2015年2月7日 

幼い頃のもの悲しい思い出は、いくつになっても時折ふっと顔を出し、フラッシュ・バックする。
それは夕暮れ時が多く、たいていの些細な面倒は、普段ガハガハ笑ってやりすごすわたしであるが、このときばかりは心が沈む。
     
秋も夕暮れ時のその向こう、やがて日が落ちて街に灯りが灯り、人通りも少なくなった雫石の夜の町を、父に手を引かれて、トボトボ歩いている6歳の自分が見えてくる。

わたしは本籍が雫石だと聞かされてきた。父はその土地の人である。しかし、生まれて間もなく、母は出身地の弘前へ戻ったようである。詳しい話はどちらからも聞かされていないが、わたしが中学生になって初めて一家四人で暮らすことになったのだから、父はその後も雫石に残り、地方競馬の騎手の仕事を続けたのである。事情はどうあれ、当時両親は別居していたことになる。母はその間、7人の兄弟と共に大所帯の我が祖母タマさんの家に同居し、私も妹もそこでチャンバラの子供時代をすごしたのである。

しかし、わたしが小学校に上がって間もない頃、妹は弘前の母の元に残り、わたしは父の住む雫石に引き取られることになったようだ。ずっと後年、父も既に鬼籍に入り、わたしが子供達を連れてポルトガルから帰国していた折に、どういう拍子でかはもう覚えていないが、母と二人、ふとあの頃に話が及んだことがある。

「父親がどちらかをよこせ、と言って来、 二人を育てあげるのは、女手ひとりでは食うことさえ大変だったこと」
     
そんな事情で、妹を雫石に送るのはあまりにも幼な過ぎて不憫、そのあげくが、わたしが「父に手を引かれ、トボトボ」となったのである。1年に一度、顔を見せるか見せないかの人であったので、当時のわたしにしてみれば、父とは名ばかりの、ほとんど赤の他人に等しい人だった。しかし、6歳のわたしに、どうして抗議ができようか、そんな術を知るはずもなかった。

父に手を引かれてたどり着いた家は二間の借家で、そこには母より若い、着物を着た儚げな女性が夕食を用意して待っていた。夕食は「湯漬け」と言って、ご飯にお湯をかけて食べるものだ。挨拶もなにも、しどろもどろの6歳のわたしは、ちゃぶ台に向かい、その湯漬けの入った茶碗を手に、ボロボロ泪をこぼしながら食べたのを鮮烈に覚えている。わたしの人生で、泣きながら食べ物を口にしたのは、後にも先にもこの時だけだ。

わたしがその女人を「儚げな女性」と言うのは、若くて少しきれいでそして物静かで、しかし、結局、父とは添い遂げることができなかった不幸せな人と思うからである。
 
雫石の家の真向かいにある境内で、チャンバラごっこなどをして遊ぶ子分もなく、わたしはよくひとりで遊んだ。現在のわたししか知らない人たちにこれを打ち明けると、誰しもが「ウソだろう!」と言いのだが、当時のわたしと言えば、一歩ご近所を出るや、「究極の内弁慶」であったのだから、見知らぬ土地ですぐに遊び友だちなどできなかった。

同居する女性が優しいからといって、祖母や母、妹が恋しくないはずはない。夕暮れ時の境内で、弘前恋しさにわたしは隠れて独りよく泣いた。

半年後、盛岡の競馬に出場している父の留守を狙って、祖母と母が迎えに来た。母によると、「一人育てるも二人育てるも苦労は同じ。あの子が可哀想だ。迎えに行こう。」と、祖母のその言葉で決まったそうである。 わたしは祖母にとっては初孫なのであった。

雫石から弘前に連れ戻され、水を得た魚のように、チャンバラ、ターザン事件、少年探偵団等の懐かしき子供時代を送ることになるのだが、この雫石の思い出だけは、いつまでたっても、わたしの心の片隅で、夕暮れの中、途方に暮れて突っ立っている。(チャンバラ時代の思い出は後記に↓)

twilight

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梅の木のある家

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