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2019年5月31日

Lapaと聞けば、わたしには懐かしい響きの言葉です。

ラパ教会の向かいにあるのはラパ私立病院(Hospital da Lapa)なのですが、二人のわが子はこの病院で生まれました。
当時は夫の医学生時代の恩師教授がここの産婦人科におりましたが、産気づいて病院に行った時、教授は休暇中で、実際にわが子たちを取り上げてくれたのは、別の先生でしたけどね(笑) 

hospital_Lapa.jpg

1900年初期に造られ歴史が古い。 ただひとつ、わたしの不満は、院内に入るまで階段があることです。救急車で運ばれる場合に利用されるであろう出入り口が恐らく横にあるのでしょうが、実は、この階段で、危うく転がり落ちそうになったのです。

息子が生まれて3日ほど個室入院し退院の日、赤子を胸に夫に手を添えられて階段を降り始めたとき、2、3段滑り落ち、危うく赤子を落としそうになりました。夫が抱えてくれたのでよかったものの、あのまま落ちていたらどうなっていただろうかと、今、思い出してもぞっとします。

未だに、時々この病院に診察に行くことがありますが、その度に、1980年の冷や汗をかいたことを思い出します。粗忽なのは昔も今もかわらず、なんですがね。

さて、 ラパ教会があるRua de Antelo Quental(アンテロ・ケンタル通り)には、写真の小さなカペラ(礼拝堂)があり、車で通るたびに気になりながら横目でみてきたのですが、ある日、この辺りを探検してみました。カペラは「Capela do senhor do soccoro」が正式名ですが、一般に「Capela do Olho Vivo」と呼ばれています。

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ポルトの歴史家Germano Silvaによると、この通りは昔、北部ブラガへ通じる道になり、泥棒が横行したので、ここを通るときは「よく気をつけて(=Olho vivo)」と言われていたためにこの名前が定着したとのこと。カペラは通常閉鎖しています。

カペラの側の坂道を上ると、狭い石畳の道が入り込んでいる。この辺りはIlha(イーリャ)と呼ばれる区域で、Ilhaはポルトガル語で「島」の意味だが、ここでは、日本語で言えば「長屋」となろうか、古くからの集合住宅地区である。

カペラの側の坂道を上ると、狭い石畳の道が入り込んでいます。この辺りはIlha(イーリャ)と呼ばれる区域で、Ilhaはポルトガル語で「島」の意味だが、別の意味があり、日本語で言えば「長屋」となろうか、古くからの集合住宅地区です。

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迷路のような細い小道を上へと歩いていくと、小高い丘に出ました。

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上ったここが言うところのMonte da Lapa。

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狭い足場だが、ここからはポルトの町、その向こうの町も一望できるのは発見でした。

monte_lapa1[1]
 
さて、ここで前回の海辺のオベリスクと関係するポルトの歴史話になるのですが。

1829年から34年まで 、ポルトガルは絶対王政主義者のドン・ミゲルと自由主義者のドン・ペドロ4世(ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世と同人物。ドン・ミゲルとドン・ペドロ4世は兄弟)との間に起こった王位争いでポルトガルは内戦に陥る。北部ポルトが一時期、圧倒的多数のドン・ミゲル軍に包囲され、自由主義陣営は1年にわたる篭城を強いられたが、これを「Cerco do Porto(ポルトの包囲)」と呼びます。

このとき、ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世の位を息子に譲り、ポルトガルに入ったドン・ペドロ(ポルトガルではドン・ペドロ4世になる)は、このMonte da Lapaにある粉引き小屋に登り、街を眺めては作戦を練ったと言われます。今回調べて分かったことです。

上に見える丸い建物は粉引き小屋です。
monte_lapa4[1]

もちろん、ドンペドロ4世が上って街を見渡した当時の原型はあるものの、造りかえられています。

実は、高校を定年退職して15年ほどになるポルトガル語のディアス先生と、毎火曜日、ポルトの歴史を勉強しているのですが、この「ポルトの包囲」が少し出てきたところだったので、奇遇な発見ではありました。

時にわたしの方が、あそこにあれがあって、あの通りがあれで、などと、ディアス先生より知っていることもあったりするのだが、よし!今度はこのことを話してみよう、と密かにMonte do Lapaの発見を喜んでいたのでありました。

めったに人が足を運ばない場所ではありますが、歴史に興味がある方はいかがでしょうか。

本日はこれにて。
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2019年5月29日 

車ででもないと訪れにくいのが、たまにきずと言える、今日はポルトの歴史に関係したオベリスクの話です。

オベリスクは古代エジプトの神殿などに建てられた記念碑で、側面には王の名や神への讃辞がヒエログリフで刻まれ、太陽神と共に王の権威を示す象徴とされたものです。

戦利品として略奪された古代エジプトのオベリスクは世界に30本ほど現存するとのこと、よく知られたものがフランスのコンコルド広場、バチカンにあるものですが、ポルト近郊のMatosinhos(マトズィーニュス)のメモリア海岸(Praia da Memória)にあるのは、ポルトガルの旧時代から新時代交代の象徴と言えるべき記念碑です。スペインからのポルトガル再独立独立200年を記念して1840年から24年かけて造られました。

matosinhos-obelisc6-1[1]

案内板には、
「Onde o Portugal velho acaba e o nove começa」
「ここにポルトガルの旧時代が終わり、新時代が始まる」とあります。
      
どこぞで聞いたフレーズだと思ったら、ユーラシア大陸最西端「ロカ岬」の記念碑にも彫られている16世紀の大詩人カモインスは「ウズ・ルズィーアダス」の詩の一節、「Onde a terra se acaba e o mar começa」(ここに陸尽き、海はじまる)をもじったものですね。

さて、ポルトガルが大航海時代の栄華を経て、絶対王政が疲弊し始め、政治の中心が議会に移る頃の話です。

1807年から1814年の間に、ポルトガルは三度にわたりナポレオン軍の侵略を受けたのですが、最初の侵略時に、当時の王室、マリア一世と後継者ドン・ジュアンは15隻もの海洋船に貴族や軍隊、大商人らおよそ1万人のポルトガル人を引き連れてブラジルへと逃れました(トホホ^^;)
ポルトガル王室が再び本国ポルトガルの地を踏むのは、なんとそれから約20年後の1821年です。

イギリスの援軍とその駐留によりナポレオン軍の侵略を防ぐことはできたものの、換わりにポルトガルはイギリスに対し、政治的経済的に弱い立場に置かれます。今の中国がアフリカ諸国やその他、経済的に弱い小国に、インフラ支援と称して高利でお金を貸しまくり、最後には自分たちの思い通りに囲い込んでしまうというやり方は古今変わりないということを知らされますね。
  
1821年、ブラジルで王位に就いたマリア一世の息子ドン・ジュアン6世は、ドン・ペドロ王子にブラジルを任せリスボンへ帰国するものの、本国ポルトガルの政治状況はかつてとは大きく異なっていました。

フランス革命やイギリスからのフリーメーソンの自由主義が人々の間に広がりつつあり、1822年にはポルトガル憲法が制定され、絶対王政に終止符が打たれます。(いやぁ、自由主義思想のフリーメーソンの活躍はアメリカ独立、フランス革命のみならず、このポルトガルでもなされていたのですね。一説には明治維新に活躍した坂本竜馬もフリーメーソンに関わっていたとも言われます。)

また、同年にブラジルに残ったドン・ペドロ王子がポルトガルからの独立を宣言し、ドン・ペドロ一世としてブラジル皇帝に即位します。やがてポルトガルの父王ドン・ジュアン6世の没後、ドン・ペドロ一世はドン・ペドロ四世としてポルトガル国王の王位にも就きます。ドン・ペドロ1世(ポルトガルではドン・ペドロ4生)自由主義者であります。

しかし、海を隔てたポルトガル王国の統治は困難な壁にぶつかります。この時、ドン・ペドロ1世(ポルトガルではドン・ペドロ4世)は打開策として、まだ幼かった娘マリア・グローリア(後のドナ・マリア2世)を王位継承者とし、亡命していた実弟のドン・ミゲルを呼び戻し摂政にすえるのですが、ドン・ミゲルは絶対王政主義者ですから、自由主義者を弾圧し始めます。

ここから旧勢力をバックにするドン・ミゲルと新勢力のドン・ペドロ4世との間で内戦が始まるのですが、このとき、ドン・ペドロ4世はブラジル皇帝の座を降り、ヨーロッパでの傭兵を雇い、ポルトガルに上陸します。

1832年7月8日、ドン・ペドロ4世が7500の傭兵を率いて上陸したのが、このPraia da Memoriaです。

matosinhos-obelisc9-1[1]
 
2年間続いた内戦は、ドン・ミゲルの降伏で終止符を打つものの、内戦で荒れ果てたポルトガルは、新しい時代が始まったとは言え、政治が落ち着くのに19世紀後半まで待つことになります。
   
追記:
よく、ドン・ペドロ4世が上陸したのはもっと北部にある「ミンデロ」と間違われるようですが、このPraia de Memoriaが正しいそうです。
    
ナポレオン軍がポルトに侵入した時の民衆決起の記念碑につてはこちらまで。↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1807.html

本日もありがとうございました。
では、また。

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2019年5月27日 

元の題は「ポルトガルのジプシー」だったのだが、ジプシーと言う言葉は今では差別語になり、代わりに「ロマ」と呼ぶのだそうで、題を変えてみたが、エッセイ中ではそのまま使っている。

ロマに対する差別意識は大してないのをご承知願いたい。「大して」なんて書くところを見ると、多少はあるんじゃないすかと、すかさず言ってくるのもいたりするので、断り書きしておきたい。

ヨーロッパで起こる事件にはロマが絡むものも多い。それで多少の恐れをもっているのがわたしの気持ちだ。「恐れ」が差別意識に入るとは思わないがその部分を加味して「大して」を付け加えた。

以下、

ポルトガル式チゴイネルワイゼン

近頃では、交差点で見かけるジプシーがめっきり減った。

かつては、ジプシーのいない信号の交差点はないくらいで、赤信号で停車ともなれば、たちまちにして男のジプシー、赤ん坊を抱いた女のジプシー、子供のジプシーのいずれかが、「お金おくれ。」とせがんで来た。

男のジプシーは、たいていA3くらいの大きさのダンボール紙にそのまま「赤んぼも含めてこどもが5人いますだ。めぐんでくだされ。」等とマジックインクで書いて、お金を入れてもらうプラスティックの箱を突き出してくる。

女のジプシーは、赤ん坊を片腕に抱き、そのままニュッと手を出し、「ミルク代、おくれよ。」と来る。
子供のジプシーにいたっては、これが一番タチが悪いのだが二人一組で来る。車窓を閉めたままでも、小うるさくコンコン窓ガラスを叩き、爪が黒くなった汚れた手をぬぅっと窓ガラスの外で突き出して、
「ねぇ、おくれよぉ。おくれったらぁ。」としつこい。

「小銭持ってないから、だめだよ。」などと言おうものなら、腹いせに、垂らしていた鼻水、鼻くそまで窓ガラスにくっつけて行ったりするのがいるから、小憎らしい(笑)

子供たちが海沿いの学校へ通っていた時は、毎日30分ほどかけて車で迎えに行くのが日課だったから、行きも帰りも赤信号で停車となるのが年賀がら年中だ。外出時には小銭を用意して出るのが常だった。

わたしには、顔馴染みのジプシーがいた。顔馴染みと言うなら、毎日通る殆どの交差点のジプシーがそうなるのだが、このジプシーは「ひいきのジプシー」とでも言おうか。当時は30代であろう、男のジプシーで、かれらの族の例に洩れず目つきはするどい。小柄な男でどこか胡散臭いのだが、なにやら愛想がよろしい。

言葉を交わした最初が、「中国人?日本人?」であった。当時、たいていのポルトガル人には「中国人?」と聞かれるのが常だったので、わたしはあまり面白くなかった。日本人も中国人も顔は似ているけれど国民性は全く違うんだから!」と心中クサッていたのである。

ポルトに来た当時、街を歩いては「シネーザシネーザ(中国人女性)」と指差され、それが「シネーシネー」と聞こえたもので、そう呼ばれるのは心底嫌だった。

後によくよく考えてみたら、気付かないうちに自分の中にある中国人に対する偏見のようなものを垣間見て慌てたことがあったのだが、ポルトガル人にしたら、日本人より中国人を見てきたのだろう、顔が似ている同じ東洋人だからいたしかたない、と思い至った。

以来、シネーシネーと指差されても気にならなくなった。
異国に住むにはシネーに含まれる侮蔑の対象の如きにならないように、日本人のわたしは行動に気をつけなければいけないと、思い始めたのである。

中国人?ではなく、中国人?日本人?と聞かれて気をよくし、すかさず「日本人よ。」すると、「やっぱり思った通りだ。ちょっと違うんだよね。」で、彼はここでニコッとやるわけだ。

当然用心はするけれども、わたしはこういうのに吊られるタイプでどうしようもない。

それがきっかけで、その交差点を通るたびに、「こんにちは。今日は調子どう?」と挨拶を交わすようになってしまった。

我が家の古着や使わなくなった子供の自転車、おもちゃ、食器など不要になった物、たまには食べ物なども時々その交差点のあたりで停車して手渡したりしていた。

たまに、その交差点に、かの贔屓のジプシーがおらず、別のジプシーを見ることがあって、そういう時は、おそらく縄張りをぶん捕られたか、縄張り交代なのだろう。変わりに立ってるジプシーはたいてい人相が悪い。

ある日、同乗していた中学生だった息子が、そんなわたしを見て言うことには、
「ああやって小銭をもらって稼いでるジプシーには、借家のうちなんかより立派な自分の家に住んでることがあるんだよ。」

「3日やれば乞食はやめられない」と日本でも言う。家に帰ってシャワーを浴び、こぎれいになっているそのジプシーの一家団欒を想像してなんだか可笑しかった。

息子はリスボンへ、娘はバスでダウンタウンにあるポルトガルの私立高に通学するようになって以来、17年に渡る学校の送り迎えがなくなったわたしはそのジプシーに会うことはなくなった。

その間、東ヨーロッパの国々がEC加入し、気がつくといつのまにやら交差点からは、小銭をせびるジプシーたちの姿が消え、代わりにポルトガルに流れ込んで来た東ヨーロッパ人達が目立つようになった。

彼らは、「要らん!」と言うこちらの言葉にお構いなく、車のフロントガラスにチュ~ッと洗剤をかけ、拭き始めるのである。そして「駄賃おくれ」と来る。

「昨日、洗車したばっかよ!」と、頼みもしないのに強引にする輩には絶対小銭を渡さない。しつこく手を出されても、力をこめて車のハンドルをギュッと握り締め前方を見て赤信号から青に変わるまで、頑張るのだ(笑)

それに、その頃にはもう交差点の輩には小銭をあげないと決心していた。小銭を車窓で受け取り、うっかり落としたふりをしてこちらの油断をついて、ひったくったり脅したりの犯罪が増えてきたからだ。

先日、家の近くの交差点で、数年ぶりにかの「贔屓のジプシー」に遭遇した。
わたしが駆っている車種も車の色もあの頃のとは変わっているのだが、即座にわたしを見つけ、「奥さん、久しぶり。お住まいこっちの方で?お子さん達元気?」と来た。

少しやつれている。歳をとったのだ。閉めていた車窓を開けた。
「E você?」(で、あなたは?)助手席のバッグを引き寄せ、小銭を出して手渡しながら、信号待ちの間のしばしの会話。

やがて、信号が変わりわたしは他の車の流れに乗って動き出した。バックミラーに車の発進でその身を安全なグリーンベルトに寄せるジプシーの少しやつれた姿が映って、それがあっという間に遠くなった。

世界広し言えども、「贔屓のジプシー」を持っている日本人などそうざらにいるものではあるまい。夫は知らない。

ここからは事後談である。

2007年1月27日 「ジプシーからよろしく」

近頃はあまり見かけなくなった交差点の物乞いの人たち。かつてはいたる交差点に必ずと言っていいほどおり、殆どがジプシーたちでした。

それが、数年前には東欧から流れ込んで来た人たちが占め、今は、それぞれみな、なんとか仕事にありついたのか、それともポルトは実入りがないと諦めて、別の土地へと流れて行ったのか。

昨日は補習校出勤前に久しぶりに、わたしの「ひいきのジプシー」を見かけました。車の窓を開けてコインを差し出し、赤信号で停車する束の間の会話。

    ジプシー「ちっちゃかった娘はどうしてるの?」
    わたし  「今、日本で勉強してるわよ。」
    ジプシー「へぇ。休みには帰って来るの?」
    わたし 「去年の夏に2年ぶりで帰ってきたの。」 
    ジプシー「日本は好きだって?ポルトガルよりいいって?」
    わたし 「そうね。多分^^」 
    ジプシー「娘に、教会の交差点のところによくいたジプシー
         からよろしくって言っといてよ。」

ひいきのジプシーがいる日本人なんてザラにいるものではありません。
が、ジプシーから「よろしく」なんて伝言をもらう「娘」もいないだろうなぁ、きっと(笑)
メッセンジャーで話したモイケル娘に、その伝言を渡しました。


12年の月日が流れた現在、ジプシーや東ヨーロッパ人と代わって、交差点を陣取るのは若い大道芸人たちだ。最後に言葉を交わしたときは調子が悪いのだと言っていたかのジプシーの姿を、以来、わたしは見かけていない。
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2019年5月26日 

水曜日以来、風邪で体調悪く、日本語レッスン以外はぐったり床に臥しておりました。近頃は無理が利かなくなってきたのに自分でもがっくりです。

どこぞで見かけたこの言葉に、

人生は七十歳から
七十歳にて お迎えあるときは、今留守と言え
八十歳にて お迎えあるときは、まだまだ早いと言え
九十歳にて お迎えあるときは、そう急がずとも良いと言え
百歳にて お迎えあるときは、時期をみてこちらからボツボツ行くと言え

というのがありましたが、床に伏しながらただ今留守でございますと強がっていました。

明日当たりは風邪も抜けるかなと予感、今朝は我がモイケル娘と久しぶりにスカイプで話しました。

「こっちは真夏日だ~」で始まり、「今日のポルトガル語クラスはうまく言った」と言う。実はモイケル娘、この春から某大学の事務局の仕事を週4にしてもらったのだが、飼っている3匹猫の面倒もある程度見られるし、家のこともポルトガル語準備もあまり焦らずできるという。

共稼ぎできちきち働いていると、家事も気になるだろうが気持ちの余裕がなくなりがちであろう。収入は減るが、元々大して体力がある子ではないので、それ以上、時間を切り売りせずに済むならそれがいいとわたしは賛成している。

さて、そのポルトガル語クラスだが、教える側も学ぶ側も時間に縛られているのだそうで、月1でしかできないがと、ポルトガル語入門講座を始めたのが、結構続き、今日は8回目、動詞の「ter(持つ)」と取り上げたとのこと。

日本人向けのポルトガル語(ブラジル語とは少し違う)テキストがほとんどないので、娘、毎回のテーマに合わせて、自作である。

portugalgo2.jpg

初心者用のテキストを作成するのは時間もかかり、難しいことをわたしは知っている。仕上がったテキストを何度か見せてもらったことがあるが、ひゃ~、これは大変だと思った。同時に、ひょっとして、初級1のテーマが終わったら、これ、出版できないものかとも思ったほど、うまい出来具合であった。って、身びいきか(笑)

自分の猫の画像を使ったりもしている。
とある歌をヒントに下のフラッシュカードも作ったんだけど、何の歌か分かる?と聞く。

portugalgo1.jpg

ペン、りんご、パイナップル・・・待てよ・・・
♪I have a pe~n
 I have an apple
 Apple pe~n!
 I have a pen
 I have a pineapple
 Pineapple pen!I

と、種明かしを聞いて、え~~!PPAPじゃん、のわたしであった。
これ、ポルトガル語だと、

♪Tenho uma caneta (TenhoはすでにI haveの意味になる)
Tenho uma maçã
Mação Caneta!
 Tenho uma caneta
 Tenho uma ananás
 Ananás Caneta!

歌のタイトルのPPAPもCAMC(セー・アー・エム・セー)となり、これで朝から大笑いしていたのだが、時節に叶った話題を学習に取り上げられるのも、時に応じた手作りができることである。これじゃ、生徒も乗るだろが、乗せすぎるなよ~と、思った次第。

個人の語学教室は大きな宣伝ができないので、地味に続けていくしかないのだが、いい授業をしていると、口コミで徐々に生徒が増えていくことにつながる。娘よ、がんばってください。

もうひとつ、こちらも、宣伝が行き届かないので、気長にのんびりと趣味の如く娘が運営しているのが、「ポルトガル雑貨オンラインショップ 東のポルト屋」。最近、徐々に購入されてきているようです。

興味あらば、おでかけしてみてください。年に2度ほど市川などで販売会をしています。
https://www.facebook.com/mikeyinPorto/(ポルトガル雑貨オンラインショップ 東のポルト屋)
↑フェイスブックサイトの方が雑貨がたくさん紹介されてあります。

http://www.higashinoportoya.com/ (東のポルト屋)

本日はモイケル娘の話と宣伝とに相成りました。

本日はこれにて。
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2019年5月22日

しばらく途絶えたままにしていました、シリーズ「毎日が日本語英語ポルトガル語」、今日は第8話です。

 
ひらがなを初めて学ぶとき、「あいうえお」と始める人は多いのではないでしょうか。
「アリのあ」「イヌにい」と言うように。

わたしが子供達に取った方法は少し違います。
ローマ字でもそうなのですが、A,B,C,Dというのは、文字自体が意味を持ちません。
これでは、子供に求められたときに説明に困ります。わたしの場合は、このように、ひらがなの読みを始めました。
母音5文字から、まず始めました。

あお   いえ   うえ

「あいうえお」の5文字から簡単で、身近な言葉をつかい、こんな風に言葉カードを作りました。

このヒントは、もちろん、先の英語の初歩の教え方から得ました。「か行」に入ると、今度は「あか、かお、いか、えき、いけ、こい、あおい、あかい、」と段々言葉のカードも増えていきます。

実は同じ方法をわたしは今も、日本語教室で初めて日本語に触れ、ひらがなを学ぶ生徒さんに使います。

これは、ひらがなの読みと言葉を繰り返して覚えることになります。
あ行のカードが読めるようになったら、今度は、「あ」「い」「う」「え」「お」の大きめの単独カードを見せます。すると、「あおのあ!」「いえのい!」と言う答えが子どもから返ってきます。

始めは「カード遊びをしようかなぁ」と子供を誘い、最初は2枚の大きなカードを見せてゆっくり読みます。
次は、その2枚のカードをテーブルの上に置き、カルタとりです。次は、もう一枚増やして3枚のカードとりになります。

新しく作ったカードをこれに加えて行きますから、最後はかなりたくさんのカードを並べてのゲームです。
子供からすると、あくまでも、遊びの感覚です。わたしは初期の頃は、子供が飽きる前に切り上げることに気をつけました。

4歳からですと、小学校にあがるまでに、時間はたっぷりあります。ゆっくりと、苦労せず楽しみながら、しかも確実に身につくようにするには、「飽きる前に切り上げる」、これがよかったのではないかと思っています。

「もっとしたい!」
「そうね。でも、お仕事があるから、もうお終い」
こういうことが何度もありました。

子供が幼稚園に行っている間のひらがな言葉のカード作りは、当時、時間を持て余し気味だったわたしにとって楽しみでした。

帰って来ると手を洗わせ昼食を済ませ、少し休憩してから、カード読み遊び。これが土日を除いては毎日繰り返されました。

こうして英語と日本語の言葉覚えが同時進行して行きました。
次回に続きます。
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2019年5月21日  

かつての職場、補習校の同僚はみな、連れ合いがポルトガル人でした。その中でもわたしが最年長でポルトに住んでいるのも一番長く、1979年の5月に来ましたから、もう在住41年目に入りました。夫を連れ合いとするのが3人、妻を連れ合いとするのが2人でした。2005年の話です。

当時は「ポルトの生き字引き」なんて呼ばれたりして、喜んで良いものなのか、自分としてはなにやら「テヘへ」な思いがしていたものです。

今なら実生活面でのポルトの生き字引は、3人の子どもを育てあげ、数年前に夫に先立たれた大阪出身の友だと断言できます。役所関係の面倒な諸手続きを弁護士を雇うことなく、なんとかやり抜けた人で、エライなぁの一言に尽きます。

「大変だったけど、子どもたちの手助けもあってなんとか終わった。あんたが同じような立場になったら、いくらでもアドバイスしたる!」と言うてくれるのですが、そんな日ができれば来ないで欲しいなぁと、実は結構アカンタレなわたしは思うわけです。

こんなことを書くのは、当時と変わらず付き合いが続いているのはメンバーのうちの3人に、我が相棒のOちゃんが加わって4人組になり、先々週末に久しぶりに色々おしゃべりしてきて、みな今より15才若かった時の、ちょっと面白い話を思い出したからなのです。

それと、拙ブログは2006年から始まっていますが、その前は2004年からホームページを運営しており日記を掲載していたのが、今年の春にヤフーのホームページが全面閉鎖となったもので、メモしておきたい日記は、こちらへ載せようと思ってのことです。拙ブログは子どもたちへのメッセージでもありますゆえ、ご勘弁のほどを。

では、以下に。

flores2_1.jpg

かつては集まると、それは各々の子供や日本の子供に関する教育の話、そして今ほど簡単には耳に入らなかった日本のニュース、そして、ついでに連れ合いの家族の愚痴話(笑)、果てはポルト市のどこどこの店で日本食を見かけたとか、今度スペイン系の大きなデパートがどこそこにできる、等等の情報交換の場になっていました。

それでもやはり主だった話は、みなが子育てに必死になっていた時期でもあり、しつけや学習のことが大方でした。

それが、数年前からいつのまにか、老後はどうするかに話が及んで来た^^;みなさん、子育てが一段落したということです。
わたしはと言えば、我がモイケル娘はホームページを開設したと同時に東京の大学受験を目指して日本へ行き、息子はリスボンで、夫と当時は猫6匹の生活でした。

やっぱり、老後は日本!と言って、帰国して自分一人老人ホームに入る、というI氏。(彼はかなり真剣に考えてます)→それが今は、孫も二人でき、帰国はなし。ポルトに骨を埋めるとのこと。

持ち家を売っぱらって大阪かイタリアに住みたいというKさん(日本語通じないイタリア行ってどうするんや~~^^;)→それが今は、日本はセワシナイ。歳とったら落ち着いたポルトの方がずっといい。

子供がいないから、多分日本でしょうね、というRさん。

もしかしたら、既に家族で日本帰国を計画しているかも知れないK氏。→それが今は、日本。ポルトガル人の奥方と子どもを連れて12、3年ほど前に帰国。

こんなことをカフェでワイワイにぎやかに話し合ってるうちに、日本で一軒家を借りて、Vila Portugal(ヴィラ・ポルトガル)とかなんとか名前付けて、みんなでいっしょに住むのはどうか、なんてところに話が及びまして(笑)

「お、それいいじゃないの。」
「どのあたりにするね?」
「親友が和歌山の片田舎にアトリエと称して、古いけど物凄く広い土地屋敷を
持ってるから、その畑の一隅を借りるのはどう?春にはあそこ、桃源郷だよん」とは、わたし。
このアトリエは後日紹介。

「いいね。けど、その親友にもしものことがあったら、遺産相続なんやらでわたしら年寄り、おんだされるよ」
「あ、それもそうだ」
「証書、とっといたらどう?」(←まだ、貸せとも貸すともなってない話ダスw)

「でもね、そんなド田舎、年寄りばっかり住んで、食料買い出しはどうするのよ?」
「う~~ん、車一台いるね。しかし80過ぎての運転はちょっとこわい」
「自給自足はどう?」「うん。Iさん、農学部出だしね、そっちはお任せ」

「よっしゃ。料理は好きだから、わたしがする」我が友。
「キレイ好きなRさんはお掃除係だね。うんうん」
じゃ、わたしの役割は・・・ぼけ~~としておもろいことばっかりやってるから、それでだけでも十分存在価値はある、って、なんでんねん(笑)

「でも、アンタ、年金あれへんやん」
「あ、いけない。ど、どうしよう・・・」
「ご主人の遺族年金があるから心配いらんか。仲間になんとか入れたる」
(↑入れたる、って和歌山はうちの親友がらみだで・・・w)


ここまで来てわたしはハタと気づいた。
「ちょとまてぃ!」

みんな、自分は、絶対連れ合より先に逝かないという前提で話してますわ(笑)厚かましいったらありゃしない。この一言で爆笑です。

そして全員しみじみしましたです。なんの因果でか知らないが、長い間ポルトガルに住んじゃったね、と・・・

わたしは、といいますと、老後云々の前にもう一花咲かせてみたい、なんて密かに思っていて。

何事も夢の実現にはかなりの時間がかかる人間です。しかし、夢は見続けることこそ大事だとの信念があります。見続けることがいつか実現につながると思うわたしはおめでたいでしょうかw

何の花かと言いますとね、咲いてのお楽しみですわ(笑)            2005.5月

15年経た現在をそれぞれ赤字で上記に突っ込みいれてますが、最後のわたしの花は咲いたのか?となりますと、はい、おおぶりな花ではありませんが、小さく咲きました。

創立から21年間、毎週土曜日に通った補習校講師は、引き止められもしたのですが、まだエネルギーがあるうちに、今度はポルトガルの人たちに日本語や日本文化の一部を紹介したいと思い、61歳で退職しました。

日本文化紹介はOちゃんを引っ張り込みボランティアで展示会を開いたり、影絵を上映してきました。
日本語については、わたしの目的は、お金はないけど時間はある、日本語に興味がある、という若い人を対象にしました。

そうして始めた土曜日週一の日本語教室が今年で8年目。生徒も授業料の安いのが魅力的なのでしょう、Oちゃんのクラス、わたしの2クラスと小さいながらも教室を借りて開けるまでになりました。

いえね、本当を言いますと、教室料、コピー代、税金等を引けば大した実入りはないので、趣味みたいになってしまいますが、教えるのが楽しいという気持ちはホンマです。これがあるから続けていられるのです。これがわたしの15年後の現在です。

下記、興味あらば補習校最後の日のブログをどぞ。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-722.html(さらば、補習校)

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2019年5月19日 

すっかり観光地化したポルトです。今ならわたしが案内するまでもなく旅行者はTripadviserで情報を得ることができる食事処。
しかし、なかにはヤラセの書き込みや評価があると、実はせんだってレストランを経営する日本語生徒さんから耳にしたのでした。

拙ブログで案内するレストランは、わたしと夫の口に合った店ですから、必ずしも他の人も同意見を持つとは限りませんので、その点はどうぞご理解ください。

さて、今回の案内する「ゼ・ボータ」、最初は我が4人グループのOB食事会で、2度目は夫と行ったものの、満席でギブアップ、3度目は日曜日で休業と、4度目にしてやっと夫がありつけたというレストランです。

カルモ教会向かいにある路地を入ります。

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外見はいまいちですが、値段は安くもなく高くもなく。店内もさして広いわけではありません。

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壁は訪れた人達の写真とともにメッセージボードでぎっしり。

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夫が注文した肉料理。
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こちらはわたしがいただいたタラ料理ことバカリャウ。
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これはイケましたよ。量も多くなく、普段は食べきれずに残してしまうわたしですが、完食しました。

これに、Entrada(前菜)には、Presunto com Queijo(生ハムトチーズ)こ、それにいつものSuper Bock の生ビールとで約50ユーロ。サービスは迅速で、わたしたちは楽しめました。

開店すぐに行くか予約を勧めます。

メモ
所在地:Tv. do Carmo 16, 4050-064 Porto
開店時間:12:00~14:30 19:30~22:30
休日:日曜日

では、また!

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2019年5月18日 

気がつけば、今年はいつの間にか、ポルトの大学生祭典「Qeimas da Fitas(ケイマス・ダ・フィタス=リボンを焼く祭り)」が終わってしまっていた。(後記で案内)

新学期の9月と大学生祭典の5月には、ポルトの街のあちこちで伝統学生服を身に纏った大学生をよく見かけるのだが、夫は彼らを眼にするたびに「お、ペンギンたちだ」とからかうのが常なのだが、わたしからすると、股旅道中のかっぱが思い出されて仕方ないのである。

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「かっぱ」の語源はポルトガル語の「capa」。16世紀にキリスト教布教に訪日した宣教師たちが羽織っていたもので、南蛮蓑とも呼ばれ、元は高価な布を用いて織田信長、秀吉を始め、上級武士の間で広まり、後に裕福な町人にひろまったようだ。それがいつの間にか渡世人のトレードマークになるとは!宣教師殿もあの世で目を白黒させていることであろう。

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ポルト大学生が着るCapa.。Trajeとも言う。


随分前のことではある。所沢の妹からのメール内容に思わず懐かしくなり、数日すっかり「股旅気分」になったことがある。

「股旅CD」手にいれた。覚えてる?とは、妹。
 
♪「春は世に出る草木もあるに アホウ烏の
   泣き別れ~」

大川橋蔵主演映画「旅笠道中」で、三波春夫が歌っていたものだ。そして、歌詞の1番から3番までそらんじておる自分。 妹によると二人で観にいった映画だ、とありまする^^いったいいつ頃のことであろうか。

そう思い、映画の上映時期を調べて見ると、なんとわたしは10歳、妹は8歳のときではないか。我が妹の記憶力の良さに、わたしは舌を巻く。二つ年上のわたしが全く覚えていないことまで妹ははしっかり記憶していることが多い。おそろしや、逃げも隠れもできません(笑)

誤って弟分の源次郎を手にかけてしまった草間の半次郎。伊那ではその源次郎を盲目の母親(浪花千枝子)が待っているのだが、侘びに行ったつもりが、源次郎の妹に頼まれて、自分が手にかけた源次郎こと、息子を装う羽目になってしまう。盲目と言えど母親はやがてそれが息子でないことに気づくのだが・・・

懐かしくてその歌が聞きたくなり、Youtubeで検索すると、出てくるのは同じ「旅笠道中」でもショウジ・タロウや氷川きよしの「夜が冷たい 心がさむい~」ばかり。わたしは俄然、三波春夫の「旅笠」が好きである。

若い頃から、あちらこちらと落ち着きなく彷徨して、母にはずいぶん心配をかけたわたしだ。3番目の最後の箇所、「伊那の伊那節聞きたいときは 捨てておいでよ三度笠」のところに来ると、母を思いジンと来てしまう。

ポ国に嫁いでくるときに、今は亡き我が母が言った、「どうしてもダメだったら、わたしの目が黒いうちに帰ってくるんだよ」の言葉と重なってしまうのだ。
                             
我らが母はハイカラで洋画好きだった。同時に時代劇をも好み、長谷川一夫の大ファンであった。わたしと妹はかなりたくさんの東映任侠映画を見せられたが、特に記憶に残っているのは、長谷川一夫主演の「雪の渡り鳥」である。
                                           
♪「かっぱからげて三度笠 どこをねぐらの渡り鳥
愚痴じゃなけれどこの俺にゃ 帰る瀬もない伊豆の下田の灯が恋し」
                                                   
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-wikiより-

伊豆の下田の渡世人、鯉名の銀平の秘めたる恋を絡めた、ご存知股旅映画。雪の降りしきる中、かっぱからげて三度笠をかぶり、スックと立つカッコよさに、「鯉名の銀平」と今でもすぐ名が出て来るほど、子供のわたしは至極憧れたものである。
この主題歌は3番まであり、それをわたしは全部そらんじている。
      
♪「払いのけても降りかかる なにを恨みの雪しぐれ
俺も鯉名の銀平さ 抜くか長ドス 抜けば白刃の血の吹雪」

もう半世紀以上も昔に覚えたこれらの歌詞は、日本古来の七五調であり、そらんじ易い。藤村も啄木も土井晩翠も、堀口大学の訳詩集「月下の一群」も、それらの作品はなべて、この七五調、五七調である。

若い時にそらんじたこれら七五調、五七調の歌や詩が、時折ふと顔を出して子供の頃や母との思い出にわたしを誘う。過ぎし日に思いを馳せながらつくづく思うのだ。人生って初めから今に至るまで、何から何まで繋がってるんやなぁと。

それではみなさま、今日はこの辺で。
西も東も風まかせ。失礼さんでござんす

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(ポルト大学生の祭典・Queima das Fitas)
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2019年5月17日

先週日曜日、今週の火曜日とわたしにしては珍しい友人との昼食会が続きました。
日曜日は、2、3ヶ月に一度の4人組の定例会です。同じ職場のOB会、いや、I氏とわたしは退職しましたが、あとの二人はまだ補習校の現役ですから、気のあった仲間と言った方がぴったりくるでしょう。

わたしが補習校を退いたのは2009年3月以来ですから、この食事会も10年になります。話題もそれぞれの子どもたちの日本語教育、補習校教育だったのが、今では老い先どうなるか、どうするかが、専ら話題の中心です。

火曜日は、その4人仲間よりも更に長い付き合いになるポルトガル人の友人、エディットさんと、海辺の日本レストランでの昼食でした。 わたしに仕事があるため、同年齢の彼女とは、なかなか会う機会がなく、今回は1年ぶりに顔を合わせました。わたしがポルトに来て初めてできた、心を許せる友人の一人です。

30年も前にご主人を亡くしていますが、昔話に花を咲かせて、美味しい日本食をいただいてきたのですが、この二つの食事会の昔話のせいか、昨夜は生まれ故郷の夢を見ました。

今日はその夢に絡んだ過去記事をあげてみます。2011年に書いたものを書き換えています。以下。

思い出のバスに乗って: ふしみ・かなめ君

作家向田邦子氏のエッセイに「眠る盃」というのがある。
「荒城の月」の「春高楼の花の宴 めぐる杯 かげさして」の「めぐる杯」を少女時代からずっと長い間「眠る盃」だと思っていたというのである。

よくありがちな話で、おっちょこちょいなら人にひけをとらないであろうわたしだ、同じような体験を持っており、これを読んだときにはなんだかすごく向田邦子という作家が身近に感じられ、以来ファンになったのである。

かごめとかもめを同じ鳥だと思い、「かごめーの水兵さん、ならんーだ水兵さん」と歌っていたし、かごめが鳥などではなく、竹で編んだかごの網目だと知ったのはずっと大人になってからだ。

また、愛唱歌「朧月夜」にある、「菜の花畑に入日うすれ、見渡すやまのは~」と、これは大好きな歌のひとつなのだが、おっとっと、補習校の朝の歌に選択し子供たちに教えるまで、「見渡す山野は(Yamano wa)」と歌っていた。

「見渡す山の端」だと歌詞を文字で見て知り、冷や汗をかいたことがある。以来、ソコツな自分だからこそしていたかも知れないその間違いを、他人もしているに違いないと勝手に思い、しばらくの間は聞かれもしないのに会う人ごとに解説をしたものであった。子供たちにも「ここは、こういう意味でこう歌うんですよ」と、さも知ったように話したわたしではあった。

おなじみの歌、

夕やけ小やけのあかとんぼ、
おわれてみたのは いつの日か

漢字で歌詞を書くと「負われて見たのは」となるのだが、大人になってもずっと「追われて見たのは」と歌っていた。よく意味を考えると、「追われてみたのは」ではおかしいと気づくはずなのだが、子供のころの刷り込みは疑ってみようとも思わない。「洗脳」というのはこういう怖いことだとこの時改めて思った。

さて、どうしてこんな話かというと、2、3日前のこと、いつもの通り、日本に住む我がモイケル娘、「ただいま~」とスカイプにあがってくるなり言うには、「おっかさん、まりちゃんが要(かなめ)君に会ったって!」

まりちゃんとは我が妹のことで、モイケル娘にすればおばにあたるのだが妹には「まりちゃん」で承知してもらっており、そのおばとも娘は時折ネットチャットしている。

「かなめ君て、ふしみ・かなめくん?」と聞くとそうだと言う。

思い出の坂道を一気に駆け上るシグナル「ふしみかなめ君」なのだ。こう書くと初恋の人とでもたいがい思われるんだろうが、そうではない。

わたしの子供時代、弘前の下町だった新町(あらまち)に母とわたし、妹の3人は祖母に同居していた。未婚だった母の兄弟もおり総勢13人が祖母の一つ屋根の下に住んでいた。その隣家の床屋さんの一人息子君で、ことチャンバラでは近所で右に出るものがないくらいピカイチのガキ大将だったわたしに、毎度やられては泣いて家に帰っていたかなめ君なのだ。

妹はガキ大将のわたしにしょっちゅうくっついて共に遊んでいたあの頃、わたしも妹も、なぜだか今に至っても色あせることのない「ふしみかなめ君」の名前なのである。

それを我がモイケル娘がなにゆえ知っているかと言うと、そういう昔話をこのおっかさんから繰り返し聞かされていたのであった。

まりちゃんこと、我が妹が言うには、ついこの間、ダンナと一緒に弘前へ帰ってきた。(義弟も弘前出身である)そのついでに今は祖母の家もなくなってしまったが、新町に寄った所がひょいと床屋から出てきたのが、なんとその要君だったそうだ。

共に遊んで、いや、要君にしたらしょっちゅう泣かされた遊びなわけだが、要君に会わなくなってゆうに半世紀にはなろうから、わたしなど彼の顔はまったく覚えていないというのに、我が妹、よくぞ分かったものとすっかり感心した。

ふしみ理髪店とでも看板があったのだろう、わたしたちと同じ年恰好の床屋の主人と見て、要君とわかり話しかけたのだそうだ。

さて、ここからわたしの「眠る盃」なのである。

ふしみかなめ君とは切り離せない連鎖する津軽言葉がわたしたち二人にある。彼がうわ~~んと泣いて家に走り去る姿を見ては二人して「ガニアベガニアベ」と喜んでいたのであった。

この語源も知らずに我らは使っていたのだが調べて見ると、蟹を食べるのに塩加減がちょうどいいことを津軽では「いいあんべ、ガニあんべ=いい塩梅あんばい)カニ塩梅(蟹あんばい)」と言うのだそうで、わたしたちはその言葉をどこかで聞き、勘違いして「泣かせてやった、へ~んだ」くらいの意味で使って
いたと思われる。

泣いて帰ったかなめ君のご両親からは一度も苦情が来なかったことを思えば、子供同士のこととてそれも遊びの枠と大目に見ていたのであろうか、あの頃の世の中はのんびりしたものであった。

故郷の夢を見た時は、いつも幼い頃の思い出が生き生きと甦り、無性にあの頃が愛しくなる。

思い出のバスに乗って 黄色い帽子の子が走ってくる
人差し指の向こうの坂道

あれから60余年、人生の色々なバスに乗り継いで、わたしはこんな遠いところまで来てしまった


今日も読んでいただき、ありがとうございます。
それでは、また!

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2019年5月15日 

息子はリスボンで、娘は日本で学業をとなり、子供たちが家から離れた時期から日本語教室で忙しくなる前までの数年間、ポルトの街を歩き回りました。

カフェ・マジェスティックは、その頃、よく一人で訪れ、カフェとスコーンを注文したものです。
多少オーヴァーツーリズムの気があるな?と思われる今日のポルトと違い、その頃のマジェスティックで過ごせたのは贅沢な時間を持つことだったと、今振り返ります。

今日はあそこを探索してみようと、朝10時くらいからポルトの街を2時間ほど歩き、昼近くに入るマジェスティック・カフェは人もまばらで、新聞を広げてゆっくりくつろいでいる男性たちを度々見かけました。
カフェの値段は他と比べて俄然高かったが、制服のウエーターのサービスがよく、落ち着けました。

イージーリスニングやクラシックのBGMも耳障りにならず心地よかった。後でも書いていますが、ハリー・ポターの著者J.K.ローリングがここでペンを走らせていたのも、当時のカフェを知っているわたしには頷ける話です。ツーリストで常に満席の今は、BGMがあるのでしょうか。

というので、下記、カフェ・マジェスティックです。

ベル・エポック(フランス語 belle=美しい、良い epoque=時代 )と言う言葉をご存知だろうか。パリを中心に新しい文化や芸術が栄えた19世紀末から20世紀初めにかけての時代を言う。女優のサラ・ベルナール、ロートレック、詩人ランボー、ボードレールなどが活躍した時代だ。
 
パリの一番最初のカフェのお目見えは1667年と聞く。1715年には300ほどのカフェがパリにあった。これらの中でも最も有名なのは「カフェ・ド・プロコープ」。ボルテールやルソーが常連客だった。

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ルソーが愛用したテーブル。

 
フランス革命時期には、政治家やマラー、ロベスピエール、そして若き日のナポレオン・ボナパルトも集っていたと言われる。このカフェは現在では「ル・プロコープ」としてパリでも老舗のレストランとして営業おり、わたしは2007年秋にパリを訪れた際、そこで夕食を楽しんで来た。

さて、パリにはかなり遅れてではあるが、ポルト1921年、ポルトの目抜き通りSanta Catarinaに建築家ジュアン・ケイロス(João Queirós)によって開店された「カフェ・エリート」が、カフェ・マジェスティックの前身になる。(1922年改名)

20年代には文人や芸術家たちが集い、討論に花咲かせたマジェスティックは、ベル・エポック時代の歴史を語る「ポルトのエスプリ」とも言えよう。マジェスティックはその古きよき時代の名残を今に残している。

マジェスティックカフェ
 
60年代に入ると、時代の変化に抗えずに衰退。80年代に入って市の文化遺産としてポルトっ子たちの関心を集めるになった。10年の年月をかけてオリジナルの華麗なアール・ヌーボースタイルを見事に復元した。

マジェスティックカフェ

美しいファシャーダ(正面入り口)をくぐると、店内には小さな白大理石のテーブルにアンティークの椅子、木彫り細工の大鏡が訪問者を別世界に誘う。

マジェスティックカフェ

マジェスティックカフェ

マジェスティックはフランスのシラク元大統領を始め国内外の著名人が多く訪れている。かのJ.K.ローリングは、ポルト在住中にここが気に入り、第一巻「ハリー・ポッターと賢者の石」の一部をここで書いたと言われる。

ローリングがどのテーブルに着いてどの章を綴ったのか、とエスプレッソをすすりながら想像してみるのも魅力的ではないか。

カフェ
マジェスティックのエスプレッソ。チョコレートもついてくる。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
ではまた明日!
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2019年5月14日  

土曜日の日本語教室として借りているCCD(ポルト市文化スポーツセンター)は小高い丘にあって敷地も広く見晴らしがいいのですが、先週行くと、何の木の綿毛かは知らないけれど、んまぁ、まるで雪でも舞っているように空中を漂っていました。

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すわ、花粉症に気をつけないと、とあわててスカーフで鼻、口を押さえました。一時期、わたしは何年もひどい花粉症に悩まされ、目の周りは干からびたようになり、クシャミ、咳が止まらず、到来した春を歓ぶ気分などにはなれなかったものです。
時にこの綿毛は地面にたくさん降り立ち、まるで残雪かと見間違うほど地面を真っ白に覆います。

で、今朝は某企業の日本語レッスンがあり、車を飛ばして高速道路を出ると、んまぁ、またもや綿毛がたくさん飛び交っていました。
ついでに言うと、社についたところが、秘書のV嬢が、「あら、Yukoさん、No lesson today ですよ」

がび~~ん。スケジュール表を確認すると、今日のレッスンは一旦ブッキングしたのが後でキャンセルされたのでありました。そんな訳で約1時間ほどの無駄な朝のドライブをしたおアホでありました。

さて、昨日の話なのですが、「今日は車がないので行けません」と、珍しく夕方の日本語キャンセルの連絡が早いうちに入りました。火曜日の午後はお掃除のおばさんこと、ドナ・アナマリアが来る日なのですが、彼女がベランダを掃除している間に、わたしは台所をきれいにしようと決めてとりかかりました。

小一時間もかけて、磨き上げたキチン台のがこんな具合です。

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余計なものが出ていないキチン台はすっきりして、本当に気持ちがいい!キチン台がこんな風にすっきりするのは、夕飯の片付け後と朝、起きたときに目にする場合ですね。

朝食後、仕事で出かけたり、朝のレッスンがあったりする時などは、どうしてもコーヒーカップ、皿などが乗ったままになりますが、午後からずっとこのままだと、晩御飯の仕度で台所に入ったときに、気持ちがいいものです。よし!今日はおいしいものを作ろうか、なんて気になったりします。

磨き上げてる途中で入ってきたドナ・アナマリア、「わたしがするから置いといて置いといて」と言っていましたが、彼女の仕事を取り上げる結果になり、ちょっと余計なことをしたかな?と思ったり。

ベランダの植物もちょっと手を入れてみましたが、この数年あまり花を咲かせなかったブーゲンビリアがたくさん花をつけてくれました。
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そして、家の中にはドナ・アナマリアから誕生日にもらった胡蝶蘭も、ある日、気がついたらきれいに咲いていました。
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我が家は花をいただくと、日中ドアを締め切り、夜間、私たちが寝ているあいだはドアを開けっ放しにする息子と娘の部屋に置きます。猫たちが食べるもので、植物や花の中には、猫に害を与えるものもあってそうするのです。

また、ねこたちが子どもたちの部屋にスプレーを残したりしないようにと、日中は開かずの間です。主のいない部屋で花々は彼らの攻撃を受けることなく静かに咲いてくれるのです。

朝一番、台所で寝ていた4匹猫が真っ先に向かうのはベランダの猫草です。

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他愛もない一日でしたが、日日是好日なり。

では、みなさま、また明日。
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2019年5月12日

ダウンタウンをポルトガル語では俗にBaixa(=バイシャ。下の意味)と言います。 そのダウンタウンの目抜き通りが歩行者天国のサンタ・カタリナ通りです。

クリスマスの時期には、人でごった返し、通りは身動きができないほどのにぎやかさでしたが、郊外の大手ショッピングセンターの数軒もの出現で、往年の賑やかさはなくなっていました。

が、ポルトは2014年に、ヨーロッパで一番訪れてみたい都市に選ばれるなどして、ここ数年、観光客がうなぎのぼりに増え、サンタ・カタリナ通りは再び賑わっています。

ブティックが軒を並べている中、古い歴史を持つハイライトも幾つかあります。そのひとつが、Capela das Almas(カペラ・ダス・アルマス。Capela=礼拝堂 almas=魂、精神)です。

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18世紀初期に建てられた小さな礼拝堂ですが、外部を覆うAzulejo(=アズレージュ。青タイル絵)が完成したのは20世紀に入った1929年。総数15947枚のアズレージュが語るは、サンタ(聖女)・カタリナとアッシジのサン・フランシスコの生涯です。
 
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さて、聖女カタリナとは?と、わたしはこういうことにすぐ興味をそそられるのです。カトリック信者が多い国には、聖人聖女がたくさんおり、これらの名前と伝説を整理して覚えるのは生半可なことではありませんが、それを知らずしてこのアズレージュを見てなんとしよう!というので、以下。

サンタ・カタリナとは?

聖人、聖女の名はあまたあり、国によっては同じ聖人聖女なので呼び方が違ったりします。わたしはカトリック信者ではありませんが、現代に残る気になる名前の由来をたずねるのが好きで、よく調べます。

「カタリナ」はポルトガル人の女性名にもよく使われのですが、サンタ(聖)・カタリナはどうも二人いるようです。

そのひとりは、アレキサンドリアの聖女カタリナ、もうひとりがイタリア、トスカーナ地方、シエナの聖女カタリナです。二人の物語は一部似通ったところもあり、混乱を招くようです。

アレキサンドリアのカタリナは4世紀に名家に生まれ、高い教育を受けました。才女と美貌の誉れ高く、皇帝からの改宗命令を拒み投獄されます。車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられますが、カタリナが車輪に手を触れると車輪はひとりでに壊れてしまったがため、斬首、19歳で殉教しています。サンタ・カタリナのシンボルは、壊れた車輪、足元の王冠、剣、本、異教の哲学者と論争する女性、などなど。

もう一人、シエナのカタリナは14世紀の人で幼児期から幻視体験を持つといわれ、長じてドミニク修道女となります。興味のある方は検索してみてください。

で、件のアズレージュ絵はシンボルから、アレキサンドリアのサンタ・カタリナであると判断します。

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シンボルの剣と本をもっている。  

下は異教の哲学者との論争場面と推察。 

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聖女サンタ・カタリナ伝説は、場所がアレキサンドリアということ、才女と美貌の誉れが高い、ということ、惨殺されたという点から、わたしは、4世紀のアレキサンドリアの数学者、天動説に疑問をいだいた天文学者であり、新プラトン主義哲学者でもあった女性「ヒュパティア(Hypatia)」を思いおこします。

分裂していた東西ローマ帝国を統一して治めたただ一人のローマ帝国皇帝テオドシウス1世はキリスト教徒でした。哲学学校の校長であり、学術的、科学的な哲学を持つヒュパティアはキリスト教徒からすると、異端とみられていました。皇帝の異端迫害方針により、エジプトの非キリスト教宗教施設や神殿、有名なアレキサンドリア図書館と共にヒュパティアの学校も破壊され、彼女は修道士たちに惨殺されます。これにより、多くの学者たちがアレキサンドリアを後にします。学問が繁栄したアレキサンドリア凋落の引き金になったのです。

ヒュパティアについては、2009年カンヌ映画祭で受賞した「Agora」(芳名:アレキサンドリア)があります。タイトル「Agora」についても、知ってみるとなかなか面白い。 「アゴーラ」と読み、語源はギリシャ語。古代ギリシャの政治的人民集会や、その広場の意味になりますが、スペイン語では「予言する」の動詞、さらにポルトガル語の「agora」は「今、現在」の意味です。なんとも意味深な映画のタイトルではありませんか。 

中世期にヨーロッパを制覇したキリスト教ですが、実は異端教(キリスト教以外の全ての宗教)から拝借していることも多いのです。最たるものは「イースター(復活祭)」です。これについては後記にて案内します。

それを考えると、アレキサンドリアのサンタ・カタリナの伝説はひょっとして異教徒であり哲学者であったヒュパティアをモデルにしたのではないかと、思ったりするのですが、果たしてどうなのでしょう。

下記は「Agora」予告編です。



下は「イースター謎考」について。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1566.html
(イースター、なぜタマゴ?)

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-905.html(復活祭の謎考)
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2019年5月9日 

ポルトガルではどこの家にでも小さな食料貯蔵室があります。

これをdespensa(デスペンサ)と呼ぶのですが、うちでは玄関ドアを開けた右側にあります。食糧貯蔵庫と言うより、日曜用品貯蔵庫にしています。中に入れている大きいものは冷凍庫。これは肉魚もそうなのですが、わたしの場合は主に日本食品の冷凍保存 に使っています。後は掃除機やらアイロン台、ストーブ、カーペットやらです。

その食糧貯蔵室には、下の写真にあるような電気でお湯を供給してくれる大きな「シリンダー」が備え付けられています。このシリンダーが機能しなくなったり停電だったりすると、家の中はお湯がない、となります。

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これが火曜日の午後、水漏れしているのを発見し、冷凍庫も同じ場所にありますから、怖いことです。すぐに水道の元栓を締めシリンダーの電気も止めました。

そんな訳で、業者に見てもらい、シリンダーも年季が入っているもので修理ではなく新しいものに変えることにしました。昨日、その取り付け作業があり、2時間ほどで終わると言われたものの、その後の掃除もありますし、始めてみなければ時間内に終わるかどうか分かりません。

そこで、その日の日本語授業はキャンセルして、久しぶりに突然できた自由な時間を、業者の作業が終わるまでレース編みに費やしました。編み物や木彫りの時間はわたしにとって哲学する時間でもあります。ふふふ。

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しかし、いったいこれを何年前にわたしは手がけたのだろうか・・・思い出せないほど前になりますが、昨日のおかげで、できあがりに後一息というところまで来ました。

編み物も木彫りもかつてはせっせと取り掛かりせっせと終われるエネルギーがあったのに、近頃は日本語授業準備と授業、それに晩ご飯作りで、わたしの一日のエネルギーはほぼ終了です。

思索の確かなる時間は必要だなと思い至ってございます。

本日はこれにて。
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2019年5月8日

子供達がポルトガルで学校教育を受けていた頃は、「日本の教育は優れている」というのがわたしの頭にありました。しかし、その後、様々の教育問題のニュースを目にして行くにつけ、その見解は変えざるを得なくなります。

ポルトガルでは、学校は学科を学習する場であり、もちろん悪い態度などはその場で注意されるでしょうが、原則的に一般的なしつけは家庭のすることである、という前提があるように思います。子供達が授業を終えて校舎を出た途端、学校はなんの責任も負いません。

ですから、小学生(1年生から4年生と言う)の場合は親、或いは祖父母が徒歩、車で送り迎えするのが当たり前で、小学生がたった一人で歩いて登下校するのを目にすることはほとんどありません。

学校内に於いて、もっと配慮があると思われた日本の教育を受けてきたわたしが、子供達をBritishSchoolに入れた理由には、家庭では勿論しつけをするけれども、自分の目の行き届かないところで他人から受ける教育は少年期には大切だと思われたことにあります。英国の私立校は昔から厳しいdisciplineで知られています。「鉄は熱いうちに打て」ですw

わたしたちが日本の中学高校で学ぶ英単語には、日常生活用語や英国やアメリカの子供たちなら誰でも知っている単語が余り含まれていないことに気づき、英語を学ぶのが嫌いでなかったわたしは、子供達のノートやカードを作ることが大いに勉強になりました。

単に単語を覚えるだけでは、コミュニケーションはできません。わたしが毎日したもうひとつのことは、ベッドタイムの本の読み聞かせです。ポルトでも英語の本、特に子供向けの本はほとんど手に入りませんでした。しかし、ここがわたしの運のいいところだったのでしょう。ごらんください、この写真。

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これらの本は息子が4歳の時に帰国していた頃、大阪梅田にある大きな書店「旭屋」の店頭で投げ売りになっていたのを、偶然にも見かけたものです。

洋書がたったの100円でした!迷うことなく30冊近くの全てを買い込みましたw 買った時には知らなくて、数年後に気づかされるたですが、買い手もなく店頭に転がっていたこれらの本は、実は児童向けの有名な本だったのです。

本の中でも子供達が喜んだのは、「Dr.Seuss」のシリーズ」でした。
「I am Sam」で始まる「Green Eggs and Ham」「Fox, Socks ,Box、Knox」で始まる「Fox in Socks」
言葉の語呂合わせがよくて、何度も同じ言葉が繰り返し出てきて、しかも絵が面白い。これを毎晩ベッドタイムストーリーとして何度も何度も読んだのでした。

海外で生まれた子供には、日本語の昔話はどうもうまく運びません。
  
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。
おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました。
すると、川上からおおきな桃がどんぶりこどんぶりこと流れて来ました。

と、すかさず子供から、
「芝刈りってなぁに?どんぶりこってなぁに?鬼ってなぁに?」

鬼ってわたしの好きな泣いた赤鬼だってあるんだから、デビルじゃないしなぁ。どんぶりこって擬態語だよね・・およそ日本語ほど擬態語が多い言語はないんじゃないのん・・・えぇ~っとね・・・

おいおい、これじゃ、話が途切れてしまって続かないよ。と。こんな具合になってしまうのでした。

日本にいたら子供もわたしもあんな事ができる、こんな事ができる、と時々思いながらも、欲を言っても仕方がありません。毎日、上に述べたようなことを繰り返していたのですが、子育てが一段落ついたところで、ふと気づいたことがあります。

あんなこともこんなこともできなかった。テレビも面白くなかったし、今のようにショッピングセンターもなかったし、面白そうなカフェやレストランもなかった。子どもたちにしてみたら、テレビゲームもコンビニも、カッチョ良い文具品もなかった。

自己啓発、自己活性化のためにと、世間一般に言われる「刺激のある」生活はほぼできなかった。しかし、なんと落ち着いた規則的な毎日であったろう。

子供たちの精神が安定しており、ゆっくり時間をかけて学ぶことができたのは、きっとこの「刺激のない生活」ゆえだったのではなかったかと。

次回は、わが子の日本語学習取り組みに入って参ります^^
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2019年5月3日 

時代が令和に入り、日常生活で、特に海外に住んでいると、だからと言って何かが変わると言うわけではないのですが、一つことにけじめをつけて再出発することにより、希望のようなものを感じるのは、私たち日本人の特質だと思います。

ポルトガルでは「令和」を「Bela Harmonia(美しき調和)」と言っており、平和が成就した前時代に続き美しき調和を保つ国に、是非ともなって欲しいと願わずにはおれらません。

昨夜はアベイロに住む義姉が電話をかけて来、新天皇即位の様子をテレビで見たのだが、あの長い箱や四角い箱は、いったい何なのか。Ze(彼女の弟、我が夫の兄)とも電話で話していたのだが」と問い合わせがありました。

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wikiより
日本の歴代天皇が継承してきた、天照大神がニニギノミコトに授けたと言われる三種の神器(さんしゅのじんぎ)のことです。と言っても、勾玉(まがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)の三種のうち、儀式に登場した本物は勾玉だけで、あとの二つは形代(かたしろ)と呼ばれるレプリカなのだそうです。

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wikiより

若い頃、わたしは三種の神器は安徳天皇と共に海底に沈んだと思い違いをしていましたが、鏡と勾玉は源氏により拾われ、剣は水没したため皇居に現存する草薙剣は形代だと説明されています。

日本語学習者と平家物語の「敦盛」「扇の的」「木曽の最後」などの断片を読むと、どうしても説明をすることになる平家一族の最後なのですが、壇ノ浦の戦いの段で三種の神器の行方について話すことになりますので、わずかながら、即位儀式を見た義姉に説明できたのでした。

さて、1979年(昭和54年)以来、ずっとポルトに在住しているわたしですので、昭和の時代末期から始まったバブル景気は体験しておらず、ただただ横目で眺めておりました。

若い日本女性がパリのブティックで高価なブランド物を買い集めるという話は度々ニュースにのぼり、
「ひゃ~、どっからあんなお金がでてくるんだろねぇ」と思ったものです。

バブル景気とグローバリズムで辺鄙だったポルトガルにも日本企業が進出し、その当時にポルト補習校も創立され、以来、わたしはそこに携わってきましたが、企業関係のみなさんの羽振りには目を見張るものがありました。Japan ナンバー1の時代です。

上りつく後に来るのは下りです。諸行無常、盛者必衰の理、おごれる者も久しからずと、世は平家物語の序文と少しも変わらないのです。昭和天皇崩御と時をほぼ同じくして始まったバブル崩壊、そして、日本社会に大きな変化が訪れました。

その社会変化を目の当たりにしていないもので、我がモイケル娘にわたしが話して聞かせたわたしの1970年代の日本OL時代の体験話は、彼女を日本に憧れるところに導いてしまったのですが、後に彼女曰く、おっかさんから聞いていた日本と違うぞ・・・・さもありなん。

平成が終わった今、戦争がなく平和な時代だった、との言葉を耳にしながら、思うのです。64年の昭和に比べてその半分、30年の平成でしたが、外から見てきたわたしからすると、日本国内はカオスめいた時代でもあったのではないか。大きく口を開けたなんでも飲み込む混沌。

昨今の日本で起きた大小様々な事件や出来事を耳にするたびに、この束の間の、似非平和の後にやってくるものが、怖い気がするのです。60年の昭和時代に培われてきたものが使い果たされつつ、日本人の殊勝な性格が、お金に例えれば、その性格の貯金がなくなってきてるのではないか。

世代が違うと言ってしまえばお終いだが、海外の小さな日本人社会を見ていても、かつて、海外から称賛された日本人の殊勝な性格、心がけは消えつつあるような気がしているわたしである。

平成は、日本人の価値観が変わった時代だとわたしは思う。
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