2017年7月14日 

火曜日は二つの目的を持っての散策でした。

写真はサンベント駅から大寺院を撮ったものですが、その一つが写真左手に見えるSéこと大寺院の左横の小さい通り(Rua Dom Hugo)を入ったあたりにあるとのこと。

この通り右手には、2010年のJapan Weekのコーディネーターをした折に打ち合わせで訪れたGuerra Junqueiro博物館があります。そこを通り過ぎると左に狭い石段の道があり、背後に見えるのは大寺院の一部。

ポルト

石段の途中にある古い共同水道。

ポルト

そしてArco das Verdadesが目の前にありました。
ポルト

写真から分かるように家が門にしっかりくっついており、こういうのは許可がでてるのかなぁ、と思ったり。

一つ思ったことは、ここに住む人達、一歩家を出るとすぐ石段ですから、買い物にしろ仕事に行くにしろ、随分と運動になるなぁ、です。

小っちゃいじゃん?はい、小さい(笑) ↓下は門を通り抜け別の通りの石段から撮りました。
ポルト

近辺は別にして、地元の人間は知らない「真実の門」ですが、んまぁ、朝から訪れて来るツーリストが結構います。
ポルト

ポルト
Arco(アーチ型の門のこと)を見上げると、こんな具合ですから、ちょっと危ないなぁ、の感。何しろ14世紀に造られたのです。これまで数箇所が修繕されて来たでしょうが、そのうち工事が入って通行止めになる可能性もあります。思い立ったが吉日、来てよかった!


「真実の門」の歴史を紐解くと、大寺院一帯を包囲する「Cerca Velha(古い石塀の囲い)」の4つの門の一つだそうで、先に述べたように14世紀のことです。

面白いのは、「真実の門」は当初はアーチだったわけではなく、大寺院一帯と外界を行き来する門だったのですね。門は4つあったと言われますが、高い石塀の囲いをやがて市内を囲む大がかりな城壁が取って代わり、残ったのが「真実の門」だけになりました。 これについては、追っつけ探検して案内したいと思いますが、後に水道橋としても使われました。

この門についてもうひとつ面白いことを。
Arco das Verdades、つまり「真実の門」は最初、「Porta das Mentiras」、「嘘の門」と呼ばれていたとはこれいかに!嘘つきや泥棒がこの門をしょっちゅう出入りでもしていたのでしょうか。

こんな恥知らずな名前で呼ばれては住民が困る、とでも言うかのように、やがてこの門はいつ頃からか、「Porta de Nossa Senhora das Verdades(聖母マリアはいくつも呼び名を持っており、これもそのひとつ)」と呼ばれるようになり、今に至っています。

トップにあげてある大寺院を背後にしたこの石段も「Esdacas da Verdades(真実の石段)」と名を残しています。

最後におまけ。ポルトガルの古い通りでは必ず見かけるネコ。この黒猫はわたしにまつわり付いてしばらく離れませんでした。
ポルト

もうひとつの目的については、後日に。

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2017年7月12日 

ポルトガルの晩御飯は遅い。子どもたちを一応の一人前にするまでの10年ほど前までは、夫は本当によく働いていて、帰宅が9時10時は当たり前のことだった。毎日サンジュアン病院と私立病院を掛け持ちだったのだ。

わたしは土曜日の補習校のみで仕事にしており、当時はほとんど専業主婦。じゃぁ、Spaさん、たくさん貯まったでしょう?と思われるかもしれないが、とんでもない。

British School、日本からの通信教育、土曜日の補習校の授業料、それに個人教授や習い事の謝礼と、実は二人の子どもの教育費で全てふっとんだのである。加えて、3年に一度の割で親子3人日本帰国もしていたので、どんなに働いても残るわけがないのである(笑)

振り返ると、豊かでもない所帯で、よくもまぁ二人の子どもを幼稚園から大学まで私立校教育を受けさせることができたものだと、今思ったりする。

そんな状態ゆえ、大黒柱には最低限の敬意は払うべしと、我が家では必ず夫の帰宅を待ち、家族4人が揃ってテーブルに着いたので、その後の後片付けなど時には12時近くに終わるのが珍しいことではなかった。

しかし、サンジュアン病院を定年退職した後、夫の帰宅は昔ほど遅くなくなり、今では8時半から9時の間が晩御飯開始となる。

晩御飯が早く出来上がり、食べ終わって時計が9時前を指していたりなどすると、「え?どうするの!こんなに早くご飯が終わってぇ・・・」と、なったりすることもままある。

さて、ここから本題なり。今週月曜日がそんな日だったのである。夏は日が長いポルトガル、9時前は日中のように明るい。大好きなFoxCrimeの番組も近頃はリピートが多く、2回3回は英語の勉強にもなっていいが、4回目ともなるといい加減見る気はしない。
う~ん、毎週火曜日の午後はDias先生のご自宅で勉強するのだが、夜勉強するのはあまり好きではないが、よし!今日はポルトガル語の予習をバッチリしてみようと、机に向かったのである。

一通り調べが終わり、今使用している本はあとどのくらい残っているんだろう、来年には念願の「Quinta da Regaleira」もしくは「Portugal Templário」の分厚い本に到達できるかな?

templario.jpg

それとなくページをパラパラめくって目に付いた題が「Arco das Verdades」。ぬぬ?ざっとその箇所に目を通して、知らんぞ、これは!どこどこ?まだ行ってないとこがあった!と興奮し、週末まで待てばいいものを、矢も盾もたまらず、火曜日の昨日の朝、ク○暑い中を行って参った。

明日に続きます。

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2017年7月11日 

昨夜も真夜中過ぎ、寝室にあるベランダのガラス戸のブラインダーを下ろしているに拘わらず、差し込む青い光のあまりの明るさに目が覚めました。なんでこんなに明るいのかと起き出して、夫を起こさないようにと娘の部屋へ行きベランダへ出てみると、んまぁ~、我が家のまん前の空にまん丸お月さんの美しいこと!

これが冬時間であれば、寝しなに月を眺めることも度々なのですが、夏時間は向かいのフラットの後ろから月が昇ってくる時間がグンと遅くなるので、忘れがちです。

ゴンタ

煌々たるこの月光が寝室に差し込んで目が覚めたのでした。ふと向かいのフラットの横にある小さな公園に目をやると、黒猫が一匹、臆することなく地面でゴロリンゴロリンと寝返りを繰り返し、人っ子一人いない公園の時間を楽しんでいるのであります。

もう一枚満月の写真を撮って、自由を満喫している黒猫にシャッターを切ろう、どれ、と公園にカメラを向けたら黒猫の姿かたちは最早あらず。一瞬の間に消えていました。今朝の午前2時ころの、何だか嬉しく思われた小さな出来事でありました。

我が家にはこの春まで5匹の猫がおりました。最年長は、今のフラットに引っ越してくる前の、庭がある借家にいた時に、フイとやって来てうちに住み付いたゴンタです。恐らく隣人が飼っていて碌にエサもあげず外へ出しっぱなしの猫ではなかったかと思います。

他の4匹はあまり抱かれるのを好みませんが、きっと子猫の時から子どもにでも抱かれていたのでしょう、ゴンタは抱かれ慣れており、少しも嫌がりませんでした。夜は家で寝ましたが、この一帯は彼の勝手知ったる縄張りでもありましたから、よく出歩いていました。

ゴンタ

わたしも家族だニャン、入れて。

近所のジョアキンおじさんの畑は今でこそ高い石壁で仕切られていますが、そのころは春には菜の花畑、夏にはトウモロコシ畑、それ以外は草茫々でしたが、ある日、夜になってもゴンタがなかなか帰って来ず、探しに行ったところが、その畑で他の大勢のネコたちに混じってなにやら猫の会合の中にいるようなのを見つけたことがあるのでした。

外界を知っているのはこのゴンタだけで、フラットに引越しして以来、それを今更ずっと屋内で暮らせとは言えず。また、フラットは二階ですから出入りができません。そこで週末の土日の午前中だけフラットの表ドアから出してやることにしました。

犬もそうですが猫も外出できる日にちをちゃんと学ぶのですね。週末には夫が向かいのカフェへ新聞を読みに行きますが、ゴンタは決まってフラットの我が家のドアの前に座って、出してもらうのを待っていたものです。

ゴンタ
時々こんないたずらも。

毎回1時間ほどすると必ず、地階の車庫がある石壁の上から「帰って来たよ。下まで迎えに来て家に上げてニャ」と鳴きました。声を聞く度に、すわ!とわたしはフラットの鍵を手に階段を下りて迎えに行ったものです。

ゴンタ
野良だったゴローをいち早く受け入れたのはゴンタでした。

他の猫を決していじめませんでしたし、猫同士がにらみ合い取っ組み合いが始まろうものなら、即、飛んでいって仲裁に入り、長老の貫禄があり、たいした猫でありました。

6年ほど前から白内障が進み、わたしたちが気がついたときには歳が歳ゆえ眼の摘出は避けたほうがいいと、かかりつけの獣医に言われ、以後、他の4匹猫に万が一にも目に悪さをされては気の毒だと言うので、ゴンちゃんだけわたしたちのベッドの上で寝てもいいことにしました。

んで、朝、目覚めると決まってわたしの頭は枕から落ちており、枕の上ではごんちゃんが心地よく寝ているのでありました。

少しは見えていそうな目もここ3年ほどは光を感じるくらいなのか、家の中を壁に添って歩いていました。この頃から、常にわたしの後をついて歩き、側を離れないようになりました。

gontapc-2015-june.jpg
わたしがpcに向かうときもこの通り、くっついて。

ゴンタ

今年に入って、食べなくなったもので、点滴をしてもらいにかかりつけの獣医院に二日ほど入院したのですが、それでも大して食は進まず、あの手この手で食べさせようとするわたしに、義理立てでもするかのように、ほんの少し舐めるだけでした。

こうしてほとんど静かに休んでいる時間が長くなりましたが、粗相はたった一度だけ毛布の中に。してしまったのを恥じるかのようなその様子に、わたしはいたく感心したものです。

ゴンタ

ほとんど寝てばかりのゴンちゃん

ゴンタ

旅立つ一週間ほどは食を絶ち水を絶ち、3月の始め頃の早朝、深い息をしたのが最後でした。
推定年齢17、8歳、人間で言えば90歳近くでしょうか。

ゴンタ

目が見えなくなり外出ができなくなってからは、ベランダに出て、写真の渡し板に座っては、しばし外を眺め、鼻をヒクヒクさせて自由の匂いを嗅いでいたものです。今は同じ場所に時折、一番若いゴローが座って外を眺めています。

わたしたちにほとんど手をかけず、猫と言えどもあっぱれなゴンタの一生でした。

真夜中の無人の公園で、寝返りをしながら自由を楽しんでいた黒猫を目にし、春に亡くした愛猫のことを書いてみました。

本日はお付き合いいただきありがとうございます。


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2017年7月9日 

海外に長年住む人は、利用したことがなくても一度は耳にしたことがあるであろうJapan Rail Pass。

日本のJRグループ6社が共同して提供するパスで、日本中を鉄道で旅行するのに最も経済的な切符と言われます。パスはJRグループの乗り物であれば乗り放題で、1週間と2週間の二種類ありました。

日本に入国してしまうとパスは入手できません。滞在国の取扱旅行社でパスの引換券を購入し、それを日本の最寄の指定駅などでパスに換えてもらいます。1週間のが3万円ほどです。

本来は日本を訪れる外国人向けなのでしょうが、海外永住日本人、また10年以上外国に滞在している日本人も利用できました。

ご存知の通り、海外から帰国すると、日本は物価が高いですから致し方ないこととは言え、その交通費の高いのにはうんざりするのです。帰国時は所沢の妹宅に滞在するのが常ですが、わたしは生まれ故郷が弘前、10年ほど青春時代を過ごした大阪は第二の故郷で友人知人も多く、できれば大阪も訪問して彼らと旧交を温めたい。

東京大阪間を往復すると新幹線で27000円ほどになりますが、ホテル宿泊代や友人たちとの会合の費用などを入れると少なくとも5万円は用意しなければなりませんが、この新幹線往復の費用で青森から九州まで移動できるというのは、大きな魅力です。

我がモイケル娘は東京での大学生時代、コースを変更、九州の方の大学に編入し2年間下関に住んだことがありますが、この時、Japan Rail Passには大いに助かりました。

この年、わたしは2週間のパスを購入し東京、下関、大阪、東京、弘前と移動して、正に日本縦断をしたのでした。体力もあったんですけどね(笑)このパスをこれまで3度ほど利用しています。

japanrailpass.jpg
記念にとってある15年ほど前のJRパスです。

それが、昨年突然「海外在住邦人を対象にジャパンレールパスの販売を2017年3月31日に終了する」との発表があり、がっかりしました。海外長期滞在者は家族連れで帰国することも多く、パスなしでの移動にはわたしなどは一人でもヒィヒィ言いながらなけなしのお金を払うことになります。増して家族での移動など多額な出費です。
まぁ、日本に住んでいる人に言わせたら、「税金も払っとらんのに贅沢言うなぃ!」となるのでしょうが、
その辺のところはご勘弁願いたい。

心の中で「JRのケチ~」と叫びながら(笑)諦めるしかないと思いきや、この発表には失望した海外在住者が多かったようで、「JRパスを考える在外邦人の会」が発足し、海外在住邦人の購入資格撤廃の再考を求めるための署名運動が開始されました。わたしも勿論参加しました。

そして、しばらく前にJRグループから海外在住邦人の新しい利用資格が発表され、平成29年(2017年)6月1日から、その資格を有する海外在住邦人も購入できることが決定されました。

詳細は下記サイトにて。

http://japanrailpass.net/about_jrp.html

また、こちらにも分かりやすい説明があります。今はオンラインで購入できるようですね。
https://www.jrpass.com/ja/japan-rail-pass-eligibility

本日はこれにて。
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2017年7月6日 

ブログを書き始めた動機は?と聞かれたら、いつか我が子たちが目にして、暇に任せわたしの人生の軌跡を知ってもらえたら、そして、何かの時に彼らの生きる道筋で参考になることがあったら嬉しいと思ったからだと答えよう。

18で故郷の家を離れて以来、帰郷することがほとんどなかったゆえ、母がどんなことを考えて生きたのか、知らないことも多い。尋常小学校を出ただけだが、洋画もタンゴ音楽も好きだったし、かなりハイカラな人だったのではないかと思っている。また、母の時代の女にしては読書好きで本は晩年まで手放さなかった。

人の陰口を言うのもわたしはほとんど聞いたことがない。「洋画、読書、人の陰口を好まない」は、わたしたち姉妹が母から無言のうちに教わったのだと今にして思う。

母の時代の苦労は今のわたしたちのとはずっと違うはずである。それの多くをわたしは終に聞きそびれてしまったのであり、今にして見れば返す返すも残念なことではある。そういう自分の思いもあって、我が子たちが同じ思いを持つかどうかは分からないが、いつの日にか「おっかさんの人生をちょいと覗いてみるかや?」と綴っているのである。

人生は一冊の本に似ている。
愚者はそれをパラパラとめくるが賢い人間は丹念に読む。
なぜなら、彼は、ただ一度しかそれを読むことができないのを知っているから。

19世紀初期のドイツの小説家ジャン・パウルの言葉だ。

若いときのわたしも、人生と言う只一冊の己の本をパラパラとめくってきた愚か者であるが、60を過ぎた頃から「あっ!」と人生のカラクリに気づかされることに何度か出会ったのである。この6月7月とそれが引き続き起こり、これらをやはり書いておくことにした。

ポルトガルに長く住んでいるたいがいの日本人は知っているであろう、月田秀子さんが6月に亡くなられた。彼女は日本人として初めてファドを歌い始めたファド歌手である。ファド歌手になってからはコンタクトはしていなかったが、わたしはファド歌手になる前の彼女と会っているのである。

オフィスの仕事だけではアメリカ行きの夢は遥かに遠く、運よく転がり込んできた梅田新道にあった、当時のアサヒビアハウスでのバイト歌姫は資金作りに大いに助かった。

その頃の思い出話は拙ブログ「あの頃、ビアハウス」のカテゴリに綴ってあるが、月田さんに出会ったのは、わたしが渡米を果たしツーソンの大学で半年間ELS(English as a Second Language)終了後、アメリカでの生活を捨てて急遽日本に帰国し、ポルトガルへ行くことが決まった後、まだしばらくビアハウスでカムバックのバイトをしていた時だ。

ある日、ビアハウスの常連の一人、前中氏がその知人と月田さんを伴ってやってきた。ステージが終わると彼女を紹介されたのだが、「いい声をしてますね」が彼女のわたしへの挨拶だった。もちろん、お世辞ですぞ(笑)なにしろ、プロになろうとしている月田さんと、腰掛歌手のわたしとでは歌への意気込みがちがうはず。

その日のステージがはねた後、彼女を含む前中氏たちに案内されたのが、ビアハウスの近くにあった小さなシャンソバー、「ジルベール・べコー」(今でもあるのだろうか・・・)。これが1978年後半かわたしがポルトガルに渡る1979年4月前のことだ。

月田さんのプロフィールを見ると、ここでシャンソン歌手としてデビューしたのが1980年とあるから、わたしが出会ったのはまだシャンションを勉強していた頃の月田さんということになる。

1979年5月に夫の待つポルトに来たわたしに、月田さんからファドの楽譜を送って欲しいと手紙が来たのはそれから1年ほどしてからだろうか。「Barco Negro(暗いはしけ)」か「Coimbra(ポルトガルの春)」のどちらだったか、もう覚えていない。

覚えているのはこの楽譜を手に入れるのに、随分手間取ったということだ。日本なら当時でもレコード店でクラシックからポピュラーソングまで、簡単に楽譜を買うことができたが、ポルトではまず楽譜を売っていないのであった。夫が色々人に聞き込んで、やっとリスボンから取り寄せることができ、月田さんに送ったのであった。

その後、何度か手紙のやりとりがあったが、わたしは子育てに忙しくなり、いつの間にか音信が途絶えてしまったといういきさつがある。

ここ数年彼女の名前を目にしなかったのだが、病気の治療で北海道に移り大きなコンサートからは遠ざかっていたのを今回のニュースで初めて知った。享年66歳。ファドの女王アマリア・ロドリゲスに師事していた頃まではしっていたが、ポルトガル大統領から勲章を得ていたとは初耳だった。

シャンソン歌手からどのようにしてファドに興味をもちファド歌手に辿りついたのかは知らない。わたしが住むポルトガルを調べるうちにファドを知ったのか。もしそうだとすれば、お互いの交流は途絶えてしまったけれど、人生のカラクリを解いていくと、ビアハウスバイト歌姫のわたしに辿りつくとも言える。

わたしが送ったファドの楽譜は今どうなっているのだろうか。バイト歌姫のわたしでさえ、自分が歌った曲の楽譜は今でも捨てられずにいるゆえ、きっと色褪せて彼女のファド楽譜の中に残されているのではないだろうか。

月田秀子さん、ここまで来るとは予想もしませんでしたよ。どうぞ、安らかに。

下記の過去関連記事、よろしかったらどぞ。

人生はからくり

人生はカラクリに満ちている
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あの頃、ビアハウス

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