2017年5月29日(月)

探し物をしながらポルトの街を歩くと首が疲れることがあります。

それは、時に「(Claraboiaクララボイア=天窓)」であったり建物の装飾シンボルであったりするのですが、今回探したのは失われつつある市内の「石の紋章」です。

ポルトガル語では「Brasão=ブラザォン」と呼び、ポルト市内に残るかつての名家の正門によく掲げられた石で作られた家紋が今日の話題です。ポルトで知られる紋章を持つ有名な建物をあげると、プレラーダ園(Quinta da Plerada)、フレイシュ宮殿(Palacio de Freixo)、ボンジョイア邸(Casa da Bomjoia)など等ですが、それらの中には保存状態があまりよくないものもあるもので気になっているのです。

いずれ、それらの建物については改めて案内するとして、今日は街角にかろうじて残されてある紋章についてです。
毎週火曜日は、Dias先生のご自宅へポルトの街の歴史の本を読みに出かけます。これがわたしのポルトガル語とポルトの歴史の勉強になります。Dias先生は長年、高校の国語の先生をした人で、我が子たちのポルトガル語も見ていただきました。

読んでいる本には、先生の知らなかったこともあったりして、地元のことゆえ、先生も何かの機会で街へ出たときに、本の記述を確認しているようです。それで、先ごろの話題が、ポルトに二つだけ残っていると、わたしが聞いている「建物の角っこにある紋章」の一つを、先生とわたしとでそれぞれ探しにいったのでした。

先生が先だったようで、ある日おっしゃるには、「本に書かれた通りに行って見たがない」どのこと。
う~む、しからば、わたしもと、とある日、昼食を兼ねて夫も一緒に行ったのでした。

本の記述にあったCarlos Alberto広場へ行ったところが、なるほど、建物の側面に紋章はない。本には通りの名前はあれど番地までは書かれていなかったのであります。

praça_carlosAlberto2

ふむ、いよいよ、これも取り払われたかと思いながらも、そこが探究心の強いspacesis、ひょっとしてと、のんびりあちこちを見回している夫を後に、探索範囲を広げて足早に広場の延長先にあるカルモ教会の方まで行って見ました。

porto
アズレージュで被われたカルモ教会
 
そして、通りの終わりになる建物に目を向けると、じゃ~~ん、あった!

porto

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18世紀の貴族Moreiras do Couto家の紋章。

鉄兜の上には耳が小さい動物が、家紋の左に9つある十字型の模様が入った盾を持っています。左側には塔、そして両脇にはひまわりが施されています。できればこの紋章の絵解きもしたいところですが、一族の歴史を紐解かない限り、解説は難しいでしょう。

翌週の授業で、釣果を誇るが如くDias先生に画像ともども報告したのは言うまでもありません^^

さて、もう一つの角っこの紋章はRua das Floresが終わる、或いは始まる広場、Largo de são Domingosにあります。

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Cunhas Pimenteis一族の紋章。

1910年10月、イギリスへ亡命したドン・マヌエル2世国王を最後に、ポルトガルは共和制に移行し貴族は無くなり、彼らの多くは住居を捨てさ去りました。

中心街でも少し視線の方向を変えてみると、17、8世紀の王制の残りが現代の建物の中で密かに息づいているのが見られる、それもポルトの魅力であります。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。
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2017年3月13日 

ヨーロッパ在住の邦人を対象にした、とある会員誌の1ページで、ポルトガル紹介の記事を長年書いているのですが、写真撮影も兼ねます。

写真は印刷用の指定の大きさがあり、そのため、行く先々での撮影は手軽なスマホでは間に合わない。いつ、どんなテーマが取り上げられるか分からないので、我がpcは大サイズの画像がごっそり溜め込まれており、そのせいかどうかは知らないのですが、これまで2度、突然のパソコン壊滅の憂き目を見ています。

この時のショックたるや、しばらくは落ち込みますぞ。こまめにバックアップすればいいものを、この次この次と先延ばし、挙句の果てがデータ損失ということにあいなったわけで。

さて、今回書く記事の画像はその損失された中にあったのでした。しからば致し方あるまいと、先週金曜日の午後、ちょうど撮影日和の良い天気でしたので、この機会を逃すまいと再度撮影に行ってきました。ボアビスタの一角にあるアグラモンテ墓地なんであります。

Agramonte

この墓地のハイライトは何と言ってもFamilia Santos-Dumont(サントス・デュモン家)美しい墓碑です。

agramonte

こんな風に美しく嘆かれたら、後ろ髪引かれ三途の川も渡るに渡れない気がします。

ポルト出身の著名な彫刻家Antonio Texeira Lopes(1942年没)とその弟で建築家Jose Eeixeira Lopes(1919年没)の共同作品だというので、それに惹かれて行ったのですが、今回はサントス・デュモン家とはどういう家柄なのかと調べてみてびっくり!

ここに眠るのは、飛行家、発明家であり、ヨーロッパ初の飛行機製作者、飛行術のパイオニアと呼ばれたアルベルト・サントス-デュモン(Alberto Santos-Dumont。ブラジル国籍)の母堂だそうです。彼女は当時ポルトに住んでおり、そのため、アルベルトはポルトを訪れています。
 
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女優、詩人であったEmila Eduardaの墓碑。

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こんなのも↑↓

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ポルトで初の外科女医Aurélia de Moraes Sarmento納骨所。
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「1888年の起こったバケット劇場火災による犠牲者のモニュメント」
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バケット劇場(Teatro Baquet)というのはかつてのポルトは「サント・アントニオ通り」、現在の「1月31日
日通り」と呼ばるるサンベント駅のすぐ横の急勾配の坂道通りにあった劇場です。

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Wikiより

1888年3月20日、上演も終わるころ舞台照明のガスの引火が原因で一夜にして170人の犠牲者を出したとのこと。その慰霊碑です。材料に使用されている鉄くずはバケット劇場のものでしょうか。

ズームアップしたところが、ここにも猫たちがHappy timeをむさぼっておりました。
agramonte

ひとつわたしの興味を引いた墓石があります。

agramonte

見事なまでに神秘主義思想を表した墓石です。トップの薔薇の花、墓石の表面は「ウロボロス」と呼ばれる自らの尾をくわえる蛇、もしくは竜で、起源は古代エジプト文明まで遡ります。アステカ文明のケツアルコアトルが自ら尾をかんでる姿が描かれているのもあり、輪廻、完全性などの意味をもち、錬金術のシンボルでもあります。

数字「5」は色々な宗教にシンボルとして用いられていますが、神秘主義においても神聖な数字で、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの、宇宙は空気、火、土、水、エーテル(輝く空気の上層、雲や月など大気の上層、つまり神の領域)の5つの元素からなるという思想から来ます。

墓石下方のラテン数字Ⅰ~Ⅹが見られるのはモーゼが神から賜った十戒が書かれた石版をかたどっていると思われます。こんな面白い墓石に出会うとは予想外でした。

この項、次回に続きます。

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2017年2月7日 

雨が降るやも知れぬという曇り空の下、昨日の日曜日は、4人仲間の定例昼食会があったのですが、待ち合わせ小一時間ほど前に家を出て、久方ぶりにポルトの街にカメラを向けてみました。

今日は、レプブリカ広場(Praça da Repubulica)から始まる「Rua de Almada(アルマーダ通り)」の紹介です。一昨年までわたしは毎土曜日、Lapa 教会前にあったYY日本語塾の授業を終えるなり、次の日本語授業が待ち構えていた市立図書館へ向かうのに、この道を車で通るのが習慣でしたが、起点から805mの長い坂道を歩くのは、今回が初めてです。

18世紀半ばに開通したアルマーダ通りは、ポルト中心がフェルナンディーナ城壁(Muralhas Fernandina)に囲まれていた当時、城壁外で一番最初の大きな通りだったと言われます。

余談を言えばフェルナンディーナ城壁の追っかけは、20年ほど前からしたいと思いながら、まずは街の勉強からしようと言うので、少し資料を集めながらも今日までそのままになってきました。自分としては、そろそろ、城壁調査を始める時期だと思っています。

さて、写真でご覧のように、坂道の向こうにはドウロ川を挟んだ隣町ガイアの街並みも窺えます。

Rua Almada Porto

この通りのハイライトは、入って直ぐ左にある、通称ぺスターナス礼拝堂「Capela dos Pestanas」です。一目見て以来ずっと興味をもってきたのですが、こうして取り上げるのは初めてではないかな?

「Pestanas」は何かと言うと、「まつげ」こと「pestana」の複数。礼拝堂の名前としては、少しひっかかったのですが、以前この前を素通りしたときに、「面白そうなカペラだ」と言うわたしに、夫が「病院の同僚の一族のだ」との答えが返って来、「へぇ、すごいのね」と思ったことがありました。ひょっとすると、これは一族の名前からとったのかも?と、夫に今回きいてみましたら、案の定、同僚の苗字はPestanasなり。正式名はCapela do Divino Coração de Jesus。

rua almada Porto

正面から撮ったネオゴチック建築のぺスターナス礼拝堂。下は裏からの撮影です。後ろから見た感じからですが、内部は八角形になっていると予測します。

Rua Almada Porto

通称名「ぺスターナ礼拝堂」の由来を調べてみました。実は礼拝堂のすぐ横、アルマーダ通りは始まる角にある建物が、かつては一族の住まいでぺスターナ邸宅(Palacete (小宮殿、邸宅の意味) dos Pestana. )↓

Rua Almada Porto
この画像はWikiより。後ろに礼拝堂が見える。

1974年4月25日のサラザール独裁体制を倒した「カーネーション革命」の際に、暴徒たちによる破壊を受け、その後、修繕されて現在は市が所有しています。写真右の建物がそれです。

Rua Almada Porto

向かいに見える黄色の建物は、「Casa das Aguias(鷲の家)」。屋根には鷲の像が見られます。現在は弁護士会の建物になっているようですが、かつては富豪の邸宅でした。

Casa das Aguiasは、その美しい天窓で過去に拙ブログでとりあげています。よろしかったらどぞ。

美しいポルトの天窓

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2015年12月8日 

先日、ノヴァ・シントラ公園の古い噴水類を紹介しましたが、今日はその続きで、写真を楽しんでいただけたらと思います。

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chafariz do convento de Avé Maria

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Arca de Àgua de St. Isídro

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Arca de água do Mercado do Anjo

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Fonte do Ribeirinho ou dos Ablativos

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赤い椿が園内の石畳を埋めていました。 

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↑↓Fachada(ファサーダ)        

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カルロス・アルベルト広場にあった家畜の水のみ場。両脇に水の受け皿があり、ひとつは馬、もうひとつは犬猫用だったそうです。

本日はこれにて。  

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2015年2月22日 

昨日はいつもの通り、ラパ教会(Igreja da Lapa)の通りに車をとめ、目の前の細い道を入った。毎週土曜日は、10時から1時までの3時間を、Oちゃん宅の一階である我らのYY塾で2クラスの授業をする。グループ授業の面白さに目覚めた近頃のわたしだ。


授業が終わり、「センセ、マッタ、ライシュ(先生、また来週)」と生徒たちの挨拶を受け、塾を後に車を止めていた場所に戻ると、げ!・・・・なんとまぁ、わたしの車と前の車の車間が20センチほどしかないではないか!スペースが十分あるっちゅうに、なんちゅう止め方をしてくれるの!

いえね、苦手な縦列駐車もやっと近頃できるようになり、平坦な道ならもう焦らないで車を出せるのだが、ここ、坂道なんよ・・・(汗) わたしのことゆえ、なにかの拍子に、ポコンと前車にあてないとも限らない。それを考え始めると心臓がドキ、ドキ、ドキ・・・・

とにかく一回やってみよう、と不安な面持ちでエンジンかけバックしようとしたら、逆に前にズと進んでしまい、大いに慌てた。車を出てみると、更に縮まった車間距離!あちゃ~、だめだ、こりゃ。授業が終わる少し前に外出したOちゃんのご主人、帰ってこないかなぁ、お願いするんだが、と思い、10分ほど様子をみてみたが、兆しなし。仕方がない、夫を呼び出す最後の切り札だぃ。

ケータイから連絡すると、わたしのドジさ加減をよく知っている夫、もうこんなので保険を使うのはカナワナイとて、すかさず、「直ぐ行くからそのままにせよ」とのお達し。へえ~い。

さて、30分くらいは待つことになろう。目の前にはカフェがあるが、昼食前なのでコーヒーと言うわけにも行くまい。車内で待つのは嫌いな性分。そだ。以前から気になっていたものの、なかなか歩くことができないできた。この辺り、確か「Monte da Lapa(ラパの山)」の話を小耳に挟んだことがある。

そこで、この機会に歩いてみた。

monte_Lapa

ラパ教会があるRua de Antelo Quental(アンテロ・ケンタル通り)には、写真の小さなカペラ(礼拝堂)があり、車で通るたびに気になりながら横目でみてきた。カペラは「Capela do senhor do soccoro」が正式名だが、一般に「Capela do Olho Vivo」と呼ばれている。

ポルトの歴史家Germano Silvaによると、この通りは昔、北部ブラガへ通じる道になり、泥棒が横行したので、ここを通るときは「よく気をつけて(=Olho vivo)」と言われていたためにこの名前が定着したとのこと。

monte_Lapa
カペラの側の坂道を上ると、狭い石畳の道が入り込んでいる。この辺りはIlha(イーリャ)と呼ばれる区域で、Ilhaはポルトガル語で「島」の意味だが、ここでは、日本語で言えば「長屋」となろうか、古くからの集合住宅地区である。

monte_Lapa

迷路のような細い小道を上へと歩いていくと、小高い丘に出た。
 
これが言うところのMonte da Lapa。
monte_Lapa

上に見える丸い建物は粉引き小屋だ。
monte_Lapa
 
狭い足場だが、ここからはポルトの町、その向こうの町も一望できるのは発見だった。

monte_Lapa

1829年から34年まで 、ポルトガルは絶対王政主義者のドン・ミゲルと自由主義者のドン・ペドロ4世(ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世と同人物。二人は兄弟)との間に起こった王位争いでポルトガルは内戦に陥る。北部ポルトが一時期、圧倒的多数のドン・ミゲル軍に包囲され、自由主義陣営は1年にわたる篭城を強いられたが、これを「Cerco do Porto(ポルトの包囲)」と呼ぶ。

このとき、ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世の位を息子に譲り、ポルトガルに入ったドン・ペドロは、このMonte da Lapaにある粉引き小屋に登り、街を眺めては作戦を練ったと言われる。今回調べて分かったことだ。

実は、高校を定年退職して10年ほどになるポルトガル語のディアス先生と、毎水曜日、ポルトの歴史を勉強しているのだが、先週、この「ポルトの包囲」が少し出てきたところだったので、奇遇な発見ではあった。時にわたしの方が、あそこにあれがあって、あの通りがあれで、などと知っていることもあったりするのだが、よし!来週はディアス先生にこのことを話してみよう、と密かにMonte do Lapaの発見を喜んでいるのである。

で、車はどうした?はい、半時間後に夫はこともなくスーとバックして。いやはや面目ない。

ポルトガルの内戦については下記で書いていますので、興味あらばどぞ。

メモリア海岸のオベリスク

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