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2019年8月30日 

東京息子も一週間ほど前に日本に帰り、先週末で我が夏休みは終了。

早く日本語学習を始めたいという生徒も何人かいて、自宅での個人授業は月曜日からぼちぼちと始まりました。来週からは土曜日の教室も開始です。

さて、ポルトに来て丸40年を過ぎたのですが、子供達が中学校を終えるころまでは、生活の中心は彼らでした。当時も家で二人ほどの日本語学習者はとっていましたが、子供たちが学校に行っている時間帯です。

息子が就学年齢に達したとき、6歳下のモイケル娘は1歳少しで、毎週土曜日にわたしが補習校で講師をしている間は、夫が娘の面倒を見てくれました。

子育て当時、したいことがなかったかと言えば嘘になりますが、「それを犠牲にして」なんて気持ちは毛頭ありませんでした。子育てをする事によって自分自身が育てられたと言った方がわたしの場合は適切(笑)。過言ではないです。

その例の一つとして、日本文化の素晴らしさに目覚めたことが挙げられます。子供達の学校生活を通して、日本という異文化には、みなさん多少の興味を示します。それで、日本文化に関するボランティア依頼もよくきたものです。
                                    
ところがです、その母親ときたら、日本にいた若い時分は目を外へ向けるばかり。ちょっと反骨精神を持っていましたから、それを振り回していわゆる日本の社会常識ごときものは、伝統文化から習慣までうっちゃってしまい、我が娘以上に「ヘッ!そんなもん」くらいに思っていましたのを、告白します。
                                           
これがです、こちらでの生活が長くなっていくに連れて、このままでは、どうもヤバイと感じるようなことが多々出てきたものです。
                                    
・「日本の伝統文化を紹介してもらえないか」 とポルトガル人 
(↑しょ、紹介できるもんは折り紙の鶴くらいしかおまへん^^; 紙風船もだまし船も本を見ないとできまへん^^; お茶?お花?とんでもない!あんなん人様の御前でご披露できるまで行くには、何年もの修業と多額なお金がかかるざますよ。 一人暮らしの身でお月謝が払えるわけおまへん!)                                   

・「着物を着て結婚式に来てくれないか」         
(↑来た!あぁぁ、せめて母に着付けを教えてもらって着物を受け取るんだった。着物があるにはあるが、一人で着たことがないでぇ。はい、誰も知らぬをいいことに、勝手気ままに着て行きました。後日そのときの写真を母に送りましたら、「なんちゅう着方をしとるん!」と叱られました^^;
                                   
・「その理由も含めて、日本はどういう新年の迎え方をするのか」
(↑これ、今ならネットで検索ができますが、当時は当然パソコンなど持っていませんでしたから、日本語、さらには英語の本まで読み漁って勉強する羽目になりましたぞ(爆)逆だっちゅうのよ^^;)
                                               
・「日本人はこういうときに、なぜこのような行動をとるのか」
(↑これは、背景となる日本文化の知識が少しでもないと歯がたちまへん。その上で自分で考えて行きます。一般論でなくていいと思うのですね。 「~だからだとわたしは思います」で結びます。ずるい(爆)                                        

・ぬぬ?と思ったのには「国歌を歌って録音して欲しい。紹介したいから」というのです(笑)これはインターネットが普及している今なら、頼まれることもなかったでしょう。伴奏なしで歌って録音しましたです、はいw(←これはどこぞの学校の要望でした)

つまり、日本人である個人のわたしを通して、日本、日本人を知りたい、となるのです。 いい加減なわたしも、これにはびびって考えさせられました。
       
海外で生活すると言うのは、勿論一般の日本人としては、非常に個人的なことなのですが、人々は個個の日本人としてよりも、その人を日本人全体の姿と見がちです。

ポルトガルに住むことがなかったら、わたしは相変わらず自分の国の文化に大して興味ももたず、調べもしないでいたかも知れません。その必要性を実生活の中で感じる機会が少ないですから。

こういう自分のふがいなさから、実演披露や言葉での説明はできないが、日本文化を知ってもらえる他の方法はあるまいか?と考えて取り組んだのが、実物を目で見てもらう、ということです。

わたしのボランティア日本文化紹介はこうして始まったのですが、長年かけたとは言え、よくぞこんなものまでと思われるコレクションも中にはあります。

tsukagashira1_1.jpg

これは柄頭(つかがしら)と呼ぶのだそうです。わたしがポルトに来た当時、名誉領事をなさっていたCarvalho氏のコレクションの一部だったのですが、未亡人から形見分けとして、わたしのもとに届けられて来たいきさつがあります。

tsukagashira2_2.jpg

価値については分からないのですが、日本語学習者の間では人気のマンガ「流浪人剣心」もあるので、展示会に出してみました。すると、柄頭は持っていないが鍔(つば)がある、という生徒がいて驚いたのでした。
                             
自分の国のあれも悪い、これも悪いと欠点を揚げ連らねていたのが、いざ、他国の人達が一緒になって、「そうだそうだ~」と攻撃し始めると、自分が言っていたのは棚に上げて、「他国人に言われたくないわ」と腹が立つものです。今で言う「おまゆう」ですね(笑)

日本の外にいてつくづく感じるのは、良い所も悪い所も「オラが国」である。

今日は、家の中を少し整理していて出遭った柄頭から、こんな話になりました。

ではみなさま、本日はこれにて。
                           
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2019年8月28日 

リスボンから特急で北へ2時間、ポルトからだと反対方向の南へ1時間の所にあるのが、学生の町コインブラ(Coimbra)です。

人口14万のうち2割ほどがコインブラ大学の学生だと言われます。わが夫の母校でもあります。

コインブラ大学は13世紀にディニス王1世によって創立され、ヨーロッパでも最古の大学のひとつに数えられます。バロック様式の図書館、チャペルセレモニーホールなど、現在も往時をそのまま目にすることができ、校舎内に入ると一瞬中世に迷い込んだかのような錯覚に陥ります。
    
5月に2週間催される学生祭は,黒マントを身にまとった学生のその独特な趣からして毎年ニュースになるのです。そして、このときに聞くことができるのが「学生ファド」です。抵抗の歌人Zéca Afonsoもコインブラに学び、今でも彼が住んでいた下宿屋が残されています。

coimbrafado1.jpg coimbrafado2.jpg

上はWikipediaから拾ってきた写真ですが、それから分かるように、男子学生は自分の好きな女性が住む窓辺や階段でセレナーデを歌ったりしていました。これを聴いた女性が部屋の灯りを何度か消したりつけたりすると、ゴーサインだったのだそうですよ。この古い告白の仕方、素敵だなぁなんてこれまた少し古い人間のわたしは思うのですが。

学生ファドはコインブラでしか聞くことができず、またリスボンファドと違い、学生祭の時をのぞいてはかなかな聞くことができませんでしたが、現在は「Fado ao Centro」を始めいくつかの場所で聞けるようです。

coimbrafado4.png

男子学生によってのみ歌われます。伴奏はリスボンファドと同じく、ギターと12弦のポルトガルギターとで演奏され、歌い手の男子学生は中世の吟遊詩人のごとく、黒いマントを身にまとって歌います。
   
この黒いマント、ポルトガル語ではcapa=カパと呼び、実は日本の時代劇に出てくる渡世人さんがまとった「かっぱからげて三度笠」の「かっぱ」は、これが語源です。

わたしはかつて夫とともに招かれて、コインブラの古いサンタ・クルス修道院の庭(下の写真)で、この学生ファドを聞く機会がありました。

遅い夕食後のほぼ真夜中、煌々と月が照る古い修道院の中庭。聴衆はみな思い思いの場所に立ったり腰をおろしたりして聴いた学生ファドは、静寂 な修道院の中庭ででしんしんと降り注ぐ月光と浴びて、それはそれは素晴らしいセレナーデでした。
 
ところがです、この学生ファド、一曲が終わってもだれも拍手をしない!わたしは拍手するすんでのところを夫に止められました。拍手をするどころか、一曲終わるごとにみんないっせいに「せきばらい」をするのです。
  
そうです、コインブラの学生ファドには拍手はご法度なのだそうです。拍手のかわりに「せきばらい」です!

もしもいつかあなたがコインブラファドを聴く機会があったら、拍手はしないでコホンコホンの咳払い! 間違えないでね^^

coimbrafado3.jpg

写真は、遠い昔のわたしたち。息子が生まれてすぐの頃で、わたしはまだふっくらしており、夫も贅肉なしの若かりしとき。

わたしの体重はこの後、いったん元の42、43キロに戻ったものの、二人目、モイケル娘を産んだ後がいけませんでした。71の今では、この頃の体重に7キロほどつくでしょうか(笑)

コインブラ・ファド、聴いてみてください。わたしの好きな学生ファドのひとつです。

https://www.youtube.com/watch?v=9PO2kbWy1H4

あ!でもこの動画では、皆さん、拍手をしてますね!(笑) 近年増えた拍手ご法度を知らない観光客でしょうか。夫に再度確認したら、「拍手はしない」でした。

けど、拍手してるで~~(笑 )いやいや、言わぬが花。夫の昔のままの思い出をそのままにしておきましょう^^

日本では「ポルトガルの春」としてアマリアが歌っているのが有名ですが、これはポルトガルでは「Coimbra」と呼ばれるファドのひとつです。
https://www.youtube.com/watch?v=Buf4ypbWCpw

下はコインブラ大学Queima das Fitas(卒業祭)で「別れを告げるとき」を歌っています。
https://www.youtube.com/watch?v=f3WGttZdksg

日本を離れて40年、わたしもポルトガル人の言う「サウダーデ」の意味が分かる年齢になりました。

本日はこれにて。
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2019年8月26日 

それぞれの国がもつ独特の文化音楽、フランンスにはシャンソン、アメリカにはカントリ・ウエスタン、日本には民謡の例にあるように、ポルトガルにも「ファド」と呼ばれる歌があります。

「ファド(fado)」はポルトガル語辞書を引くと「運命、宿命」とあります。ラテン語の流れを汲むポルトガル語は、ラテン語のfatum(運命)を語源にしています。

かつて日本の音楽の教科書にも、ポルトガル民謡の代表的な歌として取り上げられたのに「暗いはしけ」と言う歌があります。原題は「Barco Negro」(バルコ・ネグロ)、黒い舟という意味です。漁に出たまま再び帰らない愛する人を恋うる歌なのですが、ファド歌手が歌い上げると、教科書の楽譜からはとうてい伺えない、切々たる思いが聴くものの心に響いてきます。

ファドはfadistaと呼ばれる一人の歌手とポルトガルギター(12絃)、そして、ビオラ(通常のクラシックギター)の伴奏で、薄暗いライト照明の元で演奏されます。

ファド歌手は主に女性歌手に有名なのが多いですが、国内で人気のある男性歌手もいます。カルロス・ド・カルモは齢79歳になりますが、息の長い人気歌手です。女性のファド歌手は全身黒い衣装を身にまとい、多くは黒のショールを肩にかけます。

guitara.jpg amaria_1.jpg
12絃のポルトガル・ギターラ            歌うアマリア (Wikiより)


ファド歌手として世界に名を馳せたのはなんと言っても「アマリア・ロドリゲス(Amaria Rodriques.) ポルトガルでは単にAmaria と呼ばれて親しまれていました。1999年に79歳で亡くなりましたが、この時ポルトガルは三日間の喪に服しました。

彼女の葬儀にはファンのみならず当時の大統領も列席し国葬並みの扱いで、国民の誉として、エンリケ航海王子、バスコ・ダ・ガマや文豪カモインスなどの記念碑があり、ポルトガル歴代の英雄たちが埋葬されるリスボンの国立パンテオンに眠っています。

現在は、日本でも知られる若い女性ファドシンガーが新しいスタイルでファドを歌っていますが、アマリアを聞き続けた時代もあり、彼女を超えるファド歌手はいないだろうと思っています。

出稼ぎや移民が多いポルトガルです、異国の地でファドを耳にすると、「Saudade(サウダーデ=望郷)」
の思い止まず、ポルトガル人は涙すると言われます。ポルトガル人に限らず、聴くものの心に望郷の念を呼び起こさずにおかないのがファドなのです。

ファドにはこのように、ポルトガルのブルースとでも言えるようなSaudadeを歌ったものが多いですが、日常の生活をユーモアたっぷりに皮肉ったりなどの陽気な歌もたくさんあります。

さて、ではファドのオリジンはと言うと、これが「カステラ」の語源同様、今日でもはっきりしないようです。そこで、わたしが聞いている説をいくつかあげてみます。

そのひとつ、ファドの起源は11世紀から14世紀に遡り、運命論者のアラブ人がポルトガル・ガリザのことを歌に表わしたのがそうだと言われます。
 
この当時のファド歌手は男性に限られ、男が女性の気持ちを歌ったもの(これは日本の演歌でもよくありますね。森進一や美川憲一などは女の立場に立って演歌を歌っています)や、時の貴族への批判
を歌にしたりしました。

ガリザは、現在のスペインの一部、かつてのレオン王国の一部でポルトガル北部と隣接する地方です。
11世紀から14世紀といえば、ポルトガルは建国の幕開けから、レコンキスタの戦い(イスラム教徒との国土奪回戦争)に明け暮れ、国土の奪回がイスラム領土の首都、コルドバに移動して行ったころです。

もうひとつ、わたしが聞き及んでいるのは、船乗りたちの詩や歌がファドになったというもの。今のようにけして楽でもロマンチックでもなかった厳しい航海の旅、波に揺られては故郷を思いそれを歌にたくしたというものです。

また、ファドは「Lundu(もしくはLundum)と呼ばれるアフリカのダンス・ソングから来たという説もあります。このダンス・ソングことLundu=ルンドゥは、18世紀の終わり頃にポルトガルやブラジルでも知られるところとなり、ブラジルのサンバの起源だとも言われます。

こうして、ルンドゥとリスボンに寄港した船乗りたちの歌が一緒になったものがファドというわけです。

ファディスタの元祖Maria Severaについて

今でこそファドはポピュラーな音楽として色々な歌手に歌われていますが、リスボン・ファドの歴史をひもといてみると、ちょっと面白い。

19世紀初期、ファドはリスボンの波止場や色々な人種が住み着くあまり柄のよくない地域のタベルナで、浮世の憂さ晴らしとして歌われていました。その中にMaria Severa(マリア・セヴェラ)というジプシーの人気ファディスタがおりました。セヴェラは愛らしい高級娼婦でもあり、愛人も数人おったそうな。

mariasevera.jpg
Maria Severa (1820~1846) Wikipediaより

そのSeveraに裕福な貴族、Vimioso伯爵が恋し、セヴェラを闘牛場の公の場に伴ったりしていたのが、彼女は26歳の若さで結核のため命を落とします。後、伯爵はファドを貴族のサロンへと持ち込みます。

こうして、ファドは人々に知れ渡り、王室のサロンですら歌われるようになり、歌の内容もSaudade(郷愁)、Amor(愛)をテーマにした詩的な歌詞がメランコリなメロディーで作られるようになりました。

現在ファドはリスボンのツーリスト用のレストランなどで聴かれます。
ポルトでは、「Fado na Baixa」毎日夕方6時から7時半まで、わたしが行った事があるファドの聴ける有名レストランには、リベイラの「Mal Cozinhado(こしらえが悪い料理の意味)」があります。

・Fado na Baixa  Rua do Outeirinho 13 Porto
・Mal Cozinhad Rua de São João, 99A Porto 
 月~土 21:00~24:00  食事付きで一人30ユーロほど。a o Outeirinho, Nº13

下記ではファドの中でも最も知られる名曲のひとつ、「Cancao de Mar(海の歌)」 現在ポルトガルを代表するファド歌手、Dulce Pontesの歌で聴けます。
 http://www.youtube.com/watch?v=Qy9fzZqJGYM&feature=related

歌のプロローグがどこかアラブ風な感じを受けるのですがいかがでしょうか。ポルトガル語の意味が分からなくても思わず引き込まれる歌です。この歌はイギリスのサラ・ブライトマンが「ハーレム」と題しても歌っていますが、やはり声量、迫力に差があり、俄然Dulce Pontesに軍配あり。

早とちりな性格なもので、記事中に勘違い等がありましたら、お詫びいたします。

ところで、ファドにはもう一種類、リスボンのとは違った趣のファドがあるのをご存知ですか?

次回はそれについて。

ではみなさま、本日はこれにて。
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2019年8月25日 

高校へはバス通学か徒歩だった。
徒歩だと我らが埴生の家からは40分近くかかる距離である。

うっそうとした樹木を両脇に歩き、そして、新校舎が建築されるまでの向こう一年間、一時しのぎとして、それまで使用されていなかった古びた建物が仮校舎である我が母校近くまで来ると、今度は樹木ではなくて林檎畑が両脇になるそのバス通り道をわたしは随分楽しんだものだ。

弘前南高校花序


高校まで歩く時間がなくてバス代がある日はバスで、時間があるとき、または、時間がなくてもバス代がないときは、たとえ遅刻であったとしても40分徒歩登校であった。定期を買うにはまとまった金額が要り、それが難しかったのであります。

さて、その高校に入学してすぐのこと。

当時中学生だった妹と二人家を出て、バス停に向かって歩いていたのでした。と、妹が突然、足先の少し先の地面を指差し、

「あ、牛の馬糞(ばふん)だ!」
「あああ、イヤだねぇ。気をつけよう」と、そこを避けてバス停にたどり着き登校した。

高校生活第一日目の初めての一時間目の授業である。

ぬぬ。「漢文」とはこれまで見たこともなし。(今では中3の国語教科書で漢文のさわりが出るが、当時は中3カリキュラムにはなかったと思う)教室に入ってきたのは、四角いいかつい顔をした中年の男の先生であった。実はこの先生、教頭でもあったのだ。

今なら大いに興味を示すであったるうが、当時は漢文の授業はなんだか意味がよくわからぬ・・・ 少し眠気が差して来始めたころ、どういう拍子でか、けさ方の妹の言った言葉が唐突に頭の浮かんだ。

「牛の馬糞・・・・待てよ?おかしいじゃないの。牛の馬糞てことはないぞ。牛だったら牛糞だぞ。辻褄が合わんではないか。」「あっはははは。妹ったら頭良さそなカッコして、牛の馬糞だってよ」と、頭の中で言い出したのがウンの尽き!(これまた、ウンでした。爆)

わたしはすっかり可笑しくなり、これが頭から出なくなったのである。初めは胸の中でクスクス笑っていたのが、その内「クックックックック」と笑いが口をついて出てきそうになり、それをこらえるのに席に座ったまま、少しうずくまるような格好で小腹抱えた。

しかし、「牛の馬糞」は一向に頭を去らない。去らないどころか、笑いをこらえきれなくなって、とうとうわたしは漢文の授業中に「ワーッハッハッハッハッハ」と大笑いしてしまったのである・・・・

驚いたのはクラスの皆。一斉にこちらを振り向き、漢文の先生に至っては、恐い形相で睨みつけまする・・・ショッパナからこんなことをする女生徒は、以後、漢文の先生にすっかり目をつけられてしまったのでありました。

これは帰国した際、今では笑い話として妹との間によく上る話題のひとつになりました。

縁は異なもの、先生の娘さんが、我が妹と弘前高校で同級生だったということを、妹の話から初めて知りました。当時、先生はしばらく車椅子に座っておられたとのことだったが、弘前に住む我が同窓生から「鈴木先生がなくなられました」とメールが入ったのはもういつだったろうか。この漢文の先生でした。

今日は「牛の馬糞」を始め、台所で、あれやこれやと高校時代のことがしきりに思い出され、いつもに輪をかけてボケ~ッとしてしまい、切ったトマトに岩塩ならず砂糖をふりかけていたのも気づかなかったおっちょこちょいでありました。

高校の関連記事は下記にもあります。よろしかったらどぞ。

「浦島の玉手箱」">「浦島の玉手箱」

「早春の津軽行・思い出ぽろぽろ」

「津軽行・かっぺいさんと同窓生と校長先生」


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2019年8月24日 

ナザレついでに、今日はナザレをロケ地にした映画「過去を持つ愛情」にちなんだファドBarco Negroについて。

この記事は2018年3月に一度あげていますが、新しい情報と一部訂正して書き換えたいと思います。

亡き母の影響で若いときから古い洋画に興味を持ち、機会を見ては観てきましたが、それだけでは多くの名作を知ることができず、猪俣勝人氏の「世界映画名作全史」文庫本3冊を手に入れて、時に開いては古い映画のストーリーを読んで楽しんできました。

eiga.jpg

今では本のページが薄茶色に色褪せてしまっています。3冊のなかでよく開いたのが、マレーネ・ディートリッヒの表紙の「戦前編」です。「地と砂」「第七天国」「西部戦線異状なし(これは今DVDで持っている)」「嘆きの天使」「モロッコ」「巴里の屋根の下」「間諜 X27」「巴里祭」「一日だけの淑女」と、気に入りの古い映画は限りなく、探しては観たものです。

さて、作品「過去を持つ愛情」は1955年のフランス映画ですから、戦後編で確認しようと開いたところ、猪俣氏が見落としたのか、残念ながらこの映画は掲載されてありませんでした。

原題は「Les Amants du Tage(テージュ川の恋人たち)」。テージュ川はイベリア半島最長の川でスペイン中央部からリスボンに流れ込み大西洋に入ります。

第二次世界大戦中は中立国だったポルトガルです。映画「カサブランカ」でも触れられていますが、当時のリスボンはアメリカへ向かう難民たちの主要な国際港でした。ナチスの手を逃れて多くの難民がリスボンからアメリカへ渡ったそうです。
映画はそれから10年ほど経ったリスボン、ナザレが舞台です。

leamants du Tage
テージュ川で。Wikiより

パリから逃れリスボンでタクシー運転手をしているピエールと夫を事故で失ったカトリーヌがリスボンを旅で訪れます。その暗い過去の傷を持つ男と女がリスボンの酒場で出会うシーンで歌われるのがBarco Negro」(黒い舟)です。

amalia.jpg

1999年に没したファドの女王、アマリア・ロドリゲスを世に出した歌です。

日本語では「暗いはしけ」と訳されていますが、少し意味合いが違うように思います。「はしけ」は貨物や客を運ぶ小さな舟のことですが、「Barco Negro」は歌っている意味からして漁船です。

アマリアの歌の中でも名曲といわれるファド、と思ってきたのですが、なんと、原曲はブラジルの歌だったのです。

これには少し驚きました。 ポルトガル人も知らない人が多いのではないでしょうか。夫に、この知識をひけらかすと「まさか?」の顔で言うことには、「ネットにあることが全て正しいとは限らんぞ。」でありました(笑)
そんなことはもちろん承知ですよ。 しかし、まぎれもない原曲を今度はポルトガルの人気歌手「ドゥルス・ポンテス」が歌っています。その原曲は「Mãe preta」(マイン・プレタ。直訳:黒い母=黒人の乳母の意味)。

♪黒人の乳母が主人の赤ん坊を揺りかごであやしている。
  こんな風にして白人の子供を育ててきたが、
  その間に、黒人の我が子は農園で鞭打たれながら働いている。

と、黒人の母の悲しみを歌ったものですが、映画「過去を持つ愛情」では、歌詞をすっかり変えて原曲をはるかに上回るファドの名曲にのし上げています。ブラジルで作られた歌ですが、実はポルトガルでは
この歌詞が禁じられたもので、全く意味の違ったポルトガル語歌詞に書き換えられたのだそうです。本来はファドではなかったとは、驚きでした。

下記のリンクからこの2曲を是非聴き比べてみてください。

アマリアの「Barco Negro」


漁に出て行き帰って来ない愛する男への「あなたはわたしの胸の中にいつも生きている」との思いを切なく歌っています。
  
ドゥルス・ポンテスの「Mae Preta」 


アマリアの前にも後にも、素晴らしいファド歌手はなし、とは、わたしの思うところです。

下はわたしが10年ほど前、ナザレを訪れたときの写真。人影なく寂れた漁村でした。

ナザレ2009

ポルトガルで始めて、鯵の干物を見ました。この老女からたくさん買いこんだのですが、日本のとは違い、とにかく固かくて食べるのに苦労しました!

mulherNazare.jpg

映画「過去を持つ愛情」のストーリーは下記にて読めます。
https://movie.walkerplus.com/mv13577/

ナザレについては、これでお終いにします。
ではみなさま、また。


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2019年8月23日 

今日はナザレの礼拝堂(Ermida da Memória)地下から。

小さな礼拝堂に入り、地下へおります。
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美しいアズレージュの階段を少しおりたところ、この地下の洞窟に長い間黒いマリア像は眠っていたのでしょうか。左側にマリア像のレプリカが置かれています。

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と、・・あれ?レプリカは白いマリア様に変身させられていますぞ。だめじゃないですか、これと、多少がっかり。勝手に肌の色を変えてしまうなどレプリカとはいえないと、一言苦情を言いたいところです。

さて、ここからは件のポルトガル唯一だと言われるSantuário de Nossa Senhora da Nazaréの黒いマリア像です。

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教会内部。

祭壇の写真を撮っていると、黒いマリア像が置かれている祭壇の上を人が時々通ります。
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聞けば、祭壇に向かって左側から、1ユーロで裏に回り、目の前で見ることができるとのことで、夫と息子は興味なし、わたしが一人で入ってきました。

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祭壇の裏側も美しいアズレージュが施されています。この階段から入ります。
 
027_2.jpg
こちらは明らかに黒いマリア様です。

「ノッサ・セニョーラ・デ・ナザレ:AD714年にメリダ(スペイン)から運ばれ468年間この岬の洞窟に隠されていた。1182年以来Alma Portuguesaとして崇められている」と説明されています。

木製で高さ25cm、最古の黒いマドンナ像のひとつと考えられるのだそうで、言い伝えによれば、ナザレの大工のジョゼフ(イエスの父にあたる)がイエスが赤ん坊のときに作り、数十年後に聖ルカが色付けをしたのだそうな。

すると、ジョゼフがグノーシス派でもないかぎり、ナザレの黒いマリア像を神秘主義者たちのシンボルとするには無理がでてくるのだが。とは、わたしの突っ込み。

ナザレのマリア像は左ひざの上に赤ん坊を抱いていますが、典型的なエジプトのイシスとホルス像の形であり、頭部のヴェールは東地中海の伝統を表しています。

ちょっと比べてみましょう。

blackmadonna.png
イシス女神とホルス  いわゆるカトリックの聖母マリアとイエス

ここからは、黒いマリア像も含むシンボルの謎に対するわたしの考えです。

キリスト教が古代の異教から多くの行事を取り入れていることを見ると、エジプトの神秘主義との間に類似性があっても不思議はないでしょう。異教徒とみなされることから逃れるために、神秘主義者たちが聖母の白い肌の色を黒にし、数世紀もの間、密かにそれを崇め続け、その結果今の時代までそのシンボル残されてきたとしたら、歴史の大いなる一面だと思います。

黒いマリア像をわたしはイエスのただ一人の女弟子、マグダラのマリアと捉えているのですが、今回のナザレの黒いマリア像については、突っ込み部分もあり、果たして神秘主義者が崇めるマグダラのマリア像を意味するのかどうか、不明です。

ローマカトリック教が強大な権力を持ったヨーロッパ中世、カトリックにあらずんば人にあらず、と社会的に存在を否定された時代に、自らの思想を貫かんがため、同志だけが分かるシンボルを建築物や作品に密かにしたためた抵抗者たちがいたことを知るのは意味があると思います。

厳しい環境に身をおきながら、いかにして自分の信念を後世に伝えることができるか、その方法を編み出す知恵者と絶対権力者たちとの競合には、手に汗握るものがあると思うのですが、みなさまはいかがでしょうか。

カトリック教会に反骨精神逞しい人と言えば、ミケランジェロを思い浮かべますが、興味のある方は下記をどうぞ。

・バチカン:システィナ礼拝堂の隠されたミケランジェロ暗号

・バチカン:システィーナ礼拝堂の隠された暗号(2)

・ローマ編:ミケランジェロのポルタ・ピア門

・ミケランジェロ:システィーナ礼拝堂の隠された暗号(2)

・ミケランジェロ:システィーナ礼拝堂の隠された暗号(3)

本日はこれにて。
「spacesis, 謎を追う」シリーズにお付き合いいただき、ありがとうございます。

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2019年8月22日

ポルトガル時間午後5時過ぎ、日本時間で午前1時過ぎに「今家に着いた。雨が降ってたからびしょ濡れだぁ。」と、我が東京息子からメッセが入りました。アンちゃんによろしくね、と返信する。この3週間、賑やかな息子がいたのですが、我が家は今、火が消えたかのようで、こういう寂しさはちょっと堪りません。

相手をしてくれる友人はたくさんいるので、一日中、家にいる息子ではないのですが、晩御飯は一緒に食べるのか、それなら量は多めに作らないといかんとか、今日は誰に会うのか、おアホなことをしでかさないかとか、そうやって気にかかるのが、息子が家にいるという証拠です。

もう放っておきなさい、子どもじゃないんだから、と夫は言いますが、息子が側にいて気にかけられるというのが、嬉しいのです。

日本とポルトガル、遠く離れていてもメッセンジャーやスカイプのあるご時世です。女同士のモイケル娘とは、彼女の独身時代には毎日のようにチャット交換してきましたが、息子とのそれは、「元気?」「うん。そっちは?」「問題なし。仕事はちゃんとできてる?」「うん、」「なにか必要なものはない?」「Nothing special」と短いものです。

だが、三つ子の魂百までと言います。子供のころからの息子の性格からして、きっと大笑いするような話が山ほどあるに違いない。

そこで、今日は息子の話をば。こうして書いていると笑えて寂しさも紛れるというものです。

まだ、息子と娘が千葉のアパートに一緒に住んでいたころのこと、帰国しては、二人のアパートで嬉々として年に一度の母親業をしていました。夕食時の息子の話には笑うばかり。以下、いくつかあげます。

週に何度か近くのジムに通っている息子、力いっぱ、筋トレをしていたら、係員が顔を青くして飛んで来て、「お客さま、もう少しヤサシクしてください」と言われたのだそうだ。

筋トレ用具を壊さんばかりに思い切りガンガンやっていたのだろう。まったくいい年をして加減と言うことを知らないヤツではあると思いながら、その様子を想像したら、ジムには悪いが可笑しくて笑い転げてしまった。そんなのがいくらでもあると息子は言う・・・・・^^;

年末にすぐ近くの商店街で福引をした。例のガラガラポンを一回まわすのだが、あれを衆人の目前で力いっぱい何回も回して、回す部分が台から外れてしまい、玉いっぱいが外へ飛び出してしまったって・・・・息子いわく、「おれ、知らなかったんだ、一回しか回さないってこと。てへへ^^;」

そこに居合わせた日本人たちのあっけに取られた顔を思い浮かべると、「お前というヤツは~」と言いながら、これが笑わずにおらりょうか(爆)日本の皆様、息子がご迷惑をかけておりますが、どうぞ長い目でみてやってくださいませ。

ある日、ネットで見かけたこの写真に思い当たり、わたしは可笑しくて仕方がなかったものだ。

choimachi2.jpg
「まだじゃ。まだ早いのじゃ」

息子の幼い頃の様子がいかにも分かるという一枚です。ご覧くだされ。
東京息子

「裏面に1983年3月、ポルト」と記されています。夫の友人の別荘で誕生パーティーに招待され、記念写真を撮るところ、いや、撮ったのであります。

他の子どもたちはみなおとなしく並んで待っている中、我が息子のジョン・ボーイだけが砂遊びのショベルを持って、ちょろちょろ動き周り、やっとひっ捕まえて並ばせ、「はい、ポーズ!」とカメラのシャッターを切った瞬間逃げ出し、「あ、こりゃー!」

咄嗟にひっつかまえようと地面に片手片膝ついてつんのめりながら息子のズボンをひっぱっているのが、わたくし^^;息子と同い年の双子の兄弟もお口あんぐりです。

日本でも知り合う人からは「ジュアン君て原始人みたいね」と言われんだと言う。げ、原始人^^;「粗にして野」か。

すると横からモイケル娘が言う。
「おっかさん、家でも外でも変わらない、裏表のない人間に育って欲しいと願ったんでしょ?その通りじゃん、はははは」(エピソードはこちら) http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-301.html#more

そ、それはそうだけど、微妙に違うんだよね・・・と少し焦る母。

日本社会に入り混じって今は少し大人になったかと思うのだが、いや、まだまだか(笑)今更意見を言っても始まるまい、息子よ、城山三郎氏の「疎にして野だが卑ではない」の如く、せめて「卑」にはなるなや。
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2019年8月21日 

イエスが最高の霊知を授けたと言われる秘蔵の弟子、マグダラのマリア像は、「神の知恵のシンボル」とされます。なぜ「黒」なのかというのには数説あります。

黒は知恵を象徴する、黒い聖母は異教的には浅黒い肌を持つエジプトの女神イシス(永遠の処女でありオシリスの死後、処女のまま神、ホルスを身ごもったとされる。キリスト教の聖母マリア、イエスと同じ話である)からくる、などなど。

グノーシス主義の人々が崇拝するその異教徒の黒いマリア像は、世界に160以上あるとのことで、フランスが圧倒的に多く、イタリア、スペインが続きます。

そして、ポルトガルでは唯一、ナザレの丘陵区域Sítio da NazaréにあるSantuário de Nossa Senhora da Nazaré(Santuário=聖地、教会とも訳せると思う)で見ることができます。

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しかし、地元では黒いマリア像とは呼ばず、土産物店で売られているコピーも白いマリア様になっています。
羊皮紙に書かれた古書によると、この黒いマリア像は初期キリスト教時代のパレスチナ・ナザレで崇拝されてきたとあるのだそうです。

5世紀に起こった偶像破壊運動から逃れて、黒いマリア像はスペイン、メリダ近郊にあった修道院に運ばれ、711年までそこに安置されていました。その後、ムーア人のイベリア侵入が始まり、ロマノ神父が聖宝の黒いマリア像を持ってポルトガルの大西洋沿岸(現在のナザレ)まで逃れ、崖の洞窟にそれを置きました。それゆえ、この地はナザレ、そして黒いマリア像は「Nossa Senhora de Nazaré」と呼ばれます。

ここまでが、黒いマリア像がパレスチナのナザレからポルトガルに辿りつい経路なのですが、現在教会の中に納められているこのマリア像は、最初、崖淵の小さな礼拝堂、Capela da Memóriaに安置されていましたが、この崖にもうひとつ、12世紀後半の伝説があります。

戦士Dom Fuas Roupinho(ドン・フアス・ローピーニュ。恐らくテンプル騎士だと思う)はある日、馬に乗り狩に出、深い霧の中で不思議な黒い影を見ます。鹿だと思いそれを夢中で追いかけるうちに崖っぷちまで来てしまい、一瞬マリア様に助けを求めます。すると、危うく海に落ちるところを馬のぎりぎり脚の踏ん張りで命拾いをします。

その場所は、ちょうどかの黒いマリア像が安置されてある洞窟のすぐ横だったとのこと。そこで、感謝の印としてDom Fuas Roupinhoはその場所に礼拝堂を建てます。
 
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ピラミッド型の屋根を持つ礼拝堂はまさに崖っぷちに建てられています。

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礼拝堂横は見晴台になっており、この壁の向こうは崖で入ることができない。ここから眺められる景色がこれ↓
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古い礼拝堂の外壁にはDom Fuas Roupinhoの伝説の場面がアズレージュで描かれている。
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14世紀に入ると、噂を聞いた巡礼者が増大し、ドン・フェルナンド王は礼拝堂の広場向こうに教会を建て、黒いマリア像もそちらに移動されます。それが、Santuário de Nossa Senhora da Nazaré教会、トップの写真になります。

礼拝堂内部、黒いマリア像もまだ続きます。
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2019年8月20日 

ナザレの黒い聖母像(3)については、もう少し調べてから書きたいと思いますので、今しばらくお時間をください。

8月中旬も終わりの本日、時節柄、過去記事の子どもの頃の宵宮の思い出をあげます。以下。


日本語教室の生徒たちと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を朗読した時のことだ。

生涯でたった一度だけ、道端の蜘蛛を踏みつけようとした殺生を思いとどまった極悪人「カンダタ」が、地獄で苦しみあえいでいる。それを見たお釈迦様が、蜘蛛を助けたことをふとお思い出しになり、地獄から引き上げてあげようと、一筋の蜘蛛の糸を極楽からカンダタの前に垂らす。

カンダタは、その蜘蛛の糸にすがって血の池を這い上がり、上へ上へと上って行く。つと、下を見下ろすと、自分の後に大勢の極悪人どもが必死に蜘蛛糸をつたって大勢が地獄から上ってくるのが見える。

カンダタはこれを見て、己一人でも切れてしまいそうな細い蜘蛛の糸、なんとかしないことには、自分もろとも糸は切れて、再び地獄へ舞い戻ってしまおう、思わず「この蜘蛛の糸は俺のものだ、お前たち、下りろ下りろ。」と、喚いた瞬間、蜘蛛の糸はカンダタの上からプツリと切れて、まっ逆さま、もろともに地獄へと落ちて行く。
       
お釈迦様のせっかくの慈悲も、自分だけ助かろうとするカンダタの浅ましさに、愛想をつかしたわけである。

仏教で言う「地獄」を英語で「hell」と訳してしまうのは、少し違うように思う。生徒たちと読みながら、わたしは子供の頃の「地獄」への恐怖を思い出していた。

夏の風物詩は、この時期では日本のどこでも催されるであろう、宵の宮祭だ。故郷弘前では宵宮、「ヨミヤ」と呼んだ。

子供の頃は、暑かったら裏の畑の向こうにある浅い小川で泳いで暑さをしのいだし、少し歩いたところが寺町の裏手に当たり、夕暮れ時には肝試しと言って2人くらいずつ、墓所まで行って帰ってくるのも涼しくなる遊びのひとつで、よくしたものだ。

夕食を終えた後は、たんぼを渡り小川のあたりで、「ほ、ほ、ほーたる来い、あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」 と歌いながらする優雅な遊びも知っていた。
  
子供なりの智恵を使って、自然の中で遊びを見つけていたが、夏のヨミヤはそれとは別に、大人びた世界を垣間見るような興奮を感じたものである。

夏の日は長く、ヨミヤのある日は外がまだ明るいうちから、遠くに祭囃子が聞こえた。子供が夜出歩くなどしない時代だったが、この日は別である。祖母や母と一緒に行った記憶はない。祖母は、桜まつりには蕎麦の屋台を引いたりしたし、夏には氷水を売ったりしていたから、恐らく家族はそれぞれ、ヨミヤでの出店に追われていたのであろう。
       
二つ下の妹とユカタに赤い三尺を締めて、既に日が落ちて暗くなった新町の道を妹と手をつないで誓願寺の夜宮へよく行った。

すると、薄暗闇の向こうから、わたし達を呼び寄せるかのように、「♪か~すりの女とせ~びろの男~♪」と、三橋美智也が聞こえてくるのである。
       
田舎の夏休み中のおやつといえば、裏の畑からもぎとったキューリを縦半分に切り、真ん中を溝を作るようにくりぬいて、そこにすこし味噌を入れたのや、塩だけをつけたおにぎりなどである。おやつ代などもらえることはなかったが、夜宮の日にはわずかばかりだが、出店があるのでもらえるのだ。

金魚すくい、輪投げ、水ヨーヨー、線香花火、水あめ、かき氷。これら全部は回れないが、わたしたちが特に好きだったものに「はっかパイプ」があった。屋台にぶらさがっている動物や人の顔など、いろいろな作りのはっかパイプの中から好きなものを選び、首からぶら下げてはっかをスースー吸うのだ。

しかし、その出店が並ぶところへ行くまでに、どうしても避けて通ることができない、寺門をくぐってすぐ左の格子戸がある一隅があった。そこには、閻魔(えんま)大王と閻魔ばさま(ばさま=おばあさん)がどっしりと腰を据え、通る人々を見据えているのである。
       
閻魔大王はまだしも、クワッと赤い口を開き、着物の胸がはだけてしなびた乳房がチラリ見え、片立て膝でこちらを睨む閻魔ばさまには、恐ろしいものがあった。怖い怖いと思いながらも、ついつい見てしまい、閻魔ばさまと目が合っては、ブルッと体が振るえ、下を見ながらそそくさとそこを去るのである。
       
註:閻魔ばさま=奪衣婆(だつえば)
  三途の川のほとりで、亡者の衣服を奪い取るといわれる。
  奪い取られた衣服は、そこにある衣領樹(えりょうじゅ)と言う
  木の枝に引っ掛けられ、その枝の垂れ下がり具合で生前に
  犯した罪の重さがわかると言われる。

ここにはもうひとつ、目が行ってしまうものがあった。地獄絵図である。恐らくこの時期に寺のお蔵から出されて衆人に見せられるのであろう。
       
「嘘をついたら舌を抜かれる」「悪事をなせば針の山、血の海が三途の川の向こうで待ち構えている」
阿鼻叫喚の地獄絵巻は幼いわたしにとって何よりの無言の教えであった。
       
古今東西の宗教が多かれ少なかれ、わたしたちにある程度の怖さをもって説教しているのは、人間は、こうしてはいけないと分かっていながら、つい悪行に走ってしまう、なかなかに食えないものだと分かっているからだろう。

嘘をついたことがないとは決して言えないが、人様に迷惑をかけながらも、あまり意地悪い気持を持たずして、(意地悪いのは大きな悪のひとつだとわたしは思うから)、今日まで自分が生きて来れたのは、どこかに幼い頃に見聞きした地獄絵図が刷り込まれているからかも知れない。

知識を振りかざして生きている現代人は、その知識による過剰自信ゆえ、もしかしたら、理屈では片付けられないものが世の中にあることが理解できず、いざと言うときに、案外弱く危ういものを抱えているのではないだろうか。久しく、「蜘蛛の糸」を読んで思ったことである。
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2019年8月19日

ナザレの黒いマリア(聖母)像を書くにあたり、関連するテンプル騎士団について、思うところを少し書きたいと思います。

これといった宗教を信仰しないわたしですが、旧約聖書はひとつの壮大な物語本として興味深く読んできました。

ダン・ブランのベストセラー「ダビンチ・コード」がきっかけで、強大な力を持つカトリック教一色に染まったヨーロッパの中世時代に、ミケランジェロ、ダビンチ、ガリレオのような宗教を鵜呑みにしなかった人達はどのように生きたのかということに深い興味を覚え、暇を見ては本を読んだりして追ってきました。

宗教には寛大な日本に生まれ育ったわたしには、カトリック教信者ではないということがどういうことなのか、いまいち理解できなかったわけですが、 調べて行くうちに、「信者でない者は悪魔である」という制裁を受ける社会だったであろうということです。

そうこうして行くうちにテンプル騎士団、錬金術、グノーシス、神秘主義と多岐にわたる学習を独学することになり、そこでわたしがたどり着いたのは、カトリック教会に秘密裏に反抗、抵抗して編み出されたのがシンボルコードだ、です。

アラブ人に占領されていたイベリア半島がテンプル騎士団によるレコンキスタ運動で国土奪回を得たのは、意外と知られていないような気がします。テンプル騎士団の大きな助力でポルトガル国が成されたとも言えるとわたしは思っています。

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12世紀の初めに、キリスト教集団の皮を被り、エルサレムのソロモン神殿跡地に宿営した7人の騎士によって結成されたのが「キリストとソロモン神殿の貧しき騎士たち」、後のテンプル騎士団です。

やがて強大な権力、富を持ち、影響力も大きかったテンプル騎士団の莫大な財宝に目がくらんだフランス王フィリップ4世の陰謀により14世紀初期に、騎士団最後のグランドマスター、ジャック・ド・モレーの処刑で終焉を迎えます。

フランス王が横取りしようとした騎士団の財宝は、跡形もなく消えて行方知れず。ヨーロッパのテンプル騎士団は弾圧され、残った騎士団の大部分は消息不明になりました。

この時、ポルトガルのテンプル騎士団(トマール)は国王の庇護の下、キリスト騎士団と名を変え存続しました。ポルトガルはこの後、大航海時代に入っていくわけですが、フランス王が手にできなかったテンプル騎士団の財宝の一部は、ポルトガルの大航海時代に遣われたのでは?とは、わたしの推測です。

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トマールのキリスト・テンプル騎士団修道院

さて、このテンプル騎士団が崇拝するのが「黒い聖母」だと言われます。

この項、更に続きます。

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2019年8月18日 

古い漁村ナザレですが、近年はサーフィンで世界に知られるようになりました。

ナザレ沿岸は海底谷の地形が世界でも有数の深さを持つため、非常に大きな波が生まれます。地元ではこの波のことを世界中のサーファーに知ってもらうため、サーファーの呼び寄せキャンペーンを展開してきました。

米国人サーファーのギャレット・マクナマラが2011年には24メートルの、2013年には30メートルの巨大な波いのることに成功し、サーファーの世界記録をつくったと言われています。

ナザレ
2011年ナザレ、24メートルの波乗り(Wikipediaより)

この時の感想をCNNのインタビューで「いつまでも落ち続けて両足はストラップから外れかけていた」「全身が粉々になるような感覚だった。本当に難しかった」と答えています。

ナザレ
2013年ナザレ、30メートルの波乗り。(Wikipediaより)

ポルトガルにはもう一箇所、リスボンから北東へ35kmほどにある、Eliceira(エリセイラ)はサーフィンの聖地と呼ばれ世界中からサーファーが集まるそうです。

「波乗り」なんて聞くと、わたしなど年に一度帰国するときに口にする「波乗りジョニー」をついぞ思い浮かべてしまう無粋ものではございます^^;

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Wikipediaより


「ナザレのイエス」と聖書にも出てくるこの地名には由来があります。その昔、パレスチナのナザレから、海を経て一人の聖職者が「マリア像」を持って流れ着いたという伝説から来ます。

この手の話だとよく聞かれるのですが、この「マリア像」、「黒いマリア像」なのですと!

「黒いマリア像」は、わたしがテンプル騎士団がらみの謎解きのために読んできた本でもよく取り上げられており、これは「聖母マリア」ではなくて、中世からローマカトリックに糾弾されてきた「異端者」(バチカンが宗派として認めない)が崇拝する「マグダラのマリア」だと言われます。

わたしが「異端教の殿堂」と解するフランスのシャルトル大聖堂の「黒いマリア像」は有名ですが、ポルトガルでの「黒いマリア像」は初耳です。

何度か行っているナザレに黒いマリア像があるというのを知り、もう一度行かなければならないと思っていましたが、今回、サンタクルスの帰路、ちょっと寄って寄って~と寄り道してもらいました。

事前に確認しなかったもので、果たしてどの片にあるのか、わたしの第六感に頼ってなのですが、夫は自動車道路からこれまで通り海辺に続く町の通りに入りました。ところが、ひゃ~、小さな町の細い道はどこまでも続く車の停滞です。ナザレでのこんな停滞もあったことがありません。

やっとのこ停滞から抜けて、海岸はだめだこりゃ。で、わたしの感はまだ行った事がないSítio da Nazaré、海岸左側に見える丘陵のある町へと方向転換しました。夫はポルトに引き返そうとしたのですが、あっちに行ってみようと提案。感のなすところです(笑)


ナザレの丘陵、Sítio da Nazaréから見下ろした、この日は穏やかな波の海岸地区。
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Sítio da Nazaréの崖っぷち。

Ascensor-da-nazare.jpg
海岸区域からはケーブルカーでスィーティオ(Sítio=場所、区域の意味)へ上れる。

この項、次回に続きます。

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2019年8月17日 

我が父は岩手県雫石出身の人で、若い頃は地方競馬の騎手をしていた。

家族のわたしたちを弘前に残したきり、自分は雫石に住んで好きなことをしてきた人だったが、歳をとり体重も増え、いよいよ馬に乗れないとわかったわたしが中学生になる頃に、やっとこさ、弘前に来て共に暮らすことになったのである。

仕送りもなく、祖母の大所帯の家でわたしたち親子三人は同居し、母がずっと苦労をしてきた姿を目の前でみてきたので、わたしは父にはどうしても気持ちを開くことが出来ず、どこかで他人のような目を向けていたところがなきにしもあらずだった。

加えて酒癖が悪くすぐに手があがる人でもあり、思春期のわたしはそういう父が嫌いだった。

わたしが高校生の頃だ。再三の酒癖の悪いのにとうとう辛抱の緒が切れ、わたしたち母子3人は、父が酔いつぶれて寝ている間に、身の回りの物と一式の布団をリヤカーに積み、母はリヤカーを引き、わたしと妹はその後押しをして、母の知人の屋根裏部屋に逃げたことがあった。

その時に、わたしと妹は母に勧めたのだ。「おかあちゃん、親父と別れちゃいなさい。3人で何とかなる」と。一ヶ月ほどその屋根裏部屋で生活して、結局わたしたちは父の元へ引き返すことになったのだが、それを決心した母はこう言った。「戸籍が片親となると、就職でも結婚でもお前たちが苦労することになる。」

母のあの決心が良かったのかどうか分からない。当時母は保険の外交員をしていて、なんとかわたしたちの日々の生活は成り立っていたのだが、やがて高校を卒業したわたしは、チャンスとばかりに父のいる嫌な家を飛び出した。その2年後には東京の夜間大学へ進むことで妹が家を出た。

父の元に残った母は保険の外交員を続け、60歳の退職を機にもらった退職金の一部を父にあげて、さっさと、当時既に結婚して東京に住んでいた妹夫婦の元へ移ったのであった。

その話を聞いたとき、母のしたことにわたしは笑ってしまった。これは逆・三行半(みくだりはん)じゃないか。

思うに、母は今で言う「熟年離婚」のハシリだったかも知れない。夫の退職金を待って離婚をつきつける現代女性と違って、母の場合は逆に、たかが知れてる自分の退職金の一部を夫に手切れ金として手渡して別れたのだから、堂々たるものだ。誰にも文句を言わせない自立した女性であったと言える。

別れたといっても戸籍はそのままで、女性関係も多かった父に、「あんたさ好きな人ができて、結婚するという時はいつでも籍をぬくから」と結局、別居の形になったのだが、父が亡くなった時には喪主として、借金しか残していなかった父の葬式をちゃんとあげたのであった。

ポルトガルに住んで子どもを持ち、少し自分の生活も落ち着いてくると、わたしは、南部出身の父からすれば異郷の津軽弘前に一人人住んでいる父のことを時折思い出した。異国に住むということが孤独であると分かり、口下手な父の行動が少し分かりかけたような気がした。

そして、それまでは一度も書いたことがなかったのだが、短い手紙に我が子たちの写真を入れ、年に2度ほど航空便で送った。ローマ字を読めない書けない父からは一通の返事も届いたことはない。

母の兄弟の間でも評判は悪く、わたしは時々親戚が父の陰口をいうのを耳にした。親戚が言うことは普段からわたしも思っていることで、もっともな話だ。が、忌み嫌う父ではあれど、その父が悪く言われるのには、親子の血のなす業だろうか、「分かってるけど、人には言われたくない」と、わたしは無性に腹が立ったものだ。

その父は60代で脳溢血を起こしそのまま亡くなったのだが、さて、納骨場所にもすったもんだがあり、結局妹夫婦がまだ必要としない墓地を購入することになった。苗字が違うというのに父はちゃっかりそこに納まっている。血は水よりも濃し。
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2019年8月15日

ひとしきり古い衣類の整理をして軽く汗をかいた。

インスタントコーヒーを淹れてパソコンの前に座り、ふと横に窓に目をやるとそこから差し込む穏やかな光が台の上に置かれたクリスタルデカンタのプリズムを抜けて壁にきれいな七色の光を放っています。夏休みだというのに外から聞こえる人声もなく、自分のタイピングの軽やかな音だけが空響いています。

1945年の8月15日は、もしかしたらこんな静寂がわたしの国をもおおっていたのかもしれないと。戦争が終わったという安堵とこの先の不安と、絶望と希望と生と死と。しかし、少なくともその日から空から襲ってくるB29を恐れることはもうなかったのです。
わたしたちの祖父母、父母たちはそれからどうしたでしょう。

家屋を失い、親兄弟、子を失い、食料難にあえぎながら、祖父母も父も母もあらゆることをして戦後の日々を生き抜いて来ました。そのたどり着いた先が、今、わたしたちがいる平和と自由の国、日本です。

平和が至極当たり前のことになり、わたしたちは更にもっと自由をと求めます。わたしもそうでした。貧しい生活から抜け出そうともがき、窮屈な社会はいやだ、もっと自由が欲しいと未来を見つめながら歩いてきました。自由、開放感溢れるこの響き!何ものにも代えられないものです。

70代に入ったわたしは、今、昭和という盛夏をまっしぐらに駆け抜けている自分が見える場所に立っています。駆けてくるわたしの後ろには父や母が祖母が見え、そのもっと向こうの歴史には見知らぬ無数の人が続いています。遥かなる歴史が脈々と今のわたしに繋がっているのを見るような気がします。

その歴史の中の人々が、正誤を繰り返しては今の平和と自由の礎を積んできたのです。

歴史は、緻密な一枚の織物のようだとわたしは思います。見る方角によっては、その色合いや光沢が変わる織物です。種々の事情、状況が絡み合い、わたし達が目にするのは出来上がった一枚の歴史という布です。その布を織り成す一筋一筋の糸を引きほどいていかないと真実に近いものは見えない。

人が、国が過ちを犯さないことがあるでしょうか。過ちもまた一つの歴史で、わたしたちはそれから学び賢くなって行かなければなりません。誤ったからとていつまでも石で打つのは酷というものでしょう。が、際限もなく石で打ち続ける敗戦利得者はいるものです。世界は物事を平和に解決しようとするどころか、腹黒いのです。

インターネットが広く普及した今日、わたしたちはその気になれば、これまでの歴史、特に現代史に関して、おびただしい情報を手に入れることができます。それらを情報源に更なる詳細を論説する著書を読むこともできるわけです。

そうして自国の現代史について出来る限りたくさんの情報を手繰り、それを自分で分析し、考える必要があると思います。押し付けられた一方的な歴史観ほど愚なものはないと考えます。

今、わたしたちが甘受する平和と自由は過去の正誤の歴史を通して与えられたのです。一度手にした平和と自由を再び手放さないために、わたしたちは何をしなければならのか。

「戦いを避けるために譲歩しても、結局は戦いを避けることは出来ない。なぜなら譲歩しても相手は満足せず、譲歩するあなたに敬意を感じなくなり、より多くを奪おうと考えるからである」

これはマキアベリの言葉ですが、中国、ロシア、北朝鮮、韓国の狡猾な周辺国をもつ日本は、今のままでは暗澹とした将来しか見えず、自国防衛もままならない状況に心が騒ぎます。永世中立国のスイスですら、いざという時に祖国防衛ができるように軍事組織を持っています。

有事の時にも無抵抗で侵略されるがままを平和維持だとわたしは思いません。それはウクライナやチベットの無抵抗な国がどうなったかを見れば分かることです。では、闘うのを厭うなら、闘わずとも平和と自由が維持できる、自国を守れる叡智を見つけなければならないのですが、今こそ母国に必要とされるその叡智とはなんなのか。

ロシアや中国のような侵略の武器としてではなく、自分の国は自分で守るという自国防衛のための軍事力が日本に必要だとは、やられっ放しはイヤだと思うわたしの考えです。

74年前の8月15日終戦の日、異国の夕暮れ時、静寂の中にて思ったままを綴ってみました。
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2019年8月14日 

現在の住居のフラットからすぐ目と鼻の先にわたし達一家の旧住まいがある。既に築70年はたっているであろうと思われるボロボロの家であった。

あちこちガタが来ていて、雨季の冬には壁に結露があらわれ、娘が赤ん坊のころは毎朝起きて一番に壁の結露を拭き取るのが日課であった。

古い建物ゆえ冬は隙間風が入り我が家を訪れる日本人客はみな寒い寒いと、ストーブの前でお尻をあぶり、そこから動くものではなかった。しかし、台所からの夕方の眺めは格別であった。

当時の我が家は借家で、「Moradia=モラディア」とポルトガルで呼ばれる3階建ての一番上。勝手口からは一階にある庭に通ずる屋根のない石段があり、その庭の後ろは、だだっ広いジョアキンおじさんの畑だ。そして畑の向こうはフットボール場がある。試合のあるときなどは、石段の踊り場に椅子を持ち出して観戦できるのである。
  
そこでの16年間、わたしは春にはジョアキンおじさんの一面黄色になる菜の花畑の世界に心和み、秋にはとうもろこし畑のザワワと言う音を楽しみ、そして真冬の夜半には、日本から持ち込んだ小型の天体望遠鏡を持ち出して月面のクレーターやかろうじてキャッチできる木星の衛生に見入ったものだ。
  
それにも増して素晴らしかったのは夕暮れ時だ。言葉を失うほどの一瞬の美を自然が目の前に描いてくれるのである。勝手口から見える向こうの林と、そのまた向こうに見える町に、大きな真っ赤な夕日が膨らみながら沈んでいくさまに、しばしわたしは夕げの支度も忘れ見入っていたものだ。

やがて群青色の空が少しずつ天空の端から暗くなり、天上に明るい星がポツリポツリと灯ってくる景色は、もはや、わたしの稚拙な文章力ではとても表現しきれない。それを見る特等席は、実は勝手口よりもその隣にあった息子の部屋の窓からなのである。

どんな写真でもどんな絵画でも見ることのできない、空間をキャンバスにした素晴らしい絵の一瞬であった。幾度もそうやって、わたしは夕暮れ時の贈り物を天からいただいていたのである。

わたしには、忘れ得ぬもうひとつの夕日がある。

高校3年の夏休み前のこと、先立つものがないのは分かっていても進学を諦めきれず、担任が持ってくる就職の話に乗ろうとしないわたしの様子を見かねた英語の教師がなんとか取り付けてくれた話に、朝日新聞奨学生夏季体験があった。英語はわたしの得意学科だった。

その制度の何と言っても魅力的だったのは、大学入学金を貸与してくれることである。4年間新聞専売店に住み込みし、朝夕刊を配達しながら大学に通うことができる。その間は少額ではあるが、月々給与も出、朝食夕食もついているのだ。女子の奨学生体験は初めてだったと記憶している。

高校3年の夏、往復の旅費も支給され、初めてわたしは上京した。当時はゼロ地帯(海抜ゼロメートル)と言われた東京の江東区のの新聞専売店だった。

その専売店にはすでに夜間大学生、また中学卒業後、住み込んで働いている者など、男子が数名いた。二階の一つ部屋に男子はみな雑魚寝である。隣にあるもう一部屋は、まかないを切り回していた溌剌な25,6歳の、おそらく専売店の親戚であろうと思われる女性がひとり、専用していた。そこに一緒に寝起きすることになったのである。

新聞専売店の朝は早い。4時起きである。何枚ものちらしを新聞の間に挟みこむのも仕事のうちだ。そうしてそれが終わったあと、配達に出る。夏の早朝の仕事は、むしろ快かった。

なにしろ初体験のしかも女子である、部数はかなり少なくしてくれたはずだ。いったい何部ほど担いだのか、今ではもう覚えていない。狭い路地奥の家に配達する際には、毎回イヌに吠えられ、つまづきそうになって走り抜け、両脇の塀に腕を打っては何度擦り傷をこしらえたことであろう。それでも、大学に行けるという大きな可能性の前に、くじけるものではなかった。
 
しかし、仕事の内容は配達だけではなかったのである。集金、これはなんとかなる。拡張、つまり勧誘です、これが、わたしにはどうにもできなかったのでした。
  
「こちらさんが新聞を取ってくれることによって、わたしは大学に行くことができます。どうかお願いします」という「苦学生」を売り物にするのだが、の売りがわたしはできなかったのであります。

確かに苦学生と呼ばれることになるのだろうけれども、それを売り物にすることは、わたしの中の小さなプライドが立ちはだかり、その売りをすることを許さなかったのである。

頑として、勧誘先の玄関に入ろうとしないわたしを見て、中卒後そこで働いていてわたしの指導員をしていたHは、自分が入って行き一件注文を取って来た。
「ほら、とってきた。とらないとお前の成績はあがらないぞ。成績があがらないと、金だってちゃんともらえないのだ。お前がとったことにするから、いいな。」

助け船をだしてもらいながら、情けなさとやりきれない思いとで、自分自身がつぶれてしまいそうな午後だった。

その日の夕刊配達時は、江東区の空を真っ赤に染める夕焼けであった。おかしなもので、それまで気にもならなかったのに、、その日は自分と行き交う同年代の若者達がとても眩しく目に映り、肩に担ぐ新聞はズシリと重くのしかかり、不意にこみ上げてくるやり場のない哀しみをわたしは噛み砕くことができなかった。

赤銅色の、焼き尽くせない孤独を湛えた江東区の夕日。わたしは進学を断念したのだった。

yuyake
これはポルトの夕日です。
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2019年8月13日 

しばらく前、ネットで広まっている「関西弁6段活用」というのを偶々読んで、「あはははは」と一人大笑いしていたのであります。

・「関西弁6段活用 」

知らん:本当に知らない
知らんわ:「私も知らない」というあいづち
知らんし:「どうでもいい」という意思表示
知らんねん:「知らなくてごめんね」
知らんがな:「関係ない」「興味ない」「どうでもいい」
知らんけど:「確かではない」「責任は持てない」

大阪に10年ちょっと住んだとは言え、わたしが関西弁で話すことはあまりない。が、世代が同じで気さくに話せるポルト郊外の大阪出身の友人と電話で話すと、ついつい関西弁が口をついて出る。なにしろ、彼女はモロに関西弁イントネーションなのであります。

彼女と話して受話器を置くと子どもたちには「ママ、関西弁になってるやん」とよく言われたものです。

我が子や夫との会話では、関西弁が出ることは、まずない。しかし、わたしは、それとなしに「いけないよ」と人に注意するときは、よく関西弁を遣わしていただく。

「だめよ!そんなことしたら!」よりも、「あかんやん、そんなんしたら。止めときぃ」。
「だから言ったじゃないの!」よりも、「せやから、言うたんや。見てみぃ」
「ちょっと話があるから、こっちへ来なさい。」も、「あんな、ちょっと話があんねん。こっちぃ来てやぁ」という具合でなにやら優しい。

こういう場合に関西弁は、ごっつぅ(「凄く、大変に」の意味)都合よろしい。何故だか角が立たない気がするのですね。柔らかく聞こえるような話し方は、大阪がもともと「あきんどの町」だからでしょうか。

もちろん、本気で怒ったらキツイを通り越して、恐ろしいと感じそうなものもあります。

・「ヤダぁ、怖い~の関西弁」

しばいたろか?
自分、何言うてんねん!
何さらしてけつかんねん!
いてまうど、オラぁ!

あ、いえいえ、誤解せんといてくださいよ。これらは女性は遣いませんから、わたしもこういうのがあるというのは知っていますが、遣ったことはありませんよ。

それでこの友人がらみで、かつて毎土曜日補習校で教えていたときの出来事を思い出し、噴き出していたのでした。

ある朝、出勤前に自分のホームページ画面がえらいことになっているのを発見、真っ青になり大急ぎで対処を試みたのですがきちんとできないまま、時間切れ。というより、対処の仕方がよく分からない初心者でありました。これはYahooホームページ閉鎖で今はありませんけどね。

それで、職場にはちょっと遅刻して到着であります。我が校は授業前に朝のラジオ体操を含む朝礼から始まるのであります。

丁度それが終わったところでして、着くなり大阪出身の同僚が「アンタ、何しとったん!事故起こしてるんやないか思うてみんな心配してたんやで!それでアンタのうちへ電話したとこやった」わたしは職場に遅刻などまずしなかったものですからね。

す、すんまへん、と答え、まさか、ホームページの具合が悪くて、なんて言えませんでして、言い訳をネコにしようか、寝坊にしようかと思って迷っていたもので、とっさに口をついて出たのがこれ。
「ネ、ネ、ネコが寝ぼうしてん」・・・

ホンマ、嘘つけない人間ですわ。「ネコが寝ぼうて、なんやねん、それ・・・。知らんがな」と同僚にはギロリと睨まれた次第でありました。

こうしてみると、関西弁、楽しいと思わへん? 知らんけど(笑)

本日はこれにて。

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2019年8月12日 

戦後2年目にしてわたしは父の故郷である岩手県の雫石に生まれたのですが、子供時代から高校を卒業するまでのほとんどを青森県の弘前(ひろさき)で過ごしました。

時々、その弘前での18年の日々を思い出すのですが、最初に浮かんでくるのは、「我が家は一貫して貧乏だったなぁ」と同時に「けれど、なんて当たり前な、のどかな時代だったろう」という思いです。

この頃の思い出話は、興味のある方はこちらで読んでいただくとしまして、

かつては8月にも自宅では日本語を教えていた時期があり、時節柄、二人組みの生徒さんに「お盆」の話をしようとしたら、生徒の一人が、

「せんせい、その言葉、知っています。トレイ(tray)でしょ?」と言います。

「お、よく知っていますね、その言葉。」と、まずは褒めておき(笑)「今日話すのは、そのお盆ではなくて、祖先の霊を祀る日本の行事のお盆です。」(もっとも語源は先祖の霊に食物を供えるのに使った「トレイ、お盆」から来るとの説もある)

外国語を学ぶには、もちろん文法も大切ですが、その国の歴史や習慣を知ることも重要だとわたしは思うので、日本語クラスでは機会があれば、日本の行事や習慣の説明を試みます。外国語を学ぶことはその国の文化を学ぶことでもあります。

さて、日本の伝統行事では、ポルトガルとは習慣が違うわけですから、説明に色々手間取ったり、意表をついた質問が出たりして、こちらがハッと気づかされることも時にはあります。自分にその行事の経験があると、説明も生き生きとして余計な失敗談に及んだりもして授業は盛り上がります。

わたしが子供の頃、お盆というと、必ずしたのが下町の祖母の家の玄関前での「迎え火、送り火」でした。灯かりを目印にご先祖さまの霊を「お帰りなさい。こちらですよ。」お迎えし、送り火は、「また来年までね」とお送りするのです。

祖母の家では、割り箸を二本ずつ縦横と交互に組み合わせた四角を高くしていき、その中で迎え火、送り火を炊いていました。

先祖の墓参りには、霊魂があの世とこの世を行き来するために「精霊馬」と呼ばれるきゅうりやナスに割り箸を四本刺して、馬、牛の形にしたものを作り持参し供えました。こんな感じです↓

obom.jpg
(画像はwikiより)

祖母の吉崎家では9人兄弟で長兄は戦死、残った8人兄弟の一番上がわたしの母でした。南部出身の父は、家族を放ったらかして地方競馬の騎手として岩手県盛岡市に住んでいましたので、母とわたしと妹の3人は祖母の家に、おじたちや従妹家族たちと同居していたのですが、14、5人の大家族でしたので、墓参りや、月見、お正月の餅つきなどの家内行事はそれは賑やかなものでした。

おじたちがやがて所帯を持ち、祖母の家もおじが判子を押した知り合いの保証人の責任として売り払わなければならなくなり、大家族はちりぢりになってしまいましたが、その後も、お盆には、それぞれが家族を連れてお墓参り、大勢が墓前で顔をあわせることになったものです。

お墓が清掃されているのや、お供え物がすでにあるのを目にしては、「誰々がもう来た」などおじたちの名をいう母の言葉をよく耳にしました。

そうして時代が過ぎ、いつの間にか、一族が揃って顔をあわせるのは、結婚式か葬式になってしまいましたが、母も含めおじやおばもやみな、ご先祖さまの仲間入りし、わたしもポルトガルに定住てしまった今は、それも無くなりました。

お盆が来るたびに、意味も分からず精霊馬を遊びながら作り、祖母や母、おじやおばたちと一族が連れ立って、墓参した子供の頃が思い出されます。

そうそう簡単に日本へ帰れない異国にいるわたしは、今年も遠い昔のお盆を思い出し、心の中で迎え火送り火をたき、今日まで無事に生きて来られたことをご先祖さまに感謝いたします。

追:2007年に30数年ぶりに先祖の墓参りをしました。 その時のエピソードは こちら→「ご先祖様、お笑いくださるな

ではみなさま、また。

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2019年8月10日
 
8月もこの時期になるといつもわたしには二つの思い出される話があります。2007年に産経新聞の「やばいぞ日本」で紹介された終戦直後のアメリカ人による体験談です。自身のための戒めとして記事をファイルに入れてあります。今年もそのまま載せたいと思います。長文になりますが読んでいただけたらと思います。

ーここから引用

【忘れてしまったもの】靴磨きの少年・一片のパン、幼いマリコに

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。
親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
 
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
 
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。
 
彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
 
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。
少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。
「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
 
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
 
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。 五百旗頭真(いおきべ・まこと)防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
 
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
 
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年=2007年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。

焼き場に立つ少年
Wikipediaより

原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。

「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)

私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
 
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
 
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
 
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
 
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
 
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
 
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。 (中静敬一郎)  2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」より

                                            
                                        ー引用終わり

二つめの話の写真には「焼き場の少年」と題がついています。下記Youtubeサイトでは、この写真と撮影したカメラマンについてのドキュメンタリー「米軍カメラマンが見た長崎」を見ることができます。



本日はこれにて。

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2019年8月9日 

壇一雄の作品を読んだことはありませんが、少し調べてみました。
すると、なんと本は読んでいないが、あっ、知ってる!という作品がありました。

満州を舞台にした「夕日と拳銃」です。壇一雄は1956年に書いていますが、テレビドラマ化されたのは1964年。主役の伊達麟乃介を工藤堅太郎が、その下僕を小松方正が演じており、彼が伊達家の無頼若殿麟乃介を「若とんしゃん」とさかんに呼んでいたのを覚えています。

馬にまたがり拳銃を使いこなす破天荒な満州の日本人という設定に憧れの思いで毎回楽しみにみたものです。

♪満州荒野 夕日を浴びて 思い出ずるは なにごとぞ
  風にルパシカなびかせて 今じゃ馬賊の旗頭
  いざゆかんいざゆかん 望みははるか いざゆかん

とまぁ、主題歌まで覚えているのですが、どうやら数番ある歌詞をわたしは混同していたようです。
壇一雄がこのような娯楽作品も書いていたのを知りました。

さて、Santa Cruzに戻りまして。
地図を頼りにRua Prof. Kazuo Dan(Rua=通り、Prof.=Professor=先生)を見つけました↓

santacruz9.jpg

通り入り口、左側の家の壁に標識、「Escritor Japonês (日本の作家)1912-1976」が見られます。
santacruz2_1.jpg

通りにある一軒に壇一雄は1970年、58才のときにSanta Cruzに1年4ヶ月滞在したようです。作家が住んだ家は現在個人宅になっているので、撮影は避けました。

1970年と言うと、わたしがポルトガルに来る9年前です。壇一雄が住んだ頃のポルトガルは独裁者と呼ばれるサラザールの死後2年で、マルセロ・カエターノ首相が引き継いでいた時期です。1974年のポルトガル4月革命はこの4年先です。

ポルトにわたしが来た1979年、ポルトガルの第2都市と言われるポルトでですら、アジア人は奇異な目を向けられましたから、リスボンに近いとて漁村のSanta Cruzでの作家の生活はどんなものだったのか、ちょっと想像できません。

しかし、後世のSanta Cruzにこうして名前が残されるということから、壇一雄は地元の人との交流もあり親しまれたようです。

santacruz3_1.jpg
urismo内。

地元では赤ワインの「Dão(ダォン)」を作家は好んだと言われます。苗字と同じ発音です。

KazuoDan1.jpg

地元の人達との交流(from Wikipedia)↑↓

KazuoDan2.jpg

海岸プロムナードにあるKazuo Danの石碑↓
santacruz10.jpg

海に面した石碑の表面
santacruz5_2.jpg

「落日を拾ひに行かん海の果て」  壇一雄

ポルトガル語訳:
Belo sol poente
Ah ! Pudesse eu ir buscar-te
Lá, ao fim deo mar !

Santa Cruz 滞在中、体調を心配した作家の妻も訪れているとのこと。この後、壇一雄はスイス、オーストリア、ドイツ、スペインモロッコを旅し、遺作となる「火宅の人」の最後の章を完成させ、1976年1月に死去。

壇一雄がよく通った海岸近くのCervejará Imperial、現在はMarisqueira Imperialと名前も雰囲気も変わりレストランになっていますが、今でも時にKazuo Danの話が聞かれるとのこと。

再びSanta Cruzの落日を見ることは叶いませんでしたが、碑の句にあるように、放浪の果て、彼は海の彼方に最後の落日を求めて行ったのでしょうか。

メモ:Marisqueira Imperial
   Rua António Figueiroa Rego, 3
   Santa Cruz

ではみなさま、また。

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2019年8月8日 

8月に入ってからもポルトはずっと涼しく、昨日今日は夏とは思えぬ雨天です。
これはこれで、毎年嫌と言うほどの森林火災被害に襲われずに済むのでいいのですが、夏の休暇を太陽の下で過ごそうと望む人にはがっかりでしょう。

さて、今回は連れ合いが2週間の海外出張とのことで、単独東京から帰国中の息子は、友人たちと逢うのに忙しく、それでもまだわたしたちとの旅行に付き合ってくれます。

国内旅行の計画は長いこと夫に任せています。その方がケンカにならずに済むのです(笑) 今夏は一泊2日の旅行が二度だったのですが、来週予定のは、燃料タンクローリーの運転手によるストライキの可能性大でどのような事態になるか予測できず、ホテルの予約をキャンセルしました。

今週月、火曜日に行ってきたのはリスボンから1時間足らずのVimeiroという小さな海岸沿いの町です。ナポレオンが3度のポルトガル侵入を試みて失敗した半島戦争(1807~1814)で、戦場になったところです。1808年8月、ポルトガルはイギリス軍と共にVimeiroで戦いフランス軍を破っています。

Vimeiro.jpg

他には何があるかと言うと、ホテルからの眺めが素晴らしい、ということくらいです。

vimeiro2_1.jpg

夫はこの景色を高台のホテルから眺めてみたかったのだそうで^^;

ふむ、なるほど、と黙って従う。 しかし、来る途中で見かけた「Santa Cruz」の標識を見て、そう言えば、サンタクルスは作家の壇一雄が住んだことがあるというのを思い出し、近くだから行って見ようと提案しました。

この話は昔から知っていたのですが、日本文学に浅いわたしはさして興味を示さなかったもので、これまで立ち寄ったことがなかったのです。

今日はKazuo Danと名付けられた通りを探しながら撮った町の写真を載せてみます。

santacruz12.jpg
きれいに舗装されたSantacruzのプロムナード(ポルトガル語ではesplanadaと呼ぶ)

santacruz7.jpg
カペラの小さな鐘が真っ青な空に映えて。 

santacruz8.jpg
向かい合わせの家の赤い柵と黄色い柵がかわいい。

santacruz11.jpg
ポルトガル北部と違ったいかにも南部の町といった色合わせ。

明日はPart2です。

ではみなさま、また明日。

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2019年8月5日
 
我が家は寝る間際、夫とわたしのどちらか後に就寝する者がすべきことがあります。下がその手順です。

ステップ・1: 日中はわたしたちの部屋と、今は主のいない、もいける娘の
        部屋に置いてあるところの、ネコ達の寝床であるカゴを二つ
        台所に運ぶ。

ステップ・2: 家の中のそれぞれ思い思いの場所に陣取って寝ているネコ
        たちを探し出して、台所とその横の窓付きベランダに入って
        もらう。
        手の届かない、リビングルームの家具の上の高いところに
        誰かがいた日には、 頭に来るのである。呼んでも呼んでも
        素知らぬ顔して、降りて来ようとは しないのだ。メッ!

ステップ・3: 台所に続くベランダにある二つのネコトイレがきれいかどう
        かているかどうかチェック。汚れていたら片付ける。
         これが仕上げです。

疲れている時などは「寝る前にまだ仕事か」とうんざりすることもあります。
夫は翌日朝早い仕事があるときは、先に寝入ってしまい、それらはわたしの役目になり、しまった!なのであります。

夏休みだからと、やたらダラリとしてるわたし、「試しがてらにネコたちを自由にさせて寝てみるか。」(ほんとはめんどくさいのだ。笑)と、いつもは寝室三つからなる「サウス・ウイング」とリビングルーム、夫の書斎、台所、入り口ホールの「ノース・ウイング」(飛行場じゃないんだってば。笑)を仕切るドアを閉めるところを、日中と同じく開けっ放しにして寝ました。

深夜、ネコが一匹ベッドに乗ってきた!眠りの浅いわたしはすぐ目が覚めます。足許のあたりで丸くなったようだ。とすぐ後にまた一匹、乗ってきました。ドテッとわたしの背中のほうで寝っころがるのは、黒猫ペトだ。見なくてみ鼻、毛の具合で触って分かります。

ん?もう一匹、ボテッとベッドからずり落ちそうに乗ってきたのは、クルル。
身軽にパッと飛び乗ってきたのはトラネコチビ。すぐほっぺたの横でゴロゴロゴロゴロ~~

待てよ・・・・みんな乗ってるんじゃない!

すると、夫、ガバと起き上がり、「うるさい!眠れたもんじゃない!」
は、はい、わたしと同じようにとっくに目が覚めてて、寝ようと努力してたようでありました。

で、結局真夜中に起き出して、ステップ・1からステップ3までの手順どおり、ネコのお仕事をしたのは、夫でした(笑) そんな訳で、ねこたちの夜は、またもとのように台所と横のベランダの戻りました。

そしてこのところ、誰かがマーキングをするもので、息子娘の部屋は日中は開かずの間になり、夜の間、ドアが開きっぱなし。
ねこたちは去勢手術をしているのですが、完全にスプレー行為を防げるわけではなさそうです。
誰かが、というのは、現行犯でまだ逮捕に及んでいないのであります。

第一容疑者はいるんですけどね↓

neko

ではみなさま、また。



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2019年8月4日

昔からStar Warsファンのわたしである。補習校講師時代には、わが子のみならず補習校の子どもた
ちをも引き連れて見に行ったりもしました。

3年前に、「スターウォーズ・フォースの覚醒」を観ましたが、その時、ポルトガルでちょっとした面白い話として、主人公の一人、ハン・ソロが持つ宇宙船Millenium FalconがPenafiel(ぺナフィエル)山頂にある「Cidade Morta(死んだ町)」とそっくりだと、こちらのテレビニュースで取り上げられていたのです。

下がWikiで得たMillenium FalconとCidade Mortaの画像です。

優れた高速力を持ち、その外見から「銀河系最速のガラクタ」と呼ばれ、エピソード7「フォースの覚醒」では、埃に埋もれて姿を現します。

castro_mt_mozinho
Wikiより↑↓
castro_mt_mozinho

いかがですか?似てるでしょう?

Penafielはポルトから車で40分ほどでしょうか、正式には「Castro de Monte Mozinho(カストロ・デ・モンテ・モズィーニュ)遺跡」と呼ばれます。

カストロを少し説明すると、元は古代ローマ以前の青銅器時代から鉄器時代にケルト人によって造られた避難用の村で、周辺を見渡すことができる小高い丘の頂上に見られます。

カストロ の周囲には、ケルト人以前の文化の遺物であるメンヒルやドルメンのような青銅器時代の巨石記念物が多く見られます。土や石や木材でできた防壁がめぐらされています。また、カストロには湧き水や渓流の水源があり、住居は円形に並んでおり、草葺屋根をかけています。カストロの大きさは直径数十メートルから数百メートルまでと、大小さまざま。下は復元されたカストロの例です。

castro

Castro de Monte Mozinhoが発掘されたのは、1943年で、再発掘は1974年で現在に至ります。随分長いこと放置されたのは、国にお金がなかったのか、古代遺跡発掘に興味がなかったのか。

一世紀から中世まで人が住んだ形跡があり、競技やアセンブリが行われ、マーケットもあったとされています。

そして、ここからはわたしが撮影してきたもの。

castro_mt_mozinho

山頂への入り口には小さな博物館があります。日曜日だと言うのに、人がほとんどおらず。職員さんが暇そうにしていて、わたしたちにどこから来たのかと話しかけて来たのでした。

博物館を後に、遺跡のある山頂へとゆるやかな山道を少し歩いてすぐでした。

castro_mt_mozunho1.jpg

ここが遺跡の入り口です。
castro_mt_mozinho-1.jpg

castro_mt_mozinho

まるで天に向かってゆるやかに上っていくかのよう。
castro_mt_mozinho3 (2)

石段をのぼったところが、石塀に囲まれた集落の中心になっています。
castro_mt_mozinho
入り口の巨大な石はケルト民族、ドルイドの名残か?

castro_mt_mozinho

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castro_mt_mozinho11 - Copy

つわものどもが 夢のあと。石の間から生命力たくましく咲く花に蝶々が。
castro_mt_mozinho


ミステリー好きのわたしとしては、「紀元1世紀には人が住み始めた」などと聞かされるよりも、古代ローマ時代以前のケルト民族によって最初に造られた、と宣伝文句を押し出してもらい、もっと面白い展開が欲しいところですが、考古学と天文考古学とはなかなか相容れず、説明はありきたりのものであったのが残念でした。

本日の案内は2016年の書き直しです。

お付き合いいただき、ありがとうございました。ではまた!
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2019年8月3日 

義兄がどこからかもらってきたパンフレットのお城の写真に一目惚れし、出かけたのが、ベイラ・インテリオール地方(Beira Interiorポルトガル東、中央部の内陸・山岳地方)、ラメーゴ(Lamego)近くの村「Peedon=ぺネドーノ」です。

わたしたちが予想していた所要時間をはるかに超え片道3時間かかり到着したぺネドーノは、人口が3000人ほど小さな村です。このあたりは栗の産地で有名だそうですが、件の目的のお城はこれです↓

penedono2.jpg
中世の城ぺネドーノ城。

西洋史では中世は5世紀から15世紀の半ばをさします。ぺネドーノはレコンキスタ時代の10世紀には既に言及されていますが、現在の城の形式が出来上がったのは14世紀半ばだとされ、花崗岩と頁岩(けつがん=xhisto)でできています。右に建つのはPelourinhoと呼ばれるさらし台。ポルトガルの古城の多くは、支配者が居住せず、要塞の役割を担っていました。

penedono3.jpg

この辺りは花崗岩の採掘地でもあります。 小高い丘は花崗岩の丘そのもの。それが城の土台になっています。

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城の入り口。

↓中世期にはどんな旗がたなびいたのだろうか。トップの小さなピラミッド形を頂く塔には魅力を感じます。
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小さな村ですが、新しいプール、テニス場が備わっているのと対照的に町の中心は中世からの石造りの家が多く、教会もふたつありました。

penedono5.jpg

面白いとおもったのは、村にあちこちに中世の兵器が展示されているところです。

penedono6.jpg
再現された中世の木製大兵器。

penedono7.jpg
アニメ「もののけ姫」にでも出てくるようです。

penedono8.jpg

下図、赤いところがペネドーノ古城のある地域です。
penedono1.png

ペネドーノからもう少し足を延ばすと古代ドルメンが見られます。それは次回の案内にて。

ではみなさま、また。


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2019年8月1日 

毎年8月1日から一週間続く、我が故郷弘前のねぶた祭りが今年も始まった。

ねぶた1
弘前プロモーションから。

初日から6日間、ねぶたは夜に町を練り歩くのだが、七日目の最終日は「なのかび」と言い、朝からねぶた囃子が聞こえ、日中の練り歩き、そして、岩木川原で今年のねぶたに火を放ち、炎で清めて川に流すのである。

ねぶた2
弘前プロモーションから。

ねぶたは「ねぷた」とも呼ばれるらしいのだが、幼い頃からわたしは「ねぶた」と呼んで来た。「ねぶた、ねぷた」は津軽人の標記しがたい独特な発音からであろう、わたしは定義はない思っている。

今日は、既に綴ったねぶたに関連する記事を数箇所書き換えて再度載せてみたい。以下。


遠い昔の自分と出遭う

手元にわたしがこれまで一度も目にしたことのない幼い頃の写真がある。

2007年3月に東京のW大学から九州の公立大学に転校し、山口県の下関に移動した娘に会いに、一ヶ月ほど日本に滞在した時のことである。

ポルトに帰る前の10日間ほどを所沢の妹宅で過ごしたのだが、お茶を飲みながらのある日のこと、妹が「こんな写真を小倉のおじさんのところで見つけてもらって来た。」と、数枚の白黒写真を持ち出して来た。

小倉のおじというのは、3年ほど前に亡くなった、9人兄弟だった母の末の妹でわたしたちの叔母にあたる人の連れ合いである。本サイトエッセイ「思い出のオルゴール」の「急行日本海」でも登場しており、当時は大阪に転勤で住んでいたのだが、わたしはこのおじたちと多感な中学時代の最後の1年を弘前から転校して過ごしたのだ。
      
写真を見たわたしは思わず感嘆の声をあげた。祖母を始め、我が母、父、叔母の、今は亡き人たちの懐かしい顔が数枚の写真の中でにこやかに微笑んでいる。写真の背景も、わたしの記憶に残っており、妹と二人、時間のたつのも忘れて、ひとしきり昔話に花を咲かせたのだった。

あばちゃ

わが祖母と祖母の9人の子どものうちの娘3人。右端がわが母である。左端に写っている男の子は、当時祖母の家に同居していた従弟のひとり。祖母の家はわたしたちも含む13人の大家族だった。
  
そして、妹が「もう一枚!」と取り出してきたB3くらいのサイズの大きな写真がこれである。

memory1hirosaki.jpg

これには、うわぁ~と、それこそ歓声をあげずにおられなかった!今では日本の三大祭のひとつに数えられる、遠い昔の町内ねぶた祭りの一夜の写真なのだ。右のプラカードには「上新児童福祉協会」(上新=上新町)と書かれ、左には「三国志 張飛奮戦○上新町」とある。○の字は読めない・・・

「この中にわたしたちがいるのよ。見つけられる?」と我が妹。

50数年も前の自分を探して、しばらく写真に見入るわたし。妹は言う、「わたしはすぐに分かった。」
わたしたちの幼い頃に関する二歳下の妹の記憶は素晴らしく、「あの時、こうだったああだった」との話を聞かされては、よく驚かされるのである。思うに、無鉄砲なわたしと違い、妹は子どものころからよく周囲を観察することができたのであろう。

大勢のなかで、なぜだか一人だけ小首をかしげている女の子に出会った。
「こ、これじゃない?」と自信なさそうに指差す小さな顔。
「うん。それがゆうだ。で、わたしはこれ。」

hirosaki

小首をかしげているのが60数年前のわたし、下が妹。

背景は真っ黒でよく分からないが、左端にやぐらのようなものと幕が見えるところから、ねぶたの置き場から出た場所だとうかがえる。はしっこにちょこっと当時の自転車も見える。

ねぶた祭りは毎年あったのに、一枚だけがこうして残っているのは、恐らくこの年がわが祖母タマさんが町内のねぶた祭り世話係だったのだろう。一晩上町を練り歩いてねぶたを引っ張って帰ってくると、祖母が家でわたしたち子供のためや大人のために握り飯や菓子、飲み水などを用意して待っていたのを覚えている。

夏休みの8月1日から6日間、日が暮れ始めるとねぶた囃子が聞こえてき、わたしたちは、鼻にスーッと水白粉で白い線を引き、半纏を着て鉢巻しめ、中にろうそくの火をともされたこの巨大なねぶたを「ヤーヤドー!」と引いて下町から坂を上り上町へ出、弘前の夜の町を練り歩くのである。疲れて眠くなり、足元がおぼつかなくなると、ねぶたを乗せた台車に座らせてもらえた。

数台の大きな和太鼓は、ねぶたの後ろに積まれ、笛吹きたちも加わり「歩け」のリズム、「止まって休め」のリズム、「帰路」のリズムと、ねぶたを引くものたちに合図する。帰路には「ヤーレヤレヤーレヤ、ねんぷたのもんどりこ!」(ねぶたの戻り)と、眠気を吹き飛ばして掛け声かけて帰るのだ。

「ダカダン ダカダン」と、太鼓のリズムと笛から流れる音色は、今もわたしの耳に残っている。雪国の夏の六夜の、ほとばしる津軽縄文人の熱き血潮がふつふつと湧いてくるような祭りである。

この写真には、それから数年後、内弁慶のわたしが棒っきれ振り回し、やおらガキ大将になって泣かしていた子分たちもいるはずである。半世紀以上も昔の「自分」という少女をかろうじて見つけられたわたしは、何度この写真を見直しても、あの頃の子分たちを見つけられないでいる。

小首をかしげている古い写真の少女を見ると、わたしは少し目が潤む。そして、静かに語りかけてみる。

「ハロー。あなた、随分歩いて、ここまで来たのね。」

2018年のねぶたまつり弘前プロモーションの動画を拾ってきました。



本日はこれにて。
今日は今から東京息子を空港まで出迎えに行きます。
ではみなさま、また!


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