ポルトガル語ぺらぺら?」
人間稼業を70年もしていると、自分の事しか見えなかった若い頃に比べて周囲が少し見えてきます。

例えば、国内海外での子供の日本語教育にしても、自分の子供がこうできたからと言って、その結果例が他にも当てはまるとは限らないということが分かるものです。ですから、この体験談は、「わたしの場合はこう出来たけれども」と言う前提で進めて参ります。
現在日本に住んでいるわが子二人ですが、リスボン大学を卒業した息子と違い、ポルトの高校を卒業するなり日本の大学受験をした娘の場合、片親が日本人で、日本で生まれ育ったわけではないのに、果たして大学の学問に取り組んでいけるだけの日本語能力がついたのか、という点ですが。

もちろん、彼女の日本語理解のお脳部分は、あちこちプチプチと白い斑点が散在する如く、斑(まだら)状態であったと確信しています。そのような斑状態は、実体験を経て新鮮な知識となり少しずつ埋められて行ったと思います。ある程度の基盤ができていると、その埋め立ては、せっせと進められます。その日本語の基盤を作ることが、海外における日本語教育の難しいところでしょうか。

「英語ぺらぺら」という言葉を耳にすることが多くあります。わたしもポ国に40年もいると言うと、「じゃ、ポルトガル語ぺらぺらですね」と来ます。日本で生まれその教育を受けてきた日本人なのですが、「日本語ぺらぺら」かと問われれば、いや、待てよ。となります。どこの国の言葉でもそうでしょうが、とりわけ日本語は非常に奥の深い言語だと思い始め、じっくり落ち着いて書くことと、話すことを併せたペラペラか、と考えると、やはり、待てよ、となるのです。

「○○語ぺらぺら」の評価には、なんとなく薄っぺらな感じを受けるのですが、みなさまはいかがでしょうか。この外国語談義は、またいずれの機会にするとして、そんなわたしですから、長年ポルトガルに住んでいるというのに、自慢できるほどポルトガル語がぺらぺらでないのは誠に面目ない話ではあります。

さて、ポルトガル語を全く知らずにポルトに来たわたしの周囲との伝達言語は、英語でした。
長男のJRが生まれる段になって初めて、いったい子供とポルトガル語の環境でどんな言語で意思の疎通をはかれるのか、考えて見ました。

album_1.jpg
子どもたちの幼児期の記録アルバム

結論は即、どんな言語もなにも、あぁた、あるものではありません。いくらか話せると言っても、英語では子どもが成長するにつれて、行き詰まってしまうことが目に見えています。自分の母国語である日本語しかないではありませんか。

しかし、ポルトに日本人学校はありません。ならば、母親の国語として自分がこの役割を務めて行くだけです。
単純簡潔です。こうして、少なくとも母親のわたしと子供とのコミュニケーション手段はまず決まったのでした。

では、父親とはどうなるのか?

第2話に続きます。
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2019年4月4日 

4月1日に新年号が発表されたが、その「令和」についてメディア、コメンテーター、その他がやけにかまびすしい。

新元号「令和」の出典は『万葉集』巻五、書き出し文だそうで、これまでは中国の古典から採用されてきたのだが、今回のように日本の古典が出拠となったのは初めてだと言う。また、元号の漢字として「令」が使用されるのも初めてだとのこと。

古来、物事にけじめをつけて新しく出発することを好むわたしたち日本人だ、元号が変わったからとて、周囲を取り巻く物事が即変わるわけではないが、これまで惰性でしてきたことにも新たな気持ちで取り組もうとの考えは、日本人の性格ではないかと思う。新年の祝い、入学式、卒業式とわたしたちは人生に節目をつけて新たな出発をしてきた。皇位の継承に伴う改元に新たな思いを託して新時代の到来を迎えるのだ。

ところがだ、新元号の発表があるや否や、「令は命令の令だ」「号令の令だ」「巧言令色の令だ」と、負のイメージがある言葉を羅列し、政府の決定に文句たらたらの輩が多い。

ひどいのになると、下の画像の赤部分を取り上げて(カタカナの「アベ」?よく分からぬが)「安倍の名前が含まれている。忖度だ!」と言い出す始末で、ここまで来ると開いた口がふさがらぬ。 ア○か(すみません)。

reiwa1.jpg
Wikiより

「令」については、漢和辞典を紐解いてわたしはその意味を確認した。政府もきちんと元号の説明をしているのだが、命令だ、号令だと騒ぐ人達は、果たして意味を再確認したのか。

「令」は「よい」という意味の雅語、古語でもある。海外メディアに向ける外務省の英訳は「beartuful, harmony」である。それをあたかも、命令の令だ、従わせて和を作ろうと言う意味だ、などと煽動している輩には、ほとほと愛想がつきる。

公で口に出す前に、日本人だろう、漢字の意味を確認してから言え、勉強不足だろ!と、ここ数日、わたしはげんなりしているのである。
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2019年3月31日 

ポルトガルは今日から夏時間が始まりました。
これまでは日本との時差が9時間でしたが、今日から8時間の時差になります。今日は初夏の気候で、今年初めてわたしは半袖で外出しました。

さて、わたしが初めてホームページとやらの運営に手を染めたのは2004年の6月でしたが、その最初のヤフー無料サイト「Spacesisのホームページ」が本日を持ってヤフーのサービス終了により、長い間拙ブログ、カテゴリーのトップに座してきたホームページは日本時間24時で完全消滅しました。

我がモイケル娘が大学受験を目指して日本へ行くにあたり、パソコンのなんたるかを皆目知らなかったわたしに、手取り足取り教えてくれ、ようやく開設に漕ぎつけた思いで深いホームページでした。

あれから15年経ちますが、その間、ポルト、ポルトガルの写真を載せ始めたもので、無料サイトの容量枠を超えるまでになり、「Spacesisのホームページ」はそのまま残して、二つ目の有料サイト「ポルトガル・ロマン」を開設するに至りました。

その後、パソコンを買い換えるにあたり、「ポルトガル・ロマン」サイトに新様式での記事アップロードの方法が分からず、涙を呑んでそのサイトを閉鎖しなければなりませんでしたが、途中で開設したのがこの拙ブログです。ネット内で3度引越しをしたことになります。

最初の「Spacesisのホームページ」は今日までずっと訪問できたのですが、本日で一区切りいたしました。全記事は一応ファイルとしてpcに保存してありますので、時々過去記事として、ブログに取り上げていきたいと思っています。

実を言うと、娘に教わって始めたホームページ開設でしたが、当初は、自分の色褪せつつあった日本語への郷愁、その記憶を自分の体験に従って、日本にいた頃のように取り戻したいなぁと思った点が大きかったのです。そして、それは側にいない子供たちへの母からの伝言にしたい、となりました。しかし、それ以上に、ホームページ、ブログを通じて多くの素敵な出来事に出会うことができました。

一つは、ホームページを通して知り合ったネット友たちとリアルに友人関係に発展したできごと。それから、やはりホームページを通してラジオ番組出演の話が数軒舞い込んだこと。三つ目は、イギリスの某社からヨーロッパ在住の日本人向け会員誌の記事執筆の話が来たこと。

2007年秋から始まった執筆ですが、編集者に激励されながら恐々書き始めたポルトガル案内記事でしたが、気がつけば11年以上になり、正直言うと「もう書く場所があらへんがな・・・」と、2年ほど前から、数ヶ月置きの仕事になっています。

そして、四つ目、多分これが一番嬉しい出来事だと言えそうなのですが、30数年もの年月が経っていたのに、このホームページ、もしくはブログを通してかつて交流のあった人達と再会できたことでしょう。

ホームページ、ブログを伴った人生にこんなカラクリが潜んでいたとは夢にも思わなかったのでした。pcを始めていなかったら、わたしの人生は違ったものになっていたはずです。また、本が簡単に手に入らない状況で、インターネットは大いに勉強できる場所だと思います。

今日は、「Spacesisのホームページ」消滅を記念して(笑)、最期に15年前6月の最初の日記をここにあげます。

2004年6月18日
もいける娘がポルトガル大学入学資格の統一試験を無事に終えて、本人に言わせれば、「やっとの帰国」(笑)、わたしに言わせれば「とうとう日本へ」の準備に追われていた頃です。

娘の日本の大学受験を大いに後押ししたものの、5月に入るとわたしは毎日のように、知らず知らずうちに深い溜息をついていたようです。
それを見かねたもいける娘、

娘「おっかさん、いっそのこと自分のホームページを立ち上げたら?」
おっかさん「簡単に言ってくれるけど、自慢じゃないが、ホムペのホも知らないのよ」
娘「そんなことは知ってらい(笑)。だからわたしがポルトにいる間に、したらいい。教えてあげるから」

新しいことにすぐ夢中になり易いおっかさんの性格を知っていたのでしょうか、はたまた、おっかさんを置いてけぼりにする後ろめたさがあったのでしょうか(笑)、これは娘の気配りでした。

そうして四苦八苦し、ヤフージオ、無料HP開設にやっとこぎつけたのでした。この間、娘の試験勉強中に、何度もおそるおそるおじゃましては、彼女の部屋のドアをコンコン、
「あのぉ~・・また分からないことが出てきましたんですけど^^;」の繰り返しでした^^; いったい娘の勉強が大事なのか、自分のHP作成が大事なのか(笑)

ホームページの「お知らせ(1)」には

お待ちどうさまでした。ホームページ、やっと開設できました。ここまで来るのに、ホントに苦労しました。
娘、もいけるの受験勉強をサポートするどころか、部屋に閉じこもって勉強まっ最中の彼女に、「頭休めないの~~?」なんてゴマカシながら、ホムペ作りお手伝いに誘導。(笑)苦難の末の作品ですだ。

もいける娘、日本出立のほぼ2週間前に完成した我がホームページではありました。

spacesisnoHomepage1
BGMは大好きなドビッシーの「Clair de Lune」。Reiさんという方のピアノ演奏をお借りしてました。

本日も読んでいただき、ありがとうございました。
では、また明日。
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