2012年10月31日 

自宅日本語教室の授業を3週間もしくは4週間毎に、一週間休講にして
その週はゆったり休もうと言ったのは昨年のことでした。
が、結局それができずして、逆にボランティアの影絵作成だとか市立図
書館の日本語開講だとかで仕事を増やしてしまい、今日まできたのです
が、このままでは体力的に続かないと自覚したのがしばらく前です。

そこで、この秋からは欠かさず熱心に通ってくる生徒さんにその由を伝え
承諾してもらったのです。少し体調不振だったのがうまい具合に数人の
生徒たちが2週間ほどの休暇をとったりしたもので、久しぶりにバタバタと
慌てふためくことなくこの2週間を過ごしています。

で、昨日は藤本儀一氏が亡くなったとのニュースを目にし、この数年、忙
しいのにかまけて、日本のことを思い出す暇もなかったのですが、儀一
氏にまつわるビアハウス時代のエピソードなどをめくっていたのでした。
(エピソードはこちらに)

ビアハウスのバイト歌姫時代は同時にわたしの大阪のOL時代でもあり、
あの頃を懐かしみながら、「そう言えば、彼はどうしているのだろうか」と
わたしはめったにしないことなのですが、ふといたずら心でその人の名を
検索して見ました。
「ボブ・グロンディン」、いや、こっちがいいかな?「Robert Grondine」・・・・
2006年4月6日のブログ日記「炉端焼き」と題してボブについてはこんな
ことを書いています。

炉端焼きの居酒屋に、わたしは限りない愛着がある。
そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端ではわたしは
常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌で、それが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端に
ジャズやらシャンソンを望むのは、中華料理店でフランス料理を注文する
ようなものだろう。
泣き節の演歌はあまり好きではないが、それが炉端にぴったしなのには、
どうにも仕方がない。

外国人の友人ができると、わたしはよく炉端に案内したものである。
当然夫も時々わたしに引っ張られて行ったことになる。
わたしが勤めていた会社の東京本社には、ハーバード出のボブがいた。
本社とは仕事上しょっちゅう電話連絡をとるのだが、初めて彼と話した
時は、電話の相手がアメリカ人だったと聞かされるまで気づかなかった。
それくらい、彼の日本語はクセがなく日本人に近い発音にオフィスの
みんなはひたすら感心したものだ。

その彼が週末を利用して大阪へ来たときもアサヒ・ビアハウスと炉端に案内
した。日本語はコーネル大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして
語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに
あれやこれやと議論したのである。もちろん日本語でw

日本びいきの彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で
「炉端 愚論人=ろばた・ぐろんじん」とつけて、印鑑まで作ってしまった。
そそ、ついでにバラしてしまえば、アサヒ・ビアハウスに彼を案内した時は、
ホール中演奏のポルカに合わせ踊って跳ね回り、相手をさせられたわたし
は引きずりまわされヘトヘト、見ていた常連達もボブのステップにはすっか
り目を回したのだったw
当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、
台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横に見
える炉端。ここには、我が親友、「かつらぎ山房」の主「みちべぇと」よく行った。
みちべぇはもちろん女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、
当時同じ駅のすぐ側にご両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、自分が
グンと上だという年の差も忘れて意気投合。以来30年以上のつきあいになる。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、同
時にまた今のように手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端を恋う
思いも募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人に
なったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論をぶってみたい」
と、それが夢だったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の
場とは、人生論を戦わせる場でもあったような気がする。 
会社の愚痴、上司の愚痴あり。しかし、人生の夢を語る場でもあった。 
お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場で
はなんだかできたような気がするのだ。それでわたしは炉端が好きだったの
だと思う。

あれからもう30年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるもので
はないようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、現代人たちは、
どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。
しらふで語ることも勿論大切なことではあるが、人の人生って理屈だけでは
語れない部分があるのじゃないか、すると、やはりちょっとお酒なんかあっ
たら、語らいやすいなぁ、なんてわたしは思ったりするのである。
(引用終わり)


日本語英語検索で両方、出てきました。なんと、彼は東京のとある国際的な
法律事務所を立ち上げ、私立K大学で教鞭を持ち、ワイドショーの討論にも
出演して国際経済問題を語っていたとは!

在日米国商工会議所の最高顧問もしていたとありますから日米をまたにか
け、まぁあなた、随分活躍しているのね。

と思いきや次の文字に軽いショックを受けました。
弁護士. 2011年10月に逝去。

そんなわけで、今日は遅まきながらボブへの弔い話を。

東京本社、大阪支社と勤務先は違うが、ボブとはかつて同僚で休暇を利用し
てヒッチハイクの初体験も含め共に九州旅行をしたこともある間柄でした。

usaco1-1.jpg

我が職場は、それなりにアタマにくることもありはしましたが、今にして
みると随分愉快な職場だったと思い出されます。少人数のこともあり、社
員同士のチームワークがよく、本社との関係も悪いものではなかった。

パソコンの職場導入がなかった当時のこと、本社との連絡のやりとりでは、
電話では埒があかない件は手紙で用件が書かれている連絡事項用紙を他の
書類と一緒に専用の封筒に入れるのです。

どちらが始めたのか覚えていませんが、その封筒にちょっとしたオモシロメ
ッセージを誰かが書き始め、以来、専用封筒がボロボロになり、もう書き込
む隙間もないと言うくらいに表面がおアホなメッセージで真っ黒け。
もちろん、ボブやわたしのメッセが中心であったわけですが、それに他の
社員も加わり(笑)誰の目にでもつくその封筒、ある日、我らが所長が目に
入り、「なんだ、こりゃ、お前たち!」と相成りお叱りを受け(笑)
以後、封筒メッセはあえなくボツ^^;

usco
10人くらいの小さな支店で社員旅行にて。左端が所長。赤い人がわたし

同僚の女性Tとわたしは同い年で、本社支店合わせても、エヘン、最高の事
務仕事コンビと言われたのであります。そそっかしいわたしをカバーした
Tの苦労やいかばかりかw

usaco
鳥取砂丘でのひととき。20代、30代、40代でこれです。逆おしくら
まんじゅうw 赤い人がわたしw 今ならさしづめセクハラとかでお咎めを
受けるかしらw そんなことは思いもせず単純に童心に帰ってw


usaco

こんな雰囲気のオフィスで、本社と支社の封筒メッセの愉快なやりとりもあ
って然るべき(笑)そのうち、ボブは東京で日本女性Aさんと結婚し、その
後二人はニューヨークへ。
法学部大学院で再び学業に取り組み、簡単な近況報告のクリスマスカードが
舞い込むこと数年。わたしもビアハウスのバイトで目標額に到達し、オフィ
スを退職してアメリカへ渡り、
usaco
1977年オフィス時代最後

やがてポルトガルで子育てに夢中になり、いつの間にかボブとは連絡が途
絶えてしまったのでした。まさか、日本で活躍していたとは夢知らず。

人のことは言えないけれど、ネット上で見るかなり恰幅がよかった写真には
やはり上の若い時の面影が見られます。享年59歳。ボブ、ちょっと早かっ
たのが残念ですよ。ちょうど一周忌の今月、しばし、あのオフィス時代に
思いを馳せて、あなたの冥福を祈ります。
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