2015年2月22日 

昨日はいつもの通り、ラパ教会(Igreja da Lapa)の通りに車をとめ、目の前の細い道を入った。毎週土曜日は、10時から1時までの3時間を、Oちゃん宅の一階である我らのYY塾で2クラスの授業をする。グループ授業の面白さに目覚めた近頃のわたしだ。


授業が終わり、「センセ、マッタ、ライシュ(先生、また来週)」と生徒たちの挨拶を受け、塾を後に車を止めていた場所に戻ると、げ!・・・・なんとまぁ、わたしの車と前の車の車間が20センチほどしかないではないか!スペースが十分あるっちゅうに、なんちゅう止め方をしてくれるの!

いえね、苦手な縦列駐車もやっと近頃できるようになり、平坦な道ならもう焦らないで車を出せるのだが、ここ、坂道なんよ・・・(汗) わたしのことゆえ、なにかの拍子に、ポコンと前車にあてないとも限らない。それを考え始めると心臓がドキ、ドキ、ドキ・・・・

とにかく一回やってみよう、と不安な面持ちでエンジンかけバックしようとしたら、逆に前にズと進んでしまい、大いに慌てた。車を出てみると、更に縮まった車間距離!あちゃ~、だめだ、こりゃ。授業が終わる少し前に外出したOちゃんのご主人、帰ってこないかなぁ、お願いするんだが、と思い、10分ほど様子をみてみたが、兆しなし。仕方がない、夫を呼び出す最後の切り札だぃ。

ケータイから連絡すると、わたしのドジさ加減をよく知っている夫、もうこんなので保険を使うのはカナワナイとて、すかさず、「直ぐ行くからそのままにせよ」とのお達し。へえ~い。

さて、30分くらいは待つことになろう。目の前にはカフェがあるが、昼食前なのでコーヒーと言うわけにも行くまい。車内で待つのは嫌いな性分。そだ。以前から気になっていたものの、なかなか歩くことができないできた。この辺り、確か「Monte da Lapa(ラパの山)」の話を小耳に挟んだことがある。

そこで、この機会に歩いてみた。

monte_Lapa

ラパ教会があるRua de Antelo Quental(アンテロ・ケンタル通り)には、写真の小さなカペラ(礼拝堂)があり、車で通るたびに気になりながら横目でみてきた。カペラは「Capela do senhor do soccoro」が正式名だが、一般に「Capela do Olho Vivo」と呼ばれている。

ポルトの歴史家Germano Silvaによると、この通りは昔、北部ブラガへ通じる道になり、泥棒が横行したので、ここを通るときは「よく気をつけて(=Olho vivo)」と言われていたためにこの名前が定着したとのこと。

monte_Lapa
カペラの側の坂道を上ると、狭い石畳の道が入り込んでいる。この辺りはIlha(イーリャ)と呼ばれる区域で、Ilhaはポルトガル語で「島」の意味だが、ここでは、日本語で言えば「長屋」となろうか、古くからの集合住宅地区である。

monte_Lapa

迷路のような細い小道を上へと歩いていくと、小高い丘に出た。
 
これが言うところのMonte da Lapa。
monte_Lapa

上に見える丸い建物は粉引き小屋だ。
monte_Lapa
 
狭い足場だが、ここからはポルトの町、その向こうの町も一望できるのは発見だった。

monte_Lapa

1829年から34年まで 、ポルトガルは絶対王政主義者のドン・ミゲルと自由主義者のドン・ペドロ4世(ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世と同人物。二人は兄弟)との間に起こった王位争いでポルトガルは内戦に陥る。北部ポルトが一時期、圧倒的多数のドン・ミゲル軍に包囲され、自由主義陣営は1年にわたる篭城を強いられたが、これを「Cerco do Porto(ポルトの包囲)」と呼ぶ。

このとき、ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世の位を息子に譲り、ポルトガルに入ったドン・ペドロは、このMonte da Lapaにある粉引き小屋に登り、街を眺めては作戦を練ったと言われる。今回調べて分かったことだ。

実は、高校を定年退職して10年ほどになるポルトガル語のディアス先生と、毎水曜日、ポルトの歴史を勉強しているのだが、先週、この「ポルトの包囲」が少し出てきたところだったので、奇遇な発見ではあった。時にわたしの方が、あそこにあれがあって、あの通りがあれで、などと知っていることもあったりするのだが、よし!来週はディアス先生にこのことを話してみよう、と密かにMonte do Lapaの発見を喜んでいるのである。

で、車はどうした?はい、半時間後に夫はこともなくスーとバックして。いやはや面目ない。

ポルトガルの内戦については下記で書いていますので、興味あらばどぞ。

メモリア海岸のオベリスク

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2014年10月1日 

同僚のOちゃんと二人で土曜日日本語塾を始めてかれこれ5年ほどになる。ポルトガルの経済不況を考慮して二人で話し合いなんだか年々授業料が安くなっているわたしたちの土曜塾である。

毎年二人ができる時間に合わせて新コースを開設してきたが、この秋は新しい日本語クラスを作る必要に迫られた。Oちゃんのクラスとわたしのクラスの進行度がほぼ同じだったので、二つを合併させ、2週間前に新しいクラスをスタートさせた。

YYjuku
一クラスの人数が増えて机も椅子も買い足した。

グループ授業の難しいところは、入ってきた生徒に続けてもらえるかどうかだ。進行具合が速過ぎても遅すぎてもいけない。分かっていそうにないと思われる箇所をカリキュラムがあるからと言って、ドンドン進める事は、いずれ生徒が理解できなくなるので、わたしたちは極力避ける。分からない?しからば生徒たちと話し合い、了解を得て重点的に分からない部分を繰り返す、という手段をとるようにしている。

8月中旬から、ウエイティングリストの名簿に沿って案内のチラシをメールで送り、質問に回答し登録にこぎつく。この間の手配はわたしが窓口になっているので、一ヶ月ほどはその対応に追われて外出もほとんどなく、パソコンに向かっている時間が多かった。

メル友のI氏からはブログ更新に励んでいるね、元気そうでなにより、との言葉をもらったのだが、種を明かせば、外出できない分、準備の合間を見ては気分転換にブログ更新にいそしんでいたのでありました。
さて、新コースも始まったところで一件落着、昨日は自宅の個人授業がキャンセルになり、それ!と車で出かけてきたのが、Quinta da Lameira(ラメイラの森)ことロック公園(Parque de Roque)。

Parque_roque
散歩している人も少なく、公園は静寂。前を散歩しているのは白猫ちゃん。
 
Parque_roque

撮影目的のラビリンスの中に入ってみたところ、くもの巣を見つけました。
Parque_roque

ということは、この中に入る人があまりいなかった?何度か行き止まりにぶつかりながら、行ったり来たり。無事に出た後は、以前来た時と比べ、どうなっているかと森の中にあるCasa da Lameira(カーザ・ダ・ラメイラ=ラメイラ邸。Lameira=湿気の多い牧草地)に足を向けました。

Parque_roque
これはサンルームだったのか?以前来た時、邸は市の事務所の一部として使われていたのですが、閉鎖されていたのに失望。

Parque_roque
邸の正面

Parque_roque
石畳は白い花びらに敷き詰められて。

Parque_roque

鉄材の曲線が美しい。

Parque_roque 

Parque_roque
    
Parque_roque
意味ありげなドアノブ
 
Parque_roque

見事に紅葉したツタ。葉っぱを取って押し葉にしたい心を抑えました^^;

Parque_roque

忙しくしているうちに、秋が来ていました。

本日はこれにて。

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2014年6月12日 

ずっと気に入っていた場所で言ってみれば意地悪くも(笑)秘匿としていたのだが、ポルトの街の中でもわたしの取って置きの場所がある。

Rua de Vitoria
↑ここに立つと下方に密集する赤レンガの屋根屋根が、そして右手にはドウロ川が大西洋に流れ込む河口も展望でき、↓左手には大寺院、ドン・ルイス一世橋、ドウロ川対岸のかつてのセラ・ド・ピラール修道院などが眺められ、ドウロ川周辺を一望できるのだ。

Rua de Vitoria

市内を探検している間に偶然見つけた場所、Miradouro(ミラドウロ=パノラミックな景色が見られる場所のこと)だが、私有地なので最初は恐る恐る足を入れてこの素晴らしい展望に感嘆していた。
そのうちに、「自由に入ってください」という小さな立て札を目にして以来、遠慮なく入らせてもらっている。
Vitoria教会(ヴィトーリア教会)のすぐ横にある広場である。

本日紹介するのは、その場所から見下ろす上の写真の石段を降りたVitoria区域である。
Rua de Vitoria
こんな風な駐車はないよなぁと、ポルトガル人の肝に苦笑しながらVitoria石段を降りました。

Rua de Vitoria

降り切った通りが16世紀の終わりごろからある小さなVitoria通り。
Rua de Vitoria

壁に聖母をイメージした大きなグラフィティが。(画像をクリックすると拡大写真が見られます)

こちら、「Viva a Rua da Vitoria」とある。(画像をクリックすると拡大写真が見られます)
Rua de Vitoria

途中でこんな石段を見つけ、いったいどこへ出るのかとフォローしてみることにした。
Rua de Vitoria

Rua de Vitoria

Rua de Vitoria

ぬぬぬ・・・・こ、工事中じゃん!ちょっと危ないかも~、と思いはすれ、前方を行く人の姿を認め勇気を振り絞って続いてみる。
Rua de Vitoria

降りた石段を下から。
Rua de Vitoria

そうして出たところが、なんと、Rua Belmonte(ベルモンテ通り)とサン・ドミンゴス広が交差する辺りであった!
vitoria11.jpg

以前撮影したこの廃墟の建物に手が入れられたのでした^^
Rua de Vitoria

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2014年4月21日 

ポルトガルの学校は目下復活祭休暇だ。復活祭はポルトガル語でPascoa(パスコア)と言い、この休暇は日本で言う春休みに当たる。復活祭は移動性休日なので、こちらの春休みは日本のように毎年決まっておらず、その年によって3月だったり4月だったりする。
復活祭の前の聖金曜日(Sexta Feira Santaと言う)が祝日になりPascoaそのものは昨日の日曜日で、キリスト教の国では復活祭後の月曜日も休みにしているところが多い。復活祭については過去に何度も取り上げているので興味のある方は、後記案内からどうぞ。

さて、復活祭を前にしたしばらく前、気になっていたサン・ミゲル通りをもう一度歩いてきました。
3月1日の記事「14世紀の通りとサン・ミゲル通り(1)」↓の続きになります。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1438.html

14世紀から15世紀にかけてはポルト最後のユダヤ人ゲットーとして、また16世紀には新キリスト教徒としてユダヤ教からキリスト教に転じた(と思われた)ユダヤ人たちはドン・ジュアン3世王の命でこの区域に押し込められたわけです。

これらポルトガル、スペインに15世紀前後に定住したユダヤ人をセファルディム(Sephardim)と言いますが、1492年に、カトリック両王(スペイン、アラゴンのフェルナンド2世とカスティーリャのイザベル女王)はユダヤ人をスペインから追放します。この時のラビが、スペイン最後のイエシーバ(タルムード=モーセが伝えたもう一つの律法を学ぶ学塾)の学長、Isac Aboab。

Isac Aboabは数百人のユダヤ人を引き連れリスボンのポルトガル王ジュアン2世と渡り合い、ポルトのこの区域での居住許可を得ます。この数ヵ月後に、イベリア半島最後のGaonことイエシーバの学長がここで生涯を終えます。
1496年には前回の記事で述べたように、ドン・マヌエル1世王の命でせっかく得た居住地もユダヤ人は国外に出るかキリスト教に改心するかの選択を迫られることになりますが、多くのユダヤ人は改心したと見せかけ、密かに自らの宗教を信仰していました。見捨てられた彼らの住居はキリスト教会や慈善教会に譲渡されました。

さて、話は現代に戻って2003年のこと。
サン・ミゲル通りの一軒を譲り受けた牧師がそこを老人ホームにしようと改築し始めたところ、室内の壁にモーゼ5書の巻物トーラを保管する聖櫃(せいひつ)が設置されたと思しき窪みが発見されました。

sinagoga

シナゴーグとはユダヤ教の集会所、会堂のことですが、ポルト大学の宗教審問の研究者、エルビラ・マエ氏は、16世紀のImmanuel Aboab(Aboabラビの曾孫)が「教会(ヴィトリア教会)から下る通り3軒目にシナゴーグがあった」と記述してある場所とピッタリだと言うので、ここが隠れユダヤ教徒のシナゴーグであったとの説を取っています。これに対してポルトガル系イスラエル人のジャーナリストInacio Stainhardt氏は「隠れユダヤ人達がシナゴーグで祈るなど、当時としてはあまりにも危険すぎて信じがたい。Aboabラビがここをシナゴーグとした可能性はあるが、恐らく1496年のユダヤ人追放時点で聖櫃はどこかへ移動されたと思われる。」と反論しています。

エルサレム神殿の聖櫃、つまり「聖なるアーク」はモーゼの十戒の石版が納められており「契約の箱」と呼ばれるもので、トーラを収納する聖櫃とは別ものです。
sinagoga
契約の箱の一般的なイメージ。インディアナ・ジョーンズまがい^^;失われた聖櫃とも呼ばれる。
下がトーラです。
 
sinagoga sinagoga
 
トーラは詠むときにトーラ聖櫃から取り出し読み終えたらケースに入れ聖櫃に仕舞いこむ。トーラを収納する聖櫃の形は調べてみると色々あるようです。トーラの聖櫃はエルサレムの方向に向いた壁に設置されます。
    
聖櫃の前にぶら下がるのはテールターミードと呼ばれるp永遠の灯火で、紙の永遠なる存在を意味する。香炉のときもある。右の聖櫃は、メーソンのシンボルと似てるように思われる。下も聖櫃のひとつ。サン・ミゲル通りのシナゴーグにあった聖櫃は壁の窪みから下のような形であったろう。

というので、さて、これがくだんの家がこれです。
sinagoga
手前の9番地。現在は老人ホームになっています。訪れた週は復活祭の前でそれを祝う小さな垂れ幕があちこちで見られました。

ついでに42番地。入り口には「っこに商人バルボーザが住んだ」と彫ってあります。
sinagoga

本日は久しぶりにポルトの歴史に関する穴場を取り上げてみました。

イースターに関する記事は下記にあります。

①復活祭 
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-741.html

②イースター・なぜ卵?うさぎ?
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-54.html

③復活祭・キリスト教との関わり 
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-56.html

④ポルトガルのイースター 
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-58.html

では、みなさま、次回はサン・ミゲル通りに隣接するヴィトリア通りをご案内します。普段は人があまり歩かない路地ですがわたしの取って置きの場所でもあります^^ お楽しみに!
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2014年3月1日 

ようやく長雨が終わるかと思ったのも束の間、今日も雨の週末です。

日本語教室の合間と晴れ間を縫って、例え1時間ほどでもとしばらく前に歩いてきた久しぶりのポルトの街を今日は少し。

写真を撮るだけでは飽き足らず、シンボルマークと思し召しきは勿論のこと、町の、通りの、あげくは建物のと、その歴史を知らずに語らずにおれない性分なものでついつい説明がしつこくなり勝ちのわたしです。本日もその類になりますれば、ご了承くださいませ。

ポルト
旧市街、昔ながらの路地Rua das Taipasこと、タイパス通り。ポルトの風物詩、洗濯物がここでも見られます。

この洗濯物は旧市街だから許可されているのであって、新住宅街では外観を損なうと言うので、いかな昔かたぎののんびりしたポルトとて、このように表通りに洗濯物を干すのは一応禁じられています。

「Taipa」は「しっくい壁」のことでペストがヨーロッパ襲った14世紀に、ペスト患者がこの地域に送られ、しっくい壁を張り巡らし隔離した祭の名残りがその名に残ったと言われます。この話は、エヘン(笑)、現在、我がポルトガル語のディアス先生と勉強しているポルトの歴史で学んだのであります。

この通りに来るたびに気になってきたのが下の古い家です。
ポルト
崩れかけていますがファシャーダ(正面玄関)に見られるのは立派な家紋。これを目に留めた何年か前には通りでタムロしていたおじさんたちをつかまえて誰の家なのか、だったのか、と聞いたものの分からないとのこと、中で人が働いているから聞いてみなと言われたのには、え?誰か住んでるの?と驚いた。横に回ってみると小さな作業所のようなのがドア越しに見え、勇気を出して中へ入り受付のおじさんに「この家の持ち主さんですか」と聞いたことがあります。

聞けば商売に一階を借りているのだそうで、外のファシャーダのいきさつも元々は誰の家だったかも知らないとの返事にガッカリしたことがあります。
これはPalacete dos Vilares de Perdizes(ヴィラーレス・デ・ペルディーゼス小宮殿)と呼ばれ17、18世紀にかけてブルジョアのその一族の住まいだったということが判明し長年の疑問が解けてこの度はすっきりしたところであります。

さて、この通りと交差するのがRua Sao Miguel、サン・ミゲル通りです。

ポルト
↑サン・ミゲル通りからタイパス通りを見る。下は通りの突き当りのヴィトーリア教会。
ポルト

この通りも古い歴史をもっています。14世紀の終わり頃にドン・ジュアン1世の命で作らたポルト最後のユダヤ人街、ゲットーでとしては1386年から1496年まで111年間存在しました。
当時のポルトのユダヤ人は日中市内での物の売買は自由でしたが、トリンダーデ教会(Igreja de Trindade。ポルト市庁舎の後ろにある)の夜の鐘が鳴ると同時にゲットーに入らなければなりませんでした。

1496年にドン・マヌエル1世王により、一年間の猶予でポルトガル国内のユダヤ人はキリスト教に回心するか国外へ出るかの選択を迫られました。ドン・マヌエル1世王のこの方策は、スペインのアラゴン王女との婚姻の契約事項でした。この時にキリスト教徒に回心したユダヤ人を新キリスト教徒と呼びます。

回心せずに家を捨てて国をでる者、回心しても旧ユダヤ人との交流を避けるためにこれまで住んだ家を捨てる者が多々あり、ユダヤ人街は実質上、無人の町と化しました。後、16世紀の半ばドン・ジュアン3世国王の命で、ポルトの新キリスト教徒は全てリベイラ広場かサン・ミゲル通りに押し込められることになりました。以来この通りは新キリスト教徒の町になったわけですが、さて、次回はこの通りに関する面白い話をご紹介します。

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