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2020年4月28日  

東京息子が結婚?いえいえ、あやつはまだです(笑)

時間をみては断捨離をするのですが、これ、何とかならんかなぁと思うもののひとつに、子供たちのために長年保存してある彼らの所帯道具の種類です。

ミニマリズムを好む息子はいつかポルトガルに帰る気もあるらしく、日本に持って行かない。モイケル娘はと言うと、数年前に結婚したのだが、狭いアパートゆえ収納する場所なしと言う。

郵便局に船便受付がないポルトガルです、これが鍋かま、食器一式なんかでないのが助かるというものです。では、どんなものなのか、となるのですが、今日はわたしの知っているポルトガルの所帯を持つ支度のお話をば。

息子娘に拘わらず、子供が結婚するとなると親は物入だということになかなか難儀します。 出せる親はいいのですが、懐具合があまりよろしくない親には苦労です。
   
ポルトガルにはまだ日本のような専門の「結婚式場」なる所はありません。結婚式の多くは、洗礼を受けている人なら教会で、洗礼していないけれどどうしても教会で挙式したいという人は大急ぎで洗礼を受け、「にわかカトリック信者」になります。洗礼を受けていないと教会での挙式はポルトガルではできません。

少し裕福な親をもつのなら、披露宴はたいていQuinta(キンタ)と呼ばれる、元々は個人のぶどう農園、もしくは別荘兼農園ですが、結婚披露パーティー会場として料理付きで貸切できるところがあり、そういう場所を利用します。わたしがこれまで出席した披露宴はたいていキンタでした。

casamento1_1.jpg
親戚の披露宴会場のキンタでの一枚。披露宴は翌日の明け方まで続く。ポルトガルでは結婚式出席も体力がないとダウンしてしまうのであります。

ポルトなら豪華な披露宴としては、ワインディーラー、Tayler´s社の持つロッジを借り切ってのものがありました。

もっと身近なものとしては、土曜日のランチをとる我が家の近くのシュラスコ・レストラン(ベーべキューレストラン)では、店内のコーナーのテーブルを予約して、教会での挙式後招待客とともにそこで飲み食い、というのもあります。

日本のように、ホテルでの披露宴はまだまだ一般的ではありません。

また、もっと質素にしようと思えば、わたし達の場合のように狭いスペースでしたが、自宅を披露宴会場にという手もあります。
  
さて、披露宴そのものは簡素にしようと思えばできるのですが、所帯道具一式を揃えるのは、細かいものから大きいものまで、それらをリストアップして買い揃えようものなら、大きな金額になります。

これは我がお姑さまから教わったのですが、ポルトガルでは「enxoval=エンショヴァル」と称して娘が12、3歳くらいになると、母親が将来のために少しずつ嫁入り道具を買い集めて準備していくのだそうです。
  
最初のころは「随分先のことではないの」と思ったのですが、そのうち、我がモイケル娘が12歳くらいになると、夫の家族や親戚から、果ては我が家に通うお掃除のおばさんまでが、「これをモイちゃんに」と頂くものの中に、タオルやリネンの敷き布にレース編みをあしらったのや、美しい刺繍入りのテーブルクロス、手作りの素晴らしいレースのベッドカバーなどが贈られるようになりました。

いくら娘がまだ使うには早いからと、娘にと言われていただいたものをわたしたちが使うわけにはいきますまい。それが少しづつ増えて行き結構な量になるのです。
   
考えて見れば、手編みのベッドカバーなどは大きいので、1年やそこらではできあがらない。
来年結婚します、と聞かされてもお祝いには間に合わないわけです。
   
シーツやタオル類、テーブルクロスなどは上等なものだとかなり値がはります。こういうものを一度に取り揃えるのは、そうでなくても披露宴で物要りな時、ファッション性にこだわらないのであれば、経済面でも探し求めるのに費やす時間面でも案外いいのでは?と、その利点にいつの間にか目を向けるようになりました。

かくして、我が家のenxovalなるものを、日本人のわたしも真似てみることにしたのです。

enxovalは、母親が娘の嫁入り支度にと言いますが、我がお姑さまは、己が娘には勿論、我が夫になる息子とその兄にもしっかり用意しておりました。

わたしがポルトガルに嫁いだ後の6年間は、そのお姑さまと同居しましたので所帯のための細かい生活用品は要りませんでしたが、彼女が息子のために準備しておいたという、enxovalの中のレース編みのベッドカバー、同じくレース編みの何枚ものテーブルセンター等は、即使用できました。

そして、夫のenxovalは全てこの箱の中に入れられて準備されていたのでした。
enxoval2.jpg

宝箱ではありません(笑)88x42x52の木製の大きな箱、日本語で言う「長持ち」でしょうね。今では死語でしょうか。弘前のタマばあちゃんの家に同居していた子供の頃、長持ちなるものを見ています。

わたしたちの物になってから40年になるこの夫のenxovalのはやがて我が子たちに引き継がれて行くはずなのですが。

箱の5面には深い模様彫りがほどこされています。長持ちの一つは義母から譲り受けたので、必要なもう一つはわたしが用意しました。
enxoval1.jpg

義母のはアフリカのモサンビークから持ち帰ったものだそうですが、わたしのは線彫りで、ちょっと見た目は分かりませんね。

次回は、いったいどんなものが入れられて行くのかご紹介しましょう。

ではまた。

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2020年4月26日 

この前コーヒーを飲んだのは3月7日、ポルトガル国内で武漢コロナ拡大が始まる少し前の土曜日、日本語教室閉鎖直前の日で、外食後の一杯でした。コーヒーはポルトガルではエスプレッソ(Espresso)を意味する。

外での食後のエスプレッソはまず欠かさないが、普段はインスタントネスカフェを薄く淹れたので済ます。また、某企業で日本語の個人レッスンをする時は、まず秘書が淹れてくれるエスプレッソをお偉いさんと飲みながら始めるのが習慣なので、週に数回は飲むことになる。

それが、レストランはもちろんのことカフェも閉鎖となり、我が家の向かいにある3軒も閉まっている。一軒だけは毎朝できたてのパンを売るので、午前中だけ開店だが、中に入ってテーブルに座りコーヒーを飲むということはできない。そこで、カフェのおじさん、紙コップにコーヒーを注ぎ、みな外で距離を置いて立ち飲みするのである。

毎朝、わたしたちとすぐ近くに住む兄のためにパンを買いに行くついでに飲んでいるようだ。
「もう2か月近くもカフェを飲んでない」と何気なく言うと今朝はこうして持ってきてくれたので嬉しい。

espresso_1.jpg

久しぶりに飲むエスプレッソは少し胃に刺激強く感じたが美味しかった。その気になったらいつでも飲める、食べられるという幸せがあったことを改めて感じた。今はその選択がないのである。

今日はコーヒーについての過去ブログをあげようと思う。

「ポルトガルのコーヒーうんちく」

日本茶がおいしいと思うのは、わたしの場合帰国して滞在先の妹宅や和食レストランでの食後の一服である。コーヒー党のわたしは、長いポルトガル在住でたまらなく日本茶が欲しいと思ったことはない。そう思わない理由もある。

胃に食べ物が入っていないままに日本茶を飲むと、てきめんに胃がキュッと収縮するのを感じ、その直後に吐き気が来る。これはよそ様にいては、冗談でなくタラと冷や汗をかくことになる。日本茶だけではなく紅茶もそうである。
   
思うに日本茶紅茶含有のタンニンのせいではないかと想像している。すきっ腹にはダメなのだ。故に頂いた高価なお茶は、小さな食料貯蔵室にある冷凍庫の中で長い間眠ることになる。

さて、コーヒー党と書いたが、党と言えるほど、コーヒーに詳しいわけではない。昔、「コーヒー・ルンバ」という歌が流行ったことがある。

   ♪むかし アラブのえらいお坊さんが 恋を忘れた哀れな男に
     しびれるような香りいっぱいの  
    琥珀色した飲み物を 教えてあげました

と歌われる歌の中に出てくる「モカマタリ」を始め、知っているコーヒーの名前は、キリマンジェロ、ブルーマンテンくらいである。わたしが好んで一日に何倍も飲むのは、インスタントコーヒーアメリカン式で、お茶で言えば出がらしのようなものだ(笑)日本にいた頃は、喫茶店での注文は常に「アメカフェ」こと、アメリカンカフェであった。

これが、ポルトガルに来た途端、コーヒーに関するこれまでの思い込みをガラリと変えさせられることになったのである。ポルトガルのどこのカフェへ行っても「アメカフェ」なるものはまずない!Café Americanoなどと注文すると、はてな?とけげんな顔をされるのがオチ。出されるのは、小さな袋に入ったインスタントネスカフェである。

カフェと言えばポルトガルでは「エスプレッソ」なのだ。

アメリカ映画を観ると、しょっちゅうコーヒーを飲んでいるシーンが出てくる。アメリカ人もコーヒーが大好きな国民だが、ポルトガル人のカフェ、つまりエスプレッソ好きは半端ではない。食後、ブレイクタイムには必ず飲む。

わたしも普段は家でインスタントのアメカフェを飲むが、休暇などで出かけると日に2、3杯のエスプレッソを飲むことになる。夫もエスプレッソを日に5杯ほどは飲んでいた一時期があって、わたしを呆れさせたものだ。

エスプレッソは強い。わたしはコーヒーに砂糖を入れない主義だが、エスプレッソは苦みがあって最初の頃は砂糖なしではさすがのわたしも飲めなかったが、今は砂糖を入れない。
では、ポルトガルのカフェはどんなものなのか^^↓

Budapest

カップはどこでもデミタスカップ。カフェが半分しか入っていないのは飲んだ後の撮影ではなくて、始めからこの量だ。カップにたっぷり欲しい時は「Café Cheio、Por favor」と頼めばいい。値段は変わらない。

同じポルトガルでもリスボンとポルトではカフェの呼び名が違う。リスボンではBICA=ビカ、ポルトではⅽimbalino=スィンバリーノと言われたものだが、現在は単にカフェ、エスプレッソと注文する。

ポルトのcimbalinoはイタリアのエスプレッソを作るコーヒーマシーンのメーカー名、「La Cimbali」から来る。また、リスボンのBICAもエスプレッソを作る機械の蛇口を言う。
   
BICAこれには面白い説がある。
昔、リスボンの街のダウンタウンにあるカフェでエスプレッソが出始めたころ、その苦さに慣れていなかった客は、これまで親しんできたコーヒーの味と違うため、文句を言い出した。

そこで店主は言った。
Beba isso com açucar!=砂糖をいれてそれを飲め」。以後、BICAと呼ばれるようになったと言うホンマかいなと思われる冗談のような説ではある(笑)

余談だが、リスボンとポルトで呼び名が違うものは他にもいくつかある。生ビールもそのひとつ。

ポルトではCerveja pressão=セヴェージャ・プレサォン(pressãoは圧縮の意)、あるいはfino=フィーノ(細い、上品な、の意味がある)、リスボンではimperial=インペリアル(ビール工場の名前)と注文する。

ものの名前からして分かるように、ポルトとリスボンはなにかとライバル意識がちらつくのである。

今ではネスプレッソの手軽なコーヒーマシンが出回り、一般家庭でも食後はこの機械を使ってカプセルのエスプレッソを飲むことが多い。

わたしが夫の家族と同居していたころは、ネスプレッソマシーンがなくて、どこの家でも下のような簡単なのを使用していた。

Budapest

         下二つの部分に分かれている。下は水が入り、上部には挽いたコーヒーをいれるサイフォンがついている。このまま火にかけると、沸騰したお湯が下から上に上り、エスプレッソが溜まる。

エスプレッソが好きな我が東京息子はこれとコーヒー豆をポルトから日本へ持って行った。

また、こんな素敵なのもかつてはよく見かけたものだ。
Budapest

どこの家庭でもコーヒーカップはエスプレッソ用のデミタスカップだが、写真は我が家の。
cafecup.jpg

本日はこれにて。みなさま、また。

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2020年4月25日 

毎年のように取り上げていますが、今年もまた。


4月25日の今日は、俗にVinte e cinco de Abril(4月25日)、或いはカーネーション革命と呼ばれ、ポルトガル人に取って特別の日にあたります。

1974年に、ヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた無血軍事クーデターが起こった日です。わたしがポルトに来たのは1979年の春でしたから、ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してまだたった5年しか経っていなかったことになります。

当時のポルトを振り返れば、街全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」と漠とした不安を抱いたのが正直なところです。

野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら、近所の年端もいかぬ子供の口から、「ファシスタ!」と言う言葉を耳にしたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は、後にわたしの愛犬になるというオチがあるわけなんですがね。

日本語を学ぶわたしの若い生徒たちはそんな時代のポルトを知らないわけで、時に授業の流れで当時のポルトを語ることもあり、今やわたしは語りべのグランマ(Grandmother)もどきです。また、同年代の生徒さんたちとは、そんな時代があったと話し合えたりして、授業の潤滑油になること、しばしばです。

日本からポルトガルにやってきた甥をかつてコインブラ大学に案内した際、学生下宿が多く並ぶ昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地を歩いたことがあります。夫もコインブラ大学医学部に籍を置き学んでいたのだそうですが、その折に一軒の古い下宿屋の外壁に、人の顔を描いた青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 

zeca-afonso3.jpg

「Zeca Afonso、学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。

本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃は健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土ポルトガルの親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からZecaはサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下運動のシンボルにされて行きます。

やがて、Zecaの歌は国内では放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によって中止に追い込まれ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりします。

この間、共産党入党に招待されているも、彼は断っています。

1974年3月29日、リスボンの満席のコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Grandola ,Vila Morena」が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに4月革命を準備していたMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandola 」の歌を選んだと言われます。
  
註:Grândola =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っています。始めの部分は無音から入っていますが、辛抱強く待ってみてください。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândola 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命が始まったのです。

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Wikiより

4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルになりました。

25abril_2.jpg
Wikiより

Zecaは1983年に、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう勲章が与えられましたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り何のシンボルも持たない真っ赤な旗で被われたと言われます。

zecafonso2.jpg
Wikiより

享年58才、いかなる党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今毎日空気のごとく吸っています。、ポルトガルが46年前までは言論の自由がない国だったとは思えないほど、それは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代は、夜間、人が集まることも禁じられていたとのこと、おぞましい社会であったろうと想像してみることができます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。


Grandola Vila Morena

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2020年4月24日 

外へ出るのは一日に5分ほど、野良猫たちへのエサやりと、週一回か10日に一度の食糧買い入れだけを徹底し始めて、いわゆる家に引きこもって38日目です。

それ以前に、イタリアのボンバルディア地方の中共ウイルスによる悲惨な状況をテレビ放映で毎日のよう目にしてにしていたので、外出は極力控えておりました。よって、わたしのひきこもり生活は40日を優に超えています。

最初のうちは、これを機に断捨離でもするかと思いきや、これがなかなかできないのであります。これまで来てもらっていた掃除のおばさんに、お互い接触を避けるため断りを入れ、彼女がしていたことを全部自分がすることになった上、ウイルスが怖くて、家中の家具も掃除しまくる。

夫は通常昼食は外で済ましてきたもので、今までは晩御飯を作るだけだったのが、昼食の準備、台所の後片付けが加わりました。その間、アイロンあてやら日本語のオンライン授業の準備やらしてると、あっという間に夕方になり、また晩御飯の準備。

何が断捨離やねん・・・・と、近頃はブツブツが増えてまいったわたしでありますが、いかんなぁと思ってます。自分の普段の行動が制限されるというのはこんなにストレスが溜まるものなのだと感じ入っております。みなさまはどないでしょうか?

好きな場所へ車がとばせる。公園が散歩できる、海岸を歩きながら海が眺められる、気晴らしにショッピングに行く、気の合った友達とちょっと飲みながらワイワイ食事ができる、教室や家でポルトガルの生徒たちとせっしょくして、仕事をすることができる、夏の休暇をどのように過ごすか考えることができる、日本へ帰られる、などなど。

これらはみな、何の疑問も持たずにこれまで過ごすことができた日常生活だったのです。
こうして一つ一つ、今までできたことと今できなくなったことを数え上げても何の改善にもなりません。ふと、2011年の東北大震災時に心に染み入った谷川俊太郎の詩「生きる」を思い浮かべました。

生きる   谷川俊太郎

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木(こ)もれ陽がまぶしいということ
ふっとあるメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声(うぶごえ)があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

この詩はわたしが補習校時代に子供たちと学んだ詩でもあります。
「いまいまが過ぎてゆくこと」、この文に「今生きていること」の真髄が含まれていると思われます。

4月23日現在、ポルトガルの確認感染者数22,353、死者820、回復数1201、感染と推測される数219,848。
世界の感染者数2,721,354、死者191,231。

いつ終息を見るのか、あるいは明確な終息を見ないまま、わたしたちは日常生活に戻って行くのか。
いずれにしても文句言えるのも、こうして今生きているからこそだ。自分のため、家族のため、他の人のため、黙ってひきこもり頑張ろう。

2020April_2_1.jpg
ベランダの小バラ。こんな時にも美しく花は咲く。
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2020年4月22日  

今日は中共ウイルスの話を離れて。

「盲、蛇に怖じず」で、怖いもの知らずが14歳の家出に始まり、19の歳には札幌で一ヶ月無銭旅行をしたりした。

20代のオフィス時代には本社にいたアメリカ人の同僚と、大分から熊本まで親指立ててヒッチハイクをし、そのヒッチハイクの本場アメリカのアリゾナ、ツーソンでも知人宅を訪ねる途中、道に迷ってしまい、たまたま通りかかって止まってくれた車に乗って送ってもらったことがある。

アリゾナ留学記・ミセスエヴァンスのはかりごと

その時は「なんて命知らずなことをするのか」と知人にこっぴどく叱られ、さすが反省したものだ。怖がり屋のくせに怖いもの知らず、後で思えば冷や汗が出るようなことを、数知れなくしてきたような気がする。

その無鉄砲さもポルトガルに来てからは、妻、二人の子の母となり、その役割をこなしている間、鳴りを潜めていたのだが、やっとそこそこ一人前に車を運転し出して子供たちに手がかからなくなったことにより、偉そうに街を闊歩し出した頃のことだ。

子育ての頃はポルトに住んでいながらポルトを知らずにきた。そんなわけで、自らを「デジカメ突撃隊」と自称して呆れられているところもあるが、「ポルト探検」を始めたのである。

夫に言うと「あそこは行くな、ここは行くな」と注意されるのがオチなので、偶然迷い込んだ場所柄によっては、ブログに掲載しても夫には行ったことを内緒にしている場所もいくつかある。夫に秘密を持つ妻の顔ももっているのであります。はははは。

さて、そんなことをしていた2010年代の始め、わたし63歳の時です。Japan Weekのコーディネーターという大役の白羽を立ててもらった。あまりの責任の大きさにいったんは断ったものの、おだてられ、戸惑い、冷や汗をかきながらなんとか無事大役を終えることができた。

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Japan Week Portoは、ほぼ一年間の準備期間を要し、ポルト市、日本の文化交流財団ことIFFとのあまたの打ち合わせの仲介訳で、市との会議出席、人集め、ポルトの交流相手の学校や施設の訪問などなど、朝起きては一番にメールボックスを開けては、市とIFFとの間の連絡や問い合わせをしたものである。

JW1_2.jpg
Japan Weekの催し物のひとつ。リヴォり劇場での日本文化紹介。これら一週間の劇場でのイヴェントはIFFのスタッフはじめポルト市国際課の素晴らしい担当者二人、Oちゃん、わたしの表に出ない人たちの賜物だ。

後半のかなりきつい時期には「○そ!Aさん、なんぼほどリクエストしてくるねん!いい加減にせぇ~」と、この仕事に引き込んだOちゃんと愚痴ったりしたこともあった。全て終わった後はそれも過ぎし日の悪夢のごときで、疲労感からほぼ全快したときは、素晴らしい体験をさせていただいたと、IFFさんに感謝したものだ。、

そして、今もうひとつ、IFFのスタッフと共にした、めったにできない貴重な体験を本日はここに紹介したいと思います。

2010年11月 「おーっと、のポルトの立ち飲み屋さん」

Japan Weekが終わった翌日、数十名に及ぶボランティアたちへの謝恩パーティーがホテルで行われたのだが、準備が一段落ついたところで、「spacesisさん、一緒に行こう!」とパーティーが始まる前に一杯をと、スタッフの代表の二人に誘われ、昔知らずと迷いこんだ通りの立ち飲みやへ足を踏み入れてきたのでした。

こんな感じで天井から生ハムの脚ごと、ぶらさがっています。
1立ち飲み屋

たち飲み屋のおいちゃんと息子さん
立ち飲み屋2

いやぁ~、女の子(わたしですばいw)が、こんなところに来るとは思いもしなかったことでしょう。おいちゃん、「これも食べてみな。どうだ?うまいだろ?」とご機嫌でサービスしてくれました。パーティー用にわたしたちは生ハムも包んでもらいました。その生ハムも美味しかったこと!

立ち飲み屋3
IFFのスタッフと頭上に生ハムぶら下げての記念写真。めったに来れる場所ではありません。

それでです、その年の12月、シェラトンホテルで恒例のポルト日本人会忘年会があったのですが、その席でだまってりゃぁいいのに、調子にのって、夫が隣にいると言うに、まぁ、お酒の席でもあるし、どうせちゃんと聞いてなんかおるまいと、同席の日本人相手に、

「実はこの間、ポルトのどこそこの立ち飲みやに初めて行って来ましてん^^」
と自慢たらしくやっていたら、夫、しっかり聞いていたらしく、
「やっぱりそんなとこへ行ってる!危なっかしいたらありゃせん!」

がび~~~ん@@なんだ、日本語ちゃんと分かってるやん・・・くわばらくわばら!

最後に一言。日本人ツーリストはこういう情報を知らずして、この手の立ち飲み屋に入る人もいるようですが、ポルトガルでは一般男性でもあまり行きませんので、お奨めではありません。ましてや女性はまず入らないところだということをお知り置きくださいませ。

本日はこれにて。
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2020年4月21日 日本語学習者の漢検結果とオンライン授業

2月の漢字検定試験ですが、受験後40日目には結果が出て合格証明書も通常は届くはずが、今回は中共ウイルス騒動がもちあがり、取次先の補習校も3月以来閉鎖。4月に入ってやっと合否がわかったものの、証明書はまだです。

OちゃんとわたしのYY塾生は全員合格とのことで、ほっとしています。二人程大丈夫かなと気にかかっていたのですが、その二人も解答率90%に達成し、その他満点に2点不足というのが二人、みななかななの好成績でした。

たかが10級されど10級、初級テキストではあまり習わない語いを読み、書き、使い方を学ぶわけですから10級だからとて無駄になることは決してありません。

これが起爆剤となり、さらに9級に挑戦するとか、日本語に力を入れるようになるとかの方向に向かってくれればしめたものです。
オンライン授業も先週土曜日で4回目になり、慣れてきました。が、わたしの授業は講師が一方的に進めるセミナー形式ではないので、グループを対象にする場合は、問題点が出てきます。

これまでの教室での授業は、中級の場合、その場で新しい構文を使って短作文を書いてもらい、一人一人その場で訂正したりアドバイスしたりすることができました。書く作業をわたしは大切だと思っており、授業を進めるうえで時間がかかるものの、この方法を授業に取り入れて3年目に入ったところで、少しずつ生徒たちの短文力に効果が出てきているように思われます。

それが、オンライン授業では、個人レッスンの場合はできそうな気がしますが、10人ほどのグループとなると難しい。
そこで、その場で短文を口頭で言ってもらう方法に切り替え、書く方についてはテキストの翻訳、一部の短文宿題ということを現在しています。

添削になるのですが、これがまた大変なことで^^;日本語の我が解説が理解できるか?英語だとこっちのスペルにミスはないか?と、タイピングしながら確認することが多く、疲れまっせ、これ^^;

毎回、授業前に作成したファイルを送り、今週はこの順序でクラスを進めるので、オンライン教室に入って来る前に、きちんと順番を準備せよ、とメールで言うのですが、「せんせ、どのファイル?いつ送ったの?どこどこ?」というのが必ずや一人二人おりまして。もたつくんでありまする。

「こら!だから、前もってメールで言うてるだろが!」 これが教室だと、横の生徒が、「ここだ!」と教えて済むですがね。

世話のやけるのもおるんですが、どの子もなんとかひっぱって行きたい。知人の日本語教師には「きちんとやって来る人しか来なくていい」なんて方もおられるようですが、そういう人は自分も頭がよくて、「好きなんだけどもう少し面倒見てくれたら、なんとかやっていける」みたいな生徒の気持ちが分からないのだろうな。

いえね、自分がたいして賢くないもので、分からないのだという気持ちが分かるんであります。

今週の中級クラスのテーマは「最近の子ども」です。スマホ、ゲーム、ブランドの服などがキーワードになり、生徒たちの興味を引きそうです。

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それにしても早くこの教室に再び戻って、また生徒たちとワイワイガヤガヤ、授業を始めたいな。オンラインではできないスキンシップ。生徒たちとの無駄話もまたそのひとつなんですよね。
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2020年4月19日 

4月17日現在でポルトガル中共ウイルス感染者と確認された数は19,685、死者687、回復者610、感染していると思われるのは162,711とされています。

3月20日にソウザ大統領の国家非常事態宣言が出されてからほぼ一か月近くになりますが、更にもう2週間5月2日まで再延期されました。

これは日本のように政府の要請ではなく、食糧買い出し、薬局病院銀行へ行く、近辺の軽い散歩以外は自宅待機が課されます
教育機関に関しては、小中学生は教室での授業は三学期(通常はイースター休暇から6月までが三学期)は中止です。代わり に、4月20日から衛星テレビ、デジタルテレビ等のテレビを使った遠隔学習で3学期の内容を放映します。

高校1年生は教室での授業は中止。2、3年生は5月から再開の可能性ありますが、その場合は校内で適切な距離と衛生状態が確保されなければなりません。学生、教師、職員の校内でのマスクの着用が義務付けられます。

高校2年生は成績が大学進学に含まれるため、高校3年生は6月に卒業資格と進学のための国家試験が控えているからです。ウイルス騒動で今年は中止との話が出たようですが、それだと大学入学の目安がなくなります。何らかの形で国家試験は実施するようです。

小学校2年生5年生、中学2年3年の全国一斉学力試験は中止。中学3年の修了試験も中止。幼稚園等の就学年齢前の教育施設は全て閉鎖です。

さて、Grande Portoのひとつに入る町オヴァ―ルですが、昨日31日ぶりに封鎖が解除されました。市民の行動がこれですっかり自由になったかと言えば、そうではありません。全国に非常事態宣言が敷かれているわけですから、他市同様、どうしても必要だとの外出以外は禁止です。

考えてみると、世界中に多くの犠牲者を出しているこの中共ウイルスは、便利な生活にどっぷり浸かって刹那的に生きているわたしたちに大きな教訓を与えているととらえられるのではないか。

すぐには人間の手に負えぬウイルスに脅かされ始めて、迅速に便利にと当たり前のように思われて来た昨日までを、わたしたちはもう一度考えてみる必要があるのではないかと思っています。

このウイルス騒動がすっかり終息して、SARSやスペイン風邪のように(これらも発生源がChinaだということを知っていますか?)、何年か後に「2020年の春はまさに沈黙の春であった」と振り返られる時が来ますようにと、ひたすら祈るばかりです。

下記、Ovarにある世界でも珍しい色タイルに追われて教会を案内します。2018年に行きました。

「色タイルの珍しいオヴァールの教会」

Válega(ヴァーレガ)はオヴァールから6.5キロほど奥に入った小さな村ですが、こんな素敵な教会があるのです。
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ヴァーレガ教会(Igreja de Válega)です。美しいアズレージュ絵(青と白のタイル絵)で被われたポルトガルの教会はたくさんありますが、壁面がこんなにカラフルなタイル絵の教会は初めて見ます。規模も色付きタイル絵アートとしては傑作に入るのではないでしょうか。

何年も前からオヴァールにあると知っていたのですが、近場ゆえいつでも行けるなどと高をくくって、とうとう今日まで放ったらかしになってしまったのです。今回は帰国している息子を理由付けにして、先々週日曜日に、既に紹介済みのIgraja Mátriz de Cortigaçaの後に、探して行って来ました。ここも車がないとアクセスは難しそうです。

教会の前身は12世紀初期には個人所有の今とは違った形だったと思われます。16世紀終わりごろにはポルトの大聖堂に属し、18世紀に入って今の土台が計画され、1975年に現在のヴァーレガ教会が完成しました。

絵タイルはアヴェイル(Aveiro)のセラミック会社Aleluiaによって作られました。

教会の内部も全部鮮やかな色タイルで被われています。
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壁に描かれている一枚の絵は人目でわかります。三人の牧童と共にファティマに現れた聖母マリアの奇跡を描いています。
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本日はこれで。
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2020年4月16日 

ポルトは、ポルトガル国名発祥の地であり、15世紀にポルトガルに栄華をもたらした大航海時代の先駆者、エンリッケ航海王子の生地でもあります。

ポルト市自体の面積42k㎡、人口24万人ほどですが一般に「ポルト」と言えば、ポルト市を中心にしたマイア、ガイア、マトズィーニュスなどの近郊16市を加えた「Grando Area Metropolitana do Porto=グランド・ポルト」を指します。約2000k㎡の面積に人口約180万人が住んでいます。

日本の関東と関西がちょっとしたライバル意識を持つのと同様、ポルトガルでもポルトとリスボンは対抗意識が強い。わたしの知っている小噺に次のようなのがあります。

リスボンで催された、とあるコンクールの勝者への賞品がポルトへの旅行券であった。

 1等・ポルト1泊券 
 2等・ポルト2泊券
 3等・ポルト3泊券

え!と思われるでしょう(笑) どうして1等が一泊で2、3等がそれより多いのか?

つまりこれは、洗練されたリスボンっ子(彼らの言葉をかりると)からすると、地方田舎のポルトに滞在するのは長くなるほどつまらない、拷問である、というオチなのです。「おふざけじゃござんせん」と言いたいところですが、このブラックジョークには笑ってしまいます。

まぁ、これくらいならいいんですよね。

ところが、つい先だって、TVIテレビ局がこんなことを放映しちゃったのです。

news1_1.jpg

COVID_19:Norte de Portugal mais castigado
População menos educada, mais pobre, envelhecida e concentrada em Lares
訳:中共ウイルス:被害が多いポルトガル北部(直訳:コロナに罰せられる北部)
(リスボンに比べて)教養がない、貧しい、古臭い、家庭に専念する。
    ※spacesis勝手訳ですので、勘違いがあったらすみません。

って、これはないでしょ、失敬な。古い街のどこが悪いねん、家庭を大事にして何がいけないねん、貧しいっていうけど北部は産業都市だよ、それなしで国はどうなるねん、教養がないというけど何を基準に言うてるねん、愛国心なら人語に落ちないよ、ポルトは。

間髪入れずモレイラポルト市長が反撃に出ました。で、結局はTVIが謝罪するということで、一応一件落着かな?ま、メディアはいずこもmenos educadaとでも言っておきましょうかね(お返しだぃ

さて、リスボンっ子をポルトガル語では「lisboeta=リズボエッタ」と呼び、「cheira Lisboa=リスボンの香り」と昔から言うように、「洗練された、お洒落な、都会の香りがする」と言う含みがあります。

一方ポルトびとはと言うと、これがまぁなんと「Tripeiros=トリペイロス」。tripaは臓物のことでtripeiro(tripeirosは複数)はそれを常食とする者を指し、ポルトの人の呼び名がこれなのです。

しかし、これにはポルトの人の母国への深い愛国心が絡んでいるのであります。

イベリア半島南部をはじめ、国土のほとんどがイスラム教民族に支配されていた長い時代を経て、8世紀にキリスト教民族の「reconquista=レコンキスタの戦い」が展開され、イベリア半島が奪回されたのは13世紀も半ば。レコンキスタが完全に成就するまで、まさに5世紀もの年月を要したのです。

ポルトガル国はスペインからの独立戦争を経て、その辺りから始まるわけですが、1415年、アヴィス王朝ジュアン一世の時代に、ジブラルタル海峡に面するイスラム教徒の拠点、北アフリカの入り口Ceuta=セウタを70の船舶で攻略することになります。

ヨーロッパの隅の国ポルトガルにとり、領土を広めるにはアフリカ大陸を目指す他なかったのです。「ここに陸尽き、海始まる」と大叙事詩に書いたポルトガルの国民詩人カモインスもこの戦いに参戦し、この戦いで後のトレードマークとなる右目を失っています。

1カモインス

出発点はリスボン港とポルト港。ジュアン一世はこの時、三男のエンリッケ王子も含む三人の息子、船舶大小合わせて200以上、5万人の兵を率いて参ります。

この時です、エンリッケ王子の故郷であるポルトの人たちは、セウタの戦いに向けて兵は勿論のこと、兵の食料となる肉という肉全てを献上したのです。そして、人々は残った家畜の臓物を食することで食いつないだと言われます。

ポルトの人たちが「トリペイロス(複数)」と呼ばれるゆえんは、この郷土愛、ひいては愛国心にあるのです。Tripasはポルトの人たちの「利他主義、有用性、自己犠牲」を象徴する料理というわけです。

Tripas2020.jpg
Tripas á Moda do Porto
新鮮な牛、豚、鶏肉の臓物を丁寧に洗い、それに臓物詰めのソーセージ、豆類、玉ねぎのみじん切り、ローリエの葉などを加えて煮上げる。ごはんが添えられる。

今日ではポルトを代表する料理になっており、一般のレストランでたいていメニューに載っていますし、また、それ専門の評判のレストランもあります。少しクセがありますがポルトにおいでの際には一度お試しください。
と、言いながらも、実はわたしはこれが苦手なのでありました。

ではまた
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2020年4月14日 

Quarentena、検疫生活、自宅待機、自己自粛と、言い方は色々ありますが、要はひきこもりなわけです。

それで、この一か月ほど、ほとんど外を歩かなかったせいか、夜中に足がつってしまいました。ラジオ体操だけじゃ、間に合わないんだっての^^;運動不足をつくづく感じました。

夫はと言えば、すぐ側に住む78歳になる兄が心配なようで、朝のパンを届けたり、近所の散歩に引っ張り出したりなどして、わたしがが気になるくらい数回、出てるのです。

わたしも一緒に歩けばいいのでしょうが、ちょっとした散歩でも二人以上で歩くのは禁じられていますから、わたしは仲間には入られません。それに、いい年寄り3人が連れ立って歩くのもね(笑)

で、今日は運動と称して思いきり力を入れて掃除、手洗い洗濯、ベランダの植物の手入れなど、汗かくほどに頑張ってみました。天気も良くおかげで気分も少しすっきりしたというもの。

この引きこもり生活、あとどのくらい続くのかなぁ。石畳の外の通り、人も車も通らないもので石と石の間からぺんぺん草が生えてまっせ。こんなの、初めてです。

今日は中共ウイルスの話から離れて気分を変えてみます。

毎年4月下旬から5月上旬にかけて行われる弘前さくらまつりですが、今年は中止になったそうです。ウイルスの感染予防と拡大防止のため、4月10日から5月6日まで、弘前公園には入園できなくなりました。

やむを得ないことです。出店もなく無人の弘前公園にあっと驚く3000本の満開桜なんて、その美しさを想像するだけでため息が出ます。わたしの一生できっとこれきりです。

園内の西壕(にしぼり)付近は花トンネルになるのだが、その壕に沿ったのがわたしが子供の頃から好きだった春には花、初夏には若葉のトンネルの道だ。小中学校が西壕の近くだったのでわたしは時々一人でも歩いたものだ。開花中は下の画像のように華やかな桜トンネルの道になります。

hirosaki_sakura1_1.jpg
写真はwikiから。

↓2013年、妹夫婦と桜見たさに訪れたが、この年は寒く、まだ咲かぬ花トンネルの道に立つ。
弘前2013

1973年大阪からの帰省時。さくらは散り始め道は花びらで埋まっている。
桜の季節に訪れた最後の年だ。ピンぼけて。誰が撮ったのか記憶にない。
弘前1973_2

↓1971年ユーコ24才、若葉の頃の帰省だ。若かった!
kouen.jpg

西壕の写真は思い出とわたしの歴史の一部を見せてくれる。

一言に40数年と言うけれど、「知らず知らず歩いてきた細く長いこの道 振り返れば遥か彼方 ふるさとが見える 地図さえない それもまた人生(川の流れのように)」と美空ひばりさんが歌っていたように、わたしのもでこぼこで曲がりくねった道であった気がする。

長い間離れていた故郷をポルトガルから訪れることができる自分の幸運に心から感謝したい。そんな思いで本日はブログを終えます。

では、また。

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2020年4月12日 

外に人、車の往来なし。ポルト在住歴41年でこんな復活祭は初めてです。復活祭とは古い言葉になりますがイースターのことです。
かつてカトリック信者が多かったポルトガル人にとり、イースターはクリスマス同様、一族家族が集う大事な祝日です。

わたしたちも例年ならAveiro市にある夫の姉宅にみんな集まり、昼食をとるのが習慣ですが、政府は目下のウイルス非常事態宣言下、その集まりのために国民があちこち移動するであろうことに危機感を持ち、それぞれの居住区域を出ることを厳しく禁じました。

イースターが春の訪れ、生命の息吹を祝うお祭りでもある、というのは、いかにも肯けます。北半球のどこの国でもそうでしょうが、花々がいっせいに咲き出し、鳥のさえずりが聞かれます。

我がフラットの車庫の裏側は、一軒家が並立しており、どの家の庭にも木々が植えられており、二階の我が家の窓からは、小鳥のさえずりがその木々の間から聞こえて来ます。

立春から夏時間になり、今は夜8時でも明るい。日の光はさんさんと降り、カトリック教の復活祭も相まって、春の息吹を静かに祝うこの静寂さが、わたしは好きです。

さて、本日はポルトガルの例年のイースター、ポルトガル語では「Páscoa(パスコア)」をご案内いたします。

この時期は、普段から掃除好きで知られている年配者のポルトガル女性がいる家では、更に掃除に磨きをかかります。日本の年末の大掃除にあたりますね。

これは、復活祭の日曜日朝、教区司祭が正装して管轄区域を鐘を鳴らすお供を連れ一軒一軒祝福して歩くのを、迎え入れるためでもありました。

カトリックの国と呼ばれたポルトガルです、昔は多くの人がこの朝、司祭を招きいれ祝福してもらったことでしょう。 が、時代は変わりました。今ではその光景もあまり見られなくなりました。

わたしが夫の母、おばたちと同居していた時、彼女がドアを開けて玄関先で司祭の祝福を受けたことがありました。このとき、お布施を渡していました。

鐘の音を聞きつけると毎年窓辺やベランダから、この小さな行列をわたしはいつも覗いたものですが、今ならケータイのカメラを向けるでしょう。

Páscoaの一週間前の日曜日は、ポルトガルでは名付け親のpadorinho=パドリーニュ(父親代わり)、madorinho(母親代わり)を花を持って訪問します。名づけ親というのは、その名の通り、その子供に何かがあった場合の親代わりになる人です。

これは子供が洗礼を受けるときに、親しい人に頼むのです。
私達夫婦も、夫の親友の娘さんの名付け親になっていて、毎年Páscoaの前の日曜日には彼女の訪問を受けてきました。名付け親は、Páscoaと、彼女の誕生日、そしてクリスマスには、贈りものを上げるのが習慣です。

夫の親友は外科医でしたが10数年前に他界し、わたしたちが名付け親だった娘さんも今では家庭を持ち、名付け親の役割は一応終わったと言えます。

下は「Folar」と呼ばれるポルトガルのPáscoaのパンです。

pascoapao1_1 - Copy
中の写真を撮るためにパンを切ってみました。

中にはベーコン、生ハム、ショリース(日本語ではチョリーソ?)が入っている塩気のパン。種類によってはパンの上に卵がのっていたり、中に卵がはいっていたりするのもあります。卵は生命のシンボルです。

また、アーモンドの実に砂糖やチョコレートをからめたお菓子や子供たちに喜ばれるその形が卵に似ていることから卵形の大小のチョコレートも売られます。

pascoaegg1.jpg
包み中はチョコレート。と言っても全部ではありません。中はがらんどう。

この週を「semana santa=セマーナ・サンタ(聖なる週)」と言い、イエスが十字架の刑を受けた金曜日は肉を食さず魚料理で、日曜日にはその復活を祝い、肉を食べることができます。

最後に。
イースターは定祝日ではありません。その年によって移動する休日です。春分の日の後の、最初の満月の、次の日曜日がイースターとされます。ですから、年によっては3月だったり4月だったり。学校の春休みもこれに合わせます。

例をあげると、
2019年 4月21日~4月28日
2020年 4月12日~4月19日
2021年  4月4日~4月11日
となります。

ローマ教会の復活祭循環期で周期は84年、アレキサンドリア教会では周期が19年だそうで、祝日が移動するのは元来が太陰暦に沿って定められていたためで、復活祭の移動の定義はなんと、AD325年、つまりイエス生誕のもっと昔に決定されたものです。

実際の周期は太陽暦で5000年とも言われています。 5000年!気の遠くなるような宇宙的な周期です!

普段何気なく見送っている行事には、人類の歴史の秘密がたくさん隠されているようにわたしは思われます。

ではまた。

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2020年4月10日 

ひきこもり24日目です。
さても、9日現在でポルトガルは中共ウイルス感染者15472、死者435、回復者233となっています。

昨日の9日聖木曜日から日曜日の復活日、そして翌日月曜日まで、居住区域を出るのは禁じられており、通りの主要ポイントでは警察が車を止めて尋問しています。違反すると犯罪です。

夫が近くの通りを挟んだ向こうのATMを時々利用しているのですが、今日は「あ!通りの向こうはRiu Tintoで隣の区域だ!」と(笑)
今日はソウザ大統領からスピーチがありましたが、今月17日までの非常事態宣言は更に延長され5月に入ると推測しています。

服役中の犯罪者も一部、監獄から出され、一時的に自宅待機です。教育界も毎年6月に催されている大学入試の一部である国家試験など果たしてどうなるのか。高校生も気の毒です。

今の状況下では学校はとても開校とは行きますまい。7月に予定されていた日本語能力試験(JLPT)も今年はキャンセルです。

先日述べた、クリスタル公園のSUPER BOCKパビリオン内、野外病院の態勢もほぼ整い、来週火曜日から感染者受け入れができるそうです。

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 「古く、気高く、常に誠実で征服されざる町、ポルト」のロゴが見えます。

これまで予定されていたことのなにもかもが中止を余儀なくされました。2020という数字は日本の2011に並ぶ世界的な受難の数字ではないでしょうか。

本日は短く終わりたいと思います。
ではみなさま、また。
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2020年4月9日 

補習校時代の話だから、かれこれ10年以上も前になる。
海外に滞在する日本の子供がかつて経験した「現地の学校、補習校、通信教育」の三重苦を親子ともに、叱咤激励しながら9年間やった戦友がいる。

今どきの親御さんは、それでは子供が可哀そうだと言ってすることはないと聞くが、これくらいしないと、週に一度の補習校を頼るだけでは日本語の読み書きが身につくはずがないのである。

我が子の国語教科書朗読は、わたしが台所に立つ間、後ろの椅子に掛けてもらい朗読をさせたものだ。我が戦友I氏も恐らく似たようなことをしてきたと思う。I氏もわたしも我が子たちを補習校に通わせながら、講師をしてきた。I氏の奥方はポルトガル女性である。

もとより少ない日本人、そうそう気の合った人はいないが、思えば随分遠くへ来たものだと、時に二人、時に4人グループでビールでのどを潤す仲ではある。

このI氏、時に厳しい意見を出すこともあり、わたしなどは汗をかいたりするが、言うことの筋が通っているところが好きだ。
補習校の休み時間は私たちスタッフの会議にあてられる。

朝礼で毎週ラジオ体操をするのだが、ある日、子供たちの両ひじは伸びていないし、両膝の屈伸もいい加減。見るからにだらけている。どうせするなら、もう少しきちんとしてもらおうではないか、という話になった。

すると、I氏が言う。
「科学的に見たら、短時間で屈伸をパッパッとするラジオ体操があまり体によくない、という話が最近でてるのですよ。」わたしも含め思わず皆、「えーー!」

太極拳などで見るように体のストレッチはゆっくりとするのがいいのだそうだ。いいのは分かる気がするが、あれは、実はちっとも楽なものではなく、徐々に体の筋肉を動かすもので、大変なエネルギーと筋肉を使うことになると経験者から聞いている。

ラジオ体操を科学的な見地から見たことなどないわたし、
「でもね、ラジオ体操を一日一回ずっと何十年も続けて、それで病気になったとか、そのせいですっかり体を壊してしまったとか、心臓麻痺起こしたとかの話は、聞いたこともないわよ。」
と言ったらみながどっと笑った。

確かに科学が進んで世の中が変われば、昔は良いと言われたものが今では良くない、正しくないということは、周囲を見回してみても、結構ある。

しかし、わたしから見たら異常なオリンピック選手やスポーツ選手の筋トレは科学的によろしいとされ、ラジオ体操がだめと言うのは、納得がいかない。なんだかなぁ、なのである。

当時はラジオ体操の代わりに、ピンポンパン体操とか幼稚園ではしていたのだそうだが、いい小学生、中学生が、朝礼で「ピンポンパン体操」も、情けない。エアロビクスだってなんだかちょっと違う。男子生徒はどうするの?

やはりリズミカルに簡単に体を動かすことができるラジオ体操がいいと、わたしは思うのだが。 

付け加えれば、もちろん補習校の子供たちには人気はありませんでした。そして、世界に数ある補習校の中でも、朝礼でラジオ体操をするのは我が校も入れて数校しかないと聞いた。

日本の学校では体育や運動会の開始前などの準備体操として、もうラジオ体操はしないのか?しないとしたら、準備体操は何をするんだろうか。

伝統のラジオ体操は、夏休みに町内会でするくらいの地位に落ちてしまったのかな。今もそれを継続している旧我が職場は時代錯誤なのだろうか。

こんな話を持ち出したのはなぜかと言うと、実は中共ウイルスで外出もままならぬ今、わたしやってるんです、Youtubeで音楽をかけながら第一ラジオ体操を



ということで、本日はこれにて。
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2020年4月8日 

4月7日までのポルトガルに於ける中共ウイルス、または武漢ウイルスに関する数字は、確認感染者13141、死者330、回復者196、感染の疑いがあるのは10万人を超えました。老人ホームでの感染者が一気に増え、高齢者やその家族に大きな不安を与えています。

また、先日も少し触れましたが、ポルトのクリスタル宮殿公園内にある、スーパーボックアレーナ(元ロザ・モタパビリオン)をポルト市は下図のように感染者を収容する300床を用意しています。

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本当を言うと、街中の道という道に有料駐車場を設置しまくり、しかも2時間が限度というシステムを作った現市長にはあまり好感を持っていなかったわたしですが、今回の決断の早かったことで認識を改めたところです。

日本も主要都市の一か月緊急事態宣言が発令されました。わたしはこの問題がポルトで持ち上がった時すぐに日本語教室を休講にしたわけですが、あれから既に一か月が経ちました。そして、未だにポルトガルはピークになっていないようです。

ダウンタウンへ出ることもない今、こういうことがポルトの街で昼夜なされているのに気づきませんでした。

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まさにこれはウイルスとの戦いです。

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外出を極力控え、日本のみなさんも自宅待機、是非とも頑張ってこの困難を乗り切ってほしいと心から願っています。行きたい所に行きたい時に自由に出かけられる、当たり前だと思ってきたことができない今、その不自由さ不便さをつくづく感じています。

不便を体験すると人間はしばしば哲学的になる、とは曽野綾子氏の言葉です。この言葉を糧に武漢ウイルスの終息まで、コロナの時代をしっかり生活しよう、と思っています。

ではまた。
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2020年4月7日

わたしの故郷は弘前である。4月に入るや、外国では耳慣れない「さくら前線」という言葉をテレビを通して聞かれ、日本列島は南から北へ北へとさくらの花で埋め尽くされて行く。

南でさくらが咲く頃、北国はまだ早春で長い冬の衣を脱ぎ捨てるのを今か今かと待ち構えている。春の訪れとともに一斉に芽吹き花を見ては、毎年決まってポルトにいながらわたしは日本の春を、さくらの春を、さくらの弘前を恋い焦がれるのである。

「敷島の やまとごころを人問わば あさひににおう山桜花」
 
本居宣長の歌である。若い頃は外国に憧れ、大和心のなんたるかに考えてみることもなかった。ポルトガルという異文化に長い間身を置いて初めて自分の日本人のルーツに心を向け始めたと思う。

その折に、この本居宣長の歌はあたかもペンから一滴の青インクが透明の水の中に滴り落ちて、静かに環を広げて行くかのように、わたしの心にやって来たのである。

本居宣長のこの歌には、色々な解釈があるようだ。「やまとごころ」を「武士道」と照らし合わせる解釈もあるが、わたしはもっと平たく、日本人の心と解釈している。

日本人の心とはなんであろうか。祖国を40年以上も離れて異国に住む一人の日本人として桜についてちょっと書いてみたいと思った。

作家曽野綾子さんのエッセイに、4月に成田上空にさしかかった時の経験を書いたものがある。

曇り空の下に点々と枯れ木にしか見えない木々があった。大変だなあ、今年はあんなに木が枯れた、と思ってからギョッとしたのだそうな。 ひょっとすると桜ではないかと。

果たしてその通りで、飛行機が次第に高度を下げて行くと、枯れ木としか見えなかった木々がわずかに色彩の変化を見せ、桜となったのだそうだが、機内の外国人客は、誰一人としてさくらに反応を示した様子は見られなかった。

この時初めて、桜は花の下で見るものなのかもしれないと思った、(ここまで要約)と。

わたしはこれを読んだ時、軽いショックを受けると同時に、日頃、日本語クラスで日本文化の話に及ぶとき、ついつい「さくら」の美しさを、目を細め熱っぽく語ってしまう自分の姿を思い起こしたのだ。

桜への思い入れは、日本人独特のものではないだろうか。そうして見ると、秋の紅葉や真っ白い雪の中に映える「寒椿」等にも、わたしたちは心惹かれるように思う。このような光景を思い浮かべるだけでもわたしの胸には美しき天然へのなんとも言われぬ懐かしさがこみ上げてくる。

詩人、大岡信さんが京都嵯峨野に住む染色家、志村ふくみさんのことを綴っている。美しい桜色に染まった糸で織ったその着物のピンクは、淡いようで、しかも燃えるような強さを内に秘め、華やかでいながら深く落ち着いている色であった。その色に目と心を吸い込まれるように感じた詩人は、桜から取り出した色だという志村さんの言葉に、花びらを煮詰めて色を取り出したのだろうと思ったのだそうである。

しかし、それは、実際には、あの黒っぽいごつごつした桜の皮から取り出した色なのだった。しかも、一年中どの季節でもとれるわけではなく、桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると言う。

「春先、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿。花びらのピンクは幹のピンク、樹木のピンク、樹液のピンクであり、花びらはそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものに過ぎなかった」(要約)

この詩人は、「言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だと言ってもいい。これは言葉の世界での出来事と同じではないかという気がする」と言うのですが、わたしは詩人のエッセイにも、そして嵯峨野の染色家にも、いたく心惹かれて、ずっとこのエッセイに書かれてある言葉が心に残っている。

さくらに限らず、異国の町を車で走りぬけるときも、日本ほどではないが、それなりの季節の移り変わりを見せてくれる景色はある。車を走らせながらも、目前に広がる大きな並木道に 「あぁ、きれい。春やなぁ。秋やなぁ」と、思わずその移り変わる季節の匂いを空間に感じる。

とは言え、ひとひらの花びらを、一枚の紅葉を、そっと拾い上げて日記に仕舞い込む。ポルトガルの生活の中で、こんなことを密かにしている人は、何人とはいないであろう。

そんな時、わたしは自分の中のやまとごころがふと顔を出すように思う。密かに語りかける自然の声が聞こえる気がするのだ。大自然が広がるアメリカやカナダにも、そういう人はいるだろうが、わたしのような、極々一般の人間でも、そういう感覚を多くの日本人は持っていると思う。花を愛で、はらはらと散り逝く花の潔さと儚さに美学を見るのは日本人の特性なのだと異国に長年住んで今はしきりに思える。

我が故郷弘前の今年のさくらまつりは、今回のエピデミックで中止とのこと。人混みにまみれて眺めるさくらもいいが、独り占めの3000本の桜花を下を歩くなんて、なんと贅沢なことだろう。

これまで弘前の桜見たさに何度か春の帰郷を試みたが、満開の桜を見ることは叶わなかった。もう一度、もう一度、訪れてみたいと、このさくら吹雪、花筏を夢見ている。日本は美しい。

 
高校時代もよく歩いたので公園の中は全て見知っている。

                          この記事は2014年のものを書き直しました。
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2020年4月6日

ポルトの植物園
ポルトの植物園の初夏

人を非難するのを潔しとしませんが、あまりにひどい話ではあります。

中国がフランスに10億枚のマスク出荷を表明。ただしファーウェイの5G購入(わたしは人体に被害を及ぼす可能性大の5Gに反対)を条件に付けた、とのこと。アメリカも高い値を吹っ掛けられても買うしかありません。

全くもってマスクの争奪戦とは情けない。これが人件費が安いからとなんでも中共に依存してきたことのツケ。火元を作っておいて今感染の大いなる被害を被っている国々にこの傲慢なやり方は酷い。火事場泥棒ではないですか。こうなるとグローバリズム、目も当てられません。

検査キットのエラー率も高く、返品する国々も増えています。わざと不良品を送っているのではないか、ひょっとして故意にウイルスを付着させていないか、などとつい疑ってしまいます。世界もこれで中共の正体見たりと少しは覚醒するでしょうか。

さて、今週木曜日から5日間、イースター期間中、居住区域を出てはいけないことは既に書きました。車で10分たらずのいつも利用している二つのハイパーマーケットは、いずれも区域が違うので、買い物は近くのマーケットで間に合わせることになります。

そこで、今日は10日間、買い足しに行かずに済ませようと、ハイパーマーケットへ行くことにしました。三日前に出かけたスーパーは、自宅待機が始まった頃と比べて随分人が多かった気がしました。しマスク姿もたくさん見かけたので、一体どこから手に入れてるのかと不思議に思っているのです。

みなさんほとんどマスクをしていなくても人が少ない場合と違い、ほとんどがマスク姿なのに、自分だけがしていないと不安になって仕方ありません。そこで、即席マスクをしてみました。どうだ!

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これは、ネックウォーマーなのです。家で試しにしてみたのですが、お、行けるじゃん。これでなんとかなるかも。もちろん、下にはガーゼをあてます。(これだと、結果、暑すぎた

が、実際に出かけた格好は、メガネでなくグラサン。それを目にした夫、「おい、それ、銀行強盗かテロリストに見える・・・」^^;

ええのええの、コロナもらうよりなんぼか増し。自分の姿は自分には見えませんからね、いたって平気。これで今日は買い物してきました。

買い物も後が大変です。いつもなら、しんど~と大きな買い物袋をドサっと台所台にしばらく置きっぱなしにするのですが、このところ、帰宅後すぐに買って来た物のそれぞれの袋をアルコールで拭き、果物野菜類は水で洗い、それから冷蔵庫、冷凍庫へ入れますから、一仕事です。

ちょっと神経質になり過ぎてるかな?と思うものの、こういう時はそれくらいが多分いいのではないかと思い、せっせとしてます。

ガーゼハンカチを使って、マスクを作ってみようかな?肝心の丸いゴム紐、持ってたかなぁ・・・・
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2020年4月5日 

毎日中共ウイルスの話で辟易気味でしょうが、自分のメモとして記録しておきたいと思います。
4月4日現在、ポルトガルの感染者は10524、死者266、回復者75、感染の疑いがあるのは81087となっています。一日も早く終息の日が来ますように。

自宅待機最初の一週間は不安がつきまとい、衛生面でも気が付かないことが多かったのですが、2週間目ともなると、あ、これはこうしなくては、とか、手や衣服、靴の消毒も手順が分かってきます。

その2週間を利用して、勉強でもしようと思ったものの、掃除のおばさんが来てしてもらっていた家事を自分がすることになり、また今までしなくてすんだ昼食作りも入り、日に二回の賄をするのは、準備から後片付けまで入れると、結構な仕事になるもので、結局、勉強とやらはこの2週間できませんでした。

その間、ボランティアでオンライン授業を思いつき、準備することでやはり自分は教えるのが好きなのだと改めて思った次第です。こんな風にしようか、あんな風にしてみようかと授業方法を考えると時間がたつのを忘れます。

昨日はオンライン授業の2回目でした。

自由参加なのですが、中級クラスは6人、初級2年目のクラスは8人の出席でした。

中級クラスについては、通常短作文などその場で書いてもらいわたしがチェックしながら、一人一人簡単なアドバイスをしたりしてきましたが、オンラインではそれが難しい。

そこで、これを機に、書くのは宿題にしてオンライン上でそれぞれ口頭で短作文を言ってもらうことにしました。これが日本語を話すことにつながらないかなぁと思っているのです。

読み書きができても話すとなると、めったに日本語を耳にすることがない環境では、話すことはどうしても難しいのです。

もう一つは、テキストに使っている文章の翻訳を宿題としてしてもらうことです。作業はパソコンでしてもらい、それをメールで送ってもらいます。それだと、パソコンでこちらの書き込みもできそうです。

初級クラスについては、板書が重要だと思うのですが、ホワイトボードは我が家では使っていないもので、黒板使用です。

が、わたしが持ってるWebカメラは古く、チョークで書いた字がよく見えないので、大事な文型、文法の留意すべき点は、下のように、カードを作りに大きく書き注意を促すようにしてみました。

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きちんとしたオンライン授業は、色々なアイテムを利用してうまくできるのでしょうが、身近にあるもので間に合わせようとするアナログ人間ですからね。生徒には我慢していただきましょう。

オンライン授業は回を重ねるごとに生徒たちも慣れて行き、わたしも彼らも、いつ終わるか分からない自宅待機の時間を利用して楽しめるようになるかも知れないと思い始めています。

場合によっては、このままオンラインルームが続けられ、授業とは別に日本語専用のチャットルームになってくれてもいいかもな、と思っています。

我がモイケル娘の日本語教育に、実はわたしはこのチャットルームの方法を使ったのであります。次回はそれをあげたいと思います。

自宅待機3週目に入り、日本のことが今は心配になっていますが、できることをして待つほかはないと観念しつつあります。
ではみなさま、できるだけ外出をお控えくださいませ。

ではみなさま、また明日。
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お時間あらばよろしくお願いいたします。
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2020年4月4日 

来週は9日の聖木曜日からPascoa(パスコア=イースター)です。例年ならどこでも家族一族が集まってキリストの復活を祝うのです。

わたしたちも夫の一族が義姉宅があるアヴェイルに集まり昼食をするのが習慣です。 が、ポルトガル政府は今回の武漢ウイルスパンデミックを受けて、9日から14日までパスコアの間は、これまでの「家にいろ」の非常事態宣言を更に厳しくし「居住区域を出るな」を発表しました。

既に5人以上の集会は禁止されているのですが、2週間の自宅待機も過ぎ、2度目の2週間自宅待機に入るとどうしても国民の気も緩みがちになります。おまけにパスコアとなると、ついつい、近くにいる親戚同士が集まらないとも限りません。それを見越しての政府のお達しです。

昨日、一週間ぶりに買い出しに出かけたのですが、これまでの2週間の静寂さに比べて、なんだか少しですが、人の話し声が聞こえ、車の往来が増えたような気がします。

出かけたスーパーも、え?と思うような人の多さでした。そして、マスク姿の人をたくさん見かけめましたが、一体どこから手に入れてるのでしょう。どこでも売っていないのですよ。このスーパーには怖いのでしばらく行かないことにしました。

医療関係者からもらってるのでしょうか?夫は病院勤めですが、今はマスクが医療機関でも足りないのを知っていますから、それをこっそり持ってこいとは言えないです。

マスクするに越したことはないが、それが足りない今はマスクは感染者、病院関係者用に使われるべきだ、と言います。

こういうのって正直者はバカを見る、とでも言う?マスクが病院から盗まれたという話もありますから、抜け目ない人というのはいずこにもいるものですね。

さて、先ほどのニュースでポルト市は今回の武漢ウイルスゆえ、毎年6月23、24日に催されるサン・ジュアン祭りの中止を決定たしとのこと。

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2019年ダウンタウン、サンベント駅周辺。向こうの空が赤いのは夜12時に上げられる花火。

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食べて歌って飲んで踊って。街の至る路地で見かけるサン・ジュアン前夜祭の様子。

今年は春も夏もただ時間が通り過ぎるだけです。

わたしも武漢ウイルス以前に既に予定して購入してある6月22日の日本行切符で、果たして帰国できるかな? まぁ、言っても仕方ないけれど、返す返すも残念な中共のお粗末さではあります(怒)
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2020年4月3日 

4月2日現在で、ポルトガルの中共ウイルスによる感染者と確認されたは9035(うち北部が5338近く)、死者209(北部107)、回復者68(北部16)、感染の疑いがあるのは全国で66895人近くです。

非常事態宣言を受け2週間外出禁止だったのが、ポルトガルは更に2週間、4月17日までの延長が発表されました。2日前には中共からのマスク、呼吸機器などがポルト空港に入荷しましたが、欠陥品でないことを願うばかりです。

以前から常々思っていたことは、米、ジャガイモなどの日常生活の基本的な食糧(野菜も果物もポルトガル国品より外の国のものが多く売られている)や今回のようないざという時の医療機器などの必需品は自国で生産製造できるものは、他の国に全面的に依存すべきではないということです。

グローバリズム拡大で、安くあがるからと、猫も杓子もあれよあれよという間に先進国が中共に工場を造り、自国民の失業率に影響を及ぼし、おまけに苦労して得た独自の技術をかの国に容易に盗まれてきたではないですか。

以来、便利だと思われるものがあらゆる分野で安価で市場に出回り、最後にはもはやMade in Chinaしかない、というような状況になってしまいました。

今、色々な国で衛生マスク、医療呼吸器がいる事態に陥り結局は感染源の中共を頼らなければならないとは。迷惑をかけたと詫びるどころか、それらをあちらこちらに売りつけて恩に着せる卑しさです。

グローバリズムもオーバーツーリズムも、気が付けばまるでシロアリにあちこち食いつぶされて終わったという具合にならないためにも、ここらあたりで中共にたいする認識が改められるべき時期だと考えます。

以前のような日常生活が送れるようになるまで、あとどれほどの時間がかかるのでしょうか。ポルトガルもさることながら、日本も心配です。みなさま、くれぐれも用心なさり、外出はお控えくださいませ。

この歌にあるようにポルトを楽しめる日が一日も早く来ますように。

Porto Sentido by Rui Veloso
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2020年4月2日
 
「その頃には、我がモイケル娘が日本での大学進学を目指した時に約束したMSFEことM子老人支援財団」が出来ておりますように」と昨日の記事末尾に書きましたが、さて、その件にて。

2006年に綴った「帰国子女物語受験編」23エピソードにあるのでして。彼女の受験前ゆえ、未来形で書いていますので、ご了承ください。以下。

子の旅立ちというものは、親にとって嬉しいことでもあり同時に寂しいことでもあります。

大学入学試験と言う、まだ大きな難関が控えているものの、とにかく「ポ国から日本へ行き、大学入試を受けられる」ところまで娘が漕ぎつけることができたのは幸いなことでした。

この後、次々と襲い来る出費の嵐の前の静けさ。我がモイケル娘は8月の東京での大学受験に備えて、2004年7月からの6週間、所沢の我が妹宅から代々木ゼミナールへ通うのです。

うっかり合格してしまったら、どうやって授業料と生活費用をひねり出そうかと頭をめぐらし、最終的には、もらえるかどうか分かりもしない大学の奨学金をしっかりアテにして、夫の援助とおっかさんことわたしの職場から得る謝礼を毎月の生活費に回すことにしたのは、既に書いたとおりです。

そう決めた年の2003年、モイケル娘高校最後の年の11月17日。この日はわたしの誕生日でした。モイケル娘からもらったのが下の写真です。

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Maiko Scholarship Foundation for the Eleders

Yuko ○○〇〇
 As you are recognized to be qualified as a student in
ability, talent and dignity, this certificate will
 guarantee full economical support from MSFE(Maiko
scholarship Foundation for the Elders) of your studing
in any Japanese University since the date of April the
1st of the year 2009.
                MSFE president:
                署名:m.m.s.c.s.
 November 17th, 2003


これは、娘からわたし宛の保証書のプレゼントであります。


「Yuko ××××殿

あなたは、その能力と才能と品格に於いて、学生としての素質を認められるので、
2009年4月1日から、あなたの日本のいかなる大学での学業に於いてでも
全面的経済支援を、これは保証するものです。

MSFE(M子老人支援財団)代表者」


と書かれています。

2009年4月と言えば、モイケル娘が大学を卒業する春です。わたしの援助と交代して今度は彼女がおっかさんの長年の夢である、教育の支援をする、と言う意味です^^

たかが一枚の紙切れと言うなかれ。これは保証書であると同時に、うひひひ、担保にもなるというとこまでは、娘、思い至らなかったであろう(笑)

これが、大切なわたしの宝物であり、彼女の大きな置き土産であるのは、言うまでもございません。

2009年を目指し、おっかさんも体力作り、知能作りに精出さないと!読書同様、勉強するということは、体力が要るのだと、近年悟ったのでした。

財団名に、「老人」と入れ込んであるところは気に食わんが、許して使わす。モイケル娘よ、グズグズしておられんよ。保証書は、どっこい、生きているぞ、わっはっはっは!

あれ?今気づいたけれど、2009年4月1日・・・・・
ま、まさか、モイケルよ、エイプリル・フールってオチではないよねぇ?^^;


ここから現在です。
あれから14年が経ちました。今では日本の大学に対する私の認識も、こんなんだったらなけなしの貯金を使って行くこともないかも知れないと、すっかり変わりました。

勉強しない学生も結構多いではないか。ポルトガルの大学でそんなことをしてたら、何回でも留年の憂き目を見ます。

実力はあったとしても学歴がないからダメだと言われ、悔しい思いをしたこともありましたが、それももう過ぎたこと。

なんだかんだと言われながらも、人手不足で日本の子供たちに教える機会を得たし、1年もの準備を要するポルト市と日本の国際親善協会が共同で一週間催すJapan Weekなる文化イベントのきわどいコーディネーターの仕事も回ってきましたし、今はこうして日本語を教える(日本語については、大したものではないが、一応日本語教師ライセンスをもっている)という幸運に恵まれてきました。

学歴証明書を提出しなければならない仕事につくことも、この歳になればもうありません。若いモイケル娘は家族が増えると、この先色々物入りになります。

よって、モイケル娘よ、この保証書は無効とし、思い出箱の中にしまいこみましょう。

大学や大学院で勉強できるのは、だれもができることではなくて、親のサポートを受けられるという幸運があるのだということを、忘れないでいて欲しい。

Japan Weekについては、こちらで↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-category-29.html

書けるハプニングはたくさんあったのですが、それが終わった後の脱力感たるや、あまりにひどく、いまだ、エピソードが書き加えられていないのであります。いずれそのうちに、と思っています。

ではみなさま、また。


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