2016年5月29日 

どこの国でも観光地を訪れる醍醐味は、その歴史を知ってこそ味わえるのではないか、とはわたしの思うところです。

さて、そんなことを思いながら、コインブラの「Porutugal dos pequenitos」(後日記事に)を雑誌記事の取材をしがてら、久しぶりにコインブラの「Quinta das Lágrimas(キンタ・ダス・ラグリマス)」を訪れてきました。ここを最後に訪れたのは、もう記憶も薄れてしまったくらいの遠い昔です。

Quinta das Lágrimas(Lágrimas=涙、日本語訳は涙の館)はモンデゴ川を挟んで、コインブラ学生街の対岸にあります。ロマンチックな館の名はポルトガル歴史の中でもペドロ王子とイネスの悲恋物語からきます。

随分前に、この悲恋を取り上げたことがありますので、少し長いですが、それと併せて今回の写真を紹介します。

南米コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説に「コレラの時代の愛」がある。
19世紀から20世紀のコロンビアを舞台に、ひとりの女性を51年9ヶ月と4日待ち続け、ついに思いを遂げる男の熱愛を描いた物語で2007年に映画化もされている。
このような愛情は狂気にも近いような気がしたりするのだが、ポルトガルの王家にも狂気の類のロマンスがある。「ペドロとイネスの悲恋」として小学校のポルトガル歴史の本でも必ず記述され、またポルトガル民族の歌ファドにも歌われる。
      
今回はイラストと突っ込み入りでペドロ王子とイネスの悲恋物語をご紹介。

ペドロとイネス

ポルト北部のギマラインスから興ったアフォンソ王子率いる、レオン・カスティーリャ(現在のスペイン上部)からのポルトカレンス独立運動を経て、王子がポルトガルを建国し、初代王アフォンソ一世となったのは12世紀のことです。

下の地図は、スペインと共にポルトガル初代王も活躍した、レコンキスタ運動(註:8世紀初期にイベリア半島に侵入し占領していたイスラム教徒からキリスト教徒による国土奪回運動のこと。この頃にテンプル騎士団がポルトガルに入った。)の時代のもの。

Quintadaslagrimas

赤丸で囲まれたのがポルトガル。12世紀のレコンキスタ運動が進められるまでは、図のようにイベリア半島の下半分はMouros(イスラム教徒)が占領していました。

これから話すペドロ王子の時代にはイスラム教徒からの領土奪回も終わっており、半島の下半分は赤線を境界に、ポルトガル、スペインとなっていました。

ポルトガル建国から2世紀後の14世紀も半ば、7代目の王アフォンソ4世の時代。

独立国とは言え、地図から分かるようにレオン・カスティーリャ王国に隣接するポルトガルは、友好政策に心をくだかなければなりませんでした。そこでアフォンソ4世の取り計らいで、王位後継者である息子のペドロ王子にカスティーリャからコンスタンス姫を迎えることになります。

ところがペドロ王子、あらんことか、コンスタンス姫にお付きで来た女官のイネスに心を奪われてしまい、政略結婚の相手である正妻コンスタンスを見返りません。(よくあるお話)

下の画像はイネス・デ・カストロ。金髪で澄んだ目をし、白鳥のように優雅な首を持っていたとイネスの美しさは後世に言い伝えられている。
Quintadaslagrimas

父王アフォンソ4世は、公務をないがしろにしてイネスにおぼれるペドロを憂慮、王子にイネスとの関係を切るように申し伝えますが、「はい」とそれを聞き入れるペドロではありません。二人の不倫はやがて人々の口に上るようになり、父王はイネスを遠く離れたcastelo de Alburuqueruqueに送りますが、この距離も二人を遠ざけることはできませんでした。

Quintadaslagrimas

後ろに見えるのはサンタ・クララ修道院であろう。

この翌年、一子(後のフェルナンド国王)を生んですぐコンスタンスは、23歳の若さで亡くなります。(痛ましきかな、コンスタンス。しかし世継ぎを残して死ぬとは、Good Job ) さて、自由になったペドロは早速イネスを自分の下に呼び戻し一緒に暮らし始め、これは大きなスキャンダルとなり、父王とペドロ王子の間を裂くことになります。ペドロとイネスは4人の子供をもうけます(うち一人は死亡)。
  
父王はペドロに再婚を何度か進めますが(イネスとではない)、その都度、「妻を亡くした悲しみがまだ消えず、再婚などは今考えられない」と断ります。 (こういう見え透いた嘘を平気で言うかぁ~w)

この頃には、カスティーリャ王国内に紛争が起こり、イネスの元にはその兄や同派の人たちが集まるようになり、やがてペドロ王子にも思想的な影響を与えていきます。

イネスとつながるカスティリャ王国の内紛に巻き込まれるのを慮り、また、コンスタンスが残した正統な世継ぎであるフェルナンド小王子の暗殺が予測され、イネスの子供たちとの間に起こるであろう家督争いも憂慮され、宮廷では、国政の争いごとのタネになりつつあるイネスに不審不信不満の目を向けるようになり、父王の早急な対策がとられます。(次期世継ぎがこれでは当然こうなりますね)

国安泰のために側近の意見を聞き入れ、アフォンソ王はついにイネス処刑の命をくだすため、ペドロが狩りに行っている間を見計らい、当時二人が住いにしていた館へ、3人の処刑実行者を伴います。

Quintadaslagrimas
絵はアフォンソ王を前に、この子供たちのためにと命乞いするイネス。(一瞬気持ちが揺らぐか、国王!)

イネスの涙ながらの哀願に国王は3人の処刑実行者に「後はそちたちに任せる」と言い、その場を立ち去るのですが、イネス処刑されます。伝説では、この時のイネスの流した涙が、コインブラを流れるモンデーゴを溢れさせキンタ・ダス・ラグリマス=Quinta das Lágrimas)の「涙の泉=Fonte dos Amors」ができ、そこの赤い藻はイネスから流れた血でできたと言われます。

Quintadaslagrimas
「涙の泉」

さて、物語はイネスのこの死でペドロ王子も諦めがつき、終わりかと思うと、実はそうではないのです。
この後日談がまたすごいのであります。それは次回にするとして、今回は上述の「愛の泉」と二人が逢瀬を重ねたと言われる「愛の泉」を紹介します。
 
Quintadaslagrimas
Jardim da Quinta das Lágrimas(公園)の入り口。入ると直ぐ横が打ちっぱなしのゴルフ場になっている。

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  しばらく小道を歩くとやがて「愛の泉(Fonte de amores)」にぶつかる。
   
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ロマネスク建築を思わせる美しいアーチ。直ぐ横には素晴らしい巨木が根を張っている。

ペドロ王子とイネスが愛を語った「愛の泉」とは呼ばれるが、どうもこの呼び名はそれ以前からあったようです。泉の話は、実は14世紀始めにイザベル女王がキンタの近くに建てたサンタ・クララ修道院に水を引くために造られた溝工事に始まります。写真にみられる水道溝がそれです。後にこれが「Fonte dos amores」、愛の泉と呼ばれ始めたのですが、恐らくは、涼しい森の中、ペドロ王子やイネスのように、中世の恋人たちにとって、愛を語らう格好の場所だったのでしょうか。

Quintadaslagrimas

Fonte dos amoresは、16世紀のポルトガルの偉大な詩人ルイス・デ・カモインスがその叙事詩「Os Lusíadas」の中の一節に取り上げて以来、人々の間に広まったと言われます。

愛の泉から少し離れたところには、ペドロとイネスの悲恋物語に欠かせないもうひとつの泉「Fonte das Lágrimas」(涙の泉)があります。
Quintadaslagrimas

Quintadaslagrimas
公園内には野外劇場も見られる、園内の散歩もできる↑↓
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次回は「涙の館」ことQuinta das Lágrimasの紹介です。
本日もおつきあいくださり、ありがとうございます。では、また!

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