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2020年5月28日 

武漢ウイルスの緊急事態緩和第2期も終わりに入っているポルトガルですが、昨日は新たな感染者285人が確認されました。
そのほとんどはリスボンとリスボン周辺都市からです。緩和ではあるけれど、基本的には未だ、できるだけ外出を控えることが要請されているのです。

おまけに、ここ数日の暑さは真夏並みで、今朝9時ですでに27度です。この暑さで海岸に出かける人も多く出てくるでしょうから、2週間後の数字が怖いです。

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暑くてうだっているチビちゃん。ここは困るんだけどねぇ。

海岸でのルールも施されるでしょうが、緩和はコロナウイルスの感染危険がもうない、ということではないのを、もう大丈夫だと今までの閉じこもり生活のストレス発散で、みんな忘れちゃうんでしょうね。

少なくとも2020年内は、外出を控えるということを常に頭に置かなければならないのだと考えると、いやんなっちゃいますが、自分が感染しないため、他人に感染させないため、仕方ありません。

今年の6月には、3カ月近くの帰国滞在を予定していました。その間、将来につなげて木彫りをもう一度習い直したい、そしてダンス教室にも通ってみようとの計画を立てていたのですが、武漢ウイルス禍でそれらが全てご破算になりました。

基本的に外国人の入国は拒否ですが、海外在住日本人に関しては、下記の通りです。

新型コロナウイルス感染症対策「水際対策強化に関する新たな措置」を受け、6月末日まで、引き続きポルトガルを含めた入国拒否対象地域(ほとんどの国が対象)を出発または経由し,日本に到着される人は,14日間の待機要請に加え,空港到着時にPCR検査を受ける必要があります。

PCR検査が陽性陰性にかかわらず、日本到着後の2週間は自宅、空港内のスペース(段ボールの中での寝泊まり。ホームレスもどきです^^;)もしくは、指定の施設にて自粛することになります。

また、自宅で自粛する場合は、空港から自宅までの公共交通機関の使用禁止です。レンタカーとか家族に車で迎えにきてもらうとかしなければならず、残念ながらわたしにはできる条件ではありません。まことに残念なことであります。

ところで、将来につなげてって、spacesisさん、後10年ほどしかあれへんで、と言われそうですが、無心に彫ったり、彫りながら色々なことに思いを馳せたりする落ち着いた時間が好きです。

実は40年来、彫らずにそのまま放っている材料がたくさんあるのです。子供が歩き始めた時点で、そそっかしい自分のこと、突然いつ、どんな行動にでるか知れない子供のことです、もし万が一のことが起きたらと、刃物を使うので一時中止したのがそのままになってしまいました。

ん十年越しの葡萄の帽子掛け。左側3分の1ほどが放ったらかし。大きな鏡とセットですが鏡は彫り終わり玄関ホールに↓
kibori2020_1_1.jpg

手つかずの作品の一部↓
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下は彫り終わったものの塗りが施されていないまま30年以上(笑)
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塗りを施さず、このまま自然に色が変わって行くに任せる手もあるのでしょうが、下と見比べるとやはり塗りたいと思いますね。傷防止にもなりますし。

kibori2020_5_1.jpg
クマさんのタオル掛けと写真額。

次の機会を待つしかあるまい。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
では、また。
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2020年5月26日 

近所に住む義兄は緊急事態緩和第二期に入ると掃除のおばさんに来てもらっている。2週間になる。

が、わたしは用心してもう少し様子をみたいと言って断って来たのだが、そろそろ来てもらった方がいいと夫が言い始め、今日から我が家のフラットに入ってもらうことにした。

靴はドア前に置いてもらい、こちらが用意したマスクと手袋をしての掃除になるドナ・アナマリアおばさんだが、今週のポルトガルは夏の気温で今日午前10時には既に25度に上がっている。日中は30度を超えそうで、おばさん、きついだろな、と実は同情しているのだ。

3月始めからの閉じこもりほぼ3カ月近く、来週の6月2日からは緊急状態緩和第三期に入り、屋内でのマスク使用はまだ義務付けられるだろうが、ショッピングセンター等も開き、ポルトガルは徐々に普通の生活に戻っていく予定だろう。

ウイルスに対する恐怖心は簡単にはきえないだろうが、わたしも世間を覗きたいがごとく、天の岩戸を少しずつ開いていくことになると思う。

ここ3か月間の自粛生活中は食糧買い出しに行くにしても夫と一緒に行ったので、キャッシュに直接触ることはなかった。

わたしはハイパーマーケットでの食糧買い出しにはカード払いではなくキャッシュ払いをしてきたのだが、現在手元にあるキャッシュは全てこんな風にアルコールで消毒した↓

euros.jpg

ここまでしなくても大丈夫かも知れないし、そうじゃないかも知れない。キャッシュは色々な人の手を通して自分に回ってくることを思うと、気になるのだ。 スーパーでキャッシュ払いすると釣りもキャッシュだから、その度に消毒することになる。

今回の武漢ウイルス禍で、できるものならキャッシュには直接手で触れたくないと思う今、スーパーでの支払いをどうしようかと考えている。

マスクをする、人混みを避ける、大声で話さない、ポルトガル独特の挨拶である頬と頬を合わせるbeijinhoはしない、キャッシュに触らないようにすること等など、これまでわたしたちが自由に選択してきた日常生活習慣の小さなことを、武漢ウイルスは確実に変えて行くのだろう。

本日も読んでいただくありがとうございます。
ではまた明日。
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2020年5月24日 

アルハンブラ

今日は思い出話です。どぞ。

思い出話をすると、「そんな時代にわたしも生まれたかったなぁ。」と、我がモイケル娘が羨んだ1960年代後半、わたしの19から20歳にかけての話である。

大阪は杉本町、大阪市立大学の近辺に「津国ビル」と呼ばれる大きな下宿ビルがあった。コの字型の二棟に分かれている下宿ビルは、三階建てで100部屋ほどがあった。

個室は三畳、それに小さな押入れがついているだけだ。机を入れたらベッドは入らない、ベッドを入れたら机は入らないのである。一階には大きな食堂があり、まかない付き、トイレは共同で、風呂はなし。よってみな近所の銭湯へ出かける。

さて、下宿人だが、これが100人くらいの中に女性はわたしも含め、たったの5、6人。残りは全部男性である。下宿人たちの職業は様々で、夜間高校生、大学生、各種学校生、予備校生、若い高校教師、写真家、サラリーマン、そしてわたしのような、今で言うフリーター(そう言えば、わたしなどフリーターのハシリかも知れないw)といった具合の集まりであった。

わずかの衣類と借り物である寝具を引っさげて、わたしはとあるきっかけでその下宿屋に紛れ込んだのである。

入室者からわかるように、津国ビルは若人の花盛り。多少年齢がいったとしてもせいぜい30歳を少し超えるだけである。

年配の管理人夫婦がいて、玄関口を入って左側に事務所があり、電話は呼び出しだ。電話が入ると校内放送ならず、下宿内放送で、「○○号室のspacesisさん、電話です。事務所までお出でください。」と呼び出しされる。話の内容は、管理人には筒抜けである。まかないは朝6時から9時までの朝食と、夕方6時から9時までの夕食の2食である。

これだけ若者が集まっていると、外での交友よりその下宿屋内での友だちづきあいが多くなり、わたしはよく大阪市大や私立の学生たち、イラストレーターのタマゴ、タイプ学校の学生たちの仲間に入っては、毎晩のように一部屋に集り、明け方まで人生論にふけこむこと、日常茶飯事であった。そして、朝一番、6時の朝食めがけてわたし達はドドッと食堂になだれ込むのであった。

朝食にはまだ早い6時前、この時間になると眠気はすっかり吹っ飛んでしまうものだが、しかし、話もだいたいおさまってひとまず解散、各々の部屋に引きあげようとなったある朝、玄関口の板場に座り、靴紐の結びをほどいている若者に出会った。

「おや、朝帰りですか?」と無遠慮に尋ねたわたしに、「いや、今一仕事終えてきたとこです」。
どこか幼さを残すがしっかりしたような印象を受けたその人は、聞いてみると新聞配達をしながら下宿生活をしている夜間高校生であった。わたしと同じ棟に住むのであるが、そのときわたしは初めて彼と顔を合わしたのであった。

I君、16歳、両親をとうに亡くしていた。

早朝に玄関先で言葉を交わしたこの時がきっかけで、お互いの時間が空いている暇を見ては、色々な話ををしたり本を貸しあったりする付き合いが始まった。

I君とわたしがよく会ったのは、日中は洗濯ものだらけでも、夜はあまり人が行かない下宿屋ビルの屋上である。そこからは少し離れて杉本町の操車場が見えた。今と違って一晩中開いているコンビニやファーストフード店などなかった時代だ。

下宿屋ビルの屋上から見下ろす町はしんとして、街灯も理不尽なこの世界から若者をかばおうとでもするかのように、そこそこに明るいものであった。わたしは時々思う。今の街の灯りは煌々とし過ぎて夜昼の区別がつかない。安全性のためとはいえ、実に優しさがない。

下宿屋の屋上でI君と話すようにしたことの理由は、ひとつに、狭い部屋は若い男女2人きりというのはどうも具合がよくない。それと、わたしがつるんでいた予備校生や大学生のグループに彼は入りたがらなかったのである。

I君はギターを弾く少年であった。夜更けの誰もいない屋上で、話の合間に開く、聴衆者はわたし一人のミニコンサート。ギターを一度でも手がけた人なら誰でも知っているであろう、ギター名曲、ソルの「月光」「アストリアス」そして、タルレガの「アルハンブラの思い出」。
夜のしじまを縫って奏でるギターは、16歳の少年の内面がちょこっと見えるようで、わたしは切なく思ったものである。

I君との交友は長くは続かなかった。ある日の本の交換でわたしが彼から手にした本には「紅岩」という題がついていた。それは中国の文化大革命を背景にした当時の中国の若い人たちを主人公にした物語であった。

わたしはどこか本能で、「紅岩」の持つ思想とは、相容れない自分を知っていた。わたしは行動も考えも他から縛られるのは、全くもってごめんだと思う人間なのだ。 

I君の本にある思想は、「民衆の自由を勝ち取る」とは謳うものの、19のわたしではあったが、それが謳いあげていることとは逆に個人の自由を、思想を否応なくむしりとるよう思えた思想だった。相容れない思想の相違は、それ以上付き合いを続けるには障害だった。

まだ世の中を見ていない16歳の少年をその思想にかりたてた環境がわたしには残酷に思えたものである。

後年、白いギターを手に入れたわたしは、あの頃のI君を思い、彼がよく弾いていたギター曲3曲の楽譜を探し出し、独学で挑戦してみた。しかし、わたしが一応弾けたのは「月光」だけである。

「アルハンブラの思い出」を耳にすると、そのトレモロにどうにも歯がたたなくて弾くのを諦めたのと同時に、身寄りの少なかった16歳の少年の心中を思いやって、わたしは切なくなってしまうのだ。

屋上で別れてから50年近い月日が流れてしまった。君はあれから、どんな人生を歩んだのだろうか。
*過去記事を書き直しています。

こちらでは、ギター名曲「アルハンブラの思い出」が聴けます。



下記では、2011年に訪れたアルハンブラを案内しています。

旅行記「アルハンブラ宮殿」
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2020年5月21日 

5月の風光は麗しい。果物屋の店頭にそろそろサクランボが並ぶ季節でもある。5、6月のサクランボにはなぜだか青春の影が揺れ動いている気がする。

今日は我が青春の大阪時代、男女100人ほど(うち女子は5、6人)が住んでいた下宿ビルの20歳の頃の思い出話を。かれこれ半世紀昔のことになります。

大阪住吉区の杉本町にあった津国ビル下宿屋には門限があった。シンデレラ・タイムの12時である。それを過ぎると、例え前もって電話で「12時をちょっと過ぎるけど門を開けといて」と頼もうが、玄関は管理人夫婦が時間通りバッチリ閉めて開けられることはない。

いずれにせよ、門限時間まで遊ぼうとしたら、タクシーで帰れるだけの経済的余裕が要るので、貧乏学生やわたしのように定職のないようなのが結構いた下宿ビル、そういうことで締め出しを食うのはあまりいない。いたとしても男の話であるからして、さほど心配にも及ぶまい。

と、言いたいところであるが、何を隠そう、女のこのわたしこそお仲間がいたが、実は門限破りの常習犯であったのだ。

しかし、一言言わせてください。それは遊び呆けてではなく、生活費を稼ぐためのレストランの宣伝撮影助手のバイトが理由であった。

下宿にカメラマンの卵N君がおり、彼は副職としてこういう撮影の仕事をしていた。照明やらなんやらのアシスタントがいるというので、わたしにこの話が回ってきた。撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上に掲げたり照明ライトを持ったりしてのバイトだ。大した収入にはならないが、生活の足しにはなる。撮影の話が来るたびわたしは引き受けていたのだが、問題は門限だ。

この仕事はレストラン閉店後でないとしできない。よって、撮影は夜10時半ころから始まり一時間半ほどで終わる。後片付けもあるからして、繁華街から下宿屋までタクシーで帰ったとしても12時を回る。

コの字型の下宿ビルで、わたしの部屋は一階中庭に面しており、入り込むことはできない。が、運良くN君の部屋は通りを前の、雑草が生えただけの広い空き地に面していたのだ。

そこで、撮影がある日は、N君、自分の部屋の窓の鍵をかけずにでかける。そして、仕事終了後二人でタクシーを下宿屋の近くまで乗りつけ空き地をざざ~っと横切って、手はず通戸締りのしていない窓から入り込む、ということを、わたしたちは繰り返していたのだった。

あの頃は今のように物騒な世の中ではなかったからそんなことができた。わたしなどは後年枚方にある自分のアパートの台所の窓は、愛猫ポチが日中自由に出入りできるようと、年中少し開けっ放しにしていたが一度も泥棒に入られたことはない。

さて、その夜も難波にある中華料理店の撮影を事なく終えて、いつもの通りN君の窓から入り込む。
「お疲れさん、またあしたね」と言いもって、わたしは窓から入るときに脱いだ靴を両手に持ち、抜き足差し足でN君の部屋のドアを開けた。

とたん、「こらぁーーー!」
なんと、目の前に怒声とともに、管理人のおっさんがつっ立っているではないの!
「また、お前らか!一回や二回ならいざ知らず、何べんやっとんねん!」

これは完全に袋のねずみで何の言い訳もできない。もとより嘘をつくのが下手なわたしである。現行犯ともなれば、もやは潔くするに越したことはない。

おじさんは、毎夜門限時間になると、下宿屋ビルの屋上から通りに面した側を見張っておったのである。悪い趣味だよ。

二人とも現行犯の写真を撮られたわけではないから、しらを切ろうと思えばできたやもしれない。なぜなら、若いわたしたちはしょっちゅう誰かの部屋に集まっては明け方まで話し込んだりしていたのだし、それについては何のおとがめもなかったのだから。しかし、両手に靴を提げて、人様の部屋に行くか?(^^;)

あっさり門限破りを白状したわたしたちはこっぴどく叱られ、以後すっかり目をつけられて深夜に及ぶ撮影のバイトは終了になったのであった。

半世紀も昔のことで、あの頃の下宿生は概してみなやりくりに貧して、今のようにアパートに一人住まいするなど夢のような話ではあった。しかし、3畳の自分の部屋を一歩出ると、廊下でも食堂でも多種多様の人に出会うわけで、若いわたしたちは気が合う合わないを別にして、3畳間の誰かの部屋に集まってはその町にある大阪市立大学の学生を中心に夜毎青臭い議論を、先の不安な人生についての意見を交わしたものだ。

それはわたしの「それぞれ意見はあるが自分で考えてみよう」という姿勢を持つようになった原点になっていると思う。若い時の議論は目を拓かされることが多い。人は色々な意見を持っているものだということも学んだ。それは未だに学ばされている。

今、そういう議論を日本の若い人たちはするのだろうか?してきたのだろうかと、むやみに自己中心、我欲に固執する異様な事件が多い近頃の日本を思いながら、サクランボの季節に遥か我が青春時代を振り返ってみる。

下記では、「紅の豚」の挿入歌でシャンソンの「サクランボの実る頃」を加藤登紀子さんが歌っています。
https://www.youtube.com/watch?v=L-y8Cfm7ZW8

ではまた。
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2020年5月19日 

グラサンにマスク、それに手袋をして2か月半ぶりに車を運転して近くのマーケットへ行ってきました。夫も先週からぼちぼち病院の仕事が入り始め、今週からはほぼ以前通りのスケジュールに戻りつつあります。

昨日から2週間の更なる緩和第2期に入りました。

11、12年生、託児所などの開校も緩和政策のひとつです。我が家のすぐ側には中高校があるのですが、生徒は本の少し見かけただけです。授業の全てをするわけではないようで、国家試験に必須科目の中で遠隔方式では難しい科目の授業をするそうです。

この2学年を除いては、今学期いっぱいは遠隔教育です。ちなみにテレビではどんな風に放映されているのか、下にサイトがありますので、興味のある方は見てみてください。
Estudo EM Casa(RTP) RTPはポルトガルのテレビ放送局のひとつ。

estuduemcasa.jpg

https://www.rtp.pt/play/estudoemcasa/p7126/portugues-3-e-4-anos

この日は小学校3年4年対象のポルトガル語授業の様子、手紙の書き方です。

ただ、託児所に関するニュースを見ましたが、面積に合わせた人数制限があり、これまで受け入れていた定員全員を引き受けることはできません。また、幼児とてソーシャル距離を保たなければならないわけで、活動が旺盛な幼児を抑えるのはかなり手を焼くと思われます。

幼児がすぐ手にしたがるおもちゃやぬいぐるみ、本なども、誰が触るかわからないので、部屋に置いておくのは酷でしょうね。それこそ、一人の幼児に保育士一人がつかなければならないのではないでしょうか。

そうも言っていられない家庭の事情を持つ人もいるでしょうが、わたしのように心配性な親は恐らくまだ預けないでしょう。
巷のカフェ、レストラン、商店もマスクの義務付けと人数制限がありますが、徐々に開店してきました。

車の往来も増えてきましたが、さぁ、今日から解禁だぞ!との開放感が全く感じられないのです。武漢ウイルスの罪は人々に恐怖感を植え付けたことではないでしょうか。

近所に住む義兄は緩和第一期の時点で掃除のおばさんに来てもらい始めたのですが、わたしは未だに決心がつきません。外部から人が入るということは、それと同時に目に見えないものも入ってくるということなので気になって、もう一週間、あと一週間と伸ばし伸ばしにして夫に笑われています。

夫はおばさんにマスクをあげて、掃除してもらえばいいといいますが、それで3時間家の中を動き回るのは大変だと思うところもあるんですけどね。

昨日はああだこうだと色々思いめぐらし、夕方ベランダから下を覗くと、あらま、いつもの外猫ちゃん、まだ6時前だとゆうのに、ご飯を待っております。

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この猫ちゃん、雨の日以外は夕方4時半ころからこうしてわたしが行くのを待っており、最初は7時ころにあげていたご飯の時間がどんどん早まり、今は6時前には、ベランダ越しに「もういるの?」とのわたしの声をきくと、犬の如く一目散に走ってきます。

こやつにその時間にあげると、他の猫たちはもっと遅い時間にやってくるので、2回外へ出ることになるんでして^^;

雨の日も風の日もコロナの日も、こうしてエサ運びをしています。 ふと道端に目をやると、なんと!使用済みマスクが2枚、ポイと捨ててあるではありませんか! 

っくーー、誰やねん、腹の立つ!学校が始まったから高校生か?一瞬拾おうと思ったが、はっと手袋をしていないのに気が付いて、気になりながらも止めました。

ポルトガルに生きて40数年、マスク姿を見たこともなかったのが、コロナで今は街中マスクだらけ、日本と変わらなくなりました。が、これを機に、テレビでもこんな形で使用済みのマスクを道に捨ててはならぬとのエチケットもしっかり子供たちに伝えて欲しいものです。
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2020年5月16日 

ポルトガル政府の緊急事態宣言は3月18日に出されたので、自粛生活はほぼ二カ月に及ぶが、わたしは3月8日から既に引きこもりに入ったので、つまるところ、今日で70日近くの自宅待機になる。

近頃思うのだが、今回の武漢ウイルスの怖いところは、私たちの心に感染するかも知れないとの恐怖と不安の影を落としたことではないか。その恐怖と不安ゆえ、人と人が距離を置き人間同士のスキンシップ、コミュニケーションの一部が崩壊する可能性があるということだ。

それこそが社会共産主義国家が望むところではないのか?政治に素人のわたしごときが考えても仕方のないことではあるが、これからの世の中、どうなって行くのかと、不安が大きくなるばかりだ。

いっそのこと、我が日本語生徒兼友人でもある86歳のアルフレッドさんのように、山にこもってみるのもいいかな?

と、考えたところで、6、7年ほど前に夫と二人でポルトガルのへき地を廻ったことを思い出した。以下。

ポルトガルの秘境:古村Talasnal

ナビがこっちへ行け、と指示してるのに、なんで反対へ行くねん!と相変わらずの喧嘩旅。いえ、口に出しては言いませんですが、夫、連れが何も言わなければ言わないで気になるようで、勝手に方向転換してへ走りましたです、はい(笑)

急ぐ旅ではなし、何年も一緒にやってますとこの辺はさすが慣れてくるものの、しら~っとしたのがついつい顔に出るようで、言っても言わなくても同じか(爆)

こんなことをしながら、ポルトガルのHistlical Village、つまり田舎も田舎、バスも通らない、車でないとアクセスができない村を周りました。

高さ500メートルほどの小山にあるシスト(片岩)の村Talasnal、これが大変でした。山道は狭く凸凹道で車の速度をグーンと落とし牛歩の如し。むろん公共交通機関は全く通っていません。対向車がきたらどうやってすれ違うのだろうかとの不安とともに、本道から座席が上下左右に揺れること30分。そうして到着したTalasnalは人気もなし。

うっかり通り過ごしそうな山道を横に入る。長い坂道が村の入り口だ。
talasnal1.jpg

途中から坂道が階段に変わる。下から撮影。
Talasnal

「フィリパおばさんのちっちゃな店」と書いた看板。
Talasnal

この店は本当に営業しているのだろうかと思われるほど。
時折黒猫が真昼の静寂な時間を横切るかのように姿を表しては消え(もしかしてわたしたちの後をついてきていたのかも知れません)、人影が見当たらない村でした。

が、所々、戸の向こうにはカーテンが見られ花が咲いているのは人が住んでいるという証拠です。
Talasnal

村のほとんどの家々は無人になっており、見捨てられた村と言えないこともない。中には少し手をいれた家屋もありましたが、恐らく町へ出た人が夏の休暇滞在用にしているのでしょう。この村まで車で食料を運んで来るのも大変な様子が伺われます。

Talasnalは、「天国への門」と銘打って2010年に新聞記事に取り上げられたことがあり、わたしたちのようなその存在を知っている旅行者やハイカーたちが夏場のみ訪れるようになったのはごく最近のことです。

町の喧騒を逃れ、こんな古村で山の空気を吸い夜空の星を仰ぎながら一週間でも過ごすのは悪い案ではないですね。ただし、衛生面が気になる人にはあまり向かないかも知れません。

実はこんな人気のない村に一軒レストランがあるのです。村の入り口である坂道を少しくだったところのレストラン「Ti Lena」(レーナおばさん)。金、土、日のみ開店して必ず予約が要ります。

夫がそこで昼食をどうかと提案したのですが、こと食べ物に関して神経質なわたしは、写真に街灯が見られるので電気は通っていますが、果たしてこの村に水道はあるのか?と衛生面が少し心配で、実は同意しなかったのでありました^^;

この旅行中、わたしは暑さでまいっており、体調もいまいち良くなくて、普段の冒険心がどこへ行ったやらの感でした。
むむ、残念ではあったぞ。もう一度訪れるにはしんどい場所でもあり、中を見るだけでもと入ればすればよかったと後悔しています。

そうこうして村を半時間ほど見歩きしているうちに、山道の反対方向からやってきたハイカーとマウンテンバイカー数人が村に入って来ました。

古村の周辺の山道は3、4時間のウォーキングコースとしても知られています。

暗くなるにつれ、谷あいの小さな村にポツリポツリと灯りが灯っていくのは暖かくて優しいものです。そうは言うものの、毎年、こうして旅をするごとに感じるのは不思議に、一抹の寂寞感です。

山に囲まれて思うは、吉川英治「私本太平記」の一節、

忙裏、山、我を看る
閑中、我、山を看る

自分の生活はまさに山に看られているが如しと、

本日も拙ブログを読んでいただきありがとうございます。
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2020年5月14日 
 
今の若い人については、家を訪問したことがないので分からないけれども昔のポルトガル女性のきれい好きは半端ではなかった。

現代と違い専業主婦がほとんどだったこともあるだろうが、それにしても、と、その徹底さには感心を通り越して、そこまでやる意味がどこにあるんだぃと時に反発を覚えたくらい、亡くなった夫の母や叔母たちは家の中をピカピカに磨いていたものだ。

台所にいたっては、本当にさっきまでここで料理し汚れた食器が重ねられていたのかと思われるほど全て戸棚や食器洗い機に仕舞いこまれ、調理台にはきれいなレースが置かれて、その上には台所に相応しい陶器の果物入れや置物などが飾られるのだった。流し場には水滴ひとつ残さない。

3時間もすれば再び台所で料理をすることになるのだというのに、いい加減な片付け方をしないのである。嫁いできた当初それには驚いた。

手伝いをと思い夫の母やおば達と一日中一緒に台所に立った日のこと、残念ながら修練の足りないひ弱な我が両脚は大根のようにパンパンに腫れ上がったものだ。

ピカピカに磨かれた家中の家具にはたいてい手製のレース編みのテーブルセンターやテーブルクロスなどが敷かれる。わたしがポルトに来た30年ほど昔は、バスの中で、電車の中で、病院の待合室で、果てはいかがなものかと思われたが、公の場での、例えば郵便局、市役所などの窓口でさえも女性職員が暇を見てはせっせとレース編みの手を動かしていたのさえ、目にしたのだった。

フランス語かドイツ語が第二外国語で、英語はその次の地位にあった。言葉が通じない、容易に外出もできなかった当時、時間だけはたっぷりあったわたしは日本では一度たりとも手に取ったことがない編み物のかぎ針を手に持ち、本を頼りにレース編みの独学を始めたのである。

当時同居していた夫の母やおばたちに素直に教えてもらえばいいものを、わたしは何事も自分で探求(笑)することをよしとするタイプ、何度も間違いほどいては肩を凝らしながら少しづつ編み慣れていった。

根が大雑把なところもある性格が出てか、わたしは細いレース糸で編むのはあまり好きではない。専ら太いのを使うのだが、出来具合は大きなものなので見た目にはなかなか立派に見えるのである。

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↑居間のソファの横にはいつでも編み物ができるようにこのかごが置いて
ある。が、ソファに座って休憩する時間も近頃はトンとない。
 
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友人の0ちゃんへのプレゼントにと編み始めて3年ほどかかってしまったテーブルランナー。一か所間違えて、えぇい、これがわたしのサインであるとした(笑)

↓こちらは自宅用のテーブルセンター。足かけ数年、やっと今年仕上げたのだが、途中から
同じ番号の糸なのに、なぜか細めであることに気づいた。よって出来上がりの3分の1は横幅が狭くなってしまった。
何度か洗っているうちに何とかなるだろうと思い、これも良しとする。
amimono4.jpg


そうしていったい何枚のテーブルクロスを作ったことだろう。未だに我が家で使用しているものもあれば、妹宅や友人宅に嫁いだ作品も多々ある。が、近年はさっぱりそれができなくなって久しい。レース編みとて20年来も使ってくるとさすが、ほつれて来るのもぼちぼち出てきた。

さて、ここで我がお掃除のおばさんことベルミラおばさんの出番なのである。

日本から帰って来て時差ぼけの頭で、まだボーっとしていたある朝、その日はいつもの通りベルミラおばさんがやってきた。掃除が始まりわたしはシャワーを浴びて我が部屋にもどり何気なくチェストに目をやると、あれ!

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極細のカーラーレースで編まれた見慣れないテーブルセンターが敷かれてある。真ん中の布はリネンだ。ベッドサイドテーブルにもお揃いのレース編みが敷かれ、んまぁ、これはベルミラおばさん仕業だ!

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数年前まではうちのすぐ側に彼女の長女家族と同居していたのが、事情あって長女一家とEspinhoに引っ越していった。モイケル娘が生まれる前から我が家に通ってきていたので、長年の付き合いで、よく気が利くし陽気だし、何と言っても信頼できるのが心強い。

困ったな、どうしようかと内心思っていたら、電車、バスを乗り継いで1時間半をかけて継続してくれると言ってもらったときは、本当に安心した。

小さな家ではあるが、週に2度ベルミーラおばさんが来てくれるのは何かと助かり、わたしも安心して外で仕事ができるというものだ。この通勤時間を利用して、電車を待ちながら、車内で座りながらと、手にもつかぎ針をせっせと動かしていたようだ。

↓こちらもベルミーラおばさんの作品。ソファの背もたれにかけてあるのは彼女にしては珍しく極太糸で編んでおり、聞けば、「あまりにも大きすぎて気に入らない、ドナ・ユーコ、使ってよ」(笑)
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こんなことをしてくれるのは長年の付き合いもあろうか。嬉しい限りだ。とまぁ、本日はベルミーラおばさんの作品紹介になった。

日本に帰国し、息子娘が一緒にアパートに住んでいた頃、到着するなりわたしが最初にしたことは、「着いたばかりだから休んだら?」と半分迷惑がられながらもポルトガルから持ち込んだ独特の金属タワシと布巾で台所を始め、洗面台、トイレ、果ては部屋中のドアまで磨きまくることだった。

一度などは時差ぼけで寝付かれず、とうとう朝5時頃に起き出して洗濯機を回すやらパタパタ拭き掃除をするやらしていたら、「眠れない!」と息子に怒られたものだ。す、すんません。

なにしろ小さなアパートだもの、さもありなん。そこでそんな朝は子供達の衣服や布物などにアイロンをあてることにした。

こう書くと、いかにも子供達のアパートが汚らしく聞こえるが、一応きれいにしてあった。が、わたしの目からすると磨きが足りないように映るのである。無理もない。息子も娘も専業主夫、専業主婦ではないのだからw

長年ポルトガルに住むうちに、徹底した掃除の仕上げとまでは行かないが、ふと気がつくと、昔のポルトガル女性の煎じた爪の垢の半分を飲みでもしたくらいに、いつの間にか片付け魔、暇があれば編み物魔になっていた自分がいる。

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なかなか進まないが息子の部屋用にと、今とりかかっているレース編み

ではみなさま、また。
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2020年5月11日 

ある年の夏に訪れたサグレス近辺、Vila do Bispoで、たまたま見つけた小さな礼拝堂。もしかしたら「黒い聖母」かも!と期待して足を運んでみたのでした。修繕中だからか、ツーリスト向けの案内があまりされておらず、訪問者はいませんでした。

しかし、質素な田舎風の小さな礼拝堂は、人影もなく荒れた地で端正なその美しさを放っていました。

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ゴチック、ロマネスク建築様式を併せ持ち、13世紀の建築と言われています。かつてはサン・ヴィセンテ(案内はこちら→http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1122.html)への巡礼コース上にあり、アルガルヴ地方に於ける最古のゴチック建築のひとつに数えられます。

テンプル騎士団建築説、エンリケ航海王子建築説があるがいずれも確証はなし。グアダルーペ教会は15世紀に改築されたとの情報もある。

さて、ここで、「Nossa Senhora de Guadalupe=ノッサ・セニョーラ・デ・グアダルーペ」とは何なのか?

Nossa Senhora は英語では「Our Lady」、フランス語では「Notre-Dame=ノートルダム」にあたり、「わたしたちの貴婦人」こと、聖母マリアのことです。
Nossa Senhora de Hora, Nossa Senhora de Vitoria, Nossa Senhora do Graçaと、多くの名前で崇められていますが、全て同一人物、聖母マリアを指します。

余談ですが、「ノストラダムスの大予言」なる本で知られる中世のフランス人医師、占星術師、ミシェル・ノストラダムス(Michel de Nostredame)はNotreDameのラテン語読みです。

Guadalupeはメキシコの土地の名前で16世紀半ばにGuadalupeに聖母が現れたとの言い伝えがあり、この小さな教会の名前は恐らくこの言い伝えがポルトガルに伝わった以降に広まったと思われます。

さて、教会内部を見学すると、わたしが期待した黒いマリア(イエス・キリストの伴侶と言われるマグダラのマリア)こそありませんでしたが、何を物語ろうとしているのか、面白いシンボルがたくさん見られました。


 ヴィラ・ド・ビスポのグアダルーペ礼拝堂
      
アーチ型の入り口。
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下は入り口の柱に見られる人面と縄模様
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質素な内部。
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↓丸天井に施された奇異な模様。 
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拡大
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三つの頭部。ひとつは子供であろうか?後のふたつからは舌が出ている?大きな頭部に続くのは魚のシンボルを象ったものか。真ん中には8つの渦巻き。十字が描かれた三葉植物。
          
柱にも人の頭部と十字が描かれた三葉の植物
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この柱には牛の頭部。
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十字が掘られた聖水盤こと pia de agua benta
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左は質素な祭壇とガアダルーペ聖母像
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右、ステンドグラス上は古代ギリシャに起源を持つトリケリオン(Triskelion)こと三脚巴はケルトのシンボルによく使われる。生命、再生を意味する。

下方はよく見ると二匹の蛇が絡み合って結び目を作っている。
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二匹の絡まった蛇は「intertwined snakes」と呼ばれ、ギリシャ神話の神、錬金術師でもあるヘルメスが持つ杖(カドゥケウス)にも見られる。善と悪の知識を表す異端グノーシス主義のシンボルでもある。
    
こうしたシンボルを見ると、この礼拝堂はカトリック教に捧げられて建築されたとは単純に考え難い。元々これらのシンボルを持っていたのか、それともグノーシス主義参入者だとも言われる、14世紀の異端審問をかろうじて逃れたポルトガル在のテンプル騎士団が15世紀の改築に携わった結果なのか。興味は尽きないのであります。

予定なくして訪れたグアダルーペ礼拝堂はテンプル騎士団の追っかけをしているわたしにとって思わぬ拾い物になったのでした。

そうしてみれば、このアルガルヴ地方の小さな町Vila do Bispoは、鹿児島の西之表市と姉妹都市になっているのを思い出しました。

というのは、2010年11月に日本の国際親善協会とポルト市共催で一週間、街をあげて開催されたJapan Week 2010のコーディネーターをした際に、種子島鉄砲隊が初参加し、火薬の始末やら、鉄砲のポルトガル国内持ち込み許可やらで、無事Japan Week オープニングに持ち込むまでスッタモンダでありました。 これについては、いつか書いてみたいと思います。

JW-teppou

現在のSuper Bockアリーナこと、クリスタル宮殿公園のロザモタパビリオンでの開会式は雨でした。その晴れ間を見ての火縄銃鉄砲隊のお目見えです。

JW-teppou

本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。
では、また。
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2020年5月9日 

日本では先の戦争の終戦記念日をポツダム宣言を受諾した翌日の8月15日としていますが、アメリカは、日本の降伏調印式の1945年9月2日をVJディ(Victory over Japan Day)としています。

そして、ヨーロッパでは、1945年5月8日をVEディ(Victory in Europe)、連合軍の勝利を記念する日になっています。

その日はヨーロッパの各地で祝典が開催され、特にロンドンでは100万人以上の群衆が集まり、トラファルガー広場からバッキンガム宮殿までを埋め、終戦を祝ったと言われます。

当時のイギリス王ジョージ6世(映画King´s Speechで コリン・ファースが演じている英国王)やチャーチル首相が宮殿のバルコニーから手を振って、人々と共に勝利を祝ったそうです。

今年2020年は、終戦75周年にあたり、5月8日はエリザべス女王のスピーチがなされ、イギリスの各地で武漢コロナ対策によるソー=シャル距離をとりながら、人々が通りに出て共に歌を歌いながら75周年を祝っている映像が流されました。

その歌が戦中の流行歌で、愛する人々と離れ離れになっていた当時の人々の心に希望をもたらしたVera Lynnの「We´ll meet again(わたしたちは再び会える)」です。



いつかどこかで、晴れた日に、わたしたちはまた会いましょうと、歌っています。

Vera Lynn(ヴェラ・リン)は第二次世界大戦中、英国軍が戦っている戦地で慰問コンサートをし、「英国軍の恋人」と慕われ、今年103歳。彼女の代表作がこのWe´ll meet againです。

今回のエリザベス女王のスピーチも、武漢ウイルスは克服できると呼びかけ、「We´ll meet again」で結ばれています。

Vera Lynnは、わたしがかつてアサヒビアハウスで歌姫バイトをしていた当時を懐かしみ、一日のステージを終えるときに必ず歌っていた「アウフ・ヴィーダゼン」を検索していた時に、出会った古い歌手です。

彼女はこれを 「Auf Wiederseh'n, Sweetheat」と題しています。

♪Auf Wiederseh'n, Auf Wiederseh'n,
bleib nicht so lange fort
denn ohne dich ist's halb so scho:n,
darauf hast du mein Wort.
Auf Wiederseh'n,Auf Wiederseh'n,
das eine glaube mir,
nachher wird es nochmal so scho:n,
das Wiederseh'n mit dir.

 「アウフ・ヴィーダーゼン」とは、日本語の「さよなら」という意味です。梅田アサヒビアハウスは6時から9時半までの営業時間内で、一回30分、3回のステージがあり、8時半が最終ステージ。その最後のステージで先輩の歌姫、宝木嬢とデュオで必ず歌ったのがこの曲です。

アサヒに数あるドイツ音楽の中でも、わたしはこれがとびきり好きだ。ビアホールで見知らぬもの同士がいつのまに肩たたきあい、ジョッキをぶつけあって乾杯し、あるいは大きな5リットルジョッキの回しのみに参加して、陽気に騒いで、最後にこのしんみりした「アウフ・ヴィーダーゼン」で客のそれぞれが帰路につくのです。

「Auf Wiederséh´n」と歌い始めると、常連だった、今は亡き土佐氏が必ずや客席から「アウフ・ヴィーーダーーゼーーン~」と合いの手を入れてくれるのでした。最後の歌「das Wiederseh´n mit dir」はゆっくりと盛り上げてナレーションで締めくくります。

「みなさま、本日は当店アサヒ・ビアハウスにお越しくださいまして、ありがとうございました。本日のステージはこれにて終わらせていただきます。みなさまのまたのお越しを心よりお待ち申し上げております。アウフ・ヴィーダーゼン!またお会いしましょう!」 
この語りで一日のステージが終わるのです。

梅新アサヒビアハウス
多分日本で最古のライブビアソング付きビアハウスだった。

AB-2020.jpg
誰が撮ったか記憶にないビアハウス当時の一枚。

1977年12月、足掛け4年のステージを通じて、アメリカの留学資金調達を達成したわたしは、これまでのOL生活にも、そしてこの愉快なビアハウスの歌姫生活にも別れを告げ、翌年1月、長年の夢であったアメリカ移住への第一歩を踏み出したのでした。
   
同時に、日本で出会った、後、夫になるポルトガル人の恋人とも別れての留学でした。

この歌を聴くと、あの頃のビアハウスが鮮明に浮かんできます。
わたしの中のアサヒ・ビアハウスは今も変わらず、少し薄暗くて、大理石柱があり、ヨシさんのアコーディオンと大先輩、宝木嬢の姿がホールに見え、常連たちが立ち飲み席で飲んでいる、あの光景なのです。それこそが、わたしの梅新のアサヒ・ビアハウスです。目を閉じればあの頃の常連たちのそれぞれの持ち歌が今も聴こえて来るようです。

いい時代でした。

下記にて英語版で、イギリスの国民歌手、Vera Lynnの「アウフ・ヴィーダゼン」が聞けます。



まだ書き直しの必要があるのですが、アサヒビアハウス時代については下記のカテゴリでどぞ。

あの頃、ビアハウス

では、また。
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2020年5月6日 

ひきこもり50日目。

緊急事態の段階的緩和が今週月曜日から始まりました。

これまで閑散としていた通りから、久しぶりに人の声や車が通る音が聞こえます。もちろん、まだまだ、普通の状態ではありませんが、我が家の向かいにある美容院も開店しました。客は予約制で一人ずつしか入れません。国からは店の人も客もマスク装着が義務付けられています。

スーパーマーケットの人数制限も解禁されましたがマスクもしくはViseira装着でなければ入れません。

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Wikiより。Viseira。日本語で何というんでしょうね。

メトロ、バスなどの公共交通機関は定員乗客の3分の2まで、こちらもマスク装着でなければ乗車できません。今、メトロの自販ではマスクが1ユーロ少しで販売されています。持っていない人は即、自販で買って乗るわけです。

企業も業務開始。ショッピングセンターやデパートは今月いっぱいはまだダメですが、小さな店舗などは開店可。ただし、これも一人ずつの入店でマスクをしていなければなりません。

10人以上の集会もできるということで、気の早い個人授業の生徒さんからは、「せんせい、来週からレッスン始められる?」なんて問い合わせがありますが、「いえいえ、まだです。様子を見てこのまま大丈夫そうなら、6月からです」

某企業のおエライさんことマセラッティの君からも、「ユーコ、I miss Japanese lesson. 取りあえずオンラインでできないか」と連絡が入りました。もしかすると、今回の武漢ウイルス禍で日本語学習を止める可能性もあると思っていたもので、この連絡は嬉しかったです。

3月下旬から始めた無料のオンライングループ授業は、ポルトガル国内の学校が11、12年生を除いては開校が9、10月からになりますから、相棒のOちゃんと話し合い、今までのように教室を借りた正式な授業は、それに合わせて今秋から開始することに決めました。

因みに、ポルトガルの小学校1年生から10年生までは、テレビやオンラインを通して現在学習しており、緊急事態緩和第二期にあたる今月18日から、11、12年生はソーシャル距離が取られた教室で、授業が開始されます。

11、12年生は高校卒業資格、同時に大学受験の一環となる国家試験が控えているので、やはり、遠隔授業では難しいところがあるのでしょうね。

不景気が目に見えているので、できれば生徒たちの支援になる方法を取れないかと、目下考えているのが、月3回をオンライン授業、一回をスクーリング、もしくは隔週にオンライン授業と教室授業にする、です。

そうすると、教室の借料が今までの4分の1か半分になるので、授業料もかなり安くできます。この点を生徒たちと相談してみる必要があります。

ただ、オンライングループ授業に関して私見を述べると、「書く」指導が難しく、その場その場で個々に短作文を書かせてきたYY塾の方針のひとつである「書くこと」へのこだわりを捨てなければならないところがあります。

また、メールで質問、宿題を受けていますが、これをチェックするのに、口頭でなく文章で間違いを説明し理解を求めるのに、かなり手間がかかります。これをクリアする方法がないかと思案中です。

ウイルスに翻弄されて恐々とする人間たちを意ともせず、巡りくるCircle of Life、生命の循環を見せる我が家の花。

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ではみなさま、また。
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2020年5月3日 

ポルトは夕方で28度と初夏なみの気候です。
日本を始め、多くの国では5月の第2日曜日が母の日になっていますが、ポルトガルは5月の最初の日曜日で、今日です。

東京息子とモイケル娘から、スカイプに母の日のメッセージが入っていました。いつだったかは、リスボンから花束が届いて驚いたことがあります。今はお金さえ払えば国外からもカードを添えてネットで注文し届けてもらえるのだそうです。

母の日のカードと言えば、古い話になりますがこんな忘れられない一枚があります。

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昔、モイケル娘からもらった母の日のカードです。

「あのね、お母ちゃん、言いたい事があるんだけど・・・」で始まる会話がモイケルによって書かれています。
赤線が引かれている言葉は「メザ=ポルトガル語のテーブル」、「バタタ=同じくポルトガル語でポテトチップス」、「フロア=英語で床」。

日常会話は日本語で話すようにしていたのですで無意識のうちにポルトガル語や英語がどうしても混じってしまう当時の私たち家族のトライリンガル(三ヶ国語)状態が表れています。

母親のふきだしにあるように、子供たちにはそれぞれ家での役割がありました。 ネコのトイレ(砂)の片付け、食卓の準備とその後片付け、自分が遊んだ玩具の片付けもそうです。

「まぁ、なにかしら?」なんて優しそうに対応していますが、即、弾丸のように母親の口をついてくる「その前にあれはしたの?これはしたの?」の決まり文句であります。

このカードをもらって読んだときは、子供の話に耳を傾けているようで実はそうでない日頃の自分の姿を見、ガツンの頭を殴れらた気がしたものです。カードのウラはこうでした。

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「努女・・・じゃなくて努力」の部分は、モイケルめ、漢字を書き間違ったものの、書き直す代わりのカードが無かったのだろう、そのまま誤魔化して(笑)

「このメッセージは一体母の日とどう関係するのだろう・・・と書いてから思ったアホウな娘である。まぁ細かいこた~気にせんようにしませう」 いったいなんじゃいな(笑)

「努力は積み重ねるから崩れる」なぁんて我が、同窓生いなかっぺいさんのフレーズがエラく気に入ったようだ(笑)

そんなわけで、このカードは自分への戒めのために長い間取って来たのですが、「あれをした方がいいこれをした方がいい」の癖は抜けず、今回の武漢ウイルスに関しても、スカイプを通して色々メッセージを残すもので、二人から「分かっとるわい、言われんでも。もう子供じゃないよ」と実はうるさがられたのでありました。

そうなんです、もう二人とも子供ではないのですが、親のわたしからすると、いつまでたっても子は子です。こちらは色々経験があるので、こうしとけば助かったりする、役にたったりすると、つい言ってしまうのですね。

自分が体験して学ぶのが一番経験として残るのでしょうが、ちょっと知恵を働かして、経験者の言に耳を傾けると「しまった!」ということなく学べるのじゃないかとは思うのですが。
子どもたちにばかりそれを望んでもダメですね。自分の若い時が、やはり頭を打ってからでないと学びませんでしたから。はははは。

ではみなさま、また。

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2020年5月2日 

5月1日のポルトガルの中共ウイルス感染による死者は16名、それでも今まで1000名以上に及ぶ犠牲者をだしました。感染者と確認されたのは25,190、回復者は1,671、感染の疑いがある人は252,728とあります。

明後日からは2週間ごとに様子を見ながら徐々に緊急事態宣言を緩和していくのですが、「これは終息ではない。できるだけ自粛は続けよ」と政府からの要請です。

今回の武漢コロナ禍で、ソーシャル距離なる言葉を頻繁に耳にしてきましたが、さて、ポルトガルを始め、スペイン、イタリアのように、挨拶に肩をだきあったり、知人同士、頬を合わせたりする国々でのこの習慣は果たしてどうなって行くのかと思っているのです。

欧米では、しばしの別れや暫らくぶりの再会の場では、「気をつけていってらっしゃい。」「会いたかったわぁ。」との思いを、抱擁や軽いキスなどのスキンシップで表現することが多い。

中には、しばしの別れと言っても、10時間ほど家を留守にするだけの別れ、つまり夫の朝の出勤時から帰宅時までですら、キスを交わして愛情表現をすることも往々にしてあります。

ポルトガルはと言うと、お互いのほっぺとほっぺを軽くくっつける「beijinho(ベイジーニュ)」が日常茶飯事見られます。街で偶然知り合い同士が出会ったとき、「あら~こんにちは」でbeijinho。どこかのお宅に招待され、到着して玄関先での挨拶もbeijinho、初対面の挨拶も多くはbeijinhoで始まります。

また家族同士でも、誕生日、母の日、父の日などの祝い事でもこれは繰り返されます。我が家では、息子や娘がポルトに帰ってきた時や再びそれぞれの生活の場に帰って行く時、夫が国内外にかかわらず出張で出かける時と帰宅した時などなど、beijinhoは愛情表現はもとより、挨拶がわりでもあるのです。

ポルトガルの人たちは生まれた時からこれをしているのですから、beijinhoの仕方が板についており、その場その場に応じてごく自然にできるわけです。

ところが、こういう習慣に慣れていない日本人のわたしは、最初は戸惑うばかりでした。まず、「どっちのほっぺを出せばいいの?」と迷っているうちに、beijinhoがすれ違って合わなかったことも度々(笑)

これを繰り返しているうちに40数年、それでもまだ板についたとは言い難いわたしのポルトガル式挨拶です。が、面白いことに、日本に帰国した時に大好きな友人たちと久しぶりに会った時など、思わずほっぺたを突き出しそうになる自分にハッと気づいたりするのでした。

この挨拶の仕方を、好きでもない人とするのは嫌だ、と一時は鬱陶しく思ったこともありますが、家族、親しい間柄の枠内では、さりげないようで情のこもったジェスチャーなだと、思い始めたのでした。

ここに一枚、「beijinho」と題する、幼いジョン・ボーイ(息子)、モイケル娘との、今は亡きおばのスナップショットがあります。わたしの好きな写真の一枚です。

beijinho

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武漢ウイルスは1年やそこらでは終息を見ない、場合によっては10年もわたしたちを脅かすことになるとの見方もあります。
さすれば、こういうスキンシップの習慣はウイルス感染の原因になるというので、徐々に失われていくのでしょうかね。

もちろん、日本人の愛情表現には、慎ましさがうかがわれ、時としてたおやかな美しさをわたしは感じることがあり、それもまたいいものだと思う気持ちに変わりはありません。 

ところで、大事な事を付け加えませんと。
異性同士、また女性同士はbeijinhoをしますが、男性同士はしません。男性同士は軽く抱き合い、肩や背中を叩き合うのが親しみをこめた挨拶の仕方です。

それではみなさま、本日はこれにて。
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2020年5月1日 

引きこもり45日目。
今日のポルトは小雨です。そして、メーデーの今日から三日間はイースターの時同様に、居住地区を出てはならんと政府からのお達しです。三日間の連休になりますからね。

と言っても、大概の人にとっては毎日が日曜日のようなもんです。

これが明けて5月4日月曜日から、ポルトガル政府は、段階的に非常事態宣言を緩和していくようです。ざっと箇条書きにしてあげてみます。

・第一期の2週間は、これまで禁止だったイベント、集会が10人以内なら可能、公共交通機関は定員の3分の2までですが、乗務員も乗客もマスク着用が義務付けられます。

・企業は可能な限りテレワークが望ましい。 本屋、車販売店等の店舗はマスク着用で10時以降から開店許可です。

・床屋美容院は事前予約制。わたしなどは、40年来、自分で髪を切っているので、必要性をかんじませんが、床屋美容院は結構望まれているようです。

夫も「みて、これ。前髪にウエーブがかかってるよ」と言っており、一日も早く床屋へ行きたいようです。マスク着用です。

・レストランは定員50%まで。図書館や野外での個人スポーツもプールを除いては解禁だそうです。レストランはマスク着用なんちゃってたら、食べられませんから例外でしょうね。

でも、なんだか怖いです。わたしは個人的はまだ数週間、できるだけ自粛して、食糧買い出し以外は外出しないように心がけるつもりです。

・緩和第二期の2週間は5月18日から。
11、12年生と、障害者社会施設,託児所を開校。マスク着用が義務付けられます。
他学年は引き続きオンライン、テレビ放送などの遠隔方式教育が夏休み前まで。

・レストラン、カフェテリアなどの営業開始。
・美術館,モニュメント,アートギャラリー,展示館及び同類施設の開館開始。
・5月30日〜31日 サッカー1部リーグとポルトガル杯開始。
 ↑これ、怖いでしょ。もちろん観客なしでサッカー場の入り口は閉鎖するのですが、それでも
  選手を始め、メディア、会場に携わる職員など、多くの人が動きます。わたしはとても気になります。


第3期6月1日から、ショッピングモール等の店舗開店
・企業はテレワークではなく、勤務時間をずらした体制導入
・人数制限とソーシャル距離を置いての映画館、コンサート会場の利用開始
と、ざっとこんな緩和計画のようですが、2週間ごとに見直しされるとのことで、決定ではありません。

ポルトガルの4月30日の武漢感染者数はまだ右上がりですが、死者は16名と数字が下がって来ています。
この後の企業倒産、失業者など、不景気による社会不安は生活を脅かし、果たして普通の生活に戻るのにどれだけの時間がかかるのか、はたまた以前のような生活ができるのかどうか。

新聞によると、今回のパンデミックで空の便が減り、世界中の町から車や人が消え、工場閉鎖で、大気汚染が劇的に改善され、インドでは数十年ぶりにヒマラヤ山脈が見られたとのこと。

himaraya2.jpg
Wikipediaより

それも一時的なことで、やがて世界は経済中心に再稼働し、目に見えないウイルスに脅かされながら21世紀をわたしたちは生きていくのか。そんなことが頭を離れないここ数日です。

ではまた。
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2020年4月30日 

前回記事の続きです。
enxoval、こと長持ちの中身は我が家の場合、布物が主になります。
    
マデイラ刺繍(大西洋に浮かぶマデイラ島の刺繍)や白・金刺繍(ポルトガル南部カステロ・ブランコの刺繍)をあしらったテーブルクロスやテーブルセンターは買うとなると高価なものです。
少し余裕があるときに準備してします。

他に手編みのテーブルレース、タオルにも端にレース編みを施します。色物はほとんど入れませんでした。
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下はクロス刺繍とレースで縁取りされた大きめの台所用布巾と丁寧な棒針レース編みをほどこした手拭タオルです。
日常生活の身の回り品にもこんな風に刺繍をしたりレース編みを縁取りにしたりして、ポルトガルの女性は少し手を加えます。温かみがあります。
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↓こちらはモイケル娘にとアルダおばさんからいただいた棒針で編んだレースモチーフをつなぎ合わせたダブルベッドカバー。
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ぎっしり編みこまれて隙間なし。仕上げには何年かかかったようです。アルダおばさんは80幾つかで亡くなりましたが、我が息子にも一枚作りたかったのだけれど、もう体力と視力がないと残念がっていました。
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モチーフ。

ルイーザおばさん(夫の姉)から、モイケル娘にと毎年娘の誕生日とクリスマスに4個ずつ年に8個の金製の小さな玉をもらい続けてためて来ました。希望の数が集まったところで、宝石店へ持って行き作ってもらったネックレス。玉には、ポルトガル北部の伝統的な金細工がしてあります。同じデザインのイヤリングとネックレスにさげる金貨メダルは母のわたしから。

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↓子供たちが生まれて間もないころから立ち始めるまで、ベビーベッドに取りつけられた銀のお守り。「Deus Te Guie(神の導きを)」と透かしが入っています。これは夫が赤ん坊時代にも使われたそうで、70年以上の年期が入っています。銀ですから黒ずまないように時々磨きました。
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今回はモイケル娘の手元に届けられました。夫からわたしたちの子どもに、そして孫に、そのまた孫にと使われることを願っています。

下はわたしも夫の母親の若き日の姿。夫が15歳の時に亡くなったと聞かされる夫の父親を我が子たちは知りません。我が子たちからすると、額に入った父方の祖父母の写真です。
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日本の祖父母の写真、それに、子供たちの赤ん坊のころのアルバムもそれぞれ一冊ずつあります。

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一冊は息子、もう一冊は娘。最初のページには両親の若き日の写真が。

その他、Enxovalには入っていませんが、クリスタル・デカンタ、銀の皿なども別所に保管。

グラス類や鍋かま類、12人分の食器類一式などを準備して行く人もいますが、これは場所を取るので大変です。デザインの好き嫌いもあるでしょうから、これらは準備しませんでした。

日本でも言われる「娘が3人いたら身代がつぶれる」という言葉はポルトガルにもあります。子供の結婚はさほどにお金のかかるものが多い。enxovalは、いっぺんに支度してあげることができない親の、嫁ぐ娘への思いやりと周囲の人々の「いずれの日」への祝福でしょうか。

挙式が決まるとenxovalの中身を頂いた人からもお祝いがあります。ポルトガルでは金銭であげるのは一般的ではありませんでしたが、最近は、嫁入り支度専用のブティックなどもでてきて、結婚する当人たちが、「わたし達はこれが欲しい」と品物をリストアップし、そのリストからこちらが選んでお祝いとしてあげるものの金額をブティックに払う、という新しい方法も取られています。

時間をかけてenxovalを用意するのは、娘の嫁ぐ日を夢見て思いを込めるのと同時に、いつかは娘を手放すであろう母親の、時間をかけた気持ちの準備の意味合いもあるのではないかと、わたしは思っています。

最後に、我が子たちのEnxovalにも入っているポルトガル伝統布ものや刺繍ものを取り上げてエッセイで紹介しているサイト、「東のポルト屋ブログ」が更新されていますので、是非、開訪れてみてくださいませ。

また、「東のポルト屋オンラインショップ」では、温かみのあるポルトガル手工芸品を紹介していますので、よろしかったら覗いていただけると嬉しいです。

東のポルト屋ブログ

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本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。

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