2016年4月21日

更新もすっかり無沙汰をしてしまい、何度か拙ブログを訪れていた方がおりましたら、お詫びいたします。

4週間ほど前から、日本に滞在しておりますが、ご存知のように、九州熊本は先週来、多大の地震の被害をこうむっており、日本滞在のわたしの方には、「大丈夫か」と、ポルトガルの心配してくれる知人たちから連絡が入っております。

当方、東京近郊に滞在していますので、直接的な影響はなく、相変わらずせわしくで出歩いていますので、どうぞご安心ください。

今回の日本帰国は、娘の婚約がために、相手の方のご両親への挨拶が主要でしたが、それも無事済み、明日、夜にはポルトに向けて羽田空港を発ちます。

日本滞在記はポルト帰国後、ポルトガル情報と併せて、ぼちぼち記事にしてして行こうと思っております。

それでは、みなさま、次回の更新はポルトからになりますが、今後もどうぞよろしくお願いいたします!

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2016年3月15日 

日々、思うことはあれど、以前していたようにそれを整理してブログにしたためる時間がないのが残念です。忙しくて、ポルトデジカメ探検もさっぱり行っておらないのであります。

しかし、このところ、自分が今まで思っていた日本とあまりにも隔たりがあるようなニュースに度々出会うもので、実は困惑気味なのです。世代が、時代が違うと言って片付けてしまうには危うすぎる問題ではないでしょうか。

そのひとつが、「保育園落ちた、日本死ね」ツィッターです。

そもそものきっかけは、政府が「輝く女性」「1億総活躍社会」を持ち出し女性の社会進出を煽ったからだ、という意見もみられますが、働けと言われたから働くのか?輝けと言われたから輝くのか?と、あまりにも大人気ない騒ぎように、めまいを起こしそうな気分なのです。

1億総活躍というのは、なにも老若男女、外へ出て働くことだけではないとわたしは思っています。自分の持ち場で責任を持ってなすべきことを成就するように努力することではないでしょうか。「保育園は入れなかった、連鎖で仕事を辞めなければならなくなった、政府よ、どうしてくれる、1億総活躍を言ったのはそっちではないか、国が子供産ませないでどうする」では、子供を産んだり育てたりする責任はいったいどこにあるのでしょう。

少子化だからと言われ、本当に国のために子供を産んであげたんだ、20万よこせだなんて、おいおい、ちょっと待ってくださいよ。

これは女性のツィッターだと言われていすが、そうだとしたら、残念ながらこのツィッター主にわたしは子供への愛情や、自分が母親になったという思いが感じられないのです。反現政権のプロパガンダかも知れないとの思いを、わたしは頭から完全に払いのけることができないでいるのですが、それなら、ここで取り上げること事態、無意味になります。

が、そうでないと言う仮定で話をすすめます。
個人的な意見ですが、経済的に苦労があっても、できれば子供は4歳くらいまでは母親が手元に置いて育てるほうにわたしは同意します。

この時期は、わが子の成長を日々目の辺りにする喜びがあります。寝たままでいた赤ん坊がやがて歩き始めるまでの過程を見るのは大きな喜びです。言わずもがなですが、こんな喜びを見出せるのは、もう二度とないのです。

どうしても共稼ぎをしないと生活が成り立たない、どうしてもキャリアを積みたいというのなら別ですが、二人のうち、どちらか一人の収入でなんとかやりくりできるのであれば、わたしなら過去にしてきたように、もう一度、そちらをとります。

子供を育てることは、自分の再教育にもつながるような気がします。忍耐力を学びます。子育てはロングランです。わたしの場合は母親を必要とする時期に、自分の持てる時間を全てを子育てに費やしようと腹を括ったのですが、ふとある日、自分が子育てを大いに楽しんでいることに気がつきました。

子供が眠っている時間は、それまでしたこともない編み物を独学したり、すきな木彫をしたり。そうそう、
おむつは、洗剤でかぶれるのを防ぐために、なんどもなんどもすすいで全て手洗いでした。一人で外出など、できたものではありませんでした。それでも、気にならなかったのです。子育てはわたし自身を大いに成長に導いてくれた感があります。

日本語教室で結構忙しくしている昨今ですが、言うなれば63歳を過ぎてからのキャリアです。
人それぞれ、生き方が違いますが、子供がある程度成長して、あまり手がかからなくなった時から
始められる仕事もあるのです。

世代の違いと嫁姑の確執に心労した3世代の共同生活から核家族生活が当たり前になった現代社会ですが、どちらにも長短があることを知ったわたしたちは、全て自分の望むように物事は運ばないということを学ばなければなりません。

どのようにするかは個人個人の選択になりますが、自己責任を忘れてはいけないでしょう。子供は自分が、自分たちが育てるのです。そして、その自己責任と選択は、子供と自分の将来に必ずつながるとわたしは思っています。

件のツィッター主は保育園に入れない場合を想定して、別の選択技を考慮したのでしょうか。入るのが難しいという実感がなかったのでしょうか。保育所増築には国や市がしようとしても思うようにはかどらない他の問題、たとえば、建築する地域住民の、子供の声がうるさいという反対、保育士の確保が難しいなどもあるようです。いたずらに「日本死ね」はダメでしょう。


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2016年1月17日 

新春から始まったNHK大河ドラマ「真田丸」第一話を見ましたが、久しぶりに心がうきうきしました。

真田丸って船?と一瞬思ったものの、待てよ、だって、真田一族は信濃の国に城を築いたわけであるから、船というのでは話が合わないと思い、早速調べてみますと、大阪冬の陣のときに、豊臣方についた真田幸村が徳川方の攻撃を防ぐために大阪城の南方に築いた半円型の城とは呼び難い「出城」なのだそうです。

(追加:このエントリーを書いた後で、真田丸を取り上げたNHK番組ヒストリアを見た結果、俗に言われてきた半円型ではなくて、四角だったをの説が有力だそうです。その作戦や、思わずほぉ!と膝も叩かんばかりに喜んだわたしでした)


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大阪冬の陣図。赤丸が真田丸、青丸が大阪城(Wikiより)

この真田丸により、徳川軍は散々な目にあったと言われますが、大阪玉造周辺が真田丸跡になり、幸村は大阪城と玉造の三光神社をつなぐ抜け道を作ったとの言い伝えもあるとのことで、にわか、大阪城がらみの歴史が面白くなりました。

sankojinja.jpg
(Wikiより)

歴史ミステリーはわたしの好きなところですが、この抜け穴の話は、以前読んだ万城目学のミステリー「プリンセス・トヨトミ」にも出てきます。現代を舞台にした物語ですが、豊臣家の子孫を守る「真田家」子孫も出てくるゆえ、もう一度、このフィクション本を読み返してみようと思っているところです。「プリンセス・トヨトミ」は映画化されているとのこと、興味のある方は、ネットで検索してみてください。

ドラマ「真田丸」の面白さは、主演男優、堺雅人さんにもあるかと思います。彼の作品の順序はしりませんが、ドラマ「半沢直樹」「リーガル・ハイ」「大奥」と、こなしてる役柄があまりにも違いすぎ、この役者さんにはいつもドッキリさせられるのですが、今回はその彼がどんな幸村を演じてくれるか。また、猿飛佐助(第一話で既に登場)、霧隠才蔵などの真田十勇士の登場も待たれ、久しぶりに楽しみにしている時代劇です。

このような戦国ドラマは、現代のようにツールをふんだんに使った遊びがなかった昭和20年代、女だてらにもっぱらチャンバラごっこに明け暮れたわたしの子供時代を懐かしく思い出させます。
以下、過去ログですが、どぞ。

「思い出のバスに乗って(1)赤胴鈴之助

「オリャー!」 「ッとー!」
「え~い、ちょ、ちょこざいな小僧め。名を、名をなのれぇ!」(大人の声)
「あかどうー、鈴之助だ!」(と、元気な少年の声)

ここから主題曲が
♪剣をとっては日本一の 夢は大きな少年剣士
  親はいないが元気な笑顔弱いものには味方する  
  お!がんばれ強いぞ 
  僕らの仲間 赤胴鈴之助

と、始まります。
みなさんはご存知ないでしょうねぇ(笑) 

幼い頃を青森県は弘前の下町で過ごしたわたしは、何を隠そう、近所のガキ大将だったのでした。
学校が退けて家へ帰り、することはと言えば、宿題などほとんどなかった、いやしなかったあの頃です。
よって、夕方まで子供達は外で遊びほうけることができたのでした。

テレビは当然なかった時代ですから、もっぱら自然を相手のちっともお金のかからない遊びばかりでした。その最たるものが、チャンバラごっこ。チャンバラと言っても、木刀とか竹刀とかそんな上等なものを持つのではなくてちょっと長めの棒っきれをその辺から探し出して来ては振り回すんです。

当時は今では無くなってしまった「東映」時代劇の最盛期で、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大河内伝次郎、月形龍之介、東千代之助、中村錦之助(後の萬屋錦之助)、大川橋蔵、大友柳太郎、などの花形スターの黄金時代で、名を挙げていけばきりがない。そうそう、美空ひばりさんを忘れてはいけません。ひばりさんはよく男役を演じており、そのカッコよさにわたしは随分と憧れたものです。

机龍之介の必殺技音無しの構えや眠狂四郎の円月殺法の剣法を見よう見まねでカッコつけしてみたのもこの子供の頃で、チャンバラには本当に、今風に言えば「ハマッタ」ものでした。
あの頃近所ではわたしを打ち負かす子はおらんかったです。

ところがです、これがあぁた、学校へ行きますと押し黙った貝です。ひと学期に一回もしゃべらなかったとか、一度も手を挙げなかった、とかそういうことが、通信簿に書かれてきますねん。
言うなれば、究極の内弁慶だったわけですね。

冒頭に掲げた節、これは当時のNHKラジオドラマ、「赤胴鈴之助」の毎回のプロローグなのです。毎夕方6時から15分間(だったと思う)、子供達は各家庭のラジオの前に集まって、時には手に汗握りながら、また時には主人公と情を同じくして悔しさを噛みしめながら、ラジオから流れてくる朗読に耳を傾けます。

こうして聴いたラジオドラマは今でもわたしの心に残っています。この「赤胴鈴之助」のみならず、「紅孔雀」「黄金孔雀城」「オテナの塔」「ああ、無情」そして、これまた大好きだった「怪人二十面相」。

わっはっはっは。これじゃぁ、すっかりおん歳がバレちまいます。

怪人二十面相にいたっては、ドラマを真似て、ご近所の子供たち、手下どもを集めては「下町少年探偵団」なるものまで結成したお調子ものではありました。

子供の世界とは言え、犬や猫にあるのと同様、それぞれ子供グループの縄張りがあるのでして、その縄張りを侵す危険までして探検した「下町少年探偵団」!これはスリル満点の遊びでした。

視覚に訴える現代の映像教育は、たしかにわたしたちをあたかもその場にいるかのような錯覚を与え、リアリティに富みます。教育現場、家庭などでも視覚教育が取り上げられてから久しい。
しかし、テレビのなかったわたしの幼い頃、子供達はラジオで朗読を聴き、自分の想像を拡げていったように思います。

それは、テレビをひねれば、電源を入れれば、自ずと映像が目に脳に入ってくると言うような受動的なものではなく、自らが想像で創りだす能動的な世界でした。

映像のなかった時代の方が、わたしには遥かに想像力、かつ創造力を拡げることができたような気がしてしまうのは不思議なことです。

思い出のバスに乗って
黄色い帽子の子が走ってくる
人差し指の 向こうの坂道  
(詠み人知らず。遠い昔の友人の作ではなかったかと思うが)

わたしは、今でも時折、こうして遥かな過ぎ越しの時間を思って、この歌が詠むように思い出のバスにヒョイと乗ってみます。思い出の坂道の向こうには、父母が、祖母が、大所帯で一緒に住んだ叔父叔母が、従兄弟たちが、そして、下町少年探偵団がニコッと笑っているのが見える気がするのです。

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2015年8月15日 

あれを入れろこれを入れろと、内外からのお願いごとならず、半脅迫的なスッタモンダに安部首相が承知したとのニュースも目にしていたので、不安であった70年談話を聞き、してやったり!の感です。因みに公明党に配慮して「お詫び」を入れると言う報道が出ましたが、あれはメディアの作り話だそうです。

「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」 安部首相の談話は、この一文だけでも高い評価がされると思います。さきの戦争への深い哀悼と平和への誓い、諸国への感謝を示し、未来志向で今後歩む姿勢で談合を結んでいます。

不満を持つ人もいるようですが、わたし個人としては、十分言及してくれたと思います。

実験的な二度ものアメリカによる原爆投下、日ソ中立条約を破り卑劣にも終戦後に参戦し60万人の日本人をシベリアでの強制労働を謀り、8月15日の終戦後も日本人避難民1000人以上を虐殺したソ連、中国による葛根廟事件(かっこんびょう)、中国軍による通州事件など、大陸に於ける日本人避難民の虐殺については、これまでわたしたちが歴史で教わって来なかったことがたくさんあると思います。日本人も多くの辛酸を舐めたのが先の戦争でした。下記をクリックするとWikipediaの説明があります。

葛根廟事件 
通州事件

日本は未来志向で、謝罪を求めず、恨まず、国防力で外国の侵入を断固拒絶し、粛々と平和を求道していけばいいと、わたしは思います。

戦争のない、飢餓のない、言論の自由な平和社会に生きられる幸運を心から感謝し、終戦の日をかみしめながら、下記に今回の安部首相談話を自分のメモとしてコピーいたします。それでは、みなさま、本日はこれにて。

「首相談話」全文 

 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

 平成二十七年八月十四日

 内閣総理大臣 安倍晋三
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2014年10月14日 

前回の記事に続くポートワインFerreira社のドナ・アントニア・フェレイラについては、ただ今、勉強中でありますれば、今しばらくお待ち乞う。これがなかなかに面白いのです。

さて、妹夫婦の3週間の我が家滞在、東京の大学で非常勤講師をしている息子の帰省と嬉し楽しの夏休みも終わった9月の始めに、このところお互いのメール交換が途絶えていた高校時代の同窓生から連絡が入った。「10月11日に、1期会があるぞ」と言うのだ。

我が母校は青森県弘前市にある南高校(以後南校と書く)だ。わたしたちは会の名前が示すように南校の第1期生なのである。わたしが弘前の同窓会に出席したのは今から10年も前の2004年でその年が初めての出席、38年振りであった。以来、帰国する度にできるだけ弘前に足を運ぶようにし、同窓生の幾人かに会っていた。しかし、10年前にたまたま帰国できた秋を除くとわたしの帰国は春が多いので、多くの人が全国から集う所謂同期会に出席したのは、10年前の一度のみである。その時のことは、ビアハウス・エピソードのひとつとして綴ってあるので、後ほどここにアップしたいと思う。

こういう時はおいそれと帰国できないのでいささか残念ではある。そこで、よし、身は行くことができないが、しからばポルトガルのワインでも出席代わりに送って皆に口味わってもらえるかもしれない、とお伺いをたててみると、即、OKの返答をもらった。早速、冷やす必要のない赤のテーブルワインを、足りないのは重々承知の上だが2本だけ送った次第である。
今朝の報告がてら同期会の様子を知らせ通称「シマ」からメールが入っていた。

わざわざコーナーを設けてワイ2本と同封した、わたしが執筆するポルトガル情報の会員雑誌を置いてくれたとのこと、な、なんだかちょっとエラそうやなぁ^^;恥ずかしいなぁ。よし!ワイン2本ぽっちじゃダメだ、次回は4本だぁ!とつい調子にのっているわたしではある。

それにしても卒業して48年も経ってしまったとは夢幻の如しだ。そして今こうして再び繋がりができるとは、歳を重ねた向こうにこんな喜びがあるとは、若い時分には思ってもみなかったことだ。人生も夕暮れ時に差し掛かった今、誰かが言ったこの言葉を嚙みしめる。
Each day is a gift of God, and this is why we call it the " present".
(その日その日が神からの贈り物である。だから、わたしたちは贈り物をプレゼント(現在の意味もある)と呼ぶのだ)

同期会のコーナーにはわたしのブログアドレスも紹介してくれたとのこと、シマ、ゆりこさん、ありがとう!そして、もしかしたら、同期会からこのブログを覗いている我が同窓生がいるかもしれない1期生よ、メッセージを残して行ってくれたら、こんなに嬉しいことはない。

下記、10年前の1期生初出席時の記事を。

あの頃、ビアハウス:「思い出のグリーングラス」(1)

♪汽車からおりたら  ちいさな駅に
         迎えてくれるママとパパ~
         手をふりながら呼ぶのは 彼の姿なの
         思い出の Grren Grass of Home
  
         まぶたを閉じれば 聴こえてくるわ
         懐かしい古里の歌が 
         子どもの頃、遊んだ山や川 そして
         思い出の Green Grass of Home 
  
カントリーソングである。明るいメロディーで故郷に降り立つ主人公が家族や恋人に迎えられる、と始まるのだが、
英語の歌詞を聴くと最後の方には、こんな語りが入る

  そして俺は目が覚めた。四方を灰色の壁に囲まれた部屋で
  俺は故郷の夢をみていたんだ
  看守と神父さんに両腕を引かれ、
  夜明けに俺はグリーンマイルを歩いていく
           註:グリーンマイル:アメリカの死刑囚が
             歩く緑色の絨毯が敷かれた死刑台に続く道

  俺はもう一度、故郷のグリーングラスに触れるんだ
  そうさ、みんな俺に会いに来る。
  古い樫の木の下で
  故郷のグリーングラスの下に埋められるとき
           ーspacesis 勝手翻訳ー         
  
こんな明るい曲にはまったく似つかわしくない、故郷を出たまま帰らなかった死刑囚の最後の夢を歌ったのが「思い出のグリーングラス」なのですね。外国の歌はできれば日本語訳しないで、原語で歌うのが個人的には好きなのだが、この歌は本語歌詞がとても気に入ってアサヒで歌い始めた。

わたしがラジオで日本語版を耳にしたのだが、覚えることができたのは一番目の歌詞だけで、残りの部分は今のようにネットで検索などということはなかった時代、アサヒで歌うために自作したのであるから、いい加減なものだ^^;

わたしは度々こういうことをやっている。わからない歌詞は自分で作るのである。誰に遠慮がいるものか~~。「作詞:spacesis」やもんね。
  
わたしの故郷は弘前である。もう5、6年ほども前になるだろうか、アメリカへ移住して今ではカリフォルニアに居を
構えてすっかりそこの住民として腰をおろしてしまっている、大阪時代の男友達と彼の娘、そしてわたしとモイケル娘の4人で東北を回ったことがある。

その折に、彼が気を利かしてか、四半世紀以上も帰っていないわたしの故郷、弘前に立ち寄ろうと言い出し、一晩宿に泊まったことがある。その時、ホームから駅舎を出て駅前に降り立った時には度肝を抜かれてしまった。駅舎も駅前も、なにもかもが新しく計画建築され、様子はすっかり変わってしまい、まるで見知らぬ町に足を踏み入れた気がしたものだ。
  
それもそのはずであろう、わたしが故郷を出たのは札幌放浪の19の春で、以来、盆正月も両親に顔を見せることもせず、帰郷したのはポ国に来るまでに、たった2度ほど。30年近く帰郷していなかったのだから・・・
しかし、故郷を思うとき、わたしは今でもこの歌にあるように、心の中の東北の田舎の小さな駅に降り立って入っていくのだ。

パパもママもとうに鬼籍に入り、もう迎えてくれるわけではないが、この歌を歌うとき、わたしは思わずセンチメンタルになり、二番目の歌詞で自ら書いたように、「まぶたを閉じれば浮かんでくるわ」なのである。

今年、2004年10月、2年ほど前に亡くなった母の法要代わりに、弘前に住む親戚へのあいさつ回りで、妹夫婦と車で帰郷してきた。たまたま2泊3日のその一夜が、高校の「一期会」との知らせを京都に住む同窓生から聞き、わたしは「舞踏会の手帖」をほどくごとく、やおら出席を決したのである。
参照:「舞踏会の手帳」(1938年の映画) 

夫に先立たれた女主人、クリスティーヌが若い時分の古い荷物を整理している。と、中から出てきた一冊の手帖が目に付く。それは彼女が初めて社交界にデビューした夜の、舞踏の相手の名を記しておく手帖だった。
思い出が泉のように心に染み広がり、ふとこの舞踏会の相手を一人一人訪ねてみようとする。今その人たちはどうしているだろう・・・その「舞踏会の手帖」を頼りにかつての相手を訪ねて行く、と言うようなお話なのですが・・・
        (猪俣勝人著:世界映画名作全史引用)

高校卒業以来、39年振りの、わたしとしては初めての一期会出席だ。
一期会というのは、わたしたちが「弘前南高校の第一回生」というのから来る。新設公立高校であった。
    
「39年」と一口に言うけれど、言うけれど・・・それぞれが重ねた幾星霜。
みんなどんな風になってるかな?わたしはどんな風に変わったのかな?少し恐いようなドギマギする心を抱きながら、台風が近づきつつある弘前の夕方の雨降る町を、タクシーで会場へと向かう。

すると、会場から、おお、聞こえる聞こえる!

       ♪北の涯 垂氷は消えて
           さみどりの 千草萌え出づ
           見よ 生命匂ふ 若人の群
           この丘に競ひ 自由を謳ふ
           ああ そは我等なり
           無限の希望 胸に奏でて
           大いなる理想を 此処に求めん

初代小野正文校長作詞、芥川也寸志氏作曲の我が母校校歌が、開会時間に少し遅れて到着し、古い和式の階段を上っていくわたしの耳に飛び込んできた。かなり目の悪いわたしは、特に知らない場所では、夜でも度つきグラサンを放さないことが多いのだが、今回はみなさんに失礼にあたると思い、それをはずし、会場の受付へ。

「あ!袖○さん!いらっしゃい。おひさしぶり!」
「ようこそ遠方から。今日はすみませんが、乾杯の音頭、とってください。」
「ええ!わ、わたしが?乾杯の音頭て・・・だって準備してまへんよぉ^^;」
「毎回、一番遠いところから出席する人に、これをお願いすることになってるのよ^^」
    
確かにポルトガルから出かけたわたしは、一番の遠方来訪者ではあるけど、突然はひどいよぉ^^

ひとしきり当時の学校長、幹事の挨拶が終わったところで、ついに回ってきました、乾杯の音頭とりのお役目が。慌てふためいて立ち上がり、「お役目光栄」の一言を加えて、「我が母校、我が同窓生たちに乾杯!」ということで、無事になんとかお役目を果たしたと思いきや・・・

何気なく自分のいるテーブルの後ろにふと目をやると、
「お、おろ?」
かつての開校時代の諸先生方がズラリと座っておられるではないか!!
「し、しまった!」
   
諸先生方のテーブルに尻をば向けて、乾杯の音頭をとってしまったではないか!ご~~~ん。いえね、度つきグラサンをはずしていたもので、よく見えなかったのであります^^;

しかし、そんなことを気にしてかしないでか、かつての担任のS先生、
「おおお!袖○、ささ、こっちへこっちへ」
「出席者名簿を見たら、なんと君の名前があるではないの。これは逃すわけには行かないと思って、今日はがんばって来たぞ」とは、世界史を教わったS先生、少しお歳は召したが昔と少しも変わらず^^

少し偏屈にツッパッて生きていたであろうあの頃のわたし、そして、その後の卒業名簿ではずっと住居不明のままだったのを、長い間気にかけていただいたようでした。 S先生、もうどうぞご安心を。紆余曲折、人生いろいろありましたが、半世紀かけて、生きることがなんとなく楽しいと思えるようになりました。

この会の3時間は結局「なつかしや~」の諸先生方や同窓生たちとの挨拶でほとんど飲まず食わず^^;
二次会会場にあたる同窓生のひとりが持つ「あすなろ」なるスナックへほぼ全員が繰り出しカウンターの中も外も満員^^
みな、「勝手知ったる台所」で、好き放題にやっておりました。

ああ、いいなぁ、こんな雰囲気。
あの頃のわたしは一匹狼のごとく、密かにツッパリ、孤独を愛していつも本ばかり読んで、同窓生たちと交わることが少なかったのだが、長い年月はそんな角も取り去り、心も体も随分と丸くしてくれました。
    
まるで学生時代のあの頃に帰ったような一期生たちの団結力を目の辺りにしながら、翌朝東京に向かう予定ゆえ、みなに別れを惜しんでスナックを後にしたのでした。

実は、この時のことで、白状しなければならない事があるんでして・・・
長くなりましたので、この項、次回の続きに。


Youtubeから、トム・ジョーンズのGreen Green Grass of Homeを拾いました。



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