2016年2月16日 

うんざりするくらい雨が降り続き、昨日は強風と霰に見舞われました。
少し早いけれど、これは春嵐でしょう。昨日の嵐がまるで嘘だったかのように真っ青な空が仰げる今日のポルトです。

ダウンタウンのポルト歴史地区、アルメイダ・ガレッテ広場にあるサンベント駅は、19世紀にはベネディクト会のサンベント修道院(正式名:S. Bento de Avé-Maria)があったところです。

ベネディクト会は5世紀から6世紀の聖人ヌルシア(イタリア)のベント(ベネディクトのポルトガル語呼称)が開いた宗教会で、後にヨーロッパでは多くのベネディクト修道院が作られました。修道士たちは黒い修道服を着ていたことから、別名「黒い修道士」とも呼ばれました。

ポルトのサンベント修道院は19世紀に建てられたのですが、ポルトガル本国の経済を支えてきた植民地ブラジルの独立により、国家は収入源を失いました。そこで、国王財産を国有化し、修道院、修道会、教会の莫大な財産と領地を没収し、それらを消滅に追い込みました。この時に売却された修道院の数は500と言われています。この改革を進めたのが、現在サンベント駅から伸びている通りに名を残す「Mouzinho da Silveira」なのです。

そして、この修道院区域に1916年に建築完成されたのが、北部ローカル線の始発駅、現在のサンベント駅です。

建築家マルケス・ダ・シルバ。サンベント駅の圧巻はなんと言っても20世紀初期の画家ジョルジュ・コラソによって描かれた駅構内の2万枚のアズレージュ絵です。azulejoの語源はアラブ語でal-zu-leycha(小さい石)から来ますが、azulはポルトガル語では青の意味で、わたしは青タイル絵とします。コラソについて付け加えれば、ブサコ宮殿、サント・イルデフォンソ教会、今グレガードス教会の外壁絵、その他、海外でも彼はアズレージュ作品を多く残しています。

サンベント駅構内のアズレージュこと、青タイル絵は、実はポルトガル建国にまつわる重要な歴史場面が描かれているのです。

Saobento

まず、入って左側の壁に掲げられる下方の絵から参りましょう。8年ほど前に一度取り上げていますが、今回は撮影しなおした写真と共に、記事も書き直してみました。

Saobento

ポルトガル初代国王となるドン・アフォンソ・エンリッケス(航海王子ではない。航海王子は「エンリッケ」)が、まだ王子の時代、12世紀初期の出来事である。

ポルトガルはかつてスペイン、レオン国の領土でポルトカーレと呼ばれていました。ポルトガルの名前はこれが起源なのです。
ポルトカ-レのエンリッケス王子はスペインからの独立を望み、レオン国との小競り合いを繰り返し、ついに従弟のレオン国王がポルトカーレのギマラインス城を包囲したときのこと。
     
エンリッケス王子のポルトカーレ軍はよく戦ったものの、いかんせん、相手の大群には歯が立たない。
このままでは落城の憂き目を見ることになる。そこで、王子が3才の頃から教育係であった「エーガス・モニス(Egas Monis)」は密かに城を出てレオン国王のもとへ出向きます。

 「レオン国王よ、包囲を解かれよ。わたくしめが王子をあなたの臣下としてかしずくよう説得いたしますれば。」と言った。
レオン国王曰く、「その言葉が真実である証拠は?」「わたくしの名誉にかけて!」

レオン国王はエーガス・モニスの真剣さに打たれ、包囲を解き兵を引き上げました。この時に、ポルトカーれ軍は大喜びしたものの、何ゆえレオン軍は引き上げたか理解していなかったのでした。

しかし、それから数年たってもエンリッケス王子は独立の志を捨てず、レオン軍との戦いを続けていました。ある日、エーガス・モニスは妻と息子たちを連れレオン国へ旅立ちます。ボロ服をまとい、自ら首に縄をつけた死刑囚の服装をし、裸足でレオン国王の前にひざまずき言います。
 「レオン国王よ、エーガス・モニスは己の言質をたがえるものではありません。王との約束が果たせなかった今、我が身と妻、二人の息子の命をご存分に。」

Saobento

その忠信と勇気に打たれたレオン国王、
 「このような家臣を持つ王子はきっと偉大なものになるであろう」と言い、エーガス・モニスを解放したと言われます。

それから約10年後、レオン国王はポルトカレンス領土の独立がローマ法王から承認され、エンリッケス王子はポルトガル初代国王となったことを知るに至ります。エンリッケス王は別名「征服者=Conquistador」と呼ばれています。

写真はギマラインスにあるアフォンソ・エンリッケスポルトガル初代国王。この当時既に楯にはテンプル騎士団のシンボルが入っています。
                    
さて、当時、父親ドン・エンリッケ伯は亡くなっており(ポルトガルは今でも同姓同名が多くて混乱するのです)、レオン国から嫁いできた母親のドナ・テレザが領土を治めていたのですが、レオン国からの独立を勝ち取るために、エンリッケス王子は独立に反対する母親とも戦うことになり、勝利を収め事実上ポルトカーレを手中に収めます。この時、エンリッケス王子は18歳。

さて、ここで少しエンリッケス王子の盾のシンボルにある、ポルトガルのテンプル騎士団について書き添えておきます。

フランスで発起したテンプル騎士団の総長ユーゴ・ド・パイアンは1120年代に初めてドナ・テレザ(王子の母)に宛てて、イスラム教徒からのイベリア半島国土奪回のためにと、テンプル騎士団を領土内に駐在させることを懇願しています。
 
この懇願を受け、ドナ・テレザはテンプル騎士団に初めてSoure(コインブラ近辺)の土地と城を寄贈します。以後、ディニス6代目国王の時代まで、ポルトガルはテンプル騎士団の多大な援助を受けながら、3世紀もの間、レコンキスタ(イスラム教徒からの国土奪回運動)を展開、南下して行くわけです。

ここで、もしも、エーガス・モニスがレオン国王に約束したように、エンリッケス王子を説き伏せていたら、今日のポルトガルはなかったやも知れませんね。

それとも、と、ふとわたしの頭をかすめるのは、エーガス・モニスは、ポルトガル建国のために軍力を蓄える3年間という時間稼ぎを計画し、最初から全て承知の上で王子を説得する振りをして、最後に自らを犠牲にしようとしたのか?

そして、レオン国王はそこまで読んで、
「このような家臣を持つ王子はきっと偉大なものになるであろう。」と言い、エーガス・モニスを許したのか? 

う~ん・・・こうして教科書に書かれてあるままを少しひねくって考察して見ると、歴史はぐんと面白みが出てきますね^^

それでは次回は駅構内上方に青タイル絵についてです。お楽しみに。     
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村