2016年1月16日

♪vor der Kaserne      夜霧深く
or dem grossen Tor    たちこめて
 stand eine Laterne     灯りのともる街角に
 Und steht sie noch davor  やさしくたたずむ恋人の姿
 do wolle´n wir uns da wieder seh´n
Bei der Laterune wollen wir steh´n
 Wie einst Lili Marleen     いとしい リリー・マルレーン
 Wie einst Lili Marleen     いとしい リリー・マルレーン

若い人には馴染みが薄いかも知れないこの歌、「リリー・マルレーン」は第二次世界大戦中にナチへの反戦歌として戦場で歌われた。自らがドイツ人でありながら国策に反抗し亡命したドイツの大女優、マルレーネ・ディートリッヒの低い声でささやくように歌ったこの歌に戦場の兵士たちはつかの間の安らぎを得、望郷とともに国に残してきた恋人に思いを馳せたことであろう。

ビア・ソングやオペレッタを持ち歌にするには、私の声は低すぎた。出ない声は出ないのである。暗黙のうちにできあがったのが、「場内を盛り上げる魚浮名歌は先輩歌姫宝木嬢、そして、ひっそりがわたしの歌」。もちろんわたしの持ち歌全てがそうではないが、男性の声ならいざ知らず、一応女性の声ではあるので、低音でガンガンとリズムに乗って歌うというのも、多少の違和感は免れない。

場内の盛り上がりは7時半の「5リッタージョッキーの回しのみ」で始まる。 「ビア樽ポルカ」の曲にあわせてわたしたちはタンバリンを手に目いっぱい陽気に歌い、まず常連の一人がステージ前の丸テーブルの上に乗りあがり、ヨッコラショとばかりに大きく重いジョッキーを片手に飲み始め、そのうちにそれに続く飲み人の列ができる。
 
アサヒビアハウス
アサヒビアハウス梅田の名物、回し飲み。1977年「週間朝日」2-4号掲載

順番に回しのみして行き、最後に飲み干した人には商品が与えられ、そのすぐ後、全員総立ちでそれぞれのジョッキーを片手に
  
 ♪Ein Prosit Ein Prosi der Gemutlichkit!!
  (アインプローズィト アインプローズィト デル ゲミュートリッヒカイト=乾杯!)
   
と、歌いながら見知らぬ隣席の人々とグラスをあわせ鳴らすのである。 場内はこのときが最高潮。そんな後にちょっと一息、静かな歌としてリクエストの多かったひとつが、この「リリー・マルレーン」であった。

アサヒビアハウス

ドイツ語で歌い始めると場内は静まり返り、さほど上手でもないわたしの歌に人は耳を傾けてくれる。ほの暗いビア・ホールに流れる「リリー・マルレーン」はその哀愁あるメロディで熱気溢れる回し飲みやムカデ行進の後が、聴いてもらうのに抜群の効果があった。

わたしの大好きな歌である。

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2016年1月19日

takaragijou
アサヒビアハウス梅田時代の我が先輩歌姫宝木嬢
    
♪ 春すみれ咲き 春をつげる
  人なぜみな 春を憧れ待つ
  楽しくもなやましき春
  愛の夢にいつも 人の心甘く酔わす
  そは すみれ咲く春

 すみれの花咲く頃~ 

ご存知、「宝塚歌劇団の歌」として広く世に知られている「すみれの花咲く頃」のイントロです。おそらく誰もがこの歌を耳にした記憶があるのではないでしょうか。宝塚歌劇「パリゼット」の主題歌として取り上げられ流行しましたが、もとはといえば、オーストりアの歌がシャンソンとして歌われていたとも言われます。

このイントロで「すみれのは~な~咲く~ころ~」と歌が始まる時には、ビアハウス場内がみな一斉の合唱になるのでした。春を待ち焦がれる者と、遠き春をしのぶ者と、馳せる心は皆違うだろうが、それぞれの思い入れがこの大合唱からうかがわれるのでした。

「アサヒ・ビアハウスは人生のるつぼである」とわたしは言う。
ここは恋あり歌ありの人生劇場で、ビアホールを訪れる多くの客を目の当たりにし、少なからず数編の恋物語をビアハウスで読んだ感がわたしにはある。

ここで出会って別れた人たち、出会ってハッピーエンドに結ばれた人たち、苦しい恋をずっとここでひきずった人たち。さまざまな歌の合間合間に、アサヒ・ビア・ハウス人生劇場の登場人物たちが思い出の中でフラッシュ・バックするアサヒビアハウス梅田はその魅力で未だにわたしを捕えて放しません。

宝木嬢が歌う「すみれの花咲く頃」は、素晴らしかった。

わたしよりずっと年上である彼女は当時すでに40代半ばを過ぎていたと思う。その独身の彼女と一回り以上も年下の男性、マックとの恋は周りをドキドキ冷や冷やさせながら、数年間は客たちの話題をさらっていました。

ビアハウスのバイトが終わると、わたしはその二人と連れ立って、梅田地下街あった、京美人の姉妹が営む小さなカウンターの食事処に腹ごしらえに誘われて行ったことも何度かあります。

アメリカ移住の夢を放り出し急遽アリゾナから日本に帰国し、その後、ポルトガルに嫁いだわたしは、2度ほど、一時帰国中、堺にある宝木嬢の家に、幼児の息子を伴い数ヶ月滞在しながら、ビアハウスでカムバックしては歌っていましたが、この時期、宝木嬢と恋人マックが同居している中に加わったのでした。

少し面白い同居人構成ではありましたが、宝木嬢の自宅は、上空から見ると、ひしめき合った民家の中で、そこだけ緑がこんもりとしていると言われるほど、結構広い自然体の庭があったのです。そして、その庭たるや、何匹もの猫たちが住人でもありました。ネコ好きのわたしも息子も大いに数ヶ月の滞在を楽しんだものです。

恐らく未だに同居していると思われるのだが、あれから四半世紀以上を経た今、果たして宝木嬢とマックの恋の結論はどう出たのだろうか、と、春まだ浅い頃には、この歌に思いを馳せるのです。
  
「すみれの花咲く頃 今も心ふるうよ
忘れ君 我らが恋 すみれの花咲くころ」

この恋物語だけは、わたしの中で未完なのです。

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2015年1月10日

「JSTV」といって、海外で日本のテレビ番組の一部が見られるシステムがあります。
それを受信するためには、普及し始めた頃、パラボラアンテナ設置では足らず、特殊なアンテナを取り付け、さらにカードを差し込む機械を購入しなければならなかったのです。その上、受信料が20年ほど前で月々35ユーロほど。それはポ国の物価からすると、かなりな値段になるのでありました。

見たい気持ちは山々なれど、パソコンを使い始めたおかげで、今ではネット上で新聞は読めるし、ポルトガルに住んでいながら、あまりに日本一辺倒というのでは、現在の自分を見失いがちになることも考えて、我が家ではそのTSTVを導入していません。

そんなわたしのために、ポルト市に滞在していて親しくなった、とある企業関係の知人がわたしの好きなNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」を録画して送ってくれ、月遅れになるのですが楽しみに見ていました。

さて、とある夕べ、娘と二人、日本から届けられたそのビデオテープを見ておりました。
中島みゆきのヒット曲「地上の星」でオープニングです。

今回送ってもらったビデオ最初のエピソードは、瀬戸大橋を建設するために奮闘した男たちの話でした。 「いい話だね。もうひとエピソード、見ようか。」などと言いもって、少し遅い時間ではありましたが、続けて次のエピソードへと進めました。わたしも娘も、見始めると止まらなくなってしまうのです。

二つ目のエピソードは、1970年に大阪で開催された「万博会場」に入場する、その数5千万人と予測された入場客の警備の指揮をとった男の物語。

「おお!この頃わたしは20歳もそこそこで~」などと言いながら、始まる画面を見ていたら・・・出てきたその男の人の顔を見るなり、「あれーー!こ、こ、小だてさんや~!」。実名出しちゃいましたけど、いいですよね、テレビにも出てましたし。素っ頓狂な声をあげたので一緒に見ていた娘がびっくりです。
      
そうです、アサヒ・ビアハウス時代の常連客のひとり、その人でした。いやぁ、驚きましたよ。 そう言われて見れば、番組のなかでも紹介していたように、確かにアサヒでも時々「村長さん」て呼ばれていましたっけ。元々は新潟県警のお人だったのですね、知りませんでしたが、今思えば東北なまりがしっかとありました。

アサヒ・ビア・ハウスはお酒を提供する場所にしては、珍しく「その道の人」と思し召す客が入って来ませんでした。その手の人がうっかりビアハウスに入って来ても、場違いなことにすぐ気づき、そそくさと出ていくのでした。

歌姫としてバイトし始めるときに、店長の塩さんが「店に変な客は来ないから安心していい」と保証してくれましたが、まさにその通りでした。そのはずです。アサヒビアハウス梅田には、曾○崎署関係者が毎日のように入れ替わり立ち代わり来ていたのでした。
     
ビデオを見終わってから早速に歌姫時代のアルバムを持ち出してきては、娘に「ホレ、見てごらん。これ、わたしと一緒に写っている人、さっきテレビに出てた人でしょ?」と、自慢たらしく話したのでありました。

アサヒビアハウス梅田
小館氏、歌われたのは多分この時が最初で最後だったように思います。送別会の席でした。

世の中せまい!明日はあちこち、ポルトの友達に電話してやろっと。エピローグの歌「ヘッドライト・テールライト」を心で歌いながら、そう思ってホクホク顔で床に就いた夕べでありました。
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2016年1月6日

「ほな、トクさん、お先に例んとこ行ってますわ。」

一日の勤務が終わって、帰り支度を終えた若い営業マンのザワちゃんが、オフィスのドアを開けながら最後に残っていたバッドチーフに声を言った!帰り仕度が終わってデスクを離れかけていたわたしは、「あ!ザちゃん・・・」と一瞬思ったが後の祭り。

わたしがステージに立つその日は、オフィスの所長とバッドチーフを除いて、皆で申し合わせ、ビアハウスで落ち合うことになっていたのである。

「例んとこて、どこや?」とバッドチーフがザワちゃんに問う。
「ゆうこちゃんが歌ってるとこですがな」

まな板の上の鯉とはこのことなり。わたしは二の句もつけず固まりましたです。ザワちゃんに口止めするのを誰もが忘れていたのだ。これでバレてしまった。わたしが歌姫のバイトをしていることが、である。
アサヒビアハウス
グッドチーフとオフィスの仲間たち

アサヒビアハウス
ザワちゃんと我が親友みちこ

当然のことながら、その夜はグッド、バッド、両チーフがビアハウスにお目見えし、盛り上がったのはいいが、わたしは覚悟しなければならなかった。原則としてはどこの会社もバイトは禁止である。バッドチーフの口から、バイト歌姫の噂が本社に入る前に、何か行動を起こさなければならない。

その数年前、ローンを組んでケンブリッジ語学留学のために、社員としてはおそらく初めて、一ヶ月の休暇をわたしが会社に申し出たときに、力添えしてくれた本社の専務に事情を話した。

「会社の給料だけでは、自活しているわたしに、アメリカ留学の資金はとても貯まりません。アメリカ留学がわたしの夢なのです。」本当を言えば、留学ではなくて「移住」なのであったが。

それからしばらくして、ある日の夕方、ビアハウスでマイクを持って歌っていると、東京本社から、その日、大阪オフィスに出張で来ていた件のボスの姿を客席の隅で見かけた。逃げも隠れもできない。もう迷うことはないと観念して、わたしはステージが終わるなり、ボスの席まで挨拶に出向いたのは言うまでもない。
 
以来、オフィスの同僚たちはもちろんのこと、時には大阪へ出張してきた本社からの上司たちの顔が、ホール内で時々見られるようになったのである。

本社からは何の沙汰もなかった。思うに、あの楽しき愉快なビアハウスの雰囲気が彼らをも魅了し、ここならいいか、と、わたしをこっそり見逃してくれることになったのではないかと、ずっと勝手に思っている。 わたしのアメリカ行きはこの数年後になるのだが、この事件の発端となったおっとり者の「ザワちゃん」は、後にわたしと夫の婚姻届の際、証人となり、そして彼とは、下記に引用するように、アメリカで奇遇なエピソードが待っていたのである。

いや~、人生ってまったくもって面白い!

ここから引用:「アリゾナの空は青かった」エピソード5:おどろ木桃の木

アリゾナ大学は、ソノラ砂漠にあるツーソンの町に位置する。当時は考古学、天文学でも世界に名を馳せる大学だということをわたしは知らずして留学したのであった。ツーソンは、北へ160キロのところに、州都フェニックスがあり、ソノラ砂漠を南へ100キロほど突っ切ると、やがてメキシコ国境、ノガレスにぶつかる。

わたしの大学での第一日目は、ESLクラス編成の試験であった。大学のキャンパスはNorth 2nd Ave,から近く、徒歩で7、8分の距離である。登校初日の朝、シャワーを浴び、すぐそばにあるマーケットで前日買い入れたコーンフレークスにバナナの輪切りと牛乳を加えての朝食を追え、8時過ぎ、わたしは「いよいよ始まるぞ!」と興奮で高まる胸をおさえ、キャンパスに向かった。

広いキャンパスの入り口近くの一角に、ESL(English as a Second Language)センターの建物はあり、そこの数箇所の教室で、クラス分けの試験である。留学生はメキシコ、ブラジル、ベネズエラなどの南米からのみならず、ヨーロッパからも来ていた。当時はオイルマネーを使ってのアラブ諸国からの留学生のなんとまぁ多かったことか。

受験票を渡されてウロウロと教室を探し回り、無事時間いっぱいに試験を終えて廊下に出てみると、各国のグループがかたまってお互いを紹介しあったりして廊下は人だかりでにぎわっていた。
すると、「あ、あれぇ~、まさか・・・まさか・・・」

日本人グループの中に見覚えのあると思われる顔が見えたのだ。そんなはずがあるわけもない、と疑惑の面持ちで、念のためにとかたまっているその日本人のグループに、わたしはそぞろ近づいて行ってみた。

「ほ、ほ、ほ、ほんざわちゃん!!」
このときの驚きたる!

本沢ちゃんとは、 大阪のオフィスで退職するまでの6年間、いっしょに仕事をしていた営業マンで皆から「ザワちゃん」と呼ばれていた同僚なのだが、その本人が目の前にいるではないか!

なんでやの?なんでざわちゃんがここにおるん?おどろき桃の木山椒の木とはこのことなり。あまりの驚きに人目も構わず右手人差し指で彼を指し、「ザ、ザワちゃん!」と日本語で叫んでしまったわたしでありました。

渡米前、12月のボーナスが出るや即座に退職し、それまでバイト歌姫として歌っていた大阪梅新アサヒビアハウスの仲間たちに盛大に見送られ、大阪のアパートを引き払って後、渡米するまで横浜のおば宅に居候して、羽田空港からわたしは飛び立って来たのである。ザワちゃんはと言えば、わたしのすぐ後に退職し、日を違えて渡米とのこと。

しかし、広いアメリカやのに、なんで、なんで同じ大学やのよ・・・
それをさて置いても、一緒に会社で騒いだ間柄なのに、なんで一言も「ボクも同じとこに留学すんねんで~」と言わんかったのやよ・・・

と、このように、大学第一日目からして、波乱万丈な留学生活は幕開けとなったのでありまする。
こんな偶然てあり?
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2016年1月5日 

わたしの本職ではなかったが、アサヒ・ビア・ハウスでは通算6年ほども歌っていたことになろう。始めのエピソードにもあるように、わたしはそこに出入りして常連になり、ある日、そこの名物歌姫である宝木嬢と店長にスカウトされたのである。
日中は東京に本社を持つ、堂島のオフィスで9時から5時まできちんと仕事していたのであります。

Ofice
1970年代、パソコンなしのオフィスのわたし。誰が写真を撮ってくれたのか、記憶もなし^^;

オフィスは所長を筆頭に、営業マンが9人、顧問兼翻訳仕事のB 紳士。お湯のみ茶碗にいつもお酒が入ってる経理のおっちゃん。アル中でした。ですから、おっちゃんの帳簿の字を見ると、通常の数字とちがってそれが微妙に波打っているのでありました。
 
それに、事務関係処理のわたしと大阪生まれのわたしの同僚である女子が二人と言う、スタッフである。堂島のビルの一室、オフィスはこじんまりとしていて、みな会社の同僚と言うより仲間のような雰囲気で、仕事だけに限らず、会社が退けた後も皆でよく連れ立っては飲みに遊びに出かけ、このアサヒビアハウス梅田に巡りあったというもの。

さてさて、そのオフィスの話なのだが、どこにもいい奴わるい奴はいるものです。
そんな小さなオフィスでも若いチーフが二人おりました。二人とも当時30代のおない年である。ワイワイがやがや、飲む席で皆で
騒いで酔いも回ってくると、どうしても出てくる日頃の仕事の愚痴話。

これがある日、前日の愚痴話の内容が、どうもそっくりそのまま所長の耳に筒抜けになっているらしいことに、わたしたちは気がついた・・・
 「おかしいぞ」とあいなり、所長も退社した、とある夕方も夜に移ろうかと言う時刻、その場にいた全員で、まず、隠しマイクが設置されていないかどうか、オフィス中を探し回ったのである。
 
だれじゃ~~、そんなアホなこと考え付いたのは!あんなちっちゃなとこで、そんなもん、あるわけありません、ホンマに^^;と、後でみなが思ったことではあった。
                  
あれこれ思案した末、我らがたどり着いた結論は・・・二人のチーフのうちの一人が隠密だったのだ・・・

「グッドチーフ・バッドチーフ」はこうして二人の上司にわたしたちが授けたニックネームであった。 以後、わたしたちはバッドチーフ同席時には、愚痴話は無しにしたのでありました。

それが「ビアハウス話」になんの関係があるのかって?あるんですよぉ、これが。(笑)

というので次回に!
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