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2019年8月19日

ナザレの黒いマリア(聖母)像を書くにあたり、関連するテンプル騎士団について、思うところを少し書きたいと思います。

これといった宗教を信仰しないわたしですが、旧約聖書はひとつの壮大な物語本として興味深く読んできました。

ダン・ブランのベストセラー「ダビンチ・コード」がきっかけで、強大な力を持つカトリック教一色に染まったヨーロッパの中世時代に、ミケランジェロ、ダビンチ、ガリレオのような宗教を鵜呑みにしなかった人達はどのように生きたのかということに深い興味を覚え、暇を見ては本を読んだりして追ってきました。

宗教には寛大な日本に生まれ育ったわたしには、カトリック教信者ではないということがどういうことなのか、いまいち理解できなかったわけですが、 調べて行くうちに、「信者でない者は悪魔である」という制裁を受ける社会だったであろうということです。

そうこうして行くうちにテンプル騎士団、錬金術、グノーシス、神秘主義と多岐にわたる学習を独学することになり、そこでわたしがたどり着いたのは、カトリック教会に秘密裏に反抗、抵抗して編み出されたのがシンボルコードだ、です。

アラブ人に占領されていたイベリア半島がテンプル騎士団によるレコンキスタ運動で国土奪回を得たのは、意外と知られていないような気がします。テンプル騎士団の大きな助力でポルトガル国が成されたとも言えるとわたしは思っています。

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12世紀の初めに、キリスト教集団の皮を被り、エルサレムのソロモン神殿跡地に宿営した7人の騎士によって結成されたのが「キリストとソロモン神殿の貧しき騎士たち」、後のテンプル騎士団です。

やがて強大な権力、富を持ち、影響力も大きかったテンプル騎士団の莫大な財宝に目がくらんだフランス王フィリップ4世の陰謀により14世紀初期に、騎士団最後のグランドマスター、ジャック・ド・モレーの処刑で終焉を迎えます。

フランス王が横取りしようとした騎士団の財宝は、跡形もなく消えて行方知れず。ヨーロッパのテンプル騎士団は弾圧され、残った騎士団の大部分は消息不明になりました。

この時、ポルトガルのテンプル騎士団(トマール)は国王の庇護の下、キリスト騎士団と名を変え存続しました。ポルトガルはこの後、大航海時代に入っていくわけですが、フランス王が手にできなかったテンプル騎士団の財宝の一部は、ポルトガルの大航海時代に遣われたのでは?とは、わたしの推測です。

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トマールのキリスト・テンプル騎士団修道院

さて、このテンプル騎士団が崇拝するのが「黒い聖母」だと言われます。

この項、更に続きます。

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2019年8月18日 

古い漁村ナザレですが、近年はサーフィンで世界に知られるようになりました。

ナザレ沿岸は海底谷の地形が世界でも有数の深さを持つため、非常に大きな波が生まれます。地元ではこの波のことを世界中のサーファーに知ってもらうため、サーファーの呼び寄せキャンペーンを展開してきました。

米国人サーファーのギャレット・マクナマラが2011年には24メートルの、2013年には30メートルの巨大な波いのることに成功し、サーファーの世界記録をつくったと言われています。

ナザレ
2011年ナザレ、24メートルの波乗り(Wikipediaより)

この時の感想をCNNのインタビューで「いつまでも落ち続けて両足はストラップから外れかけていた」「全身が粉々になるような感覚だった。本当に難しかった」と答えています。

ナザレ
2013年ナザレ、30メートルの波乗り。(Wikipediaより)

ポルトガルにはもう一箇所、リスボンから北東へ35kmほどにある、Eliceira(エリセイラ)はサーフィンの聖地と呼ばれ世界中からサーファーが集まるそうです。

「波乗り」なんて聞くと、わたしなど年に一度帰国するときに口にする「波乗りジョニー」をついぞ思い浮かべてしまう無粋ものではございます^^;

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Wikipediaより


「ナザレのイエス」と聖書にも出てくるこの地名には由来があります。その昔、パレスチナのナザレから、海を経て一人の聖職者が「マリア像」を持って流れ着いたという伝説から来ます。

この手の話だとよく聞かれるのですが、この「マリア像」、「黒いマリア像」なのですと!

「黒いマリア像」は、わたしがテンプル騎士団がらみの謎解きのために読んできた本でもよく取り上げられており、これは「聖母マリア」ではなくて、中世からローマカトリックに糾弾されてきた「異端者」(バチカンが宗派として認めない)が崇拝する「マグダラのマリア」だと言われます。

わたしが「異端教の殿堂」と解するフランスのシャルトル大聖堂の「黒いマリア像」は有名ですが、ポルトガルでの「黒いマリア像」は初耳です。

何度か行っているナザレに黒いマリア像があるというのを知り、もう一度行かなければならないと思っていましたが、今回、サンタクルスの帰路、ちょっと寄って寄って~と寄り道してもらいました。

事前に確認しなかったもので、果たしてどの片にあるのか、わたしの第六感に頼ってなのですが、夫は自動車道路からこれまで通り海辺に続く町の通りに入りました。ところが、ひゃ~、小さな町の細い道はどこまでも続く車の停滞です。ナザレでのこんな停滞もあったことがありません。

やっとのこ停滞から抜けて、海岸はだめだこりゃ。で、わたしの感はまだ行った事がないSítio da Nazaré、海岸左側に見える丘陵のある町へと方向転換しました。夫はポルトに引き返そうとしたのですが、あっちに行ってみようと提案。感のなすところです(笑)


ナザレの丘陵、Sítio da Nazaréから見下ろした、この日は穏やかな波の海岸地区。
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Sítio da Nazaréの崖っぷち。

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海岸区域からはケーブルカーでスィーティオ(Sítio=場所、区域の意味)へ上れる。

この項、次回に続きます。

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2019年8月17日 

我が父は岩手県雫石出身の人で、若い頃は地方競馬の騎手をしていた。

家族のわたしたちを弘前に残したきり、自分は雫石に住んで好きなことをしてきた人だったが、歳をとり体重も増え、いよいよ馬に乗れないとわかったわたしが中学生になる頃に、やっとこさ、弘前に来て共に暮らすことになったのである。

仕送りもなく、祖母の大所帯の家でわたしたち親子三人は同居し、母がずっと苦労をしてきた姿を目の前でみてきたので、わたしは父にはどうしても気持ちを開くことが出来ず、どこかで他人のような目を向けていたところがなきにしもあらずだった。

加えて酒癖が悪くすぐに手があがる人でもあり、思春期のわたしはそういう父が嫌いだった。

わたしが高校生の頃だ。再三の酒癖の悪いのにとうとう辛抱の緒が切れ、わたしたち母子3人は、父が酔いつぶれて寝ている間に、身の回りの物と一式の布団をリヤカーに積み、母はリヤカーを引き、わたしと妹はその後押しをして、母の知人の屋根裏部屋に逃げたことがあった。

その時に、わたしと妹は母に勧めたのだ。「おかあちゃん、親父と別れちゃいなさい。3人で何とかなる」と。一ヶ月ほどその屋根裏部屋で生活して、結局わたしたちは父の元へ引き返すことになったのだが、それを決心した母はこう言った。「戸籍が片親となると、就職でも結婚でもお前たちが苦労することになる。」

母のあの決心が良かったのかどうか分からない。当時母は保険の外交員をしていて、なんとかわたしたちの日々の生活は成り立っていたのだが、やがて高校を卒業したわたしは、チャンスとばかりに父のいる嫌な家を飛び出した。その2年後には東京の夜間大学へ進むことで妹が家を出た。

父の元に残った母は保険の外交員を続け、60歳の退職を機にもらった退職金の一部を父にあげて、さっさと、当時既に結婚して東京に住んでいた妹夫婦の元へ移ったのであった。

その話を聞いたとき、母のしたことにわたしは笑ってしまった。これは逆・三行半(みくだりはん)じゃないか。

思うに、母は今で言う「熟年離婚」のハシリだったかも知れない。夫の退職金を待って離婚をつきつける現代女性と違って、母の場合は逆に、たかが知れてる自分の退職金の一部を夫に手切れ金として手渡して別れたのだから、堂々たるものだ。誰にも文句を言わせない自立した女性であったと言える。

別れたといっても戸籍はそのままで、女性関係も多かった父に、「あんたさ好きな人ができて、結婚するという時はいつでも籍をぬくから」と結局、別居の形になったのだが、父が亡くなった時には喪主として、借金しか残していなかった父の葬式をちゃんとあげたのであった。

ポルトガルに住んで子どもを持ち、少し自分の生活も落ち着いてくると、わたしは、南部出身の父からすれば異郷の津軽弘前に一人人住んでいる父のことを時折思い出した。異国に住むということが孤独であると分かり、口下手な父の行動が少し分かりかけたような気がした。

そして、それまでは一度も書いたことがなかったのだが、短い手紙に我が子たちの写真を入れ、年に2度ほど航空便で送った。ローマ字を読めない書けない父からは一通の返事も届いたことはない。

母の兄弟の間でも評判は悪く、わたしは時々親戚が父の陰口をいうのを耳にした。親戚が言うことは普段からわたしも思っていることで、もっともな話だ。が、忌み嫌う父ではあれど、その父が悪く言われるのには、親子の血のなす業だろうか、「分かってるけど、人には言われたくない」と、わたしは無性に腹が立ったものだ。

その父は60代で脳溢血を起こしそのまま亡くなったのだが、さて、納骨場所にもすったもんだがあり、結局妹夫婦がまだ必要としない墓地を購入することになった。苗字が違うというのに父はちゃっかりそこに納まっている。血は水よりも濃し。
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2019年8月15日

ひとしきり古い衣類の整理をして軽く汗をかいた。

インスタントコーヒーを淹れてパソコンの前に座り、ふと横に窓に目をやるとそこから差し込む穏やかな光が台の上に置かれたクリスタルデカンタのプリズムを抜けて壁にきれいな七色の光を放っています。夏休みだというのに外から聞こえる人声もなく、自分のタイピングの軽やかな音だけが空響いています。

1945年の8月15日は、もしかしたらこんな静寂がわたしの国をもおおっていたのかもしれないと。戦争が終わったという安堵とこの先の不安と、絶望と希望と生と死と。しかし、少なくともその日から空から襲ってくるB29を恐れることはもうなかったのです。
わたしたちの祖父母、父母たちはそれからどうしたでしょう。

家屋を失い、親兄弟、子を失い、食料難にあえぎながら、祖父母も父も母もあらゆることをして戦後の日々を生き抜いて来ました。そのたどり着いた先が、今、わたしたちがいる平和と自由の国、日本です。

平和が至極当たり前のことになり、わたしたちは更にもっと自由をと求めます。わたしもそうでした。貧しい生活から抜け出そうともがき、窮屈な社会はいやだ、もっと自由が欲しいと未来を見つめながら歩いてきました。自由、開放感溢れるこの響き!何ものにも代えられないものです。

70代に入ったわたしは、今、昭和という盛夏をまっしぐらに駆け抜けている自分が見える場所に立っています。駆けてくるわたしの後ろには父や母が祖母が見え、そのもっと向こうの歴史には見知らぬ無数の人が続いています。遥かなる歴史が脈々と今のわたしに繋がっているのを見るような気がします。

その歴史の中の人々が、正誤を繰り返しては今の平和と自由の礎を積んできたのです。

歴史は、緻密な一枚の織物のようだとわたしは思います。見る方角によっては、その色合いや光沢が変わる織物です。種々の事情、状況が絡み合い、わたし達が目にするのは出来上がった一枚の歴史という布です。その布を織り成す一筋一筋の糸を引きほどいていかないと真実に近いものは見えない。

人が、国が過ちを犯さないことがあるでしょうか。過ちもまた一つの歴史で、わたしたちはそれから学び賢くなって行かなければなりません。誤ったからとていつまでも石で打つのは酷というものでしょう。が、際限もなく石で打ち続ける敗戦利得者はいるものです。世界は物事を平和に解決しようとするどころか、腹黒いのです。

インターネットが広く普及した今日、わたしたちはその気になれば、これまでの歴史、特に現代史に関して、おびただしい情報を手に入れることができます。それらを情報源に更なる詳細を論説する著書を読むこともできるわけです。

そうして自国の現代史について出来る限りたくさんの情報を手繰り、それを自分で分析し、考える必要があると思います。押し付けられた一方的な歴史観ほど愚なものはないと考えます。

今、わたしたちが甘受する平和と自由は過去の正誤の歴史を通して与えられたのです。一度手にした平和と自由を再び手放さないために、わたしたちは何をしなければならのか。

「戦いを避けるために譲歩しても、結局は戦いを避けることは出来ない。なぜなら譲歩しても相手は満足せず、譲歩するあなたに敬意を感じなくなり、より多くを奪おうと考えるからである」

これはマキアベリの言葉ですが、中国、ロシア、北朝鮮、韓国の狡猾な周辺国をもつ日本は、今のままでは暗澹とした将来しか見えず、自国防衛もままならない状況に心が騒ぎます。永世中立国のスイスですら、いざという時に祖国防衛ができるように軍事組織を持っています。

有事の時にも無抵抗で侵略されるがままを平和維持だとわたしは思いません。それはウクライナやチベットの無抵抗な国がどうなったかを見れば分かることです。では、闘うのを厭うなら、闘わずとも平和と自由が維持できる、自国を守れる叡智を見つけなければならないのですが、今こそ母国に必要とされるその叡智とはなんなのか。

ロシアや中国のような侵略の武器としてではなく、自分の国は自分で守るという自国防衛のための軍事力が日本に必要だとは、やられっ放しはイヤだと思うわたしの考えです。

74年前の8月15日終戦の日、異国の夕暮れ時、静寂の中にて思ったままを綴ってみました。
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2019年8月14日 

現在の住居のフラットからすぐ目と鼻の先にわたし達一家の旧住まいがある。既に築70年はたっているであろうと思われるボロボロの家であった。

あちこちガタが来ていて、雨季の冬には壁に結露があらわれ、娘が赤ん坊のころは毎朝起きて一番に壁の結露を拭き取るのが日課であった。

古い建物ゆえ冬は隙間風が入り我が家を訪れる日本人客はみな寒い寒いと、ストーブの前でお尻をあぶり、そこから動くものではなかった。しかし、台所からの夕方の眺めは格別であった。

当時の我が家は借家で、「Moradia=モラディア」とポルトガルで呼ばれる3階建ての一番上。勝手口からは一階にある庭に通ずる屋根のない石段があり、その庭の後ろは、だだっ広いジョアキンおじさんの畑だ。そして畑の向こうはフットボール場がある。試合のあるときなどは、石段の踊り場に椅子を持ち出して観戦できるのである。
  
そこでの16年間、わたしは春にはジョアキンおじさんの一面黄色になる菜の花畑の世界に心和み、秋にはとうもろこし畑のザワワと言う音を楽しみ、そして真冬の夜半には、日本から持ち込んだ小型の天体望遠鏡を持ち出して月面のクレーターやかろうじてキャッチできる木星の衛生に見入ったものだ。
  
それにも増して素晴らしかったのは夕暮れ時だ。言葉を失うほどの一瞬の美を自然が目の前に描いてくれるのである。勝手口から見える向こうの林と、そのまた向こうに見える町に、大きな真っ赤な夕日が膨らみながら沈んでいくさまに、しばしわたしは夕げの支度も忘れ見入っていたものだ。

やがて群青色の空が少しずつ天空の端から暗くなり、天上に明るい星がポツリポツリと灯ってくる景色は、もはや、わたしの稚拙な文章力ではとても表現しきれない。それを見る特等席は、実は勝手口よりもその隣にあった息子の部屋の窓からなのである。

どんな写真でもどんな絵画でも見ることのできない、空間をキャンバスにした素晴らしい絵の一瞬であった。幾度もそうやって、わたしは夕暮れ時の贈り物を天からいただいていたのである。

わたしには、忘れ得ぬもうひとつの夕日がある。

高校3年の夏休み前のこと、先立つものがないのは分かっていても進学を諦めきれず、担任が持ってくる就職の話に乗ろうとしないわたしの様子を見かねた英語の教師がなんとか取り付けてくれた話に、朝日新聞奨学生夏季体験があった。英語はわたしの得意学科だった。

その制度の何と言っても魅力的だったのは、大学入学金を貸与してくれることである。4年間新聞専売店に住み込みし、朝夕刊を配達しながら大学に通うことができる。その間は少額ではあるが、月々給与も出、朝食夕食もついているのだ。女子の奨学生体験は初めてだったと記憶している。

高校3年の夏、往復の旅費も支給され、初めてわたしは上京した。当時はゼロ地帯(海抜ゼロメートル)と言われた東京の江東区のの新聞専売店だった。

その専売店にはすでに夜間大学生、また中学卒業後、住み込んで働いている者など、男子が数名いた。二階の一つ部屋に男子はみな雑魚寝である。隣にあるもう一部屋は、まかないを切り回していた溌剌な25,6歳の、おそらく専売店の親戚であろうと思われる女性がひとり、専用していた。そこに一緒に寝起きすることになったのである。

新聞専売店の朝は早い。4時起きである。何枚ものちらしを新聞の間に挟みこむのも仕事のうちだ。そうしてそれが終わったあと、配達に出る。夏の早朝の仕事は、むしろ快かった。

なにしろ初体験のしかも女子である、部数はかなり少なくしてくれたはずだ。いったい何部ほど担いだのか、今ではもう覚えていない。狭い路地奥の家に配達する際には、毎回イヌに吠えられ、つまづきそうになって走り抜け、両脇の塀に腕を打っては何度擦り傷をこしらえたことであろう。それでも、大学に行けるという大きな可能性の前に、くじけるものではなかった。
 
しかし、仕事の内容は配達だけではなかったのである。集金、これはなんとかなる。拡張、つまり勧誘です、これが、わたしにはどうにもできなかったのでした。
  
「こちらさんが新聞を取ってくれることによって、わたしは大学に行くことができます。どうかお願いします」という「苦学生」を売り物にするのだが、の売りがわたしはできなかったのであります。

確かに苦学生と呼ばれることになるのだろうけれども、それを売り物にすることは、わたしの中の小さなプライドが立ちはだかり、その売りをすることを許さなかったのである。

頑として、勧誘先の玄関に入ろうとしないわたしを見て、中卒後そこで働いていてわたしの指導員をしていたHは、自分が入って行き一件注文を取って来た。
「ほら、とってきた。とらないとお前の成績はあがらないぞ。成績があがらないと、金だってちゃんともらえないのだ。お前がとったことにするから、いいな。」

助け船をだしてもらいながら、情けなさとやりきれない思いとで、自分自身がつぶれてしまいそうな午後だった。

その日の夕刊配達時は、江東区の空を真っ赤に染める夕焼けであった。おかしなもので、それまで気にもならなかったのに、、その日は自分と行き交う同年代の若者達がとても眩しく目に映り、肩に担ぐ新聞はズシリと重くのしかかり、不意にこみ上げてくるやり場のない哀しみをわたしは噛み砕くことができなかった。

赤銅色の、焼き尽くせない孤独を湛えた江東区の夕日。わたしは進学を断念したのだった。

yuyake
これはポルトの夕日です。
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