2014年10月19日 

ドナ・アントニア・フェレイラ(Dona Antonia Ferreira)と言えばポルトを含む北部では知らぬ人はいない。19世紀に女手一つでワインセラー「Ferreira」の今日の基礎を築いた女性企業家です。

ferreira

ワインセラー・Ferreiraの入り口ホールには2011年のドナ・アントニアの生誕200年を記念した彼女の大きな写真パネルが見られます。

1811年にドウロ川上流にあるブドウ畑の町レグア(正式名はPeso da Régua)の、裕福なフェレイラ家に一人娘として生まれました。ここで採れた葡萄はポートワインの原料になるのです。

後にいとこ結婚し、息子と娘、二人の子供をもうけます。しかし、浪費家で家業に興味を持たない夫とは互いに理解しあえなかったようです。夫はパリに遊びその地で亡くなり、ドナ・アントニアは33歳で未亡人になります。
多くの使用人を抱えた家業の葡萄農園長として、またポルトガルの葡萄農園を守ろうとして辣腕を振るいます。ドナ・アントニアは政治家にも堂々たる態度で意見を述べる卓越した人物でした。

彼女が世間から「Ferreirinha=フェレイリーニャ」と親しみを込めて呼ばれたのは、使用人を始め貧しい人たちを常に気に留めて、援助をしていたからです。農園での事故で働けなくなったり、亡くなったりした使用人や遺族には、当時はどこの農園でも手助けをしませんでしたが、フェレイリーニャはいつも彼らが生活に困らないように手を差し伸べていました。

家業が火の車であっても病院を建てるための資金も惜しみなく出しています。そうして建てられた病院は北部に3つほどあると言われます。フェレイリーニャは慈悲の人であり、ノーブレス・オブリージュの考えの人でもあったのです。
現在のポートワイン会社がほぼポルトガル人ではなく外国人所有者に占められるのは書いたことですが、この当時、既にイギリス人による葡萄畑の買占めが始まっていました。道路造りとスペインからのワイン購入に熱心で自国のワイン産業への援助に無関心な政府や政治家にも意見を述べることが度々ありました。

政府がしないなら、と、ドナ・アントニアは不況や葡萄の病害などでやもなく売りに出されるのが二束三文で外国人の手に落ちることに抗い、多くの葡萄畑を買い取っています。彼女の没後遺された葡萄畑は30箇所ほどにもなっていたと言われます。

葡萄の病害防止の勉強のためにイギリスへ渡っていますが、この時は、フェレイラ家の財産を目当てに11歳の娘を息子の嫁にと結婚を申し込んできた貴族から逃れることも理由でした。この渡英時に同行させたフェレイラ家の長年の管財人ジュゼ・シルバ・トーレスが二人目の夫になります。彼はその生涯をフェレイラ家に捧げ、ドナ・アントニアを支えました。

こうしてドナ・アントニアは太陽光を浴びることが葡萄を病気から守るということを知り、日当たりのいい場所を葡萄栽培に選ぶことになりますが、これらの彼女の葡萄園への意欲、熱意が彼女を人々から「Rainha do Douro=ライニャ・ド・ドウロ=ドウロの女王」と呼ばせる所以でしょう。

しかし、二度目の夫を除き、彼女は家族関係にはあまり恵まれなかったようです。次回はそれについて書きたいと思います。
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