2014年11月11日

歌、「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒでよく歌った歌である。この歌はまたわたしの「青春の彷徨」の歌とも言える。

数十年たった今でも、「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
  思い出しておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで おかにのぼれば~

アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。
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だきしめんと~で、こういう具合に↑笑

加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは既に森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。
大学進学を諦めきれず、グズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに、高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリス、アメリカ、果てはポルトガルくんだりまで流れ着くこととなってしまったわけではある。

spacesis19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時わたしは生まれて初めて札幌の豊平川のほとりで野宿とやらを経験するのでした^^;  川のほとりに腰を下ろし、夜の中、一晩中水の流れに聞き入って世を過ごしたのです。^^;  芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられまへんよ。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのである。 とにかく寒かったです・・・・

札幌には一月ほどいた。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして知ったのが「知床旅情」と「白い思い出」だったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「ほぇ?」と思ったものである。

ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに、彼によって作られ、北海道から広まった歌と聞く。やはり、であります。^^「地の涯に生きるもの」はずっと昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で
猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し氷の間から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ おれたちの彷徨を・・・

わたしが19の頃は、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。

葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。

2005年10月31日(月曜日)(1)
今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。

「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。

葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。
昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話したものです。

温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。
「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生が
いらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。

「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです^^
いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、宝嬢がこの役を仰せ
使うわけでして^^。 要はステージでのジェスチュアなのです。

奥様ともよくいらっしゃいました。
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左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。

毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、普段の伴奏はヨシさんのアコーディオンだけなのが、この日はドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生でした。

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1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト

左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。
何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で、間近にヒットラーに会った、と言うことに触れておられました。

今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。

知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと地上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!の意味)とビア杯をあげていることでしょう。
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2015年1月29日 

日本人ジャーナリスト拉致ニュースに気持ちが沈み、落ち着きません。
が、気持ちの向きを変えて、懐かしき我が青春の大阪時代、「あのころ、ビアハウス」を取り上げてみました。
どぞ。


アサヒを語るとき、この人なくして語れない。
塩さん。梅新アサヒビアハウス黄金時代の店長でした。
  
小柄で腰が低く接客がうまかった。笑うと目がなくなるような細い垂れ目でした。ホールを動き回っていても目立たないのですが、これがああいう客商売ではいいのでしょう。ホールのどこかに塩さんの姿を見ると、わたしはなぜかホッとしたもので、アサヒビアハウスの空気に見事に溶け込んだ人でした。

先輩歌姫の宝木嬢から、一緒に歌わないかと誘われる前は、若い身空で毎日のように一人ででもビアハウスに出入りしていたわたしを塩さんは何と見ていたでしょう。女だてらに、一丁前に常連客が占領する立ち席にいるわたしに、しょっちゅうこっそりビールを持って来てくれましたっけ。もう時効だから白状してもいいですよね?

アサヒビアハウス

梅新アサヒビアハウスは当時何度か雑誌TVの取材を受けました。上は1977年週間朝日2-4号から。アサヒ名物5リットルジョッキ回し飲み。前で手をたたいているのが塩さんです。アコーディオンのヨシさん、ドイツ民族衣装を着ているのが先輩歌姫「宝木嬢」、その横のピンクのドレスがわたし。

アサヒの歌姫バイトで留学資金を作っているわたしに
「ユーコ、今日はあそこへ行こう。」
と、9時半の閉店後に、お初天神を通った向こう側にあるお蕎麦屋で、「夕霧そば」を食べによく連れて行ってくれました。

アサヒビアハウス
   
いまでもこの老舗、同じ場所に存在することを確認しました。創業60年の「瓢店」です。 
ここの蕎麦は本当においしいのです。最後に出てくる蕎麦つゆがまたうまかった^^6時頃にオフィスを出てバイト先に直行ですから毎晩夕食抜きです。そのおいしい夕霧そばをかっぽぎながら(!)塩さんを目の前に語るは、熱きアメリカ移住の夢。いつも黙って頷きながら、目を細めて聞いてくれました。

さて、最初のエピソードでも触れましたように、アサヒでは演歌はご法度です。それでも例外はいたのでして、その一人が店長の塩さんだったのです。客入りが少ないとき、そして歌う常連もあまりいないときに、アコーディオンのヨシさんが「めんない千鳥」のイントロで塩さんを呼びます。

すると嬉しそうにツツーッとホールのテーブルの間を縫いステージへ向かって行く。ご本人は演歌ご法度を知っているわけですから、歌うのを楽しみにしているもののなかなか出番がないのです。

のっぴきならぬ事情で渡米半年後、ツーソンはアリゾナ大ESLコースを終えるや否や、日本に引き返し、しばらくの間アサヒでカムバックしたときには、塩さんはもうそこにおらず。それから再会まで26年の月日が流れていました。

「アサヒビアハウス」とネット検索したのがきっかけで、とある掲示板にたどり着き、かつてのアサヒの常連仲間の一人から塩さんへと連絡がつき、長い年月を経て塩さんから手紙が届いたときは、嬉しくて、次の帰国が待ち遠しかったものです。


後日談:2004年10月14日

塩さんとはこのエピソードを書いた後、かつてのビアハウスこと、内装がすっかり変わってしまい昔の面影がなくなってしまった「アサヒスーパードライ梅田」で、26年ぶりの再会を果たしました。

アサヒビアハウス

店長が偶然、昔ホールの主任をしていた人で、これも嬉しい再会でした。

アサヒビアハウス

80歳を超えて尚趣味の油絵を描き続けてらっしゃる。写真を見ると、んまぁ!ビアハウス時代とうって変わり、長髪を後ろで結わえたアーティストではありませんか。
この夜は、かつての常連さんたちがアサヒに集まってくれ、懐かしい懐かしい一時をみなで乾杯し、再会を喜びました。

アサヒビアハウス
後列右端に塩さん、その隣が我がオフィス時代の上司、板倉さん、赤いチロル帽を被るわたし、その後ろはマック、更に後ろが、アサヒ名物男の一人、杉ヤン。わたしの左に前中氏、これまたアサヒ名物男のコジマ氏。前列真ん中がアコーディオンのヨシさん、その左隣が我が先輩歌姫だった宝木嬢。
 
アサヒビアハウス
我が友ゴッチも初めてのアサヒビアハウス。

アサヒビアハウス
昔からの常連さん、前中氏。彼のハッピーな雰囲気は美味しいビールを飲んで歌って語らいあうこのアサヒなればこそ!

もう一度、こうしてみなさんと会えるだろうか、そんな思いで大阪を後にしたのでした。


更なる後日談: この26年ぶりの再会の1年後に、塩さんは83歳で永眠しました。

2005年年10月12日(水曜日)の日記

人生は嬉しいこと悲しいこと、日々その繰り返しです。
今回の放送(電話でのNHKラジオ出演)、大したことではないけれど、聴いていただきたい人がおりました。「あのころ、ビア・ハウス」のエピソードで登場する、我が友「塩さん」。それを聴かずに83歳の一生を閉じられました。この方なしには、アサヒ・ビアハウスは語れないと言っていいほど、わたしが誘われてバイトで歌い始めた頃は、梅新アサヒは、最高潮の黄金時代でした。

人前で初めて歌い、慣れなくて何度へんちくりんな失敗をしでかしたことか。そのたびに「気にせんでええのや。そこがまた素人っぽくてあんたのええとこやで」と渡米するまで力付けてくれたものです。

昨年帰国したとき、あの頃の仲間たちが集まってくれ、その塩さんとの連絡もとれ、26数年ぶりで再開しました。以後、ポルトガルへ戻って来てからも、時々電話をかけたり、あちらからかけて来たり。

 「今年はもう帰ってけぇへんの?」
 「塩さん、今年は無理よ。もいける娘が日本の大学に入ったからね。色々物入りです。去年に続けては帰られへんのよ。そのかわり、来年はなんとか頑張って行きます。だから、塩さんもがんばらんと」

塩さんとの会話はこの電話が最後になりました。

放送の連絡をしようと思った矢先に、奥様から知らせが入ったのです。ヘタクソで、あちこち誤字やらがあるわたしのエッセイではありますが、アサヒ・ビア・ハウスは塩さんとわたしの共有の思い出です。

あのなかに登場してくる常連さんもみな塩さんの時代からの人たち。しばらく前に、そのエッセイ集とあの頃の写真のページをプリント・アウトして、お送りしましたらとても喜び、何度も何度も読み返して往時を懐かしみ家人にも回していたとのこと。
 
報せを聞いてわたしはしばらく呆然としてしまいました。ビアハウスのあの独特な楽しい雰囲気を、わたしたち歌姫やアコーディオン弾きのヨシさん、そして常連仲間とともに、毎日当時のアサヒビアハウスを盛り上げた人です。
きっと塩さんは涙を流されるよりも、「アイン・プローズト!」と乾杯で送られることを喜ぶでしょう。
わたしは悲しまないことにしました。

めんないちどりの塩さん、Ein Prosit! お疲れさまでした。

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2015年12月13日 

この数日、夜遅くまでパソコンとにらめっこしていました。さすが今日は目が痛い。取り組んでいたのはこれです↓

アサヒビアハウス

1970年の後半からわたしが渡米するまでの数年間を、歌姫バイトで過ごした、わが思い出のアサヒビアハウス時代のエッセイと写真集を一冊のファイルにまとめました。

エッセイについては、ところどころ書き直したものの、元来がわたしの拙文です、これ以上、手の入れようがなし、はははは。写真集は一部撮り直したりしてみました。今日はこれをショッピングセンター内にあるコピー専門店に持ち込み、上の写真にあるように、見栄えがするように作ってもらいました。

アサヒビアハウス

アサヒビアハウス
 

一週間ほど前のことです。ブログのコメント欄に、アサヒビアハウスの歌姫時代の仲間の一人のご子息からのメッセージが入りました。お父上が今度、喜寿を迎えるゆえ、spacesisさんからメッセージをいただけないか、それをサプライズにしたいのだ、そうです。

喜寿を迎えるお父上とは、アサヒでいつも一緒だったアコーディオン奏者のヨシさんでした!ビアハウスでアコを弾いていながら、実はほとんで飲めないという方なのでした。

アサヒビアハウス

わたしの記憶にあるヨシさんは、いつもニコニコしている人でした。わたしが新しい楽譜を引っさげて、ほとんど音合わせなしの新曲を歌うとき、ステージで時々失敗、伴奏と合わなくなったりするのです。
そんなときは、二人とも顔を見合わせて、わたしなどはマイクを持ったまま目を丸めて「うげ!」です。

が、ヨシさんはひょうきんな表情で、その場をなんとか取り繕ってくれ、危機を切り抜けたことが何度かありました。そのヨシさんが喜寿かぁ・・・と、感慨にふけ、そうだ!これを送ってあげよう!と思いついたのが、長い間、放ったらかしにしていた、「あの頃、ビアハウス」のエッセイ集です。

ヨシさんは恐らくパソコンを使っていないことでしょう。
ご子息が「アサヒビアハウスは父の青春なのです」と、言っておりましたが、それはわたしにも同じことが言えます。

色々な大人たちにそこで出会い、共に歌を、ビールを楽しみ、アメリカ移住の夢を育んだ場所です。アサヒビアハウス梅田は、言うなればわたしの古巣なのです。

そんなわけで、この一週間ほど、ビアソングや、ビアハウスでよく歌われた第二次世界大戦前後の懐かしい歌を聴きながら、久しぶりにアサヒビアハウスのあの頃にひたっていたのでした。
アサヒビアハウス

エッセイ集にも写真を挿入し、カラーコピーで仕上げてもらいました。
え?誤字脱字はないのか、って? それを言っちゃぁおしまいよ(爆)

いえね、出来上がったアルバムを見直して、あちゃ~、番号がずれてるぞ、とか、タイトルが抜けてるぞとか、色々発見いたしまして^^;先ほどまで、訂正箇所に紙を貼り付けておったという次第であります。
ペンに入れてコピー店に持っていく前に、確認したつもりなんだが、やっぱりわたしの目は節穴でありました(笑)

これもわたしの愛嬌ということで、ヨシさん、かんにんしてくださんせ。

今回こんな風にアルバムにしたのは初めてですが、これをあと2冊作ってもらい、母親の人生の軌跡を子供たちに残そうと思いました。

昔と違い、写真はパソコンに取り込まれることが多く、何かあったときには全部失せる可能性もありことだし、親子で懐かしく語り合うのもパソコンを開けて、というのでは、いささか興ざめというもの、わたしはいまだにアナログ人間ではあります。

現在、「あの頃、ビアハウス」は、7編ほどで止まったままですが、今回、完了させましたので、順番にアップしてまいります。

では、みなさま、また。

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2015年12月15日              

♪ 一夜さ モンテカルロ 
しゅろ茂る 葉隠れに
君がかいな取りて 共に歩まん
一夜さ モンテカルロ
星降る空を見 
君が熱きくちづけに酔わん
      
これが、オペレッタ「狂乱のモンテカルロ」の中のヒットしたタンゴ曲、「Eine Nacht in Monte-Carlo(モンテカルロの一夜)」だと知ったのはずっと後年です。昭和8年製作とありますから、遠当然わたしは、まだまだこの世に生を受けておりません。しかし、これはわが先輩歌姫こと宝木嬢の持ち歌の中でも、わたしが好きな一曲なのです。

仮想の王国ポンテネロの巡洋艦長、のんびりと魚つりを楽しんでいるところへ、
女王陛下の地中海遊覧の命令が入ります。そんな窮屈なお役はご免とばかりに、
艦長はモンテカルロへ向けて出発してしまう。
女王は艦長を懲らしめるべく、先回りして妖艶な仇し女に変装、その女王に
まんまと引っかかり、二人は艦長室で一夜を明かすのである。
翌朝、パリッと女王陛下の制服で現れたのを見て艦長は仰天、巡洋艦から
ざんぶと海中にとびこみ、ハワイに向けて出向する外国船に乗るのだが、
女王さまも負けじと命令一下、巡洋艦をハワイに向けて追跡させるのである。

                         「世界映画名作全史戦前編」引用

     
さて、歌姫宝木嬢がこれを歌うと、必ずや曜日常連のI氏とお連れの女性が、歌に合わせてステージ前の小さなスペースで、タンゴをちょっとおふざけ気味に披露してくれる。二人の踊る呼吸は実にピッタリ。ベレー帽がトレードマークのI氏は当時70をとうに越していたと思うが、かくしゃくたるものであった。お連れの女性は女医氏と聞いた。
  
思うに、ダンス教室の帰りにビアハウスに立ち寄ってタンゴを遊びがてら披露していたとわたしは推測している。なぜなら、タンゴは上手なはずなのに、片足を挙げたりして多少おふざけが入っていたからだ。
                  
アサヒビアハウス梅田

1977年、女性セブン6月16日号に掲載されたアサヒビアハウス。アコーディオンのヨシさんと、マイクを持っているのはわたし。
「モンテカルロの一夜」「夜のタンゴ」が歌われると、必ず踊り出す、常連の中でもひときわ目立つカップルでした。I氏ももう故人です。

それぞれ強い個性を持つ 常連が多い、愉快な大人の集いのビアハウスでした。

モンテカルロはカジノとF1レースの国である。 1980年代にわたしは家族と一週間ほど滞在したことがある。ホテルはモナコ王室も利用し、F1レースが催されるときは、部屋のバルコニーから、いながらにして観戦できるというところだ。
しかし、それよりもモンテカルロでの忘れられない思い出は、そこで野外に大きなテントを張ったドイツのビアホールがあったことである!もちろんドイツからビアソング楽団が来て演奏しており、わたしは夫を説得して引っ張って行った。
  
バイトとは言え、ビアハウスで歌っていながら本場のビアソングを聴いたことなし、本場のビアハウスを見たことなしのわたしだったのである。初めて体験した本場のビアソング楽団!見知らぬ隣席の、どこの国の人とも知れぬ人たちと、テーブルをたたき肩組んで、楽団のビアソングに、そしてビールに酔いしれた。

わたしたちの「モンテカルロの一夜」だった。

きいてみますか?


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2015年12月18日      
  
誰でも、「世の中は広いようで狭いんだなぁ」と感じずにいられないような出来事に遭遇したことがあると思う。

今回はこの題である「雨」にまつわる、わたしの「世の中せまい」版です。6時半から始まる最初のステージを終え、そこで楽譜を片付けていた時だ。おそらく30代前半であろう、小柄な、丸メガネをかけてスーツをバシッと着こなした男性が、一輪の赤いバラの花を手に、ステージの壇を下りようと振り向いたわたしのまん前につっ立っていた。

「誠に恐れ入ります。わがボスが是非ともあなた様にわれらの席までお運びいただいきたいと申しております。ご迷惑なこととは思いますがいらしていただけないでしょうか。」と、そのバラの花を差し出すではないか。

当時、アサヒ・ビア・ハウスでは、歌姫やアコーディオニストが客と同席してともに楽しむ事を禁じてはいなかった。常連たちは客というよりむしろ友人とも言えた。
 
わが先輩の歌姫宝木嬢は、ゆえに、ステージが終わって後の休憩時間30分は、常連仲間とワイワイガヤガヤ、飲みながら食べながらのおしゃべりであった。客との話しに夢中になって、次のステージ時間が来、アコーディオンのヨシさんが舞台にあがり、音楽で呼ぶまで居座ってしまうこと、しばしばなのだった。
  
わたしは、と言えば歌い始めた頃は、たいがい自分の安物の白いギターを抱えては、調理場裏の間にある、せまいホールで歌を歌って次の出番までの時間を過ごしていたのである。

asahibeerhouse
「La Pioggia」を歌っていた頃

さて、男性の態度があまりにも丁重ゆえ、つい断りきれずに向かったその席は6、7人の男性グループの席だ。
「ご紹介いたします。こちらがわれらのボスです。」と紹介されたのは、薄暗いビア・ハウス内だというのにお構いなくサングラスをかけたままの、40代の男性で、彼もまた、スーツをビシッと着こなしていらっしゃる。
  
わたしが最初いぶかったのは、当時の、しかも、その年齢にしては珍しい肩までたらした長髪だった。
「なにか怪しい感じだぞ・・・」とは思ったものの、今更、退くわけには行かず席に座ってしまったのが運命の始まり、べんべんべんべ~ん。笑。
後に、われらが「ノンちゃん」と呼ぶことになる彼は、コピーライターなのであった。彼の周囲に控えていたのは、シナリオライター、カメラマン、照明係で、いんぎんな態度を決め込んで、わたしを誘導したのは、「ノンちゃん」の付き人、兼コピーライター志望者のワダちゃんである。

「ノンちゃん」のたっての願いで、リクエスト曲として覚えて歌わなければならなかったのが、1969年にイタリアのサンレモ音楽祭の「夢見る思い( Non Ho L'Eta)」で、優勝した16歳のジリオラ・ティンクエッティが、後に歌って大ヒットした「La pioggiaー雨」。
       
♪sul giornale ho letto che
   il tempo canbiera le nuvole son nere in chielo e
   i paseri lassu non voleranno piu
   chissa peruche
   
   空には黒い雲、天気は変わると新聞では言ってるけれど
   雨が降っても わたしの気持ちは変わらない。
   まったく変わらない
  
と、恋心を歌っている。
レコードを買い、イタリア語を耳で覚え、楽譜を探し出してビアハウスに持ち込み、アコーディオンのヨシさんに演奏を頼んで歌い始めたこの歌は、わたしの「リクエストが一番多い歌」になったのである。

 (続く)
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