2012年3月19日

前回の続きです。

男と女の泣き言の歌謡曲はわたしは好みではなく、だから演歌はいまひとつ、
好きではないのだが、歌謡曲なりとも志を高揚させたり、我が心にズシンと
残ったりするものがあったりする。
ひばりさんの「柔」と同じように、この歌もその一つである。

どこかに故郷の香りを乗せて
入る列車の懐かしさ
上野は おいらの心の駅だ
くじけちゃならない 人生は
あの日 ここから始まった         
     
青森県出身の歌手井沢八郎が歌う「ああ、上野駅←クリックすると歌が聴けます」である。
歌は世に連れ世は歌に連れ。
時代が変わってしまった今では、こんな歌は「ダサい」の一言で隅っこに押
しやられるであろう。

しかし、時々台所に立ちながら、この歌を心中で歌うとき、歌の心根が迫っ
てくるようで、わたしは思わず泪がこぼれそうになるのだ。
我が心の駅は13の時の「大阪」です。

弘前から秋田、酒田あたりまでは日中だが、やがて日が暮れ、新潟、富山、
金沢と「急行日本海」は日本海沿岸を夜通し走って、翌朝大阪駅に入る。

夜道を一晩走りながら希望の灯りをともして翌朝大阪に入る日本海。この画
像は今回のラストランのものです。Werder Bremenさんからいただきました。
わたしが乗った日本海はまだ「汽車」こと蒸気機関車でした。

nihonkai

叔父は、迎えに来ていた。
田舎からポッと出の、見るからに「いもねぇちゃん」のカッコしたわたしを、
「いらっしゃい」と迎えてくれるのである。
黙って家を出てきたことを話すと、きっと心中は「困ったものだ」と思った
であろうに、そういうことはおくびにも出さず、「じゃ、心配するといけな
いから、ボクんとこにいると一言電報だけ打っておこう。」

この時もしも、叔父がこっぴどくわたしを叱ったり、無愛想だったりしたと
したら、恐らくわたしの人生は、今とは随分違ったものになっていただろう。
なぜなら、この叔父のさりげなさに気を良くし、わたしの家出はこれで終わ
らず、再び繰り返されたのだから。

初めて目にする大阪のなにもかもが都会そのものだった。
叔父達の朝食が納豆ご飯でなく、「トースターに目玉焼き、ハム」だったの
が都会!自家用車ではなかったものの、叔父の休日には、会社の車で京都や
奈良へドライブするのも都会だ!西宮の社宅に自宅風呂があったのが都会。 
お隣、叔母のお付き合い友だち宅、2階が「カトレア」と言う名の美容院な
のが都会。震える思いで決行した家出に、これら全ては値した。

わたしの家出の3回目には、根負けした我が両親、そして同じく根負けして
しまい、当時はまだ子供がいなかった、この叔父と叔母にわたしは引き取ら
れることになるのである^^     

中学3年のほぼ一年間、西宮中学校を始めに、次には叔父たちの引越しで大
阪阿倍野区にあった社宅団地へ引越し、阪南中学校に転校した。
生まれて初めての、小さいけれども自分の部屋、自分の机を与えられ、最
初は夢見心地であったのが、やがて思い知った都会と田舎の学力の差。

今でこそ、都市も地方も学力に於いては大差はないと思うのだが、40年ほど
も昔には大きな違いがありました^^;
    
元々小中学時代はろくすっぽ、勉強した試しがなかった。これには、私自身
が相当に慌てふためきました。もう、トースターだの、目玉焼きだのどころ
ではない。
     
まず、わたしの字のへたくそなこと!そのミミズがのたくったようなへたく
そな筆跡を直そうと、叔父は毎朝食前に、小さなノートに自分のお手本を鉛
筆で書き、わたしはそれを見ながら書写する。これが毎日10分ほど。どの
学課もみな苦労したが、基礎学力のない学課は手の施しよう無し。理数系は
どうにもならないのであった(泣)
     
しかし、しかしですぞ、ここで我が努力が少しずつ花開した学課もあったの
だ^^音楽、国語、英語がそうであった。

一年もして、やがて進学を決めなければいけない頃にはわたしは少しだけ
物を考えるようになっていた。叔父叔母の元で、弘前でのような不自由が
なかったとは言え、他人の家の釜の飯を食うということが14、5歳の少女
に学ばせるものがないわけがない。

「本当にそれでいいのかい?」の叔父の言葉に、ハイと答え、高校受験を
目の前にして、わたしは故郷弘前へ帰る決心をしたのである。
叔父叔母に見送られ、大阪駅から帰郷のため再び急行日本海に乗り込んだ
わたしの胸に、希望と諦念が行き交い、当時流行していた小林旭の「北帰行」
の歌が胸に染みてたまらなかった。
夜行列車の窓に映る15の旅人の姿は、今思い出すにつけどこか哀れを誘っ
てしまう。

「北帰行」

♪窓は夜露に濡れて  都 すでに遠のく
 北へ帰る 旅人ひとり 涙 流れて止まず

 今は黙して行かん 何をまた語るべき
 遠き思い 儚き望み 明日は いずこの町か(「北帰行」はこちらで

あれからほぼ半世紀の時が流れた。 



16日に最後の走行を終えた、かつての急行日本海こと、特急日本海。長年
のお勤め、ご苦労様でした。しかしわたしの心から「日本海」が消えること
はありません。わたしの本当の人生はあの「日本海」から始まったのだから。

最後に、ご親切に日本海ラストランの写真を送って下さったWerder Bremen
さんに心からお礼を申し上げます。    


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コメント
勇気ですね。。
こんにちわ。胸にしみる思い出話、いいですね。。私も田舎(北海道の超田舎)出身なので書かれてるお気持ち良くわかります。私も憧れてました、都会に、都会の匂いのする物に。あ~上野駅 昔は嫌いでした、聞くのが恥ずかしかった。でも今はyoutubeでわざわざ聞くほど好きです。spacesisさんは勇気がありますね、家出しちゃうんですから。私は北海道の小都市で進学しました。その頃を思い出すと、そこでもまだ田舎の子から抜けてなくて、地元出身の同級生へのコンプレックスみたいなのあったような気がします。外から見たら活発そうにみえると思うのに実は複雑だった自分、はじけろ私と今思うと言いたくなります。
ご結婚33年おめでとうございます。
2012/03/19(Mon) 20:36 | URL | kumi | 【編集
>kumiさん、こんにちは。

>あ~上野駅 昔は嫌いでした、聞くのが恥ずかしかった。でも今は
youtubeでわざわざ聞くほど好きです

その気持ち、とてもよく分かります。
わたしも自分の出身地弘前の津軽弁が嫌いでした。
それが故郷を離れ異国に住んで、たまらなく懐かしくなり、
今ではときどき同窓生の伊奈かっぺいさんの津軽弁ライブを
聞いて笑いこけてるわたしです。

こういうのを若気の至りと言うのでしょうね。表面のカッコだけ
見て本当のよさを見ようとしない^^;

今では妙に取り澄ました都会よりもなぜだか田舎っぽさに人間味を
感じ、今のわたしなら、そのどこが悪いのだ、と言うことができます。

家出したのは、もうたまらなく家が嫌だったからです。今考えて見ると
これもまた、周囲の迷惑を考えず身勝手な行動でしたが、あのときは
それしかなかった。

若いときにはそういうことが許される時期だと思います。身勝手なことを
し大人になって自分の運のよさを知ることになりました。

あんなに嫌っていた田舎も今は恋しい思いでいっぱいです。
人って変わるものですね。
読んでいただきありがとうございます。
2012/03/19(Mon) 22:22 | URL | spacesis | 【編集
いい叔父さんですね
自分が叔父さんの立場だったら同じように行動できたか分かりません。今はきっとモイケルさんたちを自分の孫のように思ってくださっているのでしょう。
ちょっとじんと来ました。
2012/03/22(Thu) 14:16 | URL | もと | 【編集
>もとさん

叔母は亡くなって7年ほどになりますが、江戸っ子の叔父は
元気で、現在横浜に住んでいます。
叔母は叔父を顔が大きく四角い人なので「鬼瓦」なんて
呼んでいましたが、わたしは大好きでした。

今では帰国するたびに妹と一緒に訪ねては持参するお弁当を
広げてビールで乾杯するのが常です。

読んでいただきありがとうございます。
2012/03/23(Fri) 09:38 | URL | spacesis | 【編集
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