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2016年9月26日 

2009年に訪れた時のモンセラーは庭園も館も修復中で、当時は訪れる人もほとんどおらず、園内の休憩所で出会った初老のイギリス夫人がわたしたちに話しかけて来ました。

曰く、1940年代に私邸だったモンセラーをポルトガル政府が買い取ったのだですが、そのまま長い間荒れたままに放置されていたのを、この女性たちがボランティア活動を開始し、近年ようやく森と館の修繕作業に及んだとのこと。

あれから7年たった今、館はどのようになったかと期待して今夏、娘たちと再訪してきました。

モンセラーの名の由来はスペインのカタルニア山岳地方にある、俗称モンセラート修道院から来ます。カトリック教会最古の修道会のべネディクト会修道院で、正式名は「サンタマリア・モンセラート修道院」。ポルトガル語では「モンセラー修道院」となります。「Monserrate」の意味はラテン語を原語とする「刻みの山」。ラテン語系のポルトガル語でもserrarは、「のこぎりをひく」、serraは「のこぎり、山脈」の意味。名の如くギザギザ山の集合です↓

シントラ・モンセラー

ちなみにべネディックト会は数あるカトリック教会の中でも最古の修道会で、創設者は5世紀の人、聖ベネディクトス。 後にこのベネディクト会からは、十字軍遠征、テンプル騎士団認可に大きな役割を果たしたシトー会修道会が派生しています。

もうひとつ、スペインのモンセラー修道院で言及すべきは、「黒い、もしくは褐色のマリア像」の存在です。黒いマリア像については諸説ありますが、テンプル騎士団を隠れ蓑とする異端崇拝者のシンボル、マグダラのマリアであると言う説もあります。

テンプル騎士団に付いては、拙ブログで何度か取り上げてきましたが、今夏も2年ぶりにトマールのテンプル・キリスト騎士団修道院を訪れてきましたので、追って再度取り上げていきます。

前置きが長くなりましたが、さて、シントラのモンセラーの森案内です。

入り口
シントラ・モンセラー
門にはあたかも森を護衛するかのような一対のキメラ。レガレイラ宮殿、パリのノートルダム寺院もそうですが、ファンタスティックな仮想動物gargoyleはゴチック建築にはつきものです。拡大してみましょう↓

シントラ・モンセラー

森に入ってすぐ見えるのが巨大な岩戸「Vathek」(ヴァセック)の門。

シントラ・モンセラー

「Vathek」はイギリス18~19世紀にかけてのゴチック作家ウイリアム・ベックフォードの著書名です。ベックフォードのゴチック趣味に基づく、ムスリムのVathekを主人公にしたこの小説は、ゴチック文学の傑作と言われます。が、当時のヨーロッパ社会からすると異教的であり、発表当時は大きなスキャンダルになったと言われます。
ベックフォードは作家であり、子どもの頃はモーツアルトに師事したピアニストでもあり、また、数ヶ国語をあやつり建築にも興味を示した、多才な人であったようです。

Vathekはわたしは未読ですので、内容に興味ある方は検索してみてください。

シントラ・モンセラー
森の中で見られる「ベックフォードの滝」。

シントラ・モンセラー

こちらは18世紀末、ベックフォードが作ったと言われる、クロムレック(Cromlech=列柱の上に乗せた大きな平石を言う)。太古の人々が信仰のために作った古代の遺物。

シントラが太古の昔から神聖な山とされてきたことを考えると、ベックフォードがこうしてまがい物を作らずとも、この「月の山」には本物のクロムレックがないとは言いきれないでしょう。

さて、ここで何度も出てくる「ベックフォード」ですが、若くして莫大な遺産を相続した彼は、当時のイギリスで最も裕福な富豪の一人で、詩人のバイロンとは交友関係があり、バイロンがシントラに住んだと同様、実はこの森を所有して一時期住んでいたのでした。

モンセラー、次回に続きます。
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2016年9月21日
 
首都リスボンはもちろんポルトガル一の素晴らしい街だ。しかし、我が街ポルトについて言えば、大きさでは太刀打ちできないが、ドウロ川沿い、大西洋沿岸、そして街並みもリスボンとは一味違う美しさがあり、歴史的にも見逃せない建築物が多く見られる。知れば知るほどその魅力にとりつかれ、すっかりポルトファンになったわたしである。

その地元びいきのわたしが、なんとしても抗えずこれまで度々訪れてきた町がシントラだ。

リスボンから電車で40分ほどのところに、かつて王侯貴族の避暑地とされた小さな町、シントラがある。「月の山」とも呼ばれるシントラ山脈は、古代から神秘的な山として知られてきた。山中のキンタ・ダ・レガレイラ(レガレイラの森)を始め、ペナ城、カプーシュ修道院、ジョニ・デップ主演の映画「Ninth Gate」のロケにもにも使われた私邸など、多くのエソテリックなシンボルが見られる町でもある。

それらの多くは、2008年より拙ブログにてとりあげてきたが、6度目の訪問の今回、改めて紹介していきたいと思う。

本日は、実はまだ一度も記事にしていなかった、Castelo dos Mouros(カステロ・ドス・モーロス=モーロ人の城)。日本語では「ムーア人の城跡」と紹介されているのだが、写真満載でお送りしたい。

シントラ・ムーア人の城跡
シントラ旧市街から見上げる城跡

MourosはMouroの複数でポルトガル語。モロッコ、チュニジア、アルジェリアなど、北アフリカ一帯のマグレブ地方、アラブ諸国を意味する。俗に「ムーア人の城(Castelo dos Mouros)」と呼ばれるが、正式には、Castelo de Sintra(カステロ・デ・シントラ=シントラ城)のことである。

シントラの名前はギリシャ語の形容詞を語源とし、神話にある月の女神アルテミスがCynthus山で生まれたことに由来していると言われる。 紀元前から、この山は月の女神に捧げられ、ケルト人は「cynthiaの月の山」と呼んでいたという。

8世紀にモーロ人がイベリア半島に侵入しシントラの山に城を築いた。以後、12世紀までシントラはモーア人(モーロ人)が占領している。現在わたしたちが町から仰ぎ見るのはその城の城壁(muralha)だけなのだが、この夏は、娘と連れ合いがペナ城を見学している間に、夫とわたしは城壁の頂上まで登ってみた。

シントラ・ムーア人の城跡

入り口から山道へ入ると、周囲は岩だらけ。
シントラ・ムーア人の城跡

この辺りから城壁の一部が見られる。
シントラ・ムーア人の城跡

上る途中で、小宮殿やシャレーの頭を覗かせるシントラの森が見渡せる。
シントラ・ムーア人の城跡

高部の城壁を伝ってこれから頂上へ。
シントラ・ムーア人の城跡

眼下には先に登ってきた底部の城壁が見える。
シントラ・ムーア人の城跡

シントラ・ムーア人の城跡

急な石段を上って。
シントラ・ムーア人の城跡

この辺りで、高度恐怖症気味のわたしは弱気になるが、夫の「引き返してもいいけど、ここまで来たんだからもったいないね」、との言葉に、よし、行ってやる!と決心。
シントラ・ムーア人の城跡

城壁のポイントごとに立てられている国旗は建国から現代の共和国になるまでの、ポルトガルを代表する歴代の国王の国旗だ。

シントラ・ムーア人の城跡
その中に一つだけ、アラブ語で「シントラ」と書かれた旗がはためいている。敬意を表してを表しているのだろう。

シントラ・ムーア人の城跡

こうして、ついに上りきった頂上は人が多い上に足場ば狭く、わたしにとっては危なっかしいといったらなかった。 
シントラ・ムーア人の城跡

たかが高さ420m、が、急な石段を上るのは骨が折れることではあった。近頃、時間がとれず、町歩きをしなくなった運動不足のわたしだ、翌日足腰の筋肉痛になったのは言わずと知れたことである。

上っている途中で、何度も雲の流れが変わり、青空になったり霧になったりと、やはり月の山シントラにふさわしいミスティックな天気ではあった。そして、ムーア人の城壁の頂上の向かい側には、華麗なペナ城が霧の流れで姿を隠したり現したりしていた。
娘たちは今、あの城内を見学しているであろうと、反対側にいる母はそう思いながら、眺めたのである。

シントラ・ムーア人の城跡

うっすらと霧に被われたペナ城をバックに、夫が撮ってくれた一枚。
シントラ・ムーア人の城跡

本日も読んでいただき、ありがとうございます。では、また明日。

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2014年9月5日 

前回の続きなり。

ドン・フェルナンド2世は1885年に69歳で亡くなります。
その遺言で、シントラにあるムーア人の城やペナ城を含む森など自分の全財産をエリゼに遺すわけですが、これはさぞかし騒動になったことでしょう。ドン・フェルナンド2世の死後、エリゼはこの小さなシャレーに住みますが、後にこの二つの城はドン・カルロス1世(ポルトガル王国最後から二人目の暗殺された国王)に、エドラ公爵夫人ことエリゼ・ヘンスラーから買い取られ王国のものになります。

同時に、エリゼはシントラを去り、一人娘のアリスとともにリスボンに住むのですが、娘アリスについては、ドン・フェルナンド2世との間の娘かどうかは不明だとの説があります。エリゼにはドン・フェルナンド2世と結婚する前にすでに娘がいたと言われていますが、二人が知り合ったのは1860年、そして結婚したのが1869年ですから、アリスがドン・フェルナンド2世との間の娘であることは十分考えられます。

カトリックの国、ポルトガルはわたしが来た頃にはまだ離婚が認められていませんでしたから、19世紀のポルトガル社会で結婚前に生まれた子供については、どのような扱いになったか想像がつくというものです。エリゼの庶民出身であるのと、正式な結婚以前の娘の誕生は王家にいざこざを起こす可能性があり、二人はそれを回避しようとしたのではないか。と、わたしは推測するのですが、真実はいかに。

condess_edla
後年のドン・フェルナンド2世とエリゼ(Wikiより)

1929年にエリゼは92歳でリスボンで生涯を閉じます。ポルトガル最後の国王だったドン・マヌエル2世と、前ドナ・アメリア王太后は1910年の革命でイギリス、フランスへ各々亡命しており、ブラガンサ王朝は崩壊し、ポルトガルは共和国になっていました。亡命先からの帰国は禁じられていました。庶民出身とは言え王家とゆかりのあるエリゼの葬儀には二人とも代理を送り、かつての王妃に礼を尽くしています。

ポルトガル王家のペナ城での最後の様子はこちらで書いています。
華麗なるペナ城宮殿(2):ポルトガル王家最後のアメリア王妃

エリゼは自分の墓石について遺言を下記のように遺していました。

縦横4メートルの土地を買い シントラ山頂にあるのと同じ十字架(Cruz Altaと呼ばれる)を墓石のトップに置くこと、十字架のサイズは墓地の大きさに比例しること、墓石には「ここにドン・フェルナンド2世王の寡婦、眠る。1836年生誕」と刻むこと。

condess_edla
シントラ山頂の薔薇十字です(Wikiより)登山できますが、わたしはまだ行っていません。

下がエリゼ・ヘンスラーの墓地。リスボンのプラゼーレス墓地(Cemitério dos Prazeres)に彼女は眠っています。

condessa_elda

エリゼことエドラ伯爵夫人に関する記録は少なく、オペラ歌手から王妃になった彼女の生涯に少なからず興味を持つわたしですが、ここまでの調査に時間を費やし、やっと少しだけ綴ることができました。

同じく、明治時代に一般庶民からオーストリア=ハンガリー貴族と結婚して伯爵夫人になった日本女性、クーデンホーフ光子がいますが、夫の死後、相続した財産を巡り一族と裁判沙汰になるも勝訴して伯爵家を取り仕切った光子に比べて、伝記もなく歴史から忘れ去られたようなエリゼ伯爵夫人の生涯について、いつかもう一度焦点をあててみたい気がします。

エリゼ・ヘンスラーとシャレーについては、今回で終わりです。
読んでいただき、ありがとうございました。
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それでは、また。
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2014年9月1日 シントラ:エドラ伯爵夫人のシャレー(2)

9月に入りました。今夏は小雨が降ったり曇りだったりで、長年住んでいますがポルトでこんな変な夏は初めてのような気がします。

さて、前回の続きなのですが、毎度のことで記事内に数箇所、脱字があり・・・
知っている人たちは「相変わらずやってるわぃ」と良いように取ってもらってると思うのですけど、記事を書きながら、文章のあちこちをコピペして移動したり削除したりするもので、そういうことの跡がそのままになったりしていて面目ない。おかしな箇所は訂正しました。

では、本日の話題に。

庶民の出とは言え、エリゼは国王フェルナンド2世の妃です。どんなにか豪華なシャレーであろうかと期待するところですが、ご覧あれ。なんとまぁ小さな、そして可愛いらしい!エリゼの故国スイスのアルプスとアメリカの田舎の山荘をイメージして、彼女自らが手がけたデザインです。1869年に建築されました。

chalet_condessa_edla
ドアや窓枠、ベランダなどにはコルク材が使われています。

chalet_condessa_edla
窓に小さなローズが絡んでロマンチックなこと!

ここで少しフェルナンド2世についてメモしておきたい。
当時のポルトガル王家の決まりでは、王配、つまり女王の夫はプリンスというタイトルでした。
これは現在のイギリスのエリザベス女王の夫、プリンス・フィリップが例に挙げられます。イギリスと違うところは、女王との間に子供が生まれた場合、女王の夫には国王の称号が与えられるという点です。

実は、女王ドナ・マリア2世はドン・フェルナンドとは2度目の結婚なのです。最初の夫はドイツのロイヒテンベルグ公アウグストですが、結婚後間もなく肺結核で急逝、女王との間に子供は生まれませんでした。ドナ・マリア2世17才にとっては再婚のドン・フェルナンド2世19才との結婚17年間に、二人の間にはなんと11人の子供が生まれています。(うち、4人は誕生後死亡)。

よって、ドン・フェルナンド2世は第一子が生まれると同時に国王の称号を得ますが、摂政として国政を行ったものの、国王としてはしていません。ドン・フェルナンド2世は女王の政策を多方面でサポートしたと言われます。陶芸、水彩画も趣味で芸術面に造詣が深いフェルナンド2世は人々から「芸術王」の別称を与えられています。

また、彼は中世から存在し錬金術の叡智を持ち、後のフリーメーソンにも影響を与えている秘密結社「薔薇十字団」のグランドマスターだったとも言われます。そうして見ると、ドン・フェルナンドが精魂込めて造りあげた不思議な雰囲気を持つペナ城はなるほどと頷けます。

余談ですが、薔薇十字団員として名を馳せるせるのは、18世紀にヨーロッパで多くの伝説を残したサン・ジェルマン伯爵がいます。彼はフランスを中心に活躍しました。哲学者ボルテールをして「決して死ぬことがなく全てを知る人」と言わしめています。

わたしが20代に読んだ本では、サン・ジェルマン伯爵は歳をとらない。周囲が知らないうちにいつのまにか何年もどこかへ姿をくらますのだが、再び姿を現しても歳をとっていない。ヒマラヤへ行くらしい、と書かれてあったのを覚えています。サン・ジェルマン伯爵については調べてみると色々面白い物語があると思いますので、興味のある方は検索してください。
 
さて、シャレーの内部です。
広い間はなく、部屋のインテリは統一されておらず、どの部屋もそれぞれ特徴をもっています。
 
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ちょっと変わった雰囲気の階段。      

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天井には薔薇十字団のシンボルである大きな薔薇の花が見られる。

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レースを思わせる青と白を貴重にした部屋

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葉を伝わしたデザインは白い壁に緑が映えて可愛らしい。

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二階のどの部屋からもベランダに出られる。

シャレーの四方にあるベランダからは、遥か彼方に海や山頂のムーア人の城、そしてこんもりとした森の上に姿を見せるペナ城が眺められます。この小さなシャレーは、特に、とかく低い身分に対する周囲の蔑みも受けたであろう、妃エリゼにとっては息苦しい宮中生活からの逃避の場であり憩いの場でもあったことは想像に難くない。ドン・フェルナンドとエリゼはよくこのシャレーに留まったようです。

して見れば、二人とも異国の人です。エリゼは多言語を話すことができたと言われますし、ドイツ出身の彼女、きっとドイツ語も話せたことでしょう。オーストリア人のドン・フェルナンド2世とは言語の面でも意思にこと欠かなかったと思います。

さて、その後の二人はどうなったのかと気になるところではありますがこれは次回にしましょう。

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2014年8月31日 

何度か訪れているシントラ山中だが、この夏は「Chalet de Condessa d´Edla(エドラ伯爵夫人のシャレー)」を初めて足を運んでみました。

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Chalet de Condessa d´Edlanの入り口

「Chalet」はスイスアルプス等で見かけられる山荘のことです。 

「エドラ伯爵夫人のシャレー」はペナ城(こちらで案内しています)を取り囲む広大な森の中に造られましたが、1999年に山荘は火災被害を受けて、長い間放置されていました。修復され一般公開されたのは2011年、つい数年前のことです。
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エドラ伯爵夫人については面白い歴史話がありますので、本日はシャレーと森の案内とともにそれも一緒に取り上げてみたいと思います。

「エドラ伯爵夫人」と言うタイトルは夫人がドン・フェルナンド2世と結婚する際にもらったものです。ドン・フェルナンド2世は19世紀のブラガンサ王朝、ドナ・マリア2世女王の王配(女王の配偶者のこと)です。オーストラリア人でハンガリーの名門貴族出身のドン・フェルナンド2世は、1755年のリスボン大地震以来荒れたままになっていたペナ城に惚れこみ、今日の姿に造り上げたので知られています。

34歳の若さで亡くなったドナ・マリア2世の跡を継いだのは、後継者のペドロ王子がまだ13歳であったため摂政となりましたが、15年間寡夫を通した後、運命の女性、エリゼ・ヘンスラーという女性に出会います。
エリゼはスイス生まれで、アメリカ、パリで教育を受け、スカラ座でも歌ったことがあるオペラ歌手でした。

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エリゼ・ヘンスラーことエドラ伯爵夫人の肖像(wikiより)

1860年2月のこと、エリゼはポルトのサン・ジュアン国立劇場で、そして4月にはリスボンのサン・カルロス国立劇場でヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」に出演しました。見ていたフェルナンド2世はこの25歳の美しい歌手、エリゼにたちまちのうちに恋に落ちます。エリゼは歌手というだけではなく彫刻、絵画、建築など芸術にも博識で非常に教養のある女性でした。

ドン・フェルナンドはエリゼと正式に結婚し妃に迎えたいと言うのですから、さぁ、大変。国王と庶民、しかも歌手という身分違いのこの結婚にはどれほどの障碍があったことでしょう。これはエリゼに結婚前日にようやく「エドラ伯爵夫人」と言うタイトルが王の甥によって与えられたことからわかりますし、また、ポルトガル王家の歴史から忘れ去られていたということからも分かります。

しかし、ドン・フェルナンド2世、御歳53歳にて1869年6月10日にリスボンのベンフィーカでエリゼ・ヘンスラーとの結婚にこぎつけます。進歩的な思想ゆえか恋ゆえか。フェルナンド2世が手がけた異国風の不思議な様式のペナ城を見ると、自由な想像力を持ち合わせた王だったということが窺えます。

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シャレーのある森からはまるでお伽話にでも出てくるようなペナ城が見える。

さて、ペナ宮殿にいたのでは生きた心地もしなかったであろうエリゼは、やがてガーデニングという趣味を同じくするフェルナンド2世の協力を得て北アメリカやニュージーランドなど世界中から植物を集め土地の特質を生かしたペナ公園の造庭の乗り出します。この中には日本からの杉も植えられています。

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シダあり、

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岩あり。シントラ山中の岩には神秘性が感じられる。
 
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巨大な石を支えんとする我が妹夫婦と夫。遊んでますw

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森の中は散策できるように配慮されている。

次回はエドラ伯爵夫人のシャレー内を紹介します。

では、また!
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