2017年8月23日 

息子が帰った。

夕べのうちに小さな旅行カバンは準備が終わっており、今朝7時に起きて、自分で朝食のベーコンエッグを作っていた。

我が家からは空港まで車で30分足らず。時間に余裕があり、朝食後、最後の最後までお気に入りのネコのゴローをからかって、なんと言うか、そういうところは幾つになっても変わらず、今では呆れを通り越してプッと噴き出してますが、見送って帰宅後、抜け殻のようになっております。

こういう寂しさは、わたしの場合、じわ~っとやって参り、言葉で表現するのはなかなかに大変なのです。

古い日記にこんなことを書いています。

―それにしても家の中の静かなこと・・・
モイケル娘(息子)がいる、寝ていると分かっての静寂と、もうおらんのだ、帰ったのだ、の静寂は
大違い。

「お~い、いつまで寝とんのよ~」「ちょっとくらい部屋整理して!」
「整理のコツ!使ったものはすぐもとあった場所に戻す!」
「テーブルセッティング、早よ、せ~」
「パソコン、まだか~」

こんな取るに足らない小言を言う相手がいないというのは、ほんま、わびし^^;この寂しさは、4匹の愛猫相手で間に合うもんではありません。

夕べから「あ~あ、つまんない」を連発して、夫に「だから言わんこっちゃない。日本に送り出すからだ」と言われては、表面は「フン!」、内面は「しゅん・・・」

お掃除のおばさんが来て、もぬけの殻になった娘や息子の部屋を見て、「あらら、もう日本へ行ってしまったのですね」の言葉には、おっかさん、うかつにも落涙するとこだったぜ^^;―



モイケル娘が一時帰国した2006年の日記にこうあります。ポルトの我が家を離れて娘は13年、息子は8年になりますが、子どもたちが日本へ帰った後の抜け殻感にはどんなに月日が経っても慣れるものではありません。

が、愚痴はこれにて終わりでござんす。

さて、この時に帰省したモイケル娘の言った言葉で、印象深い言葉がひとつありました。

「おっかさんと親父、性格の違いじゃなくて、文化の違いもあるんだねぇ。一緒に住んでいた時は気づかなかったけれど、2年ぶりに来て見て分かった。」

うほほほほ。あんた、ちょっとは大人になったじゃない(笑)惚れたはれたの間は見えないのだけれど、これが一緒に暮らすとなると、国籍の違う者同士、どうしても文化の衝突はある。

いえね、わたしたち、派手なやりあいはしないけれども、個人的な些細なことがきっかけで終いには、

「日本のこんなところは、よく目にしたよ。そういうところは、ああだらこうだら」
「なによ、ポルトガルだってこういうところがあるじゃない!」
と、日本対ポルトガルの国同士の言い合いに高じることは、時々ある(笑)

個人の趣向の違いももちろん、出てきます。例えば、音楽を聴くとき。わたしはボリュームを大きくして、音楽を満喫したい方。片や、夫は、かなり低いボリュームを好みます。わたしから言わせると、「そんなんじゃ、その音楽のよさがわからんじゃん!」です。

息子や娘があきれる「バター戦争」もそうです。夫は固いバターを、うす~くナイフで抉り取り、パンにつける。片やわたしは、「それなら、冷蔵庫の外に出しておけばいいじゃない。固いバターは、バターそのものを食ってるみたいでイヤ!」(もちろん、夏は別です)

それで、どさくさにまぎれて外に出して置くと、「バターを冷蔵庫に入れておくべし」と、夫。
毎日食べるバターです、冷蔵庫外に置いたとて、夏は別にしてイタンデしまうところまで行く以前に食べてなくなってしまうのです。(←わたしの言い分)

要は、彼は固バタ党、わたしはソフトバタ党。んじゃ、今日からバターは二つにすれば?こっちの箱にはyukoと書いて外、冷蔵庫に入れるなよ~。そっちの箱にはCarlos!これでどうよ!」とまぁ、こんな具合で(笑)

子供たちはそういう親のヘンチクリンなやりあいを見てきており、恐らく「なんでこうなるのか?」と思っていたことでしょう^^;

ま、二人が、それも育った国柄が違う人間がひとつ屋根の下で生活するとなれば、多かれ少なかれ大げさな文化の衝突はあるわけで、その環境の違いというバックグラウンドを越えて、ある程度譲り合わないとうまくできない。

モイケル娘がそういうところに目が届くようになったのは、やは、日本の生活を通して自分も少なからず経験するところがあったからに違いありません。

息子も娘もちっとは大人になったと思うのであります。

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2017年8月22日 

盛夏に街の中を歩くのは運動になるどころか疲れるの一言で、自分の年齢も考えて夏場は近年のポルト散策を控えています。

が、昨日の日曜日は、帰省していて来週には日本へ帰る息子が土産物を買いたいというので、昼食をダウンタウンでし、その後、付き合うことにしました。

勿論、息子は普段は一人で行動するのですが、前回のエントリーにあげたチビねこちゃんの術後の経過がよくなく、親子休暇旅行を中止したので、せめてはわたしの賄い負担を軽くしようと、先週はできるだけ3人で外食にした夫でありました。

でもね、わたしにとってレストランでの食事は、賄い負担にはならないけれど、胃に負担がかかるのでありまして、ポルトガル料理。もう、このところ、胃が重いんです^^;

と、贅沢な愚痴を言ってしまいましたが、そんな訳で昨日の午後は、親子3人でツーリストもどきの土産探しでダウンタウンを歩いたところで、さて、本題です。

ほこ天のRua das Floresでは昔から贔屓の店「Memórias」に入ったものの、気に入ったものは今回はなし。もう少し歩くとMemóriasと同じ並びに、おろ?足を止め店内をチョロッと覗いてみると、おお、店全部がクラウス・ポルトの石鹸だらけではないか!いったいいつの間に?と思いながら、とにかく入ってみました。

クラウスポルト
左右のショーウインドーが素敵です。ちょっと見では気づかないのですが、左を拡大してみましょう。

クラウスポルト
レンガの煙突から石鹸の泡が出ているようなディスプレイですが、煙突はクラウスポルトの石鹸で組み合わせられています。

16世紀にポルトガルから日本に伝わったと言われる石鹸ですが、ポルトガル語では、sabão、サバォンと言い、日本語のシャボンはこれが語源になるようです。

ポルトガルには世界でも人気のある高級石鹸がいくつかありますが、今日はその一社「Claus Porto(クラウス・ポルト」を紹介します。

クラウスポルト
ポルト店内

1887年にポルトで創業されましたが、これまでポルトガル国内での販売店はありませんでした。専ら輸出用に生産されてきましたので、ポルトガル国内よりもしろ国外で人気があります。

近年ようやくポルトの一部のブティックでも見かけられるようになっていましたが、種類は限られ、わたしが好きなゲストソープ「Favorito」は一度買ったきりで、以後目にすることがなく残念に思っていたのでした。

それが、まさに創立130年の歴史を記念してか、はたまた、ポルトガルが観光スポットになったためか、2016年9月にリスボン店、そして2017年6月にポルト店がオープンされた高級石鹸販売のクラウス・ポルト。   

クラウスポルト

↓下は今回わたしが買ってみたゲストソープと小さい石鹸。ClausPortoの石鹸は、香りが甘かったりしつこかったりしないので、わたしのような香りに敏感なタイプでもイケます。

クラウスポルト

ゲストソープは薄くて丸型クッキーのような形で、最後まで香りが保てるというので評判を得ています。
クラウスポルト

因みに、お値段は写真のゲストソープは15個入りで20ユーロ(約2600円)、小さい石鹸は6.5ユーロ(約850円)、いずれも税抜きです。


クラウス・ポルト石鹸はハリウッドでも人気があり、ニコラス・ケイジ、ケイト・モス、また元ファーストレディーのナンシー・リーガンや、アメリカの実業家兼女優で、オプラショーの司会者でもあった、オプラ・ウインフリーも愛用すると言われています。   

息子にもガールフレンドにはこれをお土産に持って行けと薦めたのでありました。 

クラウスポルト

↑レトロなデザインをあしらったパッケージが素敵でしょ?大きい石鹸にはそれぞれCarimboと言われる封印が押されてあるのも高級感があります。

かつては見かけなかった男性用のコーナーもあり、店員に階上の博物館を覗いて行ってくれと言われたのですが、今回は時間なく、涼しくなってからもう一度取材がてら、行ってみるつもりです。

本日はこれにて。
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2017年8月21日 

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや   

高校時代に好きで覚え、今でも諳んじることができる室生犀星、「小景異情ーその二」の詩だ。

若い時分には大阪に出て少しひねくれた目で故郷を見ていたので、反抗心と故郷へのノスタルジアが入り混じった犀星のこの詩に、自分の心を重ねていたのである。大阪時代の10年間でわたしが帰郷したのは、恐らく2度ほどだろう。

さほどに「よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と、まこと、粋がっていたのであった。「なんでやの?」などと聞いてくれるな、おっかさん。人様に言えない事の一つや二つ、人なら誰にでもあることでっせ。

とは言っていたものの、そんな複雑な故郷への片思いは今ではかなぐり捨てて、故郷を日本を恋うる心に素直に従うようになったのは、古希の齢がなせるわざか。わたしも随分と角が取れて丸くなったものである。

さて、今日はFBの弘前シティプロモーションでこんな懐かしい写真を目にした。

Hirosaki

弘前では「お山参詣」と呼ばれる初秋の伝統行事なのだが、久しぶりにお山参詣の行列時に唱える唱文の謎解きを思い出した。以下に綴ってみる。


年に一、二度は弘前へ足を運んでいる妹夫婦、ある年、弘前のホテルでチェックアウトしようと荷物をまとめていたら、外から
「サ~イギサ~イギ ドッコイ サ~イギ 」
と聞こえてきたのだそうな。

ホテル9階の窓から土手町を見下ろすとお山参詣の行列が通って行く。行列を見ようとて慌てて階下へおり、こけつまろびつ行列に追い抜き、いっしょに並んで歩いたのだが、行列の唱文が子供のころに聞いて覚えていたのと少しも変わらないのに可笑しくて、ついにこらえら切れなくなり大声でウワハハハと笑ってしまったと言う。
 
お山参詣というのは津軽に昔から伝わる岩木山最大の祭りで旧暦の8月1日に五穀豊穣、家内安全を祈願して白装束にわらじ、御幣やのぼりを先頭に行列をなし岩木山神社を目指して歩く行事だ。

商店街の土手町から坂道を下り、わたしたちが子どもの頃住んだ下町の通りを岩木山目指して行列が歩いていくのだが、検索してみると子供だったわたしが記憶しているのと違い、行列の様子も少し変わったようだ。

Hirosaki
画像はwikiから

昔は白装束でお供え物を両手に抱えての行列だったのが、今では随分カラフルで「行事」と書くより「イベント」とカタカナかローマ字にしたほうが似合いそうだ。

さて、妹がこらえら切れなくなり大声でウハハハと笑ってしまったという、その唱文が、これである。

♪さ~いぎ さ~いぎ どっこ~いさ~いぎ
 おやま~さ は~つだ~い
 こんごう~どうさ
 いっつにな~のは~い
 なのきんみょう~ちょうらい

毎年こう唱えながら目の前を通り過ぎていく白い行列、子供心に神聖なものを感じてはこのお唱えをいつの間にか諳(そら)んじていたのである。この御山参詣が終わると津軽は一気に秋が深まる。

Hirosaki

長い間、そのお唱えの意味など気にしたこともなかったのだが母も亡くなり、帰国したある年、彼女が残した着物を妹と二人で整理しながら、3人で暮らした子供の頃の思い出話の中にひょっと出てきたのがこの「サイギサイギ」だった。

亡くなった母は津軽で生まれ育ち、60まで住んだ。その後は妹夫婦の住む東京へ移り所沢の彼らの家を終の棲家とした。義弟も津軽衆なので、東京にありながら夕食時の食卓は、妹、義弟、母の3人ともが津軽の出ではおのずと津軽弁が飛び交おうというもの。帰国した時のわたしは母と義弟が交わす津軽弁を聞くのが本当に懐かしく楽しいものだった。

その母が「ことすでに遅し」の意味でよく使っていたのが「イッツニナノハイださ」である。 はて?いったいこれは元来がどういう意味合いなのであろうかと妹とそのとき、疑問に思ったのだ。

たまたま、当時時折、我が母校の後輩で「サイホウ」さんと言う女性仏師とメールのやりとりをしており、聞いてみたところ、これが元になっていますと教えていただいのが下記。

懺悔懺悔(サイギサイギ)  過去の罪過を悔い改め神仏に告げ、これを謝す。

六根清浄/六根懺悔?(ドッコイサイギ) 人間の感ずる六つの根元。目・耳・鼻・舌・身・意の六根の迷いを捨てて汚れのない身になる。

御山八代(オヤマサハツダイ) 観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・地蔵観音・普賢菩薩・不動明王・虚空蔵菩薩・金剛夜叉明王

金剛道者(コウゴウドウサ)  金剛石のように揺るぎない信仰を持つ巡礼を意味す。

一々礼拝(イーツニナノハイ)  八大柱の神仏を一柱ごとに礼拝する。 
          
南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ) 身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。

唱文のカタカナの部分は津軽弁の発音である。


どの方言もそうだが、津軽弁は特に独特のなまりが多い方言だ。我が同窓生である伊奈かっぺいさんは津軽弁でライブをする人で有名だが、彼いわく、津軽弁には日本語の発音記号では表記不可能な、「i」と「 e」の間の発音があり、津軽弁を話す人はバイリンガルである、とさえ言っている。

わたしと妹が笑ってしまったのは「六根懺悔」が何ゆえ「どっこい懺悔」になったのかと、津軽人の耳構造はほかとは少し違うのであろうかとの不思議にぶつかったのであった。

大人になったわたしたちにしてみれば、「どっこい」という言葉はなじみでありとても唱文の一語になるとは思われない、なんで「ドッコイ」なのよ?と言うわけである。

実は「さいぎさいぎ」も「懺悔」ではどうしても津軽弁の「サイギ」に結びつかず、わたしは「祭儀祭儀」と憶測してみたのであった。そして、数日の検索で、ついに語源をみつけたぞ!

「懺悔」仏教ではサンゲと読み、キリスト教ではザンゲと読む、の一文に出会ったのである。「サンゲ」が津軽弁で「サイギ」、これで納得だ。

御山参詣は日本人の山岳宗教につながるものであろうか、修験者が霊山に登るのが弘前に行事として定着したと思われる。

父と母、わたしと妹4人家族が住んだ桔梗野のたった二間の傾きかけた埴生の宿のような家の窓からは、見事な岩木山の美しい姿が日々仰げたものである。

Hirosaki
画像はwikiから

テレビやパソコンなどのような情報入手方法がなかったわたしの子供時代、空耳で覚えていた唱文も今となってはいい思い出につながり、ふと頭を横切るたびに笑みがこみ上げて来て、懐かしい人々の顔が浮かんで来る。

正規の唱文の発音よりも300年も続いてきたであろう津軽弁の唱文に耳を傾けながら、修験者を受け入れてきたお岩木さんは、津軽弁そのままが誠に似合うようだとわたしは思うのである。

♪「さいぎさいぎ ドッコイさいぎ おやまさはつだい こんごうちょうらい(と、わたしは覚えている)
 イッツニナノハイ なのきんみょうちょうらい」

下町を歩いていく白装束と幟と、「イッツニナノハイ」と言う母の姿が浮かんで来るようだ。孝行したいと思えどおかあちゃん、14年前にみまかり、「イッツニナノハイ(事すでに遅し)」でございます。ハイ。

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2017年8月18日 

今週3、4日間、帰省中の息子とわたしたち夫婦の3人で中部のスペイン国境あたりを旅行する予定を組んでいたのですが、中止です。なんとならば、この写真をご覧あれ。

ブラガ

我が家の4匹ネコで紅一点の13歳になるチビが、2週間ほど前にお腹の腫瘍二つを摘出したのですが、その一箇所の傷口が抜糸後だというのに、どうもよろしくない状態で、掃除のおばさんに世話を頼んで行くのも気になることではあり、結局、旅行キャンセルとあいなったのです。

ブラガ
ソファで横になっている息子の腹の上に横たわるチビ。

そんな訳で今年の夏休みは家でゴロゴロしているのですが、ご飯が大変ですぞ・・・^^; そこで、昨日は3人で、ブラガの山頂にある聖地ボン・ジェズスのホテルのレストランで昼食に出かけてきました。

というのも、6月の夫の誕生日のプレゼントだと、ホテルレストランでの昼食を二人分、息子から招待券としてもらっていたのでした。ですから、息子の分は実費なのですが、そろそろ料理係のわたしがブツブツ言い始めるのを見越してでしょう、食べに行こうということになったのです。

ボン・ジェズスは2012年10月に一度、雑誌の取材で行った事があり、山の麓から山頂まで116メートル、581の石段を上ったのですが、盛夏の盆地のブラガです、日差しがきつく今回は車で山頂へ。

ブラガ
山頂のボン・ジズス教会

ブラガ
山頂

ブラガ
麓からはこの石段581段をのぼってくることになる。

ブラガ
Elevadorと呼ばれる登山電車の種類。傾斜42度と怖そうだ。

ブラガ
山頂のカフェはたくさんの人でにぎわっていた。

ブラガ
ホテルロビーからレストランへ。

ブラガ
ホテルのレストランからの展望。ブラガの街。

ブラガ
ホテルの庭園。

食べ物は今回は省略で、下はGruta(洞穴)。わたしの推測ではこの手の洞穴は錬金術のシンボル。

ブラガ
久しぶりに息子と。

ブラガ

吸い込まれそうな真っ青なひたすら真っ青な空。

食べて軽く飲んで、車で小一時間の距離にあるブラガから帰宅後は、シェスタでありました。ゆるゆる生活はどうも性に合わないと言いながら、これがポルトガル式休みというものかしら?いつまでたってもこればかりは慣れないのよね。

下記にて詳しくボン・ジズスを紹介しています。どぞ。

聖地ボン・ジズスの謎
ソロモン王と蜘蛛考

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2017年8月15日 

先だってことなのだが、月に1、2回の割りで国際電話で話す妹から珍しくメールが入った。

弘前に住む吉崎のおばさんからめったにない電話が来てどうしたのかと思ったら、おばさん曰く「Yukoの夢を見た。何かあったんじゃないか」と。

吉崎は9人兄弟であった亡き母の旧姓でおばは既に鬼籍に入って長い母の弟の連れ合いだ。妹の話を聞いてわたしは大笑いした。だって、わたしは古希ですよ。古希になって未だおばの夢に現れ心配をかけているとは!

そのおばに最後に会ったのはいつだったかしら?もう思い出せないほど時間が経ってしまった。

「ポルトガルで元気でがんばっているから心配ないと言っておいた。それでね、来年は二人で会いに行くと約束したよ。5月のこの日から3日間、弘前のホテルの予約ももうしたからね。」この時点で来年の帰国日程は決まったのである。

この後、弘前の南高校時代の同窓生、シマに久しぶりに電話をし、来年の弘前行きを話したところ、それなら、同窓会の恒例の秋の時期をずらすことになるけれど、Sode(わたしのこと)が帰省する春にできるよう、少し働きかけてみる、と言ってくれるではないか。

集まる同窓生たちも年々減って来ている年齢になった第一期生のわたしたちだが、この年齢になると、見た目、どれが教え子でどれが先生なのか見分けがつかないであろう、恩師との再会も今から楽しみにしているのである。

来年はおばを訪ねるのもそうだが、二人のおばが本家の墓から文骨したと聞くから、訪れる人も少なくなったであろう、母方の先祖の墓参も欠かせない。

お盆に因んでかつてあげた「早春の津軽行」の墓参を掲載したい。以下。

早春の津軽行にて。

hirosaki
列車内から臨むまだ残雪に覆われた津軽の野面(のづら)。

うっすらと残雪に覆われた陽光院を訪ねた。陽光院は弘前の我が故郷にある菩提寺である。

本当のことを言ってしまうと、陽光院という菩提寺の名すらわたしは覚えていなくて、所沢の妹に教えてもらい、地図を持っての墓参であった。その妹夫婦と3年ほど前に来たのが、実に約40年ぶりのことであり、わたしはまことにご先祖様不幸な人間なのである。

8人兄弟だった母とのお盆の墓参りは、一年に一度、大勢の親戚に出会う場でもあった。
「あ、四郎っちゃ達、もう来たみたいだね。」と言った母の言葉は、幼いわたしの記憶の中で今でも生きている。

とある年齢に達すると、たいていの人間は、持つ思い出の良し悪しに関わらず、生まれ故郷が恋しくなるとは、よく耳にする言葉だ。わたしもその例に漏れず、近年は弘前での子ども時代の記憶を
たどってみることも多く、思い出の糸を手繰り寄せては、時折したためている(「思い出のオルゴール」)。

「故郷恋しや」の思いと、さすがのご先祖様不幸のわたしも、この辺でそろそろ顔を出してご挨拶しておくべきではなかろうかと、殊勝にも考えるようになったのである。

いつもは妹夫婦と車で夜間、高速道路を走って帰るのだが、この時は東北新幹線で一人帰郷し、駅に着くと同窓生のタコ君が出迎えてくれた、という嬉しいハプニングがあった。

そのタコ君が墓参に付き合ってくれた翌日、寺の近くで花を調達し、陽光院に着いた。
「お線香、もって来た?」とタコ君。
「あ、すっかり忘れてた^^;」
「うん、大丈夫。俺が用意して来たから。」
情けない話である。

タコ君とは高校時代の友人で、この3年前に、高校を卒業して以来39年ぶりの再会をしたのだった。彼についての詳しいことは後日書くとして、弘前にいた二日間、彼はわたしのために車で動いてくれたのだ。

妹の話の通り、陽光院は改築中であった。墓地の場所は、本堂の横道から入るとだいたい分かっているのだが、既に立ち入り禁止になっており、タコ君とわたしは仮本堂でお寺の人を呼び鈴で呼び出しポルトガルから先祖のお墓参りに参りました。どうやって墓地に入れますか、と訊ねた。

隣の寺院から入れるよう、話を通しているとのこと。人っ子一人いない静寂な墓地の中を、わたしたち二人は転ばないように少し腰を落とし気味に残雪を踏んで入って行った。

「前に来たときに、こんな新しい墓石は周りになかったと思う。もうちょっとこっちの方じゃなかったかしら。」と頼りないわたしの言。少し後戻りすると、「あ、こ、このあたり・・・・。もしかしてこれかも。」と立ち止まった墓地は墓石も含めて、あたりが真っ白い残雪に覆われていた。

わたしとタコ君は、素手でその雪を掻き分け始めた。
掻き分けながら、ふとわたしは可笑しさがこみ上げてきて、思わずタコ君に話しかけた。

ね、ご先祖さま、今きっとこう言っているに違いない。「ゆうこよ。お前は何十年も墓参りに姿を現さず、終に来たかと思ったら、いったい亭主でなくて誰を伴ってやって来て、墓場の雪かきをしてくれてるのやら・・・ほんにお前は^^;」

ご先祖さま、お笑いくだされ(笑)

残雪の下から現われた古い墓石に刻まれている文字を読んだ。「吉崎家」と彫られてある。間違いなく我が先祖の墓だ。線香を立てる箇所は、固い雪で覆われ素手でその雪を取り払うことはできなかった。供花のところに線香を立てた。

しばしの祈りの後、わたしは、自分が祖父の名前を知らないことに気づいた。わたしが生まれたときには既に鬼籍に入っており、会ったこともない人である。

タコ君と墓石の後ろに回り、刻まれている名前を見つけた。
「あった。え~っと・・・嘉七と書いてある。」
「そうだね。明治22年6月没とある。」とタコ君。
わたしはメモを取った。そうして、墓の前にもう一度たたずみ、この先再び訪れる日が来るであろうことを祈りながら吉崎家の祖父や叔父、叔母たちに別れを告げて帰ってきたのである。

東京へ帰り、夕食の準備で台所に立っている妹相手に、
「ねね、マリちゃん、じさまの名前知ってる?」とわたし。
「それがねぇ、わたしも知らないのよ。もう聞く人もいない。」
「知ってるわよ、わたし!今度の墓参りで見つけてきた。嘉七、明治22年6月没とあった!」
と、いい歳して多少得意げに言うわたしを、妹は一瞬「???」の面持ちで見る。

そして開口一番、「それはつじつまが合わない!」
「お母ちゃんが大正生まれなのに、じさまが明治22年没は可笑しい
じゃん!」「さすが、ゆう。(妹はわたしをこう呼ぶ)考えることがおもろ~」(爆笑)

いやはや、面目ない^^;
ご先祖さま、お笑いくだされ~~。とほほのほ^^;
嘉七さんはひじさまでござんしょね^^;

まじめな墓参の話がどうしてもこういうオチになるspacesisでございます。あぁ・・・これがなければなぁ、もう少し周囲から敬いのマナコを向けられるかも知れないのに(笑) 

                                              
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