2014年6月12日 

ずっと気に入っていた場所で言ってみれば意地悪くも(笑)秘匿としていたのだが、ポルトの街の中でもわたしの取って置きの場所がある。

Rua de Vitoria
↑ここに立つと下方に密集する赤レンガの屋根屋根が、そして右手にはドウロ川が大西洋に流れ込む河口も展望でき、↓左手には大寺院、ドン・ルイス一世橋、ドウロ川対岸のかつてのセラ・ド・ピラール修道院などが眺められ、ドウロ川周辺を一望できるのだ。

Rua de Vitoria

市内を探検している間に偶然見つけた場所、Miradouro(ミラドウロ=パノラミックな景色が見られる場所のこと)だが、私有地なので最初は恐る恐る足を入れてこの素晴らしい展望に感嘆していた。
そのうちに、「自由に入ってください」という小さな立て札を目にして以来、遠慮なく入らせてもらっている。
Vitoria教会(ヴィトーリア教会)のすぐ横にある広場である。

本日紹介するのは、その場所から見下ろす上の写真の石段を降りたVitoria区域である。
Rua de Vitoria
こんな風な駐車はないよなぁと、ポルトガル人の肝に苦笑しながらVitoria石段を降りました。

Rua de Vitoria

降り切った通りが16世紀の終わりごろからある小さなVitoria通り。
Rua de Vitoria

壁に聖母をイメージした大きなグラフィティが。(画像をクリックすると拡大写真が見られます)

こちら、「Viva a Rua da Vitoria」とある。(画像をクリックすると拡大写真が見られます)
Rua de Vitoria

途中でこんな石段を見つけ、いったいどこへ出るのかとフォローしてみることにした。
Rua de Vitoria

Rua de Vitoria

Rua de Vitoria

ぬぬぬ・・・・こ、工事中じゃん!ちょっと危ないかも~、と思いはすれ、前方を行く人の姿を認め勇気を振り絞って続いてみる。
Rua de Vitoria

降りた石段を下から。
Rua de Vitoria

そうして出たところが、なんと、Rua Belmonte(ベルモンテ通り)とサン・ドミンゴス広が交差する辺りであった!
vitoria11.jpg

以前撮影したこの廃墟の建物に手が入れられたのでした^^
Rua de Vitoria

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2014年4月21日 

ポルトガルの学校は目下復活祭休暇だ。復活祭はポルトガル語でPascoa(パスコア)と言い、この休暇は日本で言う春休みに当たる。復活祭は移動性休日なので、こちらの春休みは日本のように毎年決まっておらず、その年によって3月だったり4月だったりする。
復活祭の前の聖金曜日(Sexta Feira Santaと言う)が祝日になりPascoaそのものは昨日の日曜日で、キリスト教の国では復活祭後の月曜日も休みにしているところが多い。復活祭については過去に何度も取り上げているので興味のある方は、後記案内からどうぞ。

さて、復活祭を前にしたしばらく前、気になっていたサン・ミゲル通りをもう一度歩いてきました。
3月1日の記事「14世紀の通りとサン・ミゲル通り(1)」↓の続きになります。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1438.html

14世紀から15世紀にかけてはポルト最後のユダヤ人ゲットーとして、また16世紀には新キリスト教徒としてユダヤ教からキリスト教に転じた(と思われた)ユダヤ人たちはドン・ジュアン3世王の命でこの区域に押し込められたわけです。

これらポルトガル、スペインに15世紀前後に定住したユダヤ人をセファルディム(Sephardim)と言いますが、1492年に、カトリック両王(スペイン、アラゴンのフェルナンド2世とカスティーリャのイザベル女王)はユダヤ人をスペインから追放します。この時のラビが、スペイン最後のイエシーバ(タルムード=モーセが伝えたもう一つの律法を学ぶ学塾)の学長、Isac Aboab。

Isac Aboabは数百人のユダヤ人を引き連れリスボンのポルトガル王ジュアン2世と渡り合い、ポルトのこの区域での居住許可を得ます。この数ヵ月後に、イベリア半島最後のGaonことイエシーバの学長がここで生涯を終えます。
1496年には前回の記事で述べたように、ドン・マヌエル1世王の命でせっかく得た居住地もユダヤ人は国外に出るかキリスト教に改心するかの選択を迫られることになりますが、多くのユダヤ人は改心したと見せかけ、密かに自らの宗教を信仰していました。見捨てられた彼らの住居はキリスト教会や慈善教会に譲渡されました。

さて、話は現代に戻って2003年のこと。
サン・ミゲル通りの一軒を譲り受けた牧師がそこを老人ホームにしようと改築し始めたところ、室内の壁にモーゼ5書の巻物トーラを保管する聖櫃(せいひつ)が設置されたと思しき窪みが発見されました。

sinagoga

シナゴーグとはユダヤ教の集会所、会堂のことですが、ポルト大学の宗教審問の研究者、エルビラ・マエ氏は、16世紀のImmanuel Aboab(Aboabラビの曾孫)が「教会(ヴィトリア教会)から下る通り3軒目にシナゴーグがあった」と記述してある場所とピッタリだと言うので、ここが隠れユダヤ教徒のシナゴーグであったとの説を取っています。これに対してポルトガル系イスラエル人のジャーナリストInacio Stainhardt氏は「隠れユダヤ人達がシナゴーグで祈るなど、当時としてはあまりにも危険すぎて信じがたい。Aboabラビがここをシナゴーグとした可能性はあるが、恐らく1496年のユダヤ人追放時点で聖櫃はどこかへ移動されたと思われる。」と反論しています。

エルサレム神殿の聖櫃、つまり「聖なるアーク」はモーゼの十戒の石版が納められており「契約の箱」と呼ばれるもので、トーラを収納する聖櫃とは別ものです。
sinagoga
契約の箱の一般的なイメージ。インディアナ・ジョーンズまがい^^;失われた聖櫃とも呼ばれる。
下がトーラです。
 
sinagoga sinagoga
 
トーラは詠むときにトーラ聖櫃から取り出し読み終えたらケースに入れ聖櫃に仕舞いこむ。トーラを収納する聖櫃の形は調べてみると色々あるようです。トーラの聖櫃はエルサレムの方向に向いた壁に設置されます。
    
聖櫃の前にぶら下がるのはテールターミードと呼ばれるp永遠の灯火で、紙の永遠なる存在を意味する。香炉のときもある。右の聖櫃は、メーソンのシンボルと似てるように思われる。下も聖櫃のひとつ。サン・ミゲル通りのシナゴーグにあった聖櫃は壁の窪みから下のような形であったろう。

というので、さて、これがくだんの家がこれです。
sinagoga
手前の9番地。現在は老人ホームになっています。訪れた週は復活祭の前でそれを祝う小さな垂れ幕があちこちで見られました。

ついでに42番地。入り口には「っこに商人バルボーザが住んだ」と彫ってあります。
sinagoga

本日は久しぶりにポルトの歴史に関する穴場を取り上げてみました。

イースターに関する記事は下記にあります。

①復活祭 
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-741.html

②イースター・なぜ卵?うさぎ?
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-54.html

③復活祭・キリスト教との関わり 
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-56.html

④ポルトガルのイースター 
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-58.html

では、みなさま、次回はサン・ミゲル通りに隣接するヴィトリア通りをご案内します。普段は人があまり歩かない路地ですがわたしの取って置きの場所でもあります^^ お楽しみに!
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2014年3月1日 

ようやく長雨が終わるかと思ったのも束の間、今日も雨の週末です。

日本語教室の合間と晴れ間を縫って、例え1時間ほどでもとしばらく前に歩いてきた久しぶりのポルトの街を今日は少し。

写真を撮るだけでは飽き足らず、シンボルマークと思し召しきは勿論のこと、町の、通りの、あげくは建物のと、その歴史を知らずに語らずにおれない性分なものでついつい説明がしつこくなり勝ちのわたしです。本日もその類になりますれば、ご了承くださいませ。

ポルト
旧市街、昔ながらの路地Rua das Taipasこと、タイパス通り。ポルトの風物詩、洗濯物がここでも見られます。

この洗濯物は旧市街だから許可されているのであって、新住宅街では外観を損なうと言うので、いかな昔かたぎののんびりしたポルトとて、このように表通りに洗濯物を干すのは一応禁じられています。

「Taipa」は「しっくい壁」のことでペストがヨーロッパ襲った14世紀に、ペスト患者がこの地域に送られ、しっくい壁を張り巡らし隔離した祭の名残りがその名に残ったと言われます。この話は、エヘン(笑)、現在、我がポルトガル語のディアス先生と勉強しているポルトの歴史で学んだのであります。

この通りに来るたびに気になってきたのが下の古い家です。
ポルト
崩れかけていますがファシャーダ(正面玄関)に見られるのは立派な家紋。これを目に留めた何年か前には通りでタムロしていたおじさんたちをつかまえて誰の家なのか、だったのか、と聞いたものの分からないとのこと、中で人が働いているから聞いてみなと言われたのには、え?誰か住んでるの?と驚いた。横に回ってみると小さな作業所のようなのがドア越しに見え、勇気を出して中へ入り受付のおじさんに「この家の持ち主さんですか」と聞いたことがあります。

聞けば商売に一階を借りているのだそうで、外のファシャーダのいきさつも元々は誰の家だったかも知らないとの返事にガッカリしたことがあります。
これはPalacete dos Vilares de Perdizes(ヴィラーレス・デ・ペルディーゼス小宮殿)と呼ばれ17、18世紀にかけてブルジョアのその一族の住まいだったということが判明し長年の疑問が解けてこの度はすっきりしたところであります。

さて、この通りと交差するのがRua Sao Miguel、サン・ミゲル通りです。

ポルト
↑サン・ミゲル通りからタイパス通りを見る。下は通りの突き当りのヴィトーリア教会。
ポルト

この通りも古い歴史をもっています。14世紀の終わり頃にドン・ジュアン1世の命で作らたポルト最後のユダヤ人街、ゲットーでとしては1386年から1496年まで111年間存在しました。
当時のポルトのユダヤ人は日中市内での物の売買は自由でしたが、トリンダーデ教会(Igreja de Trindade。ポルト市庁舎の後ろにある)の夜の鐘が鳴ると同時にゲットーに入らなければなりませんでした。

1496年にドン・マヌエル1世王により、一年間の猶予でポルトガル国内のユダヤ人はキリスト教に回心するか国外へ出るかの選択を迫られました。ドン・マヌエル1世王のこの方策は、スペインのアラゴン王女との婚姻の契約事項でした。この時にキリスト教徒に回心したユダヤ人を新キリスト教徒と呼びます。

回心せずに家を捨てて国をでる者、回心しても旧ユダヤ人との交流を避けるためにこれまで住んだ家を捨てる者が多々あり、ユダヤ人街は実質上、無人の町と化しました。後、16世紀の半ばドン・ジュアン3世国王の命で、ポルトの新キリスト教徒は全てリベイラ広場かサン・ミゲル通りに押し込められることになりました。以来この通りは新キリスト教徒の町になったわけですが、さて、次回はこの通りに関する面白い話をご紹介します。

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2013年10月11日 

ウイークデイに街を散策する時間が、俄然なくなった。

理由はと言うと、依頼されてボランティア活動を入れ過ぎたのであります
しかし、4件の活動のうち2件は自らが好むところの「影絵」です。
新作案はできているものの切り絵作成に時間を割くことができず、今年は
既成の2作品、「キョーリュー年代記」と「かぐや姫」を上映することで、
切り抜けます。

こうなると散策は土曜日の日本語授業の後にすることになり、週末明けは
また仕事の態勢に入るので近頃はどうしてもブログ更新が滞りがちですが、
それももう少ししたら落ち着き、またせっせと更新できると思います。

さて、今日は、夫を誘い、先週土曜日に橋を渡ってガイア市に入り、ドウロ
河岸から上にのぼりCanidelo 地区で探してた小宮殿の紹介です。

casa_marquesgomes2.jpg

ドウロ河口対岸にこんな小宮殿(ポルトガル語でPalacete=パラセッテ)
があるとは気づきませんでした。それもそのはず、写真でわかるように隣
町ガイア市のこの一帯は現在新住宅地として開発中だとのことが調べてわ
かりましたが、元はうっそうと木々が生えた森(Quinta=キンタ)だった
のです。

キンタが丸裸にされてキンタの小高い丘に忽然と姿を現した遠目にも美し
い小宮殿です。その姿に惹かれ訪ねてみたのですが、残念ながら工事現場
ゆえ、入るあたわず。

casamarquesgomes
美しいアールヌーヴォー調の表玄関です。

casamarquesgomes

おまけに高い外塀に囲まれた宮殿は全容撮影は不可能でした。  
casamarquesgomes

立ち入り禁止とありますが、囲いの外から手持ちのデジカメでズームアップ
最高でやっと撮影したのが下の画像です。
casamarqeusgomes

荒れ果てて屋根瓦は落ち、ここも残念なことにポルトガル独特の悪習慣で
ある落書きが見えます。19世紀終わりに、マヌエル・マルケス・ゴメス
が邸宅として建てたとあります。

この人はこの区域の貧しい漁師の家に生まれましたが、幸運なことに親切な
人から教育を受ける機会を得て、18才でブラジルへ渡りました。ブラジル
では輸入業に携わり、事業を広げ、生誕地に帰った後は、地域起こしに力を
注ぎ多くの施設を作り、区域では名士だったとのこと。

1930年代の彼の没後、よく聞く話ですが、3人の子供達との間で遺産相
続争いがあったのと、1974年4月25日のポルトガル無血クーデター時に、
一般人に略奪されたのとで、ゴメス氏の美しい邸宅は荒れ果てるがままに
今日まで放置されてきたのでしょう。

付け加えておけば、74年4月25日は別名、カーネーション革命と呼ばれ、
1933年以来続いたアントニオ・サラザールの独裁政治を打ち破るべく発
生した軍事クーデターが起こった日です。

ポルトガルでは 「ヴィンテ・スィンコ・デ・アブリル=25 de Abril」
として知られます。この時期には多くのブルジョア邸宅が一部の一般人に略
奪されたと聞きます。以前拙ブログで紹介したことがあるポルトの海岸沿い
にある邸
もそのひとつで、そこは、とある靴屋が略奪、住み込んだとのこと。抗
議を受けた後、家具類等を持ち出したと言われます。
要は泥棒と変わらないではないか。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1067.html

このような話は外国での歴史上よく耳にすることですが、煽動された民衆
の無教養な狂気の一端を見る気がします。

話を戻して、現在の邸の所有者は不明ですが、土地は銀行系の不動産会社
の所有地となり、現在開拓が進められているこのキンタに建つことになる
のはおよそ1100個住宅だそうです。
canidel
赤丸が小宮殿の建つ場所。

わたしはこの館の往時の姿を見たくてネット検索しましたが、なかなかヒッ
トせず、やっと出てきたのは絵です。
palacete_maruquesgomes2.jpg

この屋敷が、これまでわたしが取り上げてきた崩壊寸前だったフレイシュ
宮殿、プレラーダ小宮殿のように、修繕され再びその美しい姿を見ること
ができる日が来るのを、願ってやみません。

フレイシュ宮殿はこちら。
プレラーダ小宮殿はこちら。
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2013年1月15日 

不覚にも買ったばかりの新しい包丁で左中指先をザックリ切っちまった。
経済危機に見舞われているポルトガル、たいした援助にならないのは承知の
上だが、日常生活用品はできるだけMade in ポルトガルを購入しようと考
え、近頃では野菜、果物もそう心がけている。

いつも使用しているのはステンレス製の包丁なのだが、年も変わったことだ
しと、そそっかしいのがよせばいいのに切れの良い新しいのを一丁用意する
ことにした。

買い求めて取り出して見たところ、うわ!刃が薄い。すごく切れそうだなぁ。
一度はジャガイモの皮むきに使い始めたものの、ふと不安が頭をかすめ手を
止めて古い包丁に持ち替えた。んで、それにしてもせっかく買ったのになに
やってんだかと思い直し、再度新品のに手を伸ばし、レモンを真っ二つにサ
クッと切ったと思いきや、その瞬間、やってしまった!の感触。

もう確認する必要もなく、まっすぐバスルームに駆け込み、消毒液を指にぶ
っ掛けたのだが、切った箇所を見るのがこわい・・・
とりあえず夫が帰宅するまで自分ができる応急処置というので、傷口が開か
ないように、たっぷりのオロナイン軟膏(我が家では子供たちがこれを
「ママのMiracle Ointment、つまり「魔法の軟膏」と小ばかにして笑うの
であるw)をバンドエイドにのせて指にきつく巻きつけた。ずきずき痛んで
なかなか止血しない。

そうこうしているうちに夫が帰宅し、痛み止めの薬をもらってとりあえず、
落ち着いた感じなのだが、これが三日前のこと。うっかり指に力を入れよう
ものなら、すぐさま出血するので何をするにも不便と言ったらない。

そんなわけで、キーボード早撃ちのわたくし(それで誤字が多いw)指先を
気にかけながらキーボードを打つのも時間がかかり、それが嫌で、人魚の館
のアップが遅くなってしまいました。

さて、参りましょう。今日の記事は自分の記録メモとして書いてある部分が
あります。興味深いものとはこれです↓

palacio_Sereias

階段を上ってくると頭上に見える石壁の上のピラミッド。Bandeirinha
da Saude(Bandeirinha=小さな旗、Saude=健康、衛生)」と昔から呼ば
れてきました。それでこの人魚の館がある道も「Rua da Bandeirinha」、
バンデイリーニャ通りと呼びます。

palacio_Sereias

館側から見るとこんな風に見えるピラミッド。川に面しているのにはそれ
なりの訳があります。

ピラミッドの上に見える小さな金属製のBandeirinha da Saudeですが、
これはかつてドウロ川にポルト入港する船に向けての目印だったそう
です。16~18世紀にはペストが何度か国内で流行しましたが、それを
防ぐため、この旗から川に延びる線を境界線とし、船はそこから先のドウ
ロ川には入れないことになっていたと言われます。

そう言えば、2年ほど前にこの辺りに「モンシーク修道院」を探してきたこ
とがありましたが、その修道院が舞台になったポルトガル、19世紀の文
学者Camilo Castelo Brancoが書いた小説「Amor do Perdical(破滅
の愛)」では、父親に愛しあうことを禁じられこの修道院に幽閉された女性
テレザ。愛する彼女から離れ異国へ旅立たなければならなくなったシモンは
船上で修道院の窓から出航を眺める彼女の姿を認めるのですが、なるほど、
つまり、この船はBandeirinha da Saudeの境界線ギリギリのところから
出たのだということが分かります。

(モンシーク修道院を探しての記事はこちら↓)
ポルトガル文学 「破滅の愛」の舞台、モンシーク修道院を探して

このような細かい背景が分かって映画や小説を読むとその時代が活き活きと
蘇ってきます。

1809年はポルトガル歴史上重要な年号のひとつとされます。ナポレオン
がポルトガルを征服しようと1807年、1809年、1810年と三度フ
ランス軍が侵入してきたのです。1809年はスペイン北部からポルトに入
ってきました。結果は3度とも敗退して、ナポレオンは「ピレネーを越える
とアフリカだ」、つまりヨーロッパではない、なんて言葉を残していますが、
ナポレオンさん、ひょっとして3度も攻めて成功に及ばなかったがため、
悔し紛れに口から出た言葉ではないかと、意地悪くわたしは勘ぐってみるの
です。

さて、この1809年、フランス軍となんらかの関係があると勘ぐられた息
子が民衆に殺害され、ポルトカレーロ一族はこの人魚の館を捨て去り再びと
この地を踏むことはなく、屋敷は1955年まで廃墟になっていました。

ローマカトリック教会がより聖女に加えられたカノッサのマグダレナの名を
冠するコミュニティに売却され、現在もカノッサのマダレナ・コレジオ(コ
レジオ=ミッションスクール)として運営されており、残念ながら内部見学
は不可能。

palacio_Sereias

写真は人魚の像の反対側で現在のコレジオの入り口になっています。
ファシャーダと呼ばれる表門の上にはポルトカレーロ家の紋章が彫られて
あります。拡大して見ました。

palacio_Sereias

ポルトカレーロ家はGaliza 一帯の貴族を祖先に持つアンダルシアの大貴族
でスペイン王家とも関わりがあり、紋章には王家のキンの冠をかぶったライ
オンと三つの塔を持つ城が使われています。

palacio_Sereias

ポルトカレーロ家の紋章

人魚の館にまつわる話をもうひとつ。

昔から知る人ぞ知るこの人魚の館ですが、現在のように映像が一般化されて
いなかった時代、女性の裸体など目にすることもない思春期の男の子たちは
こっそりとこの人魚を見に来たのだそうです。見つかった時は学校や親から
厳しいお仕置き、お叱りを受けたとのこと、現代からすればなんとも可愛い
らしい話ではありませんか。ということで最後にもう一度「人魚」に登場し
てもらいます。

palacio_sereias


その後のポルトカレーロ家については目下不明。本日は人魚の館を追って
色々話が飛びました。
では、これにて。
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