2011年6月3日

tomar-convento7-1.jpg
テンプル・キリスト騎士団修道院入り口

 テンプル騎士団(聖堂騎士団)について
              

聖堂騎士団(テンプル騎士団)にまつわる話はその結成から終焉に至るまで
ミステリーに満ちている。

聖堂騎士団は西欧中世期に於ける宗教三大騎士団の一つであり、正式名を
「キリストの清貧騎士団・ソロモン神殿の騎士団」(The Knights of the
Temple ・the Poor Soldiers of the Temple) と称される宗教的軍事的団体
です。(註:Templeとは古代エルサレムにソロモン王が建設し、後に破壊され
た神殿のこと)

solomontemple1-1.jpg
ソロモン神殿画像の一例。神殿正面の二本の柱は右がヤキン、左はボアズと
呼ばれ、フリーメーソンのシンボルでもある。


12世紀の初めにフランス人ベルナール・クレヴォー(後の聖ベルナール。
シトー会クレヴォー修道院の創立者。)により任命を受けたユーグ・ド・パ
イヤンをグランド・マスターとする9人(11人と言う説もある)からなるこ
の騎士団が後に聖堂騎士団として知られるようになります。

表向きは聖地エルサレムへの巡礼路警護としていましたが、彼らの行動はそ
の目的から逸脱しており、専ら彼らがしたことは、ソロモン神殿の跡地に宿
営して、9年近くもの時間を神殿の丘の地下発掘に費やたことだと言われます。
 
生涯独身であることを強いられた聖堂騎士団は、やがてフランスのプロヴァ
ンスを始め、シャンパーニュ、イングランド、トスカーナ(イタリア)、更
にアラゴン、ガリシア(スペイン)、スコットランド、ノルマンディ、ポル
トガルが騎士団勢力の主だった中心地となり、騎士団に寄進された彼らの不
動産はバルト海から地中海、大西洋岸から聖地にまで及ぶ広大なものでした。

しかし、聖堂騎士団が大きな城を所有できたのは、アラブ人との戦い(アラ
ブ人からの国土奪回戦争=レコンキスタ運動)に不可欠であったスペイン、
ポルトガルに限られていました。
トマールの「テンプル・キリスト騎士団修道院」がそのひとつで、ポルトガ
ルに於ける騎士団の総本部でした。
             
almorol6-4.jpg
ポルトガル・テンプル騎士団の城のひとつ、アレンテージュ地方のアルモウ
ロール城。(こちらにて案内)
 

ポルトガルの歴史で「テンプル騎士団」の名前が言及されるのは、ポルトガ
ルがまだ独立国として建国されておらず、「ポルトカレンス」と呼ばれてい
たスペイン・レオン王国の領地だった1120年代のことです。

当時ポルトカレンスは、領主亡き後で、後にポルトガル建国初代王となる
「ドン・アフォンソ・エンリケス」(D.AfonsoHenriques)王子の母、ドナ・
テレザが統治していました。

1120年代のとある日、ドナ・テレザは、徐々に騎士修道会として頭角を
現してきたフランスのテンプル騎士団初代グランドマスター(総長)「ユー
グ・ド・パイアン」から、「ポルトカレンスでのテンプル騎士団居留地の
提供依頼」の書状を受け取ります。

イベリア半島は、レコンキスタ運動と称して(レコンキスタ=再び征服する)
イスラム教徒からの国土奪回戦争がこの時まで既に400年近くも展開され
ており、ドナ・テレザはこの要請に応じて、中部、現在のコインブラ近くの
Soureに駐屯地を与えたことから、ポルトガル・テンプル騎士団の歴史が始
まることになります。
 
テンプル騎士団の総長、グランドマスターは終身制、各国にはマスター(管
区長)が置かれ、ポルトガル初代のマスターは、トマールの銅像に見られる
ように「Guardim Pais(グァルディン・パイス)」です。

tempralios-1.jpg

テンプル・キリスト騎士団修道院は12世紀の初期テンプル騎士団時代から
16世紀まで4世紀を経て増築され、ロマネスク建築、ゴチック建築、マヌ
エル建築、ルネサンス建築の不思議な併合は訪れる人を飽きさせないでしょう。

わたしが訪れたのは4年前になり、画像もその時のものですが、当時はテンプ
ル騎士団の歴史を独学し始めた時期で、この修道院内に散りばめられているた
くさんのシンボルを見落としています。

今夏、もう一度訪問する予定でおり、新発見については改めて再度、綴って
みたいと思っていますが、今回、このシリーズの初めはテンプル騎士団が建
築に携わった円堂を。

お詫び:一部画像が鮮明でないのは、当時使用していたデジカメと撮影者の
未熟な腕ゆえご勘弁を。今夏の訪問後には画像の一部を差し替える予定で
います。
 
テンプル聖堂2
         
テンプル騎士団が建てた修道院の円堂。外見は16角形、内部は8角形にな
っている。ポルトガルテンプル騎士団初代グランド・マスター(総長)グァ
ルディン・パイスが1160年に建てた。円堂は、エルサレム神殿の丘に建つ
「オマール・モスク(岩のドーム)」をモデルにしたと言われる。
「オマール・モスク」は、エルサレム神殿の名残と信じられている。
                           ↓
                                        
   オマール・モスク(又はDome of the Rock)
テンプル聖堂3
wellcome images サイトより

テンプル・キリスト騎士団修道院外部のあちこちで見かける石球の意味する
ところはまだ不明ですが、モデルとなったオマール・モスクの絵にあります。
        
ポルトガル語で「charola(シャローラ)と呼ばれるテンプル騎士団聖堂。
テンプル聖堂5

2007年訪問時にはまだ修繕がされておらず、色彩が色褪せていました。
それでもかつての聖堂の豪華絢爛さが十分にうかがわれます。この静寂さに
この豪華絢爛さのミスマッチは不思議な雰囲気です。

テンプル聖堂4

その昔、この聖堂で祈りを捧げ戦場に赴いて行ったことを想像すると、遥か
な時の流れを経たとは言え、わたしはテンプル騎士団の大いなるロマンを
感じずにはおられません。

テンプル聖堂6
↑円堂の周囲のあらゆる部分が中心のシャローラ(聖堂)一点に集中するよう
 に構成されている。(wiki画像)

下はキリストの十字架の下の三脚の台。
テンプル聖堂7
台の中央にはくぼみがある。ここは騎士団参入の洗礼堂でも
あるのだろうか。(三脚台、三本柱はフリーメーソンのシンボルでもある。)
    
聖堂から即、外部へつながるつ門。
tomar-convento22-seidogate.jpg
いにしえの騎士たちは馬上姿のままこの門から聖堂に入り祈りを捧げて戦場
へ向かったと言う。

トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院はシリーズで数回続きます。
テンプル騎士団については、筆者が得た知識から推測して書いている部分もあり
ますので、その点をご了承ください。

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コメント
あ~なんて建造物
人間って不器用なのでしょうか。私は十字軍の名前は知ってましたが、ほとんど何も知りませんが、こんな建物たてるだけの知恵がありながら、侵略を良しとしない知恵は無かったのでしょうか。(居たけども多数に負けた?)

これまでの記事で私の疑問がとっくに説明されてましたらごめんなさい。ヨーロッパの立派な建物を見るにつけいつも思います。日本もそうやってきましたけどね。spcessisさんのおっしゃる歴史の裏と表ですね。
2011/06/04(Sat) 23:46 | URL | kumi | 【編集
歴史・・・
複雑な歴史が、どこにもありますね!
とりあえず、写真に見入っちゃいました
_(^^;)ゞ
2011/06/07(Tue) 04:17 | URL | jackie | 【編集
>jackieさん

歴史は見る人によって様々な解釈があり、複雑だけれども
面白いですね。

過去の建築物を見るにつけ、古の人たちは建築に
とてつもない長い時間をかけたものだとつくづく思います。
2011/06/07(Tue) 05:46 | URL | spacesis | 【編集
>kumiさん

こんにちは。

ゴチック建築には特に隠されたメッセージがはめ込まれて
いると思われ、そのメッセージを説くのはライフワークに
なると思いますが続けてみたいと思っています。

いつも読んでいただき、ありがとうございます。
2011/06/07(Tue) 05:54 | URL | spacesis | 【編集
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