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2017年6月26日 

サン・ジュアン祭りの起源をちょっと置いといて。

何年も前から写真を保存したままになって、やっと数日前に紹介したポルトのラマルダ館同様、これも何度も撮影しながら、ついぞ記事にあげて来なかった、ブサコ宮殿を今日は紹介します。

今回の画像は全て、我がモイケル娘が提供してくれました。と言うのは、何度も行って撮影していながら、ハードディスクに保存する作業を怠り3年ほど前にパソコンのこれまでの画像を消失してしまったのであります。かなり古いものはCDに保存していたので助かりましたが、近年のものは失ってしまい、思い出したくもないショックでありました。

コインブラから北へ30キロほど行くと、国立森林公園Mata Nacional do Buçaco(Mata=森林)があります。ブサコ宮殿はその森の中にありますが、現在はブサコ・パレスホテルという高級宿泊施設になっています。
 
ブサコ

一帯はカルメル修道会が切り拓き、17世紀にはここを「地上の天国」と呼び、修道院「Convento de Santa Cruz do Buçaco(ブサコのサンタクルス修道院)」が建てられ、ポルトガルが修道会などの宗教団体を国内から追放することになる1834年まで森林を所有しました。今でもその修道院の一部が見られます。

ブサコ
宮殿のすぐ横にあるカルメル会独得のシンボルを装飾した修道院は現在一般公開されています。

ブサコに関するポルトガルの歴史を少し紐解いてみましょう。

時は1810年、ナポレオンのイベリア征服野望のフランス軍は、ピレネー山脈を越えて1807年にリスボン、1809年にポルトを襲ったものの、いずれも失敗し、3度目の軍を送った年です。

フランス軍の侵入により、農業を始め商業産業は荒廃し、宮殿や教会の貴重品を略奪され、貴族の館は焼かれました。3度目は既にフランス占領下に置かれていたスペインの中部からポルトガルのAlmeidaに入り、リスボンを目指しViseu、ブサコに進んでいました。このブサコ山脈は最高度550メートルの峰がある15キロに渡る険しい「ポルトガルで最悪の道」だったのです。

さて、この時、2度目のナポレオン軍侵入以来、イギリス・ポルトガル連合軍の指揮をとっていたのがイギリスのウエリントン公爵です。ナポレオン軍の進路を妨害するため、ウエリントン公爵はブサコのカルメル修道院に基地を置き、敵に奇襲攻撃をしかけます。

1810年9月21日、ポルトガルイギリス連合軍5万、片やフランス軍6万5000のブサコの戦いは7日間の激戦となり、フランス軍は5人の将軍を失い、4500人の兵を死なせたと言われます。

ブサコ

フランス軍は苦戦の末、ようやく活路を開くものの1811年には終にポルトガルを撤退します。「ブサコの戦い」はフランス軍を追い払うことはできませんでしたが、素晴らしい防衛戦術の見本とされています。

1834年、カルメル会が森を退去したあと、ドン・ルイス1世国王と后ドナ・マリア・ピアは修道院を王家の離宮に改造を計画、これは王子こと後のドン・カルロス1世に引き継がれます。1888年にブサコ離宮はイタリアの建築家、ルイジ・マニニによって建築が始まりほぼ20年をかけた1907年にようやく完成するわけですが、ルイジ・マニニとブサコ宮殿について次回に続きます。

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