2013年3月20日 

随分前のことになるが、知人が好意で送ってくれた本に斉藤孝氏の「声に出
して読みたい日本語」というのがある。
その本の一ページ目を開くと、
     
    「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、
     歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ガ浜」

と、眼に飛び込んできた。
おお、知ってる!ご存知、白波五人男の一人、弁天小僧菊之助」が歌舞伎
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)、浜松屋の場」での語り
の部分である。興奮で高鳴る胸おさえながら、ザーッと急いでページを繰
ってみると、あるわあるわ、七五調の語呂良い歌舞伎がらみ浪曲がらみの
セリフが。

 「赤城の山も今宵を限り 生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て
  国を捨て、可愛いこぶんのてめえたちとも別れ別れになる門出だ~」
                   (国定忠治 赤城山)

 「旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名代なる東海道、名所古跡の多い
  ところ、中に知られる羽衣の、松と並んでその名を残す、海道一の
  親分は清水港の次郎長の~」
                   (森の石松 金毘羅代参)
                   

わたしはこれらのセリフの面白さと懐かしさに引き込まれ、「ねね、ちょっ
とおいでよ」と娘を傍らに呼び、これも覚えてる、これも!と大声出して一
気に読んだものである。

これら18番のセリフをわたしは学校の教科書で覚えたわけではない。更に
言えば、歌舞伎など生まれてこの方、まだ一度も観劇したことはない。子供
のころからこれらのセリフをわたしは母を通して耳にし、自然に覚えたのだ。

母は大正生まれであったが、当時の人にしてはモダンでわたしたち姉妹を
連れては、よく外国映画を見に行ったものである。しかしその母は任侠物も
好きだったようで、機会あるごとにわたしたちを前にしては朗朗と詠んだも
のだ。幼かったわたしはそれを耳にして覚えたに違いない。

尋常小学校4年を出ただけにしては書物が好きな人であった。晩年まで枕元
に文庫本を目にしない日はなかった。読んでいた本は、池波正太郎、柴田錬
三郎、平岩弓枝、藤沢周平と時代物がほとんどで、母は言ってみれば、好み
が和洋折衷の人だったのだ。

サウジアラビアのジェッダに赴任することになった妹夫婦の家族とと長年同居
してきた母を厳しい気候条件の砂漠の国に連れて行くことはできないと、当初
は妹たちが帰国するまでポルトガルのわたしたちと住む予定になっていた母だ
ったが、渡航前になり「異国で死ぬのはイヤだ。」と言い出して結局学生二人
の甥たちと所沢の家に残ることになった。

しかし、それが軽痴呆症の引き金になったようである。
それまで妹夫婦の4人家族とワイワイ一緒に生活してきたのが、家にいるかい
ないか分からないような甥たちとの同居である。突然ひとりぽっちのようにな
ってしまったのだ。80才になっていた母にこの孤独感はさぞかし堪(こた)
えたに違いない。

当時大学院に通っていた甥からある日ジェッダの妹に、「おばあちゃんがお
かしい。」と連絡が入った。公務員の規定で、またサウジアラビアという国
柄故、すぐには出国できなというので、急遽わたしが一時帰国することにな
った。

それまでわたしが子供や夫を伴って帰国する毎に長い滞在をさせてくれ、ワ
イワイガヤガヤの思い出深い所沢の妹宅は、初夏だというのに冷え冷えとし
ていた。妹夫婦がジェッダに赴任してたった4ヶ月後のことだった。

母は夏だというのに、まだ冬の服を着たままでちょこんとリビングのソファ
に座って見るともなしにテレビを見ていた。その時初めてわたしは母に何が
起こったか分かった。

もはやポルトガルに連れて来るわけにもいかず、妹夫婦も赴任したばかりで
帰国もならず、それでも急いでわたしの後に1週間の休暇をとり帰国してき
た妹夫婦と3人で話し合った結果、母には「下宿」と称して軽痴呆の人だけ
(自分の周りのことができるという条件がある施設)を受け入れる施設に
入ってもらうことになった。

急なことだと言うのに施設が見つかったこと事態が幸運であったと思う。
施設は幸い妹宅からそう遠く離れていないところにあり、入居する前に母も
連れて行き、入居者20名くらいの施設の中を案内してもらい、「ひとりぽ
っちだど寂しくなるし、わたしたちも心配だからね」と母を説得して入居し
てもらうしかなかった。

妹夫婦が先にジェッダに帰り、母の引越しはわたしと甥とですましたのだが、
いよいよわたしがポルトガルに帰る段になり、それまで毎日訪問してきた
施設に母を最後に訪問した日のこと。

「大丈夫。わたしもしょっちゅうおばあちゃんの顔を見に行きますから。」
と親切にも車で施設まで一緒に行ってくれたお隣の奥さんの車に乗り込んだ
のだが、玄関前まで出てきて、小さな姿でわたしに手を振る母を見て、お隣
の奥さんが運転する側でわたしは溢れ出る涙を何度も何度もぬぐった。あの
母の姿を思い浮かべるたびに、わたしは今でも涙がこみ上げてくる。

母は施設に2年もいただろうか、亡くなって後、数年は葬儀を思い起こすと
つらくなり、とても綴る気持ちの余裕がなかったのだが、しかし、今、この
美しき時は春、柔らかい日差しの中で花咲きほころぶこの頃、わたしはよう
やく、少し綴ってみたい気がするのだ。

2005年2月9日の我が日記にこうある。

今日は我が母の命日にあたります。
2年前の今頃は、辛い思いで日本に向かいました。
そして、このとき生まれて初めて、スチュワーデスさんにこっそり告げら
れて、夜間飛行の機内の窓から、眼下にオーロラを見たのでした。
   
昔、ポルトガルへ来る、と決めたときに、アメリカ人の夫を持つアリゾナ・
ツーソンで知り合った年配の日本女性に言われた一言が、今更のよう
に思い起こされた時でもありました。
 「Yuko、外国の人に嫁ぐということは、親の死に目に会えない、という
ことです。」
父親の場合がそうでした。死に目どころか、諸事情で葬式にも出ることもで
きませんでした。
   
我が母のときは、フラットを買って引越ししたすぐ後だったので経済的に厳
しいときであり、補習校の仕事もあっておいそれと帰国ができず、もう少し
後もう少しと帰国を引き伸ばしていたのですが、不思議なことです、その頃
頻繁に母の夢をみました。

すると、間もなしに妹からの連絡で、もう待てない、すぐ帰って来いとの
ことだったのです。

到着して二日目にあたかもわたしを待っていたかのように、母は静かに息を
ひきとりました。わたしは母の目からこぼれ落ちる一筋の涙をふき取り、
それが最期でした。

まだたった二年前のことで、今でも母のわたしを呼ぶ声が耳に残っていて、
ふと今日も所沢の妹のところでいつもと同じように、妹と一緒に台所に立っ
たり、テレビの時代劇を見たりしているような気がしてしまいます。

近頃やっと、母の大きな写真を部屋に飾り、心の中で話しかけられるように
なりました。またまだ考えて行くことはあるけれど、もう少し、今のままで
生活させてください。気持ちの整理はもう少し、先に^^

そして、お若いみなさん、親はいつまでも元気でいるわけではないことを
肝にめいじてくださいませ。



母の葬儀は、仏教式ではなく、読経のない花と音楽の葬だった。費用の高い
戒名はいらぬと同居していた妹の話では、自分の葬儀はそのようにできたら
嬉しいと洩らしていたようだ。

わたし達は市の斎場の一室を、そして、棺の周りをたくさんの花で飾り、
母の好きだったタンゴの音楽を流し続けた。
蒼空、黒い瞳、ブルータンゴ、奥様お手をどうぞ、真珠採りのタンゴ・・・
それを聴いていると、パートナーなしでも、まるでそれがいるかのように
わたしたちの前で一人踊っていた母の姿が思い起こされるのだった。




母の故郷は弘前で、妹夫婦の家族と都会には20数年住んだのだが、年に
1、2度は帰郷し、友人や親戚たちとの交友をあたためていたようだが、
みな歳をとっており、葬式には来れるものでもなかった。

それでも近所や行きつけの店では、ちょっとおしゃれで元気のいいおばあ
ちゃんとして知られていたようで、そういう方たちが集まって母をしのん
でくれた。

当時はまだ花葬式など珍しかったようで、「このようなお葬式、初めてさ
せていただきました。良かったです。」と、葬儀を取り仕切ってくれた人
の言葉だった。

今年も、所沢の妹宅のすぐ側にある母が愛した桜並木の花が咲き始めたと
のこと。自然はこうして一年をぐるりと経て、再び芽吹く。
人間の生は、と思い巡らすとき、わたしは遥かな宇宙の神秘に心を馳せ
ずにはいられない。肉体が滅びた時にわたしたちの生命の種は終わるの
だろうか。それとも巡り巡って再びどこかで植物のように芽吹くのだろ
うか。
Maktub。全ては書かれてあるというアラブの言葉にあるように、宇宙の全て
は、大いなるものの手による法則で始めから定められているのだろうか。

母がみまかって今年で10年になる。
待てよかし。母よ、やがて我もまた逝かん。
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コメント
今年は桜の開花が早いみたいであります。
うちの母も高齢でありますがゆえ、Yuko先生の母上の「異国で死ぬのはイヤだ。」
という気持ちはなんとなくわかるのであります。先手必勝ということで吾輩は早々に親の介護をしながら自宅でギター教室をやっているのでありますが、まぁ、「わからん人達は死んでもわからんでしょうなぁ」と偏屈ジジィの気分な今日この頃であります(^^)
2013/03/21(Thu) 14:29 | URL | matsuura448 | 【編集
八重の桜。
つい最近、亡くなって久しい両親が、夢の中で笑い語りかけて来ます。
夢が覚めた時、自分も笑顔でした。
うれしかったな〜!後、子供が小さかった頃の夢も至福です。
年を取ったなぁ!
八重の桜展、江戸東京博物館で開催してまっせ!
2013/03/21(Thu) 16:06 | URL | お仕事待機ちゅう! | 【編集
私の両親は当に他界しておりますが、まだ兄弟がおります。上の姉は私がこちらに来てすぐ癌でなくなりました。二番目の姉も癌と戦っております。妹も心をわずらっております。上の姉が他界するのはこちらに来る前にもうわかっていましたが、何もしてあげられませんでした。最後にサナトリウムの一室で、こちら風にハグをして分かれた後、姉のむせび泣く声を聞きながらぼろぼろなきながら帰りました。今後もし兄弟に何かあっても今の私の経済状況では帰国することすらできません。いくら世界が狭くなったといっても海外は海外ですね。
2013/03/22(Fri) 08:17 | URL | ganchan | 【編集
>松浦君

教室、うまい具合に運んでますか?

こんな遠い国の人に嫁いでしまったので母にはたいしたことはしてあげられないうちに逝ってしまいました。妹家族が大事にしてくれたのが救いです。
松浦君には感心します。物分りが良すぎるより、少々偏屈なほうがいいのです^^

そうそう、桜の開花が今年は早いと言われているようですが、昨日の弘前、またまた大雪に見舞われたそうです。
忙しい天気です・・・
2013/03/22(Fri) 08:56 | URL | spacesis | 【編集
>ちゅうさん

なんだかとてもちゅうさんらしい話^^
夢の中で笑っているときは現実でも笑い、泣いているときは目が覚めると涙で濡れているものですね。

で、八重の桜って、N○Kの大河ドラマ?
2013/03/22(Fri) 09:00 | URL | spacesis | 【編集
>ganchan さん

お久しぶりです。お元気ですか?

>いくら世界が狭くなったといっても海外は海外

そうです。周囲の若い人たちがせっせと日本へ里帰りするのをわたしも随分長い間横目で見てきましたよ^^

ganchanさんの妹さんも大変ですね。
ポルトガルに来て30数年になりますが、日本の一族に限らず、わたしが知っている夫の周囲の人たちも、ここ4、5年でたくさんの人が鬼籍に入りました。

自分がその分歳を重ねたのだなぁとつくづく思います。
が、自分としては肉体の衰えは感じるとも、頭の方は色々なことを勉強することで、できるだけ長くしっかり持って行けたらいいなぁと、欲を出しております。

ポルトにいらっしゃることがございましたら、お声かけてみてください。

2013/03/22(Fri) 09:16 | URL | spacesis | 【編集
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