2017年2月9日 
記憶の中から取り出せる母の思い出が凝固したような一枚の写真がある。

mother

数年前に帰国した折、投宿先にしていた妹宅の机の上に飾られていたものだ。こんな写真があるとは思いもよらなかったものだから、それを目にした時はちょっとした驚きで、しばらくこの写真に見入ったのであった。母がよりかかっている橋の欄干からすると、写真は弘前公園であろう。

手前で目を伏せてしまっているのが妹だ。わたしは母の横で愛想もなく突っ立っている。これが、やがて近所のガキ大将になってチャンバラするがごとく棒っきれを振り回し、ビアハウスの歌姫、アメリカ行きの青春時代を経て、ポルトガルに定着した自分であろうかと、この写真からは少し考え難いのである。いったい誰が想像したであろうか。だから、人生は面白いと言える。

この写真を目にすると、決まって我が脳裏にこの歌が聞こえて来、幼い頃の思い出がとても懐かしくグルグル巡ってくるのである。




随分前のことになるが、知人が好意で送ってくれた本に斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」というのがある。その本の一ページ目を開くと、
     
    「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、
     歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ガ浜」

と、眼に飛び込んできた。おお、知ってる!ご存知、白波五人男の一人、弁天小僧菊之助」が歌舞伎
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)、浜松屋の場」での語りの部分である。興奮で高鳴る胸おさえながら、ザーッと急いでページを繰ってみると、あるわあるわ、七五調の語呂良い歌舞伎がらみ浪曲がらみのセリフが。

 「赤城の山も今宵を限り 生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て
  国を捨て、可愛いこぶんのてめえたちとも別れ別れになる門出だ~」
                   (国定忠治 赤城山)

 「旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名代なる東海道、名所古跡の多い
  ところ、中に知られる羽衣の、松と並んでその名を残す、海道一の
  親分は清水港の次郎長の~」
                   (森の石松 金毘羅代参)
                   

わたしはこれらのセリフの面白さと懐かしさに引き込まれ、「ねね、ちょっとおいでよ」と娘を傍らに呼び、これも覚えてる、これも!と大声出して一気に読んだものである。

これら18番のセリフをわたしは学校の教科書で覚えたわけではない。更に言えば、歌舞伎など生まれてこの方、まだ一度も観劇したことはない。子供のころからこれらのセリフをわたしは母を通して耳にし、自然に覚えたのだ。

母は大正生まれであったが、当時の人にしてはモダンでわたしたち姉妹を連れては、よく外国映画を見に行ったものである。しかしその母は任侠物も好きだったようで、機会あるごとにわたしたちを前にしては朗朗と詠んだものだ。幼かったわたしはそれを耳にして覚えたに違いない。

尋常小学校4年を出ただけにしては書物が好きな人であった。晩年まで枕元に文庫本を目にしない日はなかった。読んでいた本は、池波正太郎、柴田錬三郎、平岩弓枝、藤沢周平と時代物がほとんどで、母は言ってみれば、好みが和洋折衷の人だったのだ。

サウジアラビアのジェッダに赴任することになった妹夫婦の家族と長年同居してきた母を厳しい気候条件の砂漠の国に連れて行くことはできないと、当初は妹たちが帰国するまでポルトガルのわたしたちと住む予定になっていた母だったが、渡航前になり「異国で死ぬのはイヤだ。」と言い出して結局学生二人の甥たちと所沢の家に残ることになった。

しかし、それが軽痴呆症の引き金になったようである。それまで妹夫婦の4人家族とワイワイ一緒に生活してきたのが、家にいるかいないか分からないような甥たちとの同居である。突然ひとりぽっちのようになってしまったのだ。80才になっていた母にこの孤独感はさぞかし堪(こた)えたに違いない。

当時大学院に通っていた甥からある日ジェッダの妹に、「おばあちゃんがおかしい。」と連絡が入った。公務員の規定で、またサウジアラビアという国柄故、すぐには出国できなというので、急遽わたしが一時帰国することになった。

それまでわたしが子供や夫を伴って帰国する毎に長い滞在をさせてくれ、ワイワイガヤガヤの思い出深い所沢の妹宅は、初夏だというのに冷え冷えとしていた。妹夫婦がジェッダに赴任してたった4ヶ月後のことだった。

母は夏だというのに、まだ冬の服を着たままでちょこんとリビングのソファに座って見るともなしにテレビを見ていた。その時初めてわたしは母に何が起こったか知った。

もはやポルトガルに連れて来るわけにもいかず、妹夫婦も赴任したばかりで帰国もならず、それでも急いでわたしの後に1週間の休暇をとり帰国してきた妹夫婦と3人で話し合った結果、母には「下宿」と称して軽痴呆の人だけ(自分の周りのことができるという条件がある施設)を受け入れる施設に入ってもらうことになった。

急なことだと言うのに施設が見つかったこと事態が幸運であったと思う。施設は幸い妹宅からそう遠く離れていないところにあり、入居する前に母も連れて行き、入居者20名くらいの施設の中を案内してもらい、「ひとりぽっちだど寂しくなるし、わたしたちも心配だからね」と母を説得して入居してもらうしかなかった。

妹夫婦が先にジェッダに帰り、母の引越しはわたしと甥とですましたのだが、いよいよわたしがポルトガルに帰る段になり、それまで毎日訪問してきた施設に母を最後に訪問した日のこと。

「大丈夫。わたしもしょっちゅうおばあちゃんの顔を見に行きますから。」と親切にも車で施設まで一緒に行ってくれたお隣の奥さんの車に乗り込んだのだが、玄関前まで出てきて、小さな姿でわたしに手を振る母を見て、お隣の奥さんが運転する側でわたしは溢れ出る涙を何度も何度もぬぐった。

母は施設に2年ほどもいただろうか、2003年2月9日にみまかった。今日は母の命日である。母の葬儀は、読経のない花と音楽の葬だった。費用の高い戒名はいらぬと同居していた妹の話では、自分の葬儀はそのようにできたら嬉しいと洩らしていたようだ。

わたし達は市の斎場の一室を、そして、棺の周りをたくさんの花で飾り、母の好きだったタンゴの音楽を流し続けた。蒼空、黒い瞳、ブルータンゴ、奥様お手をどうぞ、真珠採りのタンゴ・・・それを聴いていると、パートナーなしでも、まるでそれがいるかのようにわたしたちの前で一人踊っていた母の姿が思い起こされる。

近所や行きつけの店の人達の間では、ちょっとおしゃれで元気のいいおばあちゃんとして知られていたようで、わたしたち家族の他にそういう方たちが集まって母をしのんでくれた。

間もなく今年も、所沢の妹宅のすぐ側にある母が愛した桜並木の花が咲き始めるだろう。自然はこうして一年をぐるりと経て、再び芽吹く。人間の生は、と思い巡らすとき、わたしは遥かな宇宙の神秘に心を馳せずにはいられない。肉体が滅びた時にわたしたちの生命の種は終わるのだろうか。それとも子孫を経て巡り巡って再び植物のように芽吹くのだろうか。

Maktub。「全ては書かれてある」というアラブの言葉にあるように、宇宙の全ては、大いなるものの手による法則で始めから定められているのだろうか。

母がみまかって今年で14年になる。待てよかし。母よ、やがて我もまた逝かん。

本日の記事は過去に書いたものに少し手を入れました。
長い拙文を読んでいただき、ありがとうございます。

では、また!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年2月7日 

雨が降るやも知れぬという曇り空の下、昨日の日曜日は、4人仲間の定例昼食会があったのですが、待ち合わせ小一時間ほど前に家を出て、久方ぶりにポルトの街にカメラを向けてみました。

今日は、レプブリカ広場(Praça da Repubulica)から始まる「Rua de Almada(アルマーダ通り)」の紹介です。一昨年までわたしは毎土曜日、Lapa 教会前にあったYY日本語塾の授業を終えるなり、次の日本語授業が待ち構えていた市立図書館へ向かうのに、この道を車で通るのが習慣でしたが、起点から805mの長い坂道を歩くのは、今回が初めてです。

18世紀半ばに開通したアルマーダ通りは、ポルト中心がフェルナンディーナ城壁(Muralhas Fernandina)に囲まれていた当時、城壁外で一番最初の大きな通りだったと言われます。

余談を言えばフェルナンディーナ城壁の追っかけは、20年ほど前からしたいと思いながら、まずは街の勉強からしようと言うので、少し資料を集めながらも今日までそのままになってきました。自分としては、そろそろ、城壁調査を始める時期だと思っています。

さて、写真でご覧のように、坂道の向こうにはドウロ川を挟んだ隣町ガイアの街並みも窺えます。

Rua Almada Porto

この通りのハイライトは、入って直ぐ左にある、通称ぺスターナス礼拝堂「Capela dos Pestanas」です。一目見て以来ずっと興味をもってきたのですが、こうして取り上げるのは初めてではないかな?

「Pestanas」は何かと言うと、「まつげ」こと「pestana」の複数。礼拝堂の名前としては、少しひっかかったのですが、以前この前を素通りしたときに、「面白そうなカペラだ」と言うわたしに、夫が「病院の同僚の一族のだ」との答えが返って来、「へぇ、すごいのね」と思ったことがありました。ひょっとすると、これは一族の名前からとったのかも?と、夫に今回きいてみましたら、案の定、同僚の苗字はPestanasなり。正式名はCapela do Divino Coração de Jesus。

rua almada Porto

正面から撮ったネオゴチック建築のぺスターナス礼拝堂。下は裏からの撮影です。後ろから見た感じからですが、内部は八角形になっていると予測します。

Rua Almada Porto

通称名「ぺスターナ礼拝堂」の由来を調べてみました。実は礼拝堂のすぐ横、アルマーダ通りは始まる角にある建物が、かつては一族の住まいでぺスターナ邸宅(Palacete (小宮殿、邸宅の意味) dos Pestana. )↓

Rua Almada Porto
この画像はWikiより。後ろに礼拝堂が見える。

1974年4月25日のサラザール独裁体制を倒した「カーネーション革命」の際に、暴徒たちによる破壊を受け、その後、修繕されて現在は市が所有しています。写真右の建物がそれです。

Rua Almada Porto

向かいに見える黄色の建物は、「Casa das Aguias(鷲の家)」。屋根には鷲の像が見られます。現在は弁護士会の建物になっているようですが、かつては富豪の邸宅でした。

Casa das Aguiasは、その美しい天窓で過去に拙ブログでとりあげています。よろしかったらどぞ。

美しいポルトの天窓

本日はこれにて。よろしかったら、ランキングクリックをお願い致します。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年2月3日 

bebyclothes1.jpg

トップにこんな写真なんぞを載せると、「spacesisさん、ついにお孫さんが!」と来そうです(笑)

そうではなくて、これらのベビー服は赤ん坊の我がモイケル娘に着せた物で、ほとんど新品に近いのでずっと今日まで取ってきた衣服の一部です。写真は全て一歳未満の時に着せた服です。

それを今、こうして懐かしんでお蔵入りだったのを引っ張りだしてきた、という訳ではありません。

少し前に、日本へ行くのが目標だった日本語の生徒、H君の話を書きましたが、日本へ行くとなると色々物入りなのと、できるだけ渡日前に散在しないようにと、今わたしが使っていないキャリーバッグの寄付を申し出たのです。それを渡すために中身を取り出したら、出てきたのがこれだったということなのです。

「ひゃ!なんてちっちゃい、なんて可愛い!」と並べて、思わず写真を撮らずにはおられませんでした。子どもたち二人がそれぞれ所帯を持ったら、手渡そうと手元に置いてきたアルバムがあります。

album

アルバムは写真入の成長の記録です。息子、誕生時の体重は3300g、モイケル娘3200gとあり、どちらも問題なく生まれ、大病することなく成長してきました。息子の記録は比較的細かにとってあるものの、6年後に生まれた娘の記録は、二人の子育てにおおわらわで、いい加減になってしまいました。

内容はどんな風になっているかと言うと、こんな感じで、初めての誕生パーティーのお客さんやもらったプレゼント、それに体重、身長の記録、初めての言葉、初めての友達(娘の場合は、当時買っていたネコ、息子は犬のクラウディウ)などなど、この記録を満載に持っていけなかったのが、今にして見れば少し残念です。

album_joao.jpg
息子のベビーアルバム

保存するものに関しては、どちらかと言えばアナログ思考のわたしです。かつて補習校で、年に一度発行する学校の写真アルバムを、CDに切り替えようと言うデジタル提案がもちあがりました。予算節約と編集の手間がかかるということ、それに、CDの方が現代的であるというのが理由でしたが、子どもの記録をパソコンで見る老いた自分の姿を想像するにつけ、なんだかなぁと、大いに反対したことがありました。

写真そのものならば、手近にあるアルバムを開けばすぐ見られるのに、CDに収めると、まずパソコンを開かないといけない、そして、パソコンの前でアルバムを見るというのも、感慨がいまいちやなぁなんてわたしには思われたのですが、時代の流れに適わず、結局、多数決で押し切られてしまったものです。

書棚に並んである何冊もの補習校の写真アルバムは、折々手に取り開いて懐かしんだりするのですが、パソコンは毎日のように開くとくのに、CDに収められた写真集は、正直なところ、どれもまだ一度とてパソコンに挿入したことはなく、薄いケースに入ったままです。人の好き好きによるのでしょうか。

こんなにもちっちゃな靴下、こんなにもちっちゃな服、そしてベビーアルバムを開きながら、息子よ、娘よ、思えば無事に大きくなったものです。娘は昨秋、ようよう片付きましたが、後は、意外と癖の多い息子、愚や愚や、汝をいかんせん。おーっと、字違いなり!虞や虞や汝をいかんせん、でありましたっけ(笑)

モイケル娘よ、これは、項羽と劉邦の中国楚漢戦争の折、劉邦の漢軍に囲まれた「四面楚歌」の最後の場面、別れの宴席で、心残りになる愛妾の美女、虞美人と愛馬の騅(すい)を思い、「虞や虞や、お前をいったいどうしたらいいものか」と涙した項羽の歌なのであるよ。

断捨離を始めたと言いながらも、捨てられないものがあるのであります。

joaomariana1.jpg
人からは駄作と思われようと、我が人生の傑作なり(笑)

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは!



にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年1月29日 

間もなく受験シーズンがやってくる日本ですが、この時期になると決まってモイケル娘が日本の大学受験を目指して学業と父親のゴーサイン獲得に格闘していた日々のことが思い出されます。

長年、拙ブログにおいでの方々はすでにご存知のことですが、夢を目指して彼女が日本へ行ってから、早や13年になろうとしています。「日本へ行こう!」と娘が決心したであろう中学3年から、最終的に早稲田大学への入学を果たし一人住まいを始めるまでのいきさつは「ズッコケ親子の受験戦記」(後記)にて記録していますが、時々、一人クスクス笑いながら拙文を読み返しては、娘の夢の実現を目指して、いつの間にか自分も彼女とともに煌いていたようなあの頃を懐かしんだりしています。

もしあの本に出会っていなければ、どんな風になっていただろうか、もしかすると父親を説得できず、モイケル娘はおっかさんのわずかばかりのヘソクリを持って、強引に家出の形をとって日本へ飛んでいたかもしれないなぁ、と思ったりしています。それはそれで面白い展開になり、物語性に富むのですがね。

さて、金欠病の親子がいかにして受験、入学した場合の学費、日本での生活費を工面できるかと、暗中模索のひと夏に偶然出会ったのが、たそがれ親父さんこと、吉本康永さんの本でした↓
tadadedaigaku

出会いについては下記エッセイ「ずっこけ親子の受験戦記」のエピソード6「運命の夏の出会い」」と7「ただで大学を卒業させる法」に書いております。

ずっこけ親子の受験戦記」  

娘が無事合格し、すっかり有頂天のわたしは調子付いて、件の軽薄な「ズッコケ親子の受験戦記」なるエッセイを書くに至ったのですが、彼の本へのお礼を兼ねて、著作権の関係上、吉本氏の著書写真と文引用の許可お願いのメールを厚かましくも送ったのでありました。氏は快く承諾してくれ、「お互いのサイトリンクをすること」が条件でした。ついでにメールの返事には、「吉永」ではなくて「吉本です」と書かれてあり、あちゃ~~、名前の「吉本康永」の最初と最後をくっつけて「吉永様」なんてやっていた、粗忽者のわたしでした。

氏は「たそがれ親父」のハンドルネームでホームページ「たそがれ親父の人生ノート」を運営しており、そのような訳で右の我がリンクサイトに名が上げられています。2006年のことでした。

以来、時々、サイトを訪問していたのですが、それが2008年頃だったでしょうか、突如「お知らせ」と称して、

管理人の個人的事情により休止中です。
休止しましたた4月以降何度か皆様から病気でもしたのかとメールによる
お問い合わせをいだだきましたが管理人はいたって元気であります。
残念ながらはっきりとした再開の目処はたっておりませんが
機会があればまた再開したいとも考えております。

との告知があり、新しい本の執筆か、もしくは塾講師の仕事が忙しくなったのだろうな、くらいに思っていたのでした。

そうして月日が流れ、実はつい2日前に久しぶりに氏のサイトを訪れてみたのですが、相変わらず更新はなく、ふと思いついて、グーグル検索を試みました。飛び込んできた最初の文字が「たそがれ親父さん、逝去」 えー!嘘やん!しかも亡くなられたのは2011年と、もう5年も前ではありませんか!ああ、なんと言うこと。

たそがれ親父さんは「せどり」の仕事をしていたようですが、わたしにとり初耳の言葉です。調べてみると、「せどり」とは「競取り」と書き、主に「古書店で安く売っている古書を買いとり、ネットで売ること」とあります。その世界ではかなりなの知られた人だったとのこと。プロフィールを拾ってみるとわたしと同年、1947年生まれでした。

存命だと思っていた人が実は既に鬼籍に入っていたという話は、近頃耳にすることが多くなってきたような気がします。自分のをも含めて、人生は一寸先は見えないものなのだ、と知らされたことではありました。

最後に失礼ながらネットにあげられている著書「大金持ちも驚いた105円という大金」にあるプロフィールを。

■吉本康永(ヨシモトヤスナガ)1947年生まれ。東京外国語大学中退。現在群馬県の予備校で教鞭をとっている。歯に衣着せぬ物言いに隠れる圧倒的な愛情に、学生のみならず父母の間からも信望が厚い(らし)かったが、少子化と不況の影響を受け、還暦直前にして授業数が激減。月々のローン返済40万円を抱えた中で見いだした答えが「せどり」だった。

その笑いと涙の闘いの二年間を著書、『大金持ちも驚いた105円という大金ー救われたローン人生』にまとめた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ローン地獄/アマゾンへの出品/せどり生活のスタート/訪れる失敗/アコーディオン買い/せどりの日々/著名人本の価値/車の買い替え/パソコンと本の分類/アマゾン一人勝ち/せどりのジャンル/税理士登場/古物商許可証取得/さまざまなお客様/売り上げ記録は更新中だが…/せどりの技術/ある日のせどり旅/ローン地獄からの脱出/本の運命 どんなピンチだって、ちょっとの工夫と行動で乗り越えられる!リストラ間近・還暦直前・月々ローン返済40万円…!崖っぷち予備校講師が選んだ手段は、ほんのちょっとした事だった。ヒント満載の、貧乏克服ノンフィクション。

我がモイケル娘に頼んで、この本を購入することにしました。

たそがれ親父の吉本康永さん、あなたのアイディアにあやかり、なんとか大学と院まで修めることができた娘がここに一人おります。何年もと遅くなりましたが、感謝とともに心からご冥福をお祈りいたします。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年1月27日 

今年もディアス先生とのポルトガル語の勉強が始まりました。
この3年ほど、Germano Silva氏の本で先生とポルトの歴史を学んでいます。失われてしまった建築物や広場、道などの、いわばポルトの移り変わりが記述され、どのようにして街が開発されてきたかがよく分かります。わたしにとって興味深いトピックではあります。現在読んでいる本は氏の著書の2冊目です。

毎週火曜日の午後に先生のお宅にお邪魔して読むのですが、今回はわたしが一時、教会内部の文字の謎解きを試みた「Igreja de Cedofeita(セドフェイタ教会)が出てきました。正式には「Igreja São Martinho de Cedofeita(セドフェイタ・サンマルティーニュ教会)と呼び、São Martinho deTour(フランス、トゥールの聖マルティーニュ)に因んでいます。

サン・マルティーニュについては後記にて案内します。

cedefeita1.jpg

ポルト補習校の講師時代には、直ぐ側を車で通るので、毎度この教会を目にしており、その美しい姿に心惹かれていたのでした。拙ブログで一度取り上げていますが、これを機に今一度案内したいと思います。

romantico_cedofeita3.jpg
ひっそりとたたずむロマネスク風のセドフェイタ教会の正面で、同じ敷地内には、現代建築で建てられた大きな新セドフェイタ教会が建っています。

igrejanoba_cedofeita.jpg

さて、旧教会の559年に造られたとされてます。当時、ポルトガル国は未だ誕生しておらず、現在のポルトガル北部はカルタゴを破ったローマが進出し、その後、ゲルマン民族大移動により、古代ヨーロッパ民族のスエヴォ族が支配しました。

スエヴォ族の王テオドミーロは、多くのゲルマン諸族に広まっていたアウリス派(後に正統派から異端とされる宗派)を信仰していましたが、559年に正統カトリックに改宗しました。これについては次のような伝説があります。

王は息子のアリアミーロ王子の病の治らないのを苦にし、フランス、トゥールの聖マルティーニュに願をかけ、王子の体重と同じ重さの金銀を託し、使節を送ります。聖マリティーニュの遺骨を持って戻ったブラガ司教がそれを王子にかざすと、王子の病気は瞬く間に治り、テオドミーロ王は謝意を表すために、自分が支配する民を全てカトリックに改宗させ、聖マルティニュに捧げる教会を建築します。

その建築期間が短く、あっという間に出来上がった教会ゆえに人々にはラテン語で「Cito Facta」、つまり、ポルトガル語では「Feita Cedo(はやく完成された)」と知られました。これが現在の「Igreja de Cedofeita de Sao Martinho」の名の由来です。

igreja_cedodfeita
セドフェイタ教会の花崗岩の正門。上にはラテン数字でこの教会が建てられた年号559と彫られてある。

igreja_cedodfeita
 
正面入り口の3本の円柱に支えられた動物、鳥、草木の装飾の中に面白いものが見られる。真ん中は二頭のドラゴンに見えるのだが。右側の彫刻はなにを伝えようとするものなのか。

igreja_cedodfeita

北側上方に小さな鐘が二つ。その横にあ入り口にはモチーフAgnus Dei(=アニュス・デイouアグヌス・デイ)がある。

cedofeita.jpg
Agnus Deiはラテン語で、「神の子羊」ことイエス・キリストを表し、洗礼者ジョン(ヨハネ)がイエスに与えた名称だと言う。

夏にはこの教会で時々結婚式をここで見かけられることがありますが、普段は閉め切ったままのチャペルまがいの小さな教会です。が、2014年に、わたしは偶然の幸運に恵まれ、中に入ることができました。

その日、わたしは教会をカメラに収めるためパチパチやっていると、中年の一組のカップルと鍵を携えた教会関係者がやってきて戸が開けられました。それで遠慮して写真を撮る手を止めて見ているとカップルの男性が手招きして「どうぞ、入ってみませんか?」と誘ってくれるではないか!

うわ~、チャンスが転がり込んできた!この教会に入れる人はざらにいるものではありません。ひょっとするとわたしはこの教会の内部を見る最初で最後の日本人かもよ!と、男性の親切に大いに甘えて、撮影許可も得て内部を見学させていただきました。

igrejadecedofeita_dentro
 
さて、めったに見られる機会がない質素なプレ・ロマネスク建築のセドフェイタ教会内部ですが、概観同様、装飾を殆ど持たないシンプルな建築様式に却って祈りのためだけの教会の美しさを感じました。あちらをパチリ、こちらをパチリ。内部撮影のチャンスをくれた男性が写っています。

セドフェイタ教会は559年に建設された後、8世紀初期には、スペインのサン・チアゴ・コンポステラに向かう巡礼の宿泊所や避難所として利用され、12世紀には修道院になり、その都度、建物の様式は少しずつ変わり、18世紀に入って初期の教会をもとに現在見られる形になりました。

内部には初期の教会のオーナメントが幾つか置かれています↓

igrejadecedofeita_dentro
トップに十字架を頂いた石版。十字架の上三方それぞれが丸みを帯びており、これはテオドミーロ王が改宗した正統カトリックの十字架でしょうか?

igrejadecedofeita_dentro

ほとんど装飾がない中で目に付いたのは柱のトップにある鳥のシンボル。
igrejadecedofeita_dentro

が、その横の石壁に刻まれた記号にわたしは大いに惹かれました。

igrejadecedofeita_dentro

意味するところは何なのか、検索すれど引っかかって来ず。大体が、「画像」を検索してもヒットするのは、外部の画像のみで、内部写真はほとんどありません。何しろ通常は内部見学ができないのですから、無理からぬこと。一件、内部撮影できた人のブログにあたったのですが、この方は残念ながらこのシンボルを見逃していました。

そこで、今回、画像をアップロードするにあたり、ポルトガル語で画像タイトルをつけて見ました。

数日の検索を続けてこれは「イエス、マリア、マルティーニュ(聖マルティーニュ。この教会が彼に捧げられている)」を意味するのではないかとの解釈に到達しました。

少し説明を試みてみましょう。まず、右から三つ目。これは「A.Ω=アルファ、オメガ」の古い文字。新約聖書黙示録にある次の神もしくはイエスの言葉から来ます。

I am Alpha and Omega,the beginning and the ending,the first and the last。
<訳>:わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。

アルファはギリシャ語のアルファベットの最初の文字、オメガは最後の文字です。

一番右上のOもしくは円も永遠を表すもの。或いはヘブライ語からくるかもしれません(疑問)。右下は三つ目と同じ「オメガ」。真ん中は数字8で無限∞とどれも神、イエスのシンボルと言えます。

さて、では一番左はと言うとどうもどこかの古代文字に思えて仕方がなく、ヘブライ文字をさぐって見たのですが、迷路にはまり込んで疲れました(笑)

自分の性分としては、「イエス、マリア、マルティーニュ」の説明だけでは足りないのです。どの文字が誰を意味し、何語なのか知りたい虫が頭をもたげ、よっし!と5日ほど取り組んで見たものの素人の手に負えず敢えなく撃沈と相成りました。

こういう時は少し間をおいて再びトライすると、案外ヒットすることがあります。初期建設が6世紀という時代から、わたしはヘブライ語だと判断し、向かって右側から文字分析に取り組んだのですが、もしかするとイエスのシンボルは左側からと言う可能性もなきにしもあらず。

この謎の文字を、実はこの間、ポルトガル語のディアス先生と話し合ったのですが、右から三つ目の「アルファ、オメガ」については同意見。しかし、一つ目と二つ目は意見が違いました。先生は二つ目は「時間(これはわたしも考えてみた)」、一つ目は「人間」だと推測。

つまり、神が天地、時間、そして、人間を順に創造し、この人間の出現が「終わり」である、と^^;
え~~~!と異を唱えたいと思う反面、20世紀から21世紀の世の移り変わりを見るにつけ、人間が現れた時が、「Endingである」との黙示録の言葉に重なるような気がしないでもなく、なんだかガツンを
頭を殴られたような気がして、ポルトガル語の授業から帰ったわたしなのでした。

もし、考察できる方がおられましたらご一報を。

というわけで、この一件、再び棚上げと相成ります。新しいセドフェイタ教会内には博物館があるようで、
この謎解きのヒントがあるかも知れない由、いずれ、訪れてみようと考えています。

今日は長い勝手考察、推理にお付き合いいただき、ありがとうございました。お口直しに、わたしの好きなクラリネット奏者アッカー・ビルクの「Aria」を聴いていただきご勘弁願いたい。

素晴らしい宇宙の画像とビルクのアリアの組み合わせは、無宗教のわたしでも思わず、かの聖書の言葉を思い浮かべ、the Almightyこと「大いなるもの」の存在を意識せずにはおられません。

I am Alpha and Omega, the beginning and the ending,the first
and the last, saith(said) the Lord, which(who) is, and which(who) was,
and which(who) is to come, the Almighty.
Revelation 1-8

「which is, which was, and which is to come 」は「King Jame Bible」より。 多くは「who is, who was, and who is to come」とされている。



聖マルティーニュについてはこちら↓
ポルトガルの小春日和「サン・マルティーニュの日

よろしかったら、ランキングクリックしていただけると嬉しいです。

ではまた!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村